41:御剣流結界術
「まるで、水を得た魚のようだ――って感じじゃねえか」
客の出入りが少ない寂れた釣堀。
御剣蒼夜は息絶える寸前のタイを池に放り込んだ。すると、それまで口をパクパクさせようともしなかったタイが優雅に泳ぎ始める。
「残酷なことをするなよ、馬鹿野郎」
「ふははっ、これのどこが残酷だ? 俺たち人間は生きているだけで罪深い生き物なんだぜ? 大量の命を消費し、今の我々がある。同属殺しも結構。神殺しも結構。大量殺戮も結構。結局は、どれだけ命を消しても地球規模で鑑みればどうと言うことはないのだよ。分かったか、この愚民めが」
ミハイル・アレンスキー・ナザーロフは顔をしかめた。
蒼夜のあまりにも酷すぎる暴言に気分を害したようである。
「まあ、お前は善人だしなぁ。やっぱ分かる必要はねえよ」
アカデミーの奴らでこの意見に同意するのは朽葉海斗と茜崎克己ぐらいだろう。朽葉悠斗や立花健一郎などは理解しつつも拒絶する暴論だし、その他の者は聞く耳さえ持たないはずだ。
「おっ、またかかった!」
嬉々として竿を引き上げる蒼夜。ミハイルが最後に釣り上げたのはもう二時間前である。段々と不機嫌になるミハイルとは対照的に、十分に一匹釣り上げている蒼夜は上機嫌だった。
「で、水を得た魚ってどう言うことだよ?」
横合いからのミハイルの声。
だからなぁ、と蒼夜は説明する。
「こうして釣り上げられた魚が草壁涼二ってことだ。俺が倉渕祐作か川崎美野里。魚の命は俺の一存で左右される。これが、ついこの間までも草壁涼二だ」
蒼夜はコイを池に投げ捨てた。
「で、この池の水が朽葉悠斗。それまで死にかけていた草壁が息を吹き返した。今では川崎美野里や倉渕祐作が危惧するほどの存在になっている。分かるか? 朽葉悠斗という要素が、本来アカデミーの襲撃に失敗して死亡するはずだった草壁涼二を大きくしやがった」
アカデミーの襲撃事件――相手をしたのが悠斗でなければ、そのとき草壁の命はなかった。川崎美野里が時間稼ぎに徹し、朽葉海斗が駆け付けていたら――廊下ではなく部屋の中という状況から退路は失われ、海斗に斬られていたはずなのだ。
これが、蒼夜が予想していたシナリオである。
ところが、朽葉悠斗という不確定性因子が介入することにより――。
――運命が形を変えた。
蒼夜は釣り針を池に落としながら、クツクツと笑う。
「俺なぁ、ミハイル。朽葉悠斗ってのは戦闘能力や頭脳だけで語るべき者ではないと思うんだ。何て言うのかね……。そう、あれは切り開く力を持っている。運命を絡め取り、都合良く操作しているのは奴の頭脳だが、あの悪運とも言うべき強運は正直今でも信じられないね」
ミハイルは舌打ちした。
「テメエ、悠斗をどうするつもりだ?」
威圧的な声。どんなに精神力を鍛えても、この長身の男に睨まれたら萎縮するだろう。野生的だが気品のある美丈夫。蒼夜は「流石は『北欧の守護者』、眼力だけで人を殺せそうだ」と嘲笑った。
「別に、何かするつもりはないさ。ただな、見守りたいんだ。アイツ、絶対面白いことを仕出かしてくれるぜ。そんときゃ、俺たち大人が支えてやらねえといけないよな?」
朽葉悠斗は――。
草壁涼二という神輿を得て――。
徐々に『王佐の才』を発揮していた。
†
5月24日――、そろそろ5月下旬に差しかかる。
九重香澄の本拠――悠斗たちにとっての隠れ家から最も近い駅前にあるビジネスホテル。五畳半にベッドが一つ、天井は低く部屋は薄暗い。
悠斗は将棋盤をベッドに並べ、黙考していた。
先手は左側の矢倉囲い。後手は左側に川崎美野里を仮想した美濃囲い、右側には倉渕祐作を仮想した穴熊囲い。王将は先手一枚、後手二枚。
「このような将棋、見たことも聞いたこともないぞ。しかも、先手が一方的に不利すぎる」
「なら、試してみるか?」
悠斗は右端の歩を掴み、盤に叩き付けた。
パチン、という音に緋芽はムッとして悠斗を睨み付ける。
「吾の時代に将棋はなかったと思うな。まだ現代の本将棋のように概念が確立されていなかったが、吾はそこそこの腕前だったのだ。それに、現代将棋の打ち方もすでに覚えている」
「どこで覚えたんだ?」
「お主の将棋漫画だ」
悠斗は苦笑した。緋芽にとっては嘲笑とも取れる笑みである。
「さっきの台詞は勝ってから言うべきだったな」
緋芽は挑発に乗り、銀将で守りを固め始める。
将棋の序盤戦は飛車道か角道を切り開くことから始まる。駒の取り合いに入ると中盤戦だ。この頃になると囲みができて体勢が整っている。駒の損得を読み違えると終盤戦で不利になるので重要な局面だ。
しかし、盤上では開始時からすでに先手不利の状況になっている。
「俺の予想では――」
