060 異変2
カニバリズム要素あります。気分を害したらすみません。
街はいま、深い宵闇に抱きこまれている。今夜は新月、そのうえ厚い雲に覆われているから、空からの明かりは星の瞬きを除いてほとんどない。
宿の一階、エントランスホール。質素なソファに背を預ける赤髪の少女がぽつりと呟いた。
「おじいちゃん、どこに行ったんだろ?」
パッと目が覚めた瞬間には祖父の姿がなかった。もしかしたらとホテルの外を少し覗いてみたが、やはり見当たらない。寂しい気持ちもあり、イーナは隣のアリスの部屋に向かったのだが、ノックをする寸前で思いとどまった。
──起こしちゃ、だめだよね。きっと寝てるもん。
熟睡しているだろう彼女を起こすのはどうにも忍びない。そう考えたイーナは、結局一階のエントランスホールで待つことにしたのだ。
「うぅん……少し眠くなってきたなぁ」
大きく口を開けてあくびをひとつ。時計の長針が五つの数字を過ぎたころだった。
端的に言って、イーナは普通の少女だ。突出した能力があるわけでもなく、人種にしても純粋な人間である。イーナが持つ“特別”は竜王の孫という肩書きくらいだろう。
──そういえば、わたしってどうして……。
イーナ自身いつも思っているのだが、自分の周りが特別すぎるだけなのだ。祖父は竜王と呼ばれていて、旅を共にする仲間は初代勇者に召喚勇者、普通そうに見える少女は元魔物である。やはり自分が普通なだけで回りが特別過ぎるのだ。
考え出すイーナに悪戯好きの睡魔がちょっかいを出す。途端に眠気が現れて、
「おじいちゃん……ふあっ! 寝ちゃだめ……だ」
すぅ、と眠ろうとする脳をどうにか止めた。寝ぼけまなこで、それでも祖父の帰りを待つイーナを見る従業員の目は優しい。頑張れ、と小声で励ましているがイーナには届かない。
当然、十歳そこらの少女には睡魔に勝つのが難しい。ふっと意識が途切れ──、
て…………。
きて……。
「起きてっ!」
「……ふぇ?」
「大丈夫? いまから安全な場所に逃げるからね」
「? ……にげる?」
女性の声とけたたましい鐘の音に起こされた。首を傾げるイーナに女が重々しく頷く。先ほどまでエントランスホールにいた従業員だ。名札にはカタリナと書かれている。
カタリナは若干の声の震えを抑えながらゆっくりと話す。
「魔物の襲撃みたいね。街に火が放たれているの」
「ん……?」
まだ白濁とした思考のままのイーナにはよくわからなかった。が、ゆっくり噛み砕いて、イーナはようやくその意味を理解した。あたりを見まわすと、先ほどまでの景色ではない。
「えっ……ぁ、どうして……?」
イーナたちが今居るのは、エントランスホールではなく、宿の外だ。石畳の街路はところどころ罅が入り、砕けた箇所も見受けられる。目を上に向ければ、空には黒煙が立ち上り、そこらじゅうの建物から火が噴き出ている。煉瓦造りならばまだいいものの木造の建物などはすでに全焼間近である。そして、どこからともなく悲鳴が聞こえてくるのだ。
数刻前とはまったく違う街の様相に愕然とした少女に女が告げる。
「いまから私と一緒に逃げるのよ。大丈夫、他の方々も避難し始めてるから」
「に、にげる?」
カタリナが指をさす。その先では守衛の男たちが予想外の事態に惑う人々の誘導を始めている。どうやらその一団に混ざるつもりらしかった。
「で、でも、アリスちゃんたちは!?」
「ごめんなさい、確認せずに出てきてしまったわ。でも、もう逃げてるかもしれない。きっと大丈夫よ」
「だめ! 一緒じゃないとだめなの!」
イーナが涙目で訴える。その必死さにカタリナは難しそうな顔になった。ちょうどそのとき、前方で絹を裂いたような悲鳴が上がった。
「魔物だ! 魔物が出やがった!!」
その魔物は、イーナがいる位置からもよく見えた。大型犬に梟の頭を取り付けたような外見で、その目はじっとこちらを見つめていた。誰しも恐怖を覚えるだろう光景に、女は顔を青ざめさせているが、不安を気取られないように唇を噛んでいる。
「全員下がって! ここは私が出ます」
一団から抜け出した青年が、片手に長剣を構えて市民を守るように立ちふさがる。怯えの色もなく、おそらくは魔王直属軍の出身なのだろう。
そのほかの兵士たちは、イーナ含む市民の安全を確保するため、周囲を十人態勢で固めて警戒している。いつどこから魔物が現れるか、見当もついていないのだ。
「おじいちゃん……みんな」
イーナは無意識下に女の服をぎゅっと握りしめていた。旅の道中で魔物がどこにでもいるのは知っていたし、幾度となく遭遇したことがあるものの、あまり恐怖を感じたことはない。
八雲とアリス、そして祖父である竜王の庇護下にいたからだ。彼らの下は何が起ころうとも安全だと確信していたからこそ、いま、この場に彼らがいないのが堪えてくる。
「あなたのお名前は?」
訊いたのは女ではない。いつの間にか、イーナたちのそばにはひとりの少女が居た。歳はイーナと同じくらいだろう、宵闇で融ける色合いの、ゆるくウェーブした髪を持つ少女。瞳は昏い金色で、見る者を誘うがごとくこちらに向けられている。
イーナがぼうっとしていると、少女は可憐な笑顔で首を傾げた。
「わ、わたし、イーナです……」
「可愛いお名前なんだね。羨ましいな」
「あ、ありがとう……あなたのお名前は?」
赤面しながらもイーナが問うと、少女は唇に人差し指を当てて、
「んー。そうだ、サスティって呼んでくれると嬉しいかな」
「サスティ……うん、覚えたよ」
サスティの名をしっかり記憶してイーナが微笑む。サスティはえへへと笑って恥ずかしそうに頬を掻いた。
「イーナちゃん。わたしがいまから、あなたのお友達のところに行くわ」
「え? そ、それならわたしも一緒にっ!」
「ダメよ。あなたはこの子と一緒に逃げなさい。頼めるかしら、サスティちゃん?」
「うん! もちろんよ!」
「ありがとう、これで私も安心できるわ」
憂いのない笑顔を向けると、カタリナはイーナを下ろして手近に居た守衛に、
「この子たちをちゃんと避難させてあげてね」
「え? ま、待ちなさい! そっちはすでに火が回っている!!」
慌てた守衛が止めようとしたが、カタリナは聞く耳も持たずに走り去っていき、煙の向こうに消えた。イーナは止めることすらできなかった。
「わたしと一緒に行こ?」
「え……でも、お姉さんは……」
「きっと大丈夫よ。絶対に魔物に殺されたりなんてしないわ。絶対ね」
昏い金色の瞳が、イーナにこれ以上の弱音を許さなかった。イーナはなにも言えなくなって、心の中でカタリナの無事を祈った。
「わたしと一緒に行こ?」
サスティが手を伸ばし、イーナがそれを取ろうと手を伸ばす。しかし二人を遮って、まだ若い守衛がかがんでイーナの肩を掴んだ。
「さ、ここから離れるよ。でも走らないで、ゆっくりね。大丈夫、おじさんたちがいるから」
ぞっ、と怖気が沸き起こった。イーナには、その言葉がものすごく怖いものに感じられた。
人命を諦めて、すぐに切り替えられる。人の命を仕方がないと割り切れる。そう考えたとき、イーナはいままでに味わったことのない恐怖を感じた。
「──ッ!」
「どうしたんだい?」
「いやっ!!」
伸びてきた手を振り払い、次の瞬間イーナが走り出す。
「あれっ? イーナ? どこに行くの?」
「待ちなさいっ! キミっ!!」
追いすがってくる声に耳を塞いで、赤髪の少女は脱兎のごとくその場から逃げ出した。
イーナは、こちらをじっと捉えている闇を帯びた金色の瞳には気がついていなかった。
× × ×
角を曲がったところで、守衛の男は赤髪の少女を見失った。これ以上の深追いは、少なくない犠