坂東蛍子、ストーカーに謝られる
坂東蛍子は背後からついてくる不審な気配にとっくに気付いていたが、そのことで何かしら行動を起こそうとは思わなかった。悪い気はしなかったからだ。ストーカーということは、つまり自分に好意を抱いているということだ(怨恨という考えは彼女の頭には無かった)。後ろにいる物静かな長身の男(蛍子の勝手な仮定である)の両の目には、今この瞬間私しか映っていないのね。そう思うと坂東蛍子は怯えるどころかむしろ舞い上がっていた。
ここ暫く坂東蛍子は不幸続きであった。初恋の男子に振られ、気に食わない女子とトラブルを起こし、うっかりと積み重ねたミスで周囲に気兼ねし、その上名も知らない少年に脛を蹴られたのだ。今朝も寝ぼけて大嫌いなトマトを頬張ってしまったし、思わず噴き出したらお気に入りのぬいぐるみがドロドロになり、拭き洗いしていたら学校に遅刻、その学校でも様々な都合を経た結果制服が着られなくなりこうしてジャージを着て下校しているのである。そんな蛍子にとってストーカー行為などもはや一服の清涼剤に過ぎなかった。ミントが服を着てついてきているだけだ。
それに坂東蛍子は世界中を単身飛び回っている父に護身術を教え込まれていたため、もし背後のストーカーに襲いかかられても乳様突起を正確に一突きし運動神経を麻痺させる自信があった。幸いジャージなので動き易いし、激しく動いてもパンツを見られるなどということは無い。まさに心も体も万全である。こんなに万全な心持ちは久しぶりだ。
やっぱりこうでなくちゃ、と蛍子は思った。人生たまには万全でなくちゃ困るわ。
「あのー・・・」
自身の状態に感心していた蛍子は、突然背後から声をかけられビクリと肩を上下させ慌てて振りむいた。それはまさかストーカー側から真っ当に声をかけてくるとは思っていなかったための虚を突かれた驚きだったのだが、振り向いたその先に居た人物を見て蛍子は更にもう一度驚愕させられることになる。そのストーカーは蛍子と同じ高校の制服を着た男子だったのだ。
ここでこの男について少し解説しよう。この男、名を川内和馬と言い、坂東蛍子の隣のクラスの男子生徒である。坂東蛍子と直接の面識は無い。栗色の髪をツンツンさせ黒縁の四角いメガネをかけており、身長は普通より少し低いぐらいで、体系も中肉中背だ。切れ長の目をしていたが性格はどちらかというと快活かつ温厚で、目つきが悪く見えているのではないかと時折周囲の視線を気にしていた。マーマレード・ジャムが好きで自宅には常に自分専用の瓶を確保している。冴えない男であるが二十年後には紆余曲折を経て海運業で大成し、一日で億を動かす傑物となる。だが今はまだ蛍子と同じただの青い春の下を行く高校二年生なのであった。
坂東蛍子は正直なところ背後の存在にもっとロマンティックでミステリアスな要素を期待していたため、目の前で困り顔で立ちつくす男子の姿には些か肩透かしをくらっていた。その後で少しずつ腹が立ってきた。なんだか理不尽なことに見まわれたように思えたからだ。
「何よ」と蛍子は腕を組んでムスっとしながら言った。
本当に理不尽なことに見まわれたのは川内和馬の方である。どちらかというと勇気と誠意でここまで追いかけてきた和馬であったが、振り返るなり苛立ちを隠そうとしない蛍子にオドオドしながら、いや、何と言ったらいいか・・・と身を縮めて口ごもった。
「はぁ!?はっきり喋んなさいよ!ていうか声かけてくるなら何で今まで黙ってついてきたのよ、ツン毛ストーカーメガネ!」
「ごめんなさい!ん!?ストーカー!?」
「腐れミント!」
「く、えぇ!?」
和馬は思った。この女の子、とても怖いぞ。
校内の評判から、もっと可憐で清楚な女の子だと思っていたのである。だからこそ彼は、彼女が自分のことで妙な恥をかかないように最大限思案しながら慎重に行動してきたのだった。
「あ、いや、実はね、失礼の無いように言いだすにはどうしたものかと思ってずっと考えてて、それで声をかけられなかったんだけどさ」
「だから、何よ」
蛍子の右足が催促するようにパタパタと地面を叩く。どうせ告白だろうな、と蛍子は思った。同級生に帰り道で告白されるなんてことは蛍子にとってはよくある出来事の一つだった。普段なら少し煩わしくすら思える一幕であったが、しかし今回はそれでも良いかな、と坂東蛍子は思っていた。確かに肩透かしは食らったが、結果だけ見れば大して変わらないのだ。自分に好意を抱いている人間が自分のことを見ていた。それに関しては悪い気はしない。今日のドッキリはそれでチャラにしてあげよう、と蛍子は思った。
川内和馬は意を決して口を開いた。
「それ、俺のジャージ」
しばらく言葉の意味を理解するため頭の整理をしていた蛍子だったが、咀嚼が完了すると風よりも速く体をくの字に折り、ズボンに縫い付けられた名前を確認した。そこには確かに「川内和馬」と力強い明朝体で記載されていた。
坂東蛍子はひぇー・・・と空気の抜けたような声を漏らしながら、顔を耳まで真っ赤にした。
この二人のジャージが何故入れ替わったのかを語るためには、銀河大同盟の末席に身を置くとある惑星からの特派潜入員、二年B組三十一番大城川原クマの崇高な使命や、校内で最もモテる男、無双快男児松任谷理一の勇敢な放課後の顛末についてまず説明せねばならないため割愛する。
「俺の机の上に君のジャージがあったからもしや、と思って追いかけてきたんだけどさ、やっぱりそうだったね」
ハハハ、なんかゴメンね、と和馬は頭を掻きながら苦笑いした。蛍子は名前を確認したままの姿勢で停止している。
「後日話しても良かったんだけど、実は明日俺のクラス体育があってさ、ジャージが無いと困るなぁと思って。でもまぁ、今脱いでもらうわけにいかないしね、申し訳ないんだけど出来たら明日・・・」
「返さない」
「へ?」
「返さなーーーい!!」
坂東蛍子は突然天を仰ぎ見て大声を張り上げると、戸惑う和馬の声を「うるさーい!!」と掻き消してそのまま舗装道路の彼方へと走り去った。呆気にとられた川内和馬は、小さくなる彼女の背を見送りながら、オブジェのように固まったまま蛍子の耳のように真っ赤に染まった夕暮れのアスファルトの上にいつまでも立ちつくしていた。
ジャージは翌朝キチンと洗って返した。