49:燃える絶望
右腕がおかしな方向に曲がっていた。左腕の肘から先の感覚が、まったくなかった。腰から下の感覚もない。脇腹がビクンビクンと痙攣している。肋骨が肺に刺さったのか、呼吸する度に激痛が襲いかかる。
……あ、ヤバ。
おれ、死にそうだ。
「か、克己!」
ちょっとこれは、洒落にならない。革命の時は上手く生き残れたのだが、今回は相手を間違ったらしい。
「……まっ、たく」
上手くいかない。
自嘲的に笑いながら、健一郎は生き残れただろうか、と空に問いかけた。
「克己!ねえ、克己!」
心残りなのは大悟会長のことを、誰にも伝えていないこと。
悠斗は御剣蒼夜に探索を依頼していたようだが、おそらくまだ見付けていないだろう。大悟会長の存在は、徹底的に秘匿されていた。
それとも倉渕祐作は、克己がこうなることを知って、大悟会長に電話をさせたのだろうか。
†
衝撃が胸を抜ける。魔力を使った発頸だと気付いたのは、肋骨を二本奪われてからだった。
つまり、立て続けに入れられた左右の連撃。
「――ぐっ」
これで二本で済んだのだから僥倖と言うもの。
しかし、戦局は依然不利なままだった。
健一郎は思索する。美野里の台詞「私の魔法は、対象物の限定的消失だ」と言うのは、要約すると彼女が攻撃を受ける瞬間だけ、自己の存在をこの世から消し去ると言うことになる。
いや、別の可能性もある。
それは健一郎の攻撃を消した場合だ。しかし、その可能性はあまり高くないはずだった。それでは草壁の魔法とほとんど変わらない、と言うことになる。
外の世界を消す草壁涼二。
内の世界を消す川崎美野里。
この二人は同一でありながら対極であった。
「どうした、立花。岩盤の獣『岩窟魔獣』たる貴様が、よもやこの程度で万策尽きたとは言わないだろうな?」
「流石にそれはないですよ」
健一郎は後退しながら、地面を指でなぞった。
美野里の体術から逃れるように、傍目には逃げているようにしか見えないだろうが走り続ける。
時折体勢を崩して地面に手を付くことがあった。
果たして美野里は見抜いているだろうか。
「私は草壁とほとんど同じでな。草壁の場合はまったく魔術が使えないのだが、私も魔術は苦手なんだ。だから、魔力を使用した体術を体得している」
健一郎が『岩窟魔獣』で壁を形成しても、美野里の貫手は易々と壁を貫き健一郎に襲いかかる。
なるほど、たしかにこれは脅威。
しかし、こうするとどうなるだろう。
「………今!」
健一郎は両手を組み合わせ、地面を叩いた。
「なにっ?」
足場の崩壊。周囲の地面すべてが泥沼と化し、美野里の身体を沈めていく。
『岩窟魔獣』の本領は屋外で発揮される。土のある場所すべてが、彼の味方だった。それが地の属性、立花健一郎の戦場である。
「そのまま沈め!」
「くそっ、小癪な! ……とでも言うと思ったのか?」
沈まない。
そう、沈まないのだ。
「だから、対象物の限定的消失と言ったはずだろう。この言葉の意味を考えておくべきだったな、立花。私が消失させたのは自分の存在。今私が消失させているのは私の質量だ」
「まさか、そこまで応用できるのか!」
健一郎の驚愕した表情を退屈そうに眺め、美野里は大きく嘆息した。
「失望させるな、立花。お前は魔法使いの中でも比較的マシだと思っていたんだよ。私はな、本当は朽葉も茜崎もキリングゲートも、すべて評価しているんだ。革命で命を落とした者も、私の誇りだ」
だから、期待は裏切るな。
美野里は底なし沼を"歩き"距離を詰めていく。
「なら、なら何故! どうして裏切った!」
「それが、必要なことだったからだ」
「分からない! 僕には分からない!」
「分からなくて結構」
美野里は腰を落とし、拳を構えた。距離五メートル。これが、体術の深淵にある"遠当て"だと知る者は少ない。
「分からなくて結構。理解できないものを、無理して理解する必要はどこにもない。それは大切な教え子でも例外ではない」
「……嘘ばっかり」
その声は、健一郎の遥か後方から聞こえてきた。
「貴女はずっと、誰かに理解して欲しかった。その理解者が倉渕だっただけ。さっきの台詞はね、胸を張って言うことじゃないよ」
それは小太陽。
荒ぶる灼熱を従えし、火の国の女王。
「悠斗に聞いた。貴女、黎明の魔石で"穢れ"を取り払えると思ったんだってね」
「……中島幽香」
「コップに墨を落とせば黒く染まる。でも、大海に墨を落としても、海全体にとっては何もなかったことになる」
「………………」
魔力の中に混じった"穢れ"という魔力を、より大きな魔力の中に放り込むことで浄化させる。自然の浄化作用と何ら変わりない理論。
川崎美野里の目的は、かつて巫女を取り仕切っていた神社――今となっては"穢れ"てしまった神社を再興させることだった。
「貴女なら気付いていたはず。倉渕祐作が、そんなことのために黎明の魔石を使うかな? 多分あの悪魔が魔石を手に入れれば、もっと大勢の人を犠牲にすると思う」
「……うるさい」
いつもより饒舌なのは、解説だからだろうか。
「世界は、残酷なんだよ。まずはそれに気付こう、先生」
「うるさいうるさいうるさい!! 貴様に何が分かる!」
「何も分からない。でも、貴女はさっき、理解する必要はないと言っていたよね。まるで子ども。感情ばかりの矛盾した言葉には、何の重みもないよ」
幽香は右手をわめき散らす女に向ける。
これは対草壁用に考案した戦術。
「……結局は、悠斗の理論」
でも、これしか効かない。
『火炎魔人』は太陽を大地に落とした。
広がる灼熱を、美野里は『絶望魔界』、自己の存在を希薄にして無効化する。身体をすり抜ける炎に、美野里は勝ち誇ったように微笑んだ。
「浅はか」
それはどちらの台詞だったか。
美野里は幽香の攻撃を浅はかと判断した。
幽香は美野里の防御を浅はかと判断した。
「その炎、消えないから」
「……は?」
「正確には、私の魔力がなくなるまで攻撃を止めるつもりはないってこと」
小太陽は赤く赤く燃え続ける。
幽香の強さは、その底なしの魔力にある。彼女の魔法は炎を生み出すだけと言う、言葉だけならまったく脅威に思えないものだった。しかしそれは、武器と兵器を履き違えた者の暴論だ。
中島幽香の炎は、核兵器だった。
「普段人間は酸素濃度21%の環境で生活している。酸素欠乏症とは酸素濃度18%の環境にあった場合に生じる症状。それはね、呼吸を止めることで防げるものではないんだよ」
人間の呼吸を簡潔に表すと、このようになる。
大気21%の酸素―交換―人体16%の酸素。
重要なのは呼吸とは"交換"で、一回でも酸素16%以下の空気を吸うと肺胞毛細血管中の酸素が逆に肺胞腔へ濃度勾配に従って引っ張り出されてしまうと言うことだ。
「先生は自分の存在を消すことで、酸欠まで防げるの?」
思えば、美野里は魔法を攻撃を受ける瞬間しか使っていない。それは即ち、彼女の魔法が思いのほか燃費が悪いと言うことではないか。
「……もう貴女は終わり」
幽香は溜息を吐き、炎を引き上げた。
そこには気を失って横たわる女性教員の姿が残されていた。
†
血が地面に滴る。
朽葉海斗は刀を杖に逃げていた。
思い出すだけで脳が沸騰しそうだった。彼の歯軋りの荒んだ音色が、その憎悪を雄弁に語っている。
「おやおや、『神雷』とあろうお方が随分と無様な姿になったじゃないか」
黒いロングコートは原型を留めていなかった。生地にある無数の隙間から鮮血が零れ落ち、黄土色の地面を染め上げている。
「貴様は……滝川隆太!」
「ふふん、正解」
小柄な少年は得意げに胸を張った。
国立魔術アカデミーの元生徒会書記。革命の後、何処となく姿を晦ませた異名持ちの魔法使い。
「これはちょっと想定外だったかな。まあ、それだけ克己の奴も成長しているってことか。俺様の予想では、アンタは『破魔』の草壁涼二に倒されていたんだぜ?」
大番狂わせも良い所だ、と滝川隆太は嗤う。
「何をしにきた、『瞬刃』」
「ちょっと漁夫の利を得ようかと思ってね。なに、心配することはない。満身創痍になった朽葉の神喰いを殺れば俺様の名前も売れるだろうが、今回はアウトオブ眼中だぜ」
「……黎明の魔石か」
「またまた正解!」
隆太は両手を広げて大笑いすると、懐から匕首を抜いた。
刃渡り二十センチ前後の、悠斗が使っている小太刀よりも短い刃物。しかしそれが、滝川隆太の"兵器"だった。
「六月初旬なのに寒いねえ。血を流しすぎると死んじゃうかもねぇ」
つまりその台詞は、命が惜しくば従えという命令。
負傷した海斗に断わる理由はない。
「何が知りたい?」
「流石は魔法使い三大一族の一角、朽葉のボス。話が早くて助かるよ」
隆太は歪な笑みをさらに深めた。
「俺様が知りたいのはさ、どうしてアンタが魔術も使えない小物にそれだけの傷を負ったのかってことだよ。不安要素はできるだけ潰しておかないと、後々奴らと対立したときに怖いからさぁ」
力を持っているのに臆病。
それはどれだけ恐ろしい資質なのだろう。海斗は自分の義弟よりたった一つ年上なだけの少年に、初めて恐怖した。 |