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僕と彼女と器(うつわ)のそこ
作:おせろ道則


 込み合うラーメン屋のカウンターで、長いストレートの黒髪を左手で丁寧にかきあげる彼女の姿は、どうしても儚くてしょうがなかった。
「もういいわ」
 彼女は言って、塩タマラーメンのどんぶりを手で少し前に押しやって、自前のハンカチで口をぬぐった。
「まだ残ってるよ」
 そういう質問は、彼女には意味がないことを僕はもう分かっていた。だから僕はゆっくりとジーパンの尻ポケットから、財布を出した。
 彼女が残したラーメンは、どうしてか、生ぬるい感じが漂っている。
 これは彼女の生き方に起因している。
 彼女はいつも食事を残す。最後まで食べきらない。僕は彼女と食事をして、彼女が完食したのを見たことがない。それは会社で食べる弁当などでも同じなようだ。パートのおばちゃんが、「彼女、いつも小食ねえ」と言っていたのを思い出す。
 僕は最初は口を挟んでいたのだけれど、彼女からの説明を聞いて、それからはなんとも忠告しづらくなってしまった。
 彼女が食事を残すわけは、別に小食だからというわけじゃない。彼女の生き方、人生に対する姿勢がそうさせているらしい。
 それはある日の日曜日だった。喫茶店で彼女は僕にこういった。その日は映画の帰りだった。僕はハードボイルドな映画のテンションに任せて、前から聞いてみたかった、その彼女の食性について尋ねてみた。
「ごはんが、全部なくなったときを見るのが、怖いの」
 彼女はいった。
「なくなったときを見るのが怖いの?」
 僕は丁寧に言葉を繰り返した。
「ええ」
「なくなるのを想像するのが、怖いんじゃなくって?」
「そうよ? どうしてそんなに言葉にこだわるの?」
「いや……」
 僕は言って、コーヒーをストローで飲み干した。
 僕としては、どっちでも同じだと思うんだけどな。だって彼女はまだ、何も経験していないから。
 彼女はココアを少し残した。僕らはそうして喫茶店を出た。
 彼女いわく、食事が全てなくなると、絶望に近い恐怖が、彼女をねっとりと抱きしめるらしい。目の前に希望を残しておくのが、彼女の生き方だそうだ。
 食事だけに留まらず、そうやって彼女は、いたるところに希望を残す。
 あえて第一希望の大学を受験しない。
 仕事も、自分のしたかった編集の仕事は選ばなかった。ヨーロッパに行きたいらしいのだが、いまだにそこには行っていない。
 ぐっすり眠ることを避ける(夜中に何度かアラームがなるように設定するらしい)。
 食事に、仕事に、人付き合いに、彼女は「余り」を作ろうとする。
 欲求の余り。少々の妥協。中途な達成感。
 それがいい生き方なんだと彼女は述べる。
「それだとラクなのよ。失望はしないし」
「ふうん……そういうもんなんだ」
「納得いってなさそうね」彼女はいった。
「議論する?」僕はいった。
 彼女の答えはわかっていた。
「やめとくわ」


 僕はよく、彼女が何か物を口に含んだとき、ペッと、いくらか吐き出しているのを見た。
 舌で味わうだけでいいのだそうだ。生きていけるのかなと心配したけど、彼女は「ちょっとお腹が空いている」ときには、ちゃんと食べるそうだ。極度の空腹の時だけ、物を吐き出す。 僕は複雑な心境だけど、ちょっと胸をなでおろした。
 
 まあそれでも、今日だってまぁまぁ食べていたので、僕は内心、安堵している。
 ラーメン屋で安堵するなんて変なデートだ。
 さて、そして僕は、こうして彼女と一緒にいるんだけれど、僕は彼女の何なのだろう。
 肉体関係には至っているけど、僕は「彼氏」とみなされない。
 彼女は僕を「彼氏」と呼ばない。
「幸せになりすぎると、続きがないから」
 彼女は誠心誠意を込めて説明してくれた。
 彼女の誠意に心を打たれて、僕は彼女の説明にうなづいた。
 変だけど、僕は彼女がまた好きになった。


「出ないの?」彼女が僕を呼んだ。店のカウンターで、冷水の入ったグラスをじっと見つめている僕は顔を上げた。彼女は隣で僕の服の裾を引っぱった。
「うん」
 僕はカウンターから降り、伝票をとって会計に向かった。
 彼女との食事はいつも別会計。甘えきってしまわないようにと、彼女がいってきかないのだ。
 ラーメン屋の暖簾を上げて、彼女は歩道に降り立った。
 ふわふわした軽さが、彼女の足元を朧に見せる。
 彼女の後姿を見つめながら、僕は思う。
 彼女はいつかきっと、人生をやりつくさないうちにケリをつけようとするだろう。
 そして多分、それは未遂ですむだろう。
 幸か不幸か。
 それを決めるのは彼女だけど、僕からしたら、彼女の生き方は逃げ場のない輪廻だ。
 僕はあごを上げて空を見た。
 冬が近い。
 澄んだ空に、淡い雲が少しあった。
 どうだろう、ひとつ提案してみようかな。三年の付き合いだし、僕自身、君をいぶかしがることもなくなった。
 これからゆっくり、変化に向かうのもいいだろう?
 ラーメンのどんぶりを思い出す。
 ひとつの物事をやり終えた先は、何も不幸ばかりじゃないよ。
 どんぶりにラーメンが残ってるのは、確かに安心するかもしれない。
 目の前に確実なものがあるっていうのは、安定につながるね。
 希望が残ってれば、そのイメージで日々を包んでいける。
 けれど、君が持とうとしている希望は、ちょっと僕のとは違う気がするんだ。
 だから、ひとつ提案したい。そして一緒に話したい。
 僕は彼女の方へ歩いた。
 
 ね、ラーメンの話しに戻っちゃうんだけど。汁まで飲みきったなら、どんぶりの底の模様が見えるだろう?
 飲まなきゃ見えないんだよ。多分。











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