29:魔王降臨
燃え盛る建物の残骸を靴底が踏みにじる。静けさの中、二つの穢れた神は互いに仕掛ける機先を窺っていた。
「………………キハッ」
火之迦具土が哄笑を漏らす。その水面下で、いかなる感情の動きがあったのか、この場にいる誰にも分からなかった。純粋な狂気かもしれないし、もしかすると恐怖していたのかもしれない。
「……ふむ」
悠斗は両の手を見下ろした。
「実に三月ぶりの現界か。我が宿主の強固な精神にはお手上げだな。しかし、手元に刀がないとは、実に悲しいことである」
悠斗――いや、悠斗だった"モノ"が不機嫌そうに呟いた。それは、存在自体が邪悪な、化物という言葉すら生易しい異形。邪神と呼ぶに相応しい悪夢だった。
邪神は火神の持つ刀に気付き、大きく頷いた。
「……なるほど。弟神の業物か。その刀、我が振るうに不足なしと見た」
それは、朽葉悠斗には相応しくない嘲笑だった。口元を歪めて、徹底的に敵を嘲笑う不遜の侮辱である。笑顔というには、次元が違いすぎた。
「ゆ、悠斗……?」
唖然と様子を見ていた緋芽が、喉元から擦れた声を絞り出す。
振り返った邪神は「……ふむ」と顎に手を置いて思案する。
「どうして大照津姫がここにいるのだ? ああ、そうか。たしかに我が宿主は神武の小倅と似たところがある。貴様は確か、あの人心を惹き付け大和を統一した愚帝に思慕していたのだったな」
「な――っ! わ、吾には緋芽という名がある! それに、神武のことなど、何とも思っておらん!」
「哀れな。末席であれども神々の一員が、名を縛られたか。まだ呪をかけられたことが、分からんようだな」
緋芽は後ずさった。彼女が感じたのは、ただの純粋な恐怖だった。
「ち、が――」
「違わぬ。神武が国取りを為したとき、どれほどの詐欺が罷り通ったと思っている。我が宿主も同じことよ。生粋の策士にて詐欺師。それが、朽葉悠斗の有り方なのだ」
「違う! 違う違う違う! 悠斗はそんなつもりで名を与えたのではない!」
「もう良い。貴様のような末神、普段の我なら相手にせぬはずだったのだ。久しぶりの現界で、少々気が昂ぶっていたようだ」
邪神は退屈そうに頷くと、それまで律儀に様子を見ていた火之迦具土に振り返った。どうやら先ほどの爆発で、多少の手傷を負っていたらしい。その治療のために待機しているようだった。
「そこの貴女、あれはもう朽葉悠斗ではありません。離れていた方が良いと思いますよ。巻き込まれたくなければ――ですが」
草壁涼二が火之迦具土の退路を断ちながら、緋芽に語りかける。
緋芽が頷こうとしたとき、火之迦具土が動き出した。背後からかけられた草壁の声に反応したのだった。
迸る業火が、片腕に収束する。
「貴神に余所見している暇があるのか」
それは、一瞬の出来事だった。
『跳躍せよ、色欲の王』
音も気配もなく、その姿が空間から掻き消えた。そして数秒のタイムラグの後、火之迦具土の背後に現れたのである。
悠斗は火之迦具土の右腕に手の平を当てた。
『咀嚼せよ、暴食の王』
刹那、火之迦具土の右腕の、肘から先が消失する。
その口穴から、絶望の悲鳴が飛び出した。
「ギャ、ギャアアアアアアアアアアアアアアアア!!!」
「ふむ、なんと甘美な悲鳴かな」
邪神は嘲笑し、火神を蹴り飛ばした。蹴り飛ばされた火神は咄嗟に火の玉を呼び出し、凶悪な狩人に撃ち放つ。
しかし、それも届かない。
『死守せよ、嫉妬の王』
周囲に出現した、巨大な鱗の壁が火の玉を防ぎ切る。
邪神は退屈そうに、溜息を吐いた。
「詰まらぬ。これが火之迦具土か。これが、我が弟か」
その手が、怯える神に向けられた。
「せめてもの慈悲だ。御荒れ、滅びよ」
右手の剣印が、神聖なる十字を切った。
『断罪せよ、憤怒の王』
火之迦具土の身体が、一瞬、ビクリと痙攣する。その身体に、十字の傷跡が刻み込まれ、黒色の血液が飛び散った。
十字が交わる位置が通常とは異なる逆十字だ。
「至極残念だ。火之迦具土とは言えども、この程度の器では完全な姿で現代に現界するのは無理であるようだな。我が主ほどの素質はないようだ」