悠斗は矢倉を作っていた銀を動かし、歩を犠牲にして役駒を得ていく。時に桂馬を利かせて防御を切り崩していく。先手側の悠斗の防御は薄くなっているのに、後手側の緋芽は苛烈な攻めに防戦に回らされて手が出せない。
「倉渕祐作と川崎美野里、この両方を相手にすれば被害が甚大なものになる。得策ではない。倉渕の魔法特性から、歩は無限にあると言えるからな」
悠斗は穴熊囲いを崩して一枚目の玉将を捕ると、寄せ手にかかった。終盤戦の総締めである。桂馬で前方に逃げたがる玉を防ぎ、横手から金銀をはがしていく。戦局が傾くにつれて緋芽の顔色が悪くなった。
「75手……予想外に手こずった」
「……負けました」
まだ52手目である。緋芽も先読みして投了したのだろう。
「っ……くっ、悔しいぞ、悠斗! もう一度だ!」
「これで最後だからな」
悠斗は嘆息し、盤面を再構築した。今度は相手側の王将は一枚だけである。金銀などの役駒の数は変わっていないので、相変わらず先手不利なのだが。
「先ほどの手合いは倉渕祐作と川崎美野里を同時に相手にする場合、どれほどの損害が出るか確かめるためのものだ。やはり、正面から向き合うには大きすぎる相手だな」
「今度の一局は片方が相手と言うことか」
緋芽もこの盤面が仮想の戦場なのだと気付いたようだ。それまで悠斗との勝負を意識していたのが、冷静に最善の一手を狙ってくるようになった。
「なんだ、中々上手いじゃないか」
「吾を誰だと思っている。姫様だからと言って侮るなよ。碁や将棋などはお手のもの。言い寄る男どもすべてを盤面で打ち倒したこともある」
「それは……痛快だっただろうな」
とんだじゃじゃ馬だ。古来日本では男が女の家に押しかけて求婚する訳だが、押し入った男も哀れである。逢瀬に胸を時めかせてやって来て、出されたのが将棋盤なのだから。
「勝負の行方に関わらず押し倒してくるような男は――?」
「陰陽術の餌食じゃな」
「……やっぱりそうなるか」
悠斗は嘆息し、少しずつ攻め入った。
「なんだ? 今になって勝ったら抱かせろなどと言うのではないだろうな?」
「抱いて良いのか?」
「なっ、何を言う! こ、こここ、これは言葉のあやだ!」
「……その気がないなら口に出すな」
言葉にすると事実になると信じられていた時代に生きていたのだ。悠斗は苦笑いし、盤面を見詰めた。
今度はテンポがスローペースである。悠斗は無理に攻め入らずに、歩や桂馬、香車などからゆっくりと削り取っていく。
緋芽はやる気がないのかと考え苛烈に攻めようとするのだが、守りが意外に堅い。表情を見ると、悠斗の表情は先ほどより真剣になっていた。
「今度の手合いは?」
顔色を窺う緋芽に、悠斗は堅実な一手で答えた。
「どれだけ被害を出さずに倉渕祐作を制圧するか」
将棋の手合いなら下手になる。しかし、自分たちの戦いでは死者を出さないことが取り分け重要になってくる。
「素晴らしい一手だな」
「ありがとう……っと、王手だ」
緋芽は舌打ちした。
「皮肉だ、馬鹿者」
将棋盤がひっくり返された。
†
同ホテルのロビーには、金髪の青年が二人の部下を引き連れてフロントに押しかけていた。部下二人に入口と裏口を固めるよう指示し、青年は芝居じみた仕草で肩をすくめながらエレベータに乗り込んだ。
「さて、朽葉悠斗は俺の見込み通りの人物なのか」
御剣蒼夜は不敵の笑みを浮かべ、七階のボタンを押した。背広の内側に呑んだ小太刀の重みを確認する。接触まであと二分弱。蒼夜は戦闘行為に及ぶ確立は80%を上回ると当たりを付けていた。
黒スーツの胸ポケットから無線機を取り出し、別働隊に連絡する。
「Are You Ready―準備は良いか―?」
『Oh,Yes―勿論です―』
隊長補佐を務める部下が、蒼夜のノリに合わせて英語で答える。
「よし、対象区画は六階天井から七階床まで。くれぐれも破られることのないように、最高の術式で迎え撃つぞ」
このホテルを取り囲むように五人の部下を配置している。彼らは蒼夜の部隊で特に優秀な者たちで、今回の作戦の要である。
その陣形は五芒星。陰陽五行を司るペンタグラム。
『青神歳星、東方青龍』
『赤神螢惑、南方朱雀』
『白神太白、西方白虎』
『黒神辰星、北方玄武』
部下たちの詠唱。それは各人が使役する式神の守護色、守護星、守護包囲と御名を連ねたものだ。
『黄神填星、中央麒麟』
五人目が詠唱を終える。
蒼夜は小太刀を抜き取り、エレベータを降りた。
廊下が左右に広がり、オレンジ色のアップライトが薄っすらと闇を払っている。
コツン……コツンと靴音が響く。
やがて、ある部屋の前で音が鳴り止む。
『四神天帝破邪祈祷、急急如律令』
蒼夜の口元から、最後の呪文が唱えられる。
そして、世界が停止しホテルの七階が切り取られた。 |