たりないよ
電車から降りた瞬間、じっとりとした熱気が全身にまとわりつく。
会社員の蓼無総一郎は、額に滲み出てきた汗を軽くハンカチで拭うと、胸元のポケットから携帯電話を取り出した。
営業職の彼は、スマートフォンと携帯の二台持ちだ。携帯は仕事の取引先との連絡用、スマートフォンは完全にプライベート用と使い分けていた。その仕事用の携帯の画面を見た総一郎は、顔をしかめ、小さく声を洩らしていた。
「うわ。これは……」
携帯の待受画面には、『不在着信4件』の文字と、留守番電話が録音されていることを示すアイコンが表示されていたのだ。電車に乗る時はマナーモードにしているとはいえ、いつもは着信があれば振動で気付くのだが。夏休みに入り、浮かれた若者達が車内で談笑しているのに気をとられ過ぎて気付かなかったのか。だとしたらあいつらのせいだ、と彼は責任の所在を勝手に若者らに押し付ける。
これが大事な取引先からの電話だったら――。
嫌が応にも彼の鼓動は早くなる。まずは掛けてきた相手を知るため、総一郎は着信履歴のボタンを押した。
画面に表示されたのは番号のみだった。つまり、この仕事用携帯のアドレスに登録していない相手ということだ。だが総一郎は、その番号に見覚えがある気がした。
(ぜろ、なな…………)
頭の中でゆっくりと数字を読んだ総一郎は、そこでようやくこの番号が何だったのかを思い出す。
(これ、実家の番号じゃないか)
総一郎は留守番電話のメッセージを聞くため、ボタンを押しながら携帯を耳に当てる。こんなに履歴を残しているのだから、何かあったに違いない。まさか、親戚に不幸でもあったのだろうか?
漠然とした不安が襲う中、彼は喧騒広がる駅構内で立ち止まり、メッセージを聞きのがさまいと神経を集中させた。
まずは一件目の留守番電話を再生させる。しかし聞こえてきたのは、最初から最後までサー……というノイズ混じりの静寂だけであった。拍子抜けしてしまった総一郎だが、両親共に留守番電話にメッセージを残すということに慣れていないから無言になってしまったのだろう、と総一郎は判断した。
しかし二件目の留守番電話を再生した彼は、その考えが間違っていたことに気付く。
『……見つけた』
十秒程度の無言の後に聞こえてきたのは、囁くような子供の声。瞬時に彼の全身に粟が立つ。総一郎は思わず携帯を落としそうになってしまい、慌てて空中で広い上げた。
(何だ今の? 洋子の子供か? イタズラ?)
洋子というのは、総一郎の二つ下の妹のことだ。二十代半ばで結婚した妹には、五歳と三歳の息子がいる。夏休みだから一家で実家に遊びに来ているのだろうか――。
その考えが頭の中を過ぎった瞬間、総一郎はようやくこれが異常な事態だということに気付いた。彼の両親は、一週間をかけて北海道を丸一周する旅行に、昨日の朝出発したばかりなはずだ。
総一郎の父親は、今年の春に定年退職を向かえた。そこで総一郎は弟と妹に相談し、兄妹三人でお金を出し合い、退職祝いに夫婦水入らずの旅行をプレゼントしたのだ。魚介類好きの両親は、今頃北の大地で海の幸に舌鼓を打っているはず。
だが、もしかして何らかのトラブルがあって早く帰ってきたのかもしれない。体調を崩して出発の日程を遅らせたという可能性もある。そして遊びに来た洋子の子供を家に上げたのだ。その子供がイタズラで電話を掛けてきた――。そう考えれば何もおかしくはない。きっとそうに違いない。
しかし総一郎はそれがありえない事態だというのは、わかっていた。洋子も今回の旅行の件は知っている上、無断で実家にあがり込むような性格ではない。いや、それ以前の問題だった。
そもそもこの仕事用の携帯の番号は、総一郎の身内には誰一人として教えていなかったからだ。それなのに五歳や三歳の甥が、どのようにしてこの携帯の番号を知ったのか――。でたらめに番号を押してこの電話にたまたま繋がった確立は、かなりどころかほぼありえないと言っても良いだろう。
それでも総一郎は、そのありえない事実を何とか認めようとした。認めなければ、気味が悪くて仕方がなかったのだ。しかし頭ではそう考えていても、心の方はその考えから乖離していくばかり。総一郎の額から、暑さが原因ではない汗が滲み出る。
三件目の留守番電話。総一郎は正直、もう聞きたくない気持ちでいっぱいであったが、大事なメッセージが残されている可能性も捨てきれず、意を決して再生ボタンを押した。
『たりないたりないたりない、たりないよ! ちょうだいよ! おなかへったよ! あぶらあげがたりないよ!』
「何だよこれ!?」
先ほどの囁き声とは一変、絶叫する子供の声が総一郎の鼓膜を強く震わせた。思わず声を上げた総一郎は腕を伸ばし、携帯を顔から遠ざける。突然奇怪な行動をする彼を、中年男性が訝しげな顔で見やりながら通り過ぎた。
四件目の留守番電話を再生する勇気など、総一郎にはなかった。
気味が悪い――。
苦々しい顔で小さくそう言い捨てると、彼はメッセージをその場で全て削除した。
就業時間も終えた。いつもなら総一郎はコンビニで酒と弁当を買ってマンションへと帰るだけだ。だが、彼は新幹線の中にいた。
週末だからか、夕方の自由席車内は人で溢れかえっていた。座ることのできなかった客達は通路に立ち、次の駅で席が空くのをただ待ち続ける。少し疲れてきたのか、通路に立っていた中年男性が軽く肩を回す。その肩からぶら下がるボストンバックが総一郎の肩に当たった。刹那、彼はふと我に返る。
(何だ、ここ――? 新幹線? どうして俺、新幹線になんかに乗ってんだ?)
そして自分がどこに居るのかを認識した瞬間、彼の顔から血の気が引いた。ここに居るのは、彼の意思ではなかったのだ。得体の知れぬ恐怖が、総一郎の全身をじわりと侵食していく。
(と、とにかく降りなきゃ。戻らなきゃ)
しかし今総一郎がいるのは、走行中の新幹線車内だ。それに座れなかった人々が通路に溢れていて、座席から動くこともままならない。
(次だ。次の駅で降りて引き返――)
(たりないよ。おなかへったよ)
突如総一郎の脳内に響いたのは、あの留守番電話で聞いた子供の声だった。総一郎は思わず悲鳴を洩らしそうになってしまった。幻聴にしては、その声はあまりにも鮮明すぎたのだ。
(何だよこれ!? 何でこんな――。夢か? 夢なら早く覚めてくれよ!)
(たりないよ。たりないよ。あぶらあげがたりないよ)
(もうやめてくれ! 何だよあぶらあげって!?)
総一郎は頭を抱え込み、心の中で絶叫する。しかしその子供の声はしばらくの間、総一郎の頭の中に響き続けることになるのだった。
結論から言ってしまうと、総一郎は新幹線を降りることができず、そのまま地元の駅まで到着してしまった。いや、彼は何度か降りようとした。しかし降りることができなかったのだ。座席から立ち上がる度に、あの不気味な子供の声が総一郎の頭の中いっぱいに響き続けたからだ。そして駅から出た瞬間、より一層その『声』は鮮明になる。
(たりないよ。早くきて。たりないよ)
「くそっ!?」
総一郎は駆け出した。ずっと頭の中から離れない声に従うままに、目的地へと。
彼の背中を押すように、生温かい風が夜の町を吹き抜ける。嘲笑うような下弦の月が、低いビルの谷間から顔を出した。
総一郎が駆け込んだのは、実家近くのスーパーだった。入り口に置かれた買い物カゴを乱暴に取り、閉店間際に貼られる半額シール狙いの主婦やサラリーマン達の合間を縫って、総一郎は店内を駆け抜ける。彼は、ある一点のみを探していた。
それは、あぶらあげ。
彼の頭の中の子供の声は、ずっとあぶらあげを催促してきていたからだ。
しばらく店内をウロウロとしていた総一郎だったが、ようやく目的の物が彼の視界に入る。総一郎は慌ててそのコーナーに駆け寄ると、ためらうことなく陳列されてあった二枚入りのあぶらあげを全てカゴの中に入れた。
(たりないよ。もう少し、たりないよ)
また総一郎の頭の中に響く、子供の声。総一郎は半ばパニックになりながら、今度は一枚入りの高級なあぶらあげを一気に数枚乱暴に掴むと、足早にレジへと向かった。
会計の際、女子大生らしきレジのバイトの子がカゴの中身を見て総一郎に奇異の眼差しを向けていたが、彼はそれすら気付くことはなかった。とにかく、一刻も早く一秒でも早く、このあぶらあげを実家に届けないといけない。
今までに感じたことのない恐怖が、彼の全身に絡み付いていた。
(たりないよ。早く。たりないよ。おなかへったよ)
頭の中に響き続ける子供の声が、総一郎の恐怖と焦りを一層加速させる。
木造二階建ての実家はカーテンが閉め切られ、明かり一つ灯っていなかった。いつもなら帰ってきた、という安心感を覚えるのだが、今の総一郎には、全く知らない家に見えて仕方がなかった。
しばらく玄関の前で突っ立っているだけの総一郎だったが、直後、彼の背筋を悪寒が走り抜ける。
仄かに明かりを放っていた下弦の月は瞬く間に雲に覆われ、夜の闇が濃さを増した。
……何かに、見られている。それも、複数――。
(いや、勘違いだ。そう感じるだけだ。気のせいだ)
総一郎は必死で自分の心に言い訳をするが、粟立ったままの全身、とめどなく滲んでくる冷や汗、真っ青になった唇、小刻みに震えだす、手――。彼の状態全てが、勘違いではない恐怖を示していた。
総一郎は震える手でスーパーの袋からあぶらあげを取り出し、おぼつかない手で何とか開封しては玄関の前にばら撒くことを繰り返した。とてもじゃないが家の中に入る気などしなかったのだ。
やがて玄関に敷かれたのは、不揃いな茶色の絨毯。あぶらあげのほのかに甘い匂いが、夜の闇へと溶けていく。
総一郎は油でぬるぬるになってしまった手を握り締めると、一目散に駅の方へと駆け出した。
※ ※ ※
総一郎はテレビを見ながらコンビニ弁当を食べ、ビールで晩酌していた。
突如、机の上に無造作に置いてあったスマートフォンが、流行りのアイドルの曲を鳴らす。その画面を見た総一郎の顔は、瞬時に強張った。スマートフォンの画面には『実家』の文字と、その番号が表示されていたからだ。
あの不気味な子供の声が聞こえた日から、六日が経っていた。
あぶらあげを実家の玄関にばら撒いて以降、総一郎の頭の中に子供の声が響くことはなかった。だから総一郎はあの出来事は悪い夢だったのだと、無理矢理忘れようとしていたのだ。しかしスマートフォンの画面に表示された『実家』の文字を見た瞬間、瞬時にあの時の恐怖が彼の中に甦る。
――いや。
今回電話がかかってきたのは、親も知っているスマートフォンの方だ。仕事用の携帯ではない。何もおかしいことはない。
総一郎はそう自分に言い聞かすと、通話ボタンをタップする。
「もしもし?」
「あ、総一郎? さっき帰ってきた所なの。凄く楽しかったわー。ありがとうね。近い内にそっちにお土産送るから」
「あぁ、うん。楽しめたようで良かったよ」
「それでね、総一郎……」
「ん?」
「私達が旅行中の間、その、何か変わったこととか、あった?」
玄関にばら撒いたあぶらあげがあの日以来そのまま残っていたのなら、直接それを聞いてくるはず。だが母親はあぶらあげのあの字も言う気配はない。それどころか何かを含むような母親のその言い方に、総一郎は得体の知れない恐怖を抱いてしまった。
――何だよその言い方。もしかして何か知ってるのかよ。母さんはあの声が何なのかを知っているのかよ!?
一瞬の内に頭の中に様々な疑問が浮かぶが、彼はそれを声に出すことができなかった。聞いてしまったら、もしそれらの疑問を肯定されてしまったら……。
「何も――。何も、なかったよ」
知らないふりをしよう。あの時のことは、自分の胸の内にしまったままでいい。いっそのこと、なかったことにしてしまおう――。
そう決心した総一郎は誤魔化したが、その声は少しだけ震えていた。
「そう……」
「もう、切るから」
「うん。ありがとうね」
母親の言葉を最後まで待たず、総一郎は耳からスマートフォンを離し、通話を終了させる。彼の心臓を脈打つ速度は、通常の二倍速にまで上昇していた。
総一郎は一連のことを早く忘れたくて、今の母親の声さえも忘れたくて、ただ闇雲にテレビの音量を上げた。
「私の代わりに、ありがとうね――」
受話器を握り締めたまま小さく呟いた母親の言葉を、総一郎が聞くことはなかった。