邪神は緋芽に振り返った。
「此の度の宴、些か盛上りに欠ける。して、先ほどから並々ならぬ眼力で我を見るのは、何故だ?」
「なに……。ただ、約束したのでな」
緋芽が怒りを込め、火之迦具土を一瞬で滅ぼした朽葉悠斗に立ちはだかった。
†
「加勢は必要ですか?」
「いらん。貴様では、時間稼ぎにもならぬわ」
予想通りと言うべきか、草壁は何も言わず引き下がった。
緋芽は両手に魔力を集め、臨戦態勢に入る。
「分からぬ、分からぬな。どうして逃げぬ。先の戦、十分逃げる時間があったはず。立ち向かわぬならその命までは取らぬと言うのに」
「分からなくても構わない。むしろ分かるな。吾は悠斗と約束しただけだ」
軸足を捻り、相手との歩幅を推測する。
およそ、二十五歩。緋芽が接近するなら、最低でも五秒は必要になるだろう。だが、今の悠斗ならその時間は限りなく無に近い。
「伽藍の乙姫、大照津姫。ならば、我は破滅と絶望を以て迎撃しよう。我は流浪の王、百桁の神族が束になっても葬れぬ存在である」
「能書きを垂れるな。さっさと始めろ」
『跳躍せよ、色欲の王』
悠斗が虚空に消滅し、一瞬後、緋芽の背後に出現する。
しかし、緋芽はそれを予想していた。
『努、白龍』
緋芽を周囲に白刃が展開する。四方を入念に多い尽くした刃は、突然現れた悠斗の全身を突き刺した。
「まだだっ! 『楽、赤竜』!」
追撃の火焔が、浮世の肉体を焼き尽くす。
しかし――。
『拒絶せよ、怠惰の王』
邪神の周囲を包囲していた火炎が、またたく間に勢いを失う。
「なっ、これは――!」
「簡単なことよ。空間に存在する魔力を喰らっただけだ」
この時、すでに悠斗の全身に帯びていた傷が癒え始めていた。
神に死という概念はない。しかし、心臓を貫かれたり首を落とされればただでは済まない。すなわち、存在の消滅である。
「まだだ!」
緋芽は両手を広げ、魔法を発動した。
五色の光束が収束し、五本の光線と化して放たれる。
『死守せよ、嫉妬の王』
『喜、青龍!』
光線が鱗壁に阻まれている隙に、地中から植物の蔦が出現し、茨の棘が悠斗の両足を喰い千切りながら拘束する。
邪神は両足を見下ろし、逃れるための魔術を発動した。
『跳躍せよ、色欲の王』
『楽、赤龍!』
緋芽は予測していた。拘束から逃れれば、すぐさま反撃に転じるためにもの近くに現れるだろう――と。
しかし、邪神も予測していたのだ。
『拒絶せよ、怠惰の王』
緋芽が放った火は、たちまち火勢が殺がれていく。
『怨、黄龍!』
『咀嚼せよ、暴食の王』
地中から突き出す石柱さえも、片手で触れられただけで消滅する。
『哀、黒龍!』
『叛乱せよ、貪欲の王』
押し寄せる大量の水の支配権を奪われ、逆に緋芽に襲いかかる。
緋芽は五色の光線をすべて土属性の黄色に変え、土克水で相殺した。
「隙だらけだ。『断罪せよ、憤怒の王』」
そして、邪神は逆十字を――緋芽に振り下ろし……。
ああ、これで終わりか。
すまない、悠斗。吾は約束を……果たせそうに……。
「なにを諦めているんですか、貴女は!」
横から割って入った草壁が、遠距離から左腕を振り抜いた。
鉛色が赤熱し、そこから放たれた爆炎が放たれる十字架を焼き滅ぼす。
「分からぬ、分からぬな。どうして我に立ちはだかる」
「大したことではありませんよ。ただ、ここで仙石君が命を落とした。これ以上、私の前で誰かが死んで欲しくないだけです。それに、悠斗君を絶望させてしまった責任は、家を空けてしまった私にもあるようですし」
「それは貴方だけではありません」
緋芽だけではなく草壁、邪神が同時に振り返る。
そこにいたのは車内で力尽きていたはずの姫川咲夜だった。
「今の彼が、あの人ではないことは私にも分かります。そして、その責任の一端を私の姉が担っていることも。私には、責任を負う義務があります」
若干疲れた顔で、しかし毅然と立ち向かう。
邪神は苛立ち混じりに吐き捨てた。
「……後悔しろ」
ここにまた、二人の穢れた神が対峙した。 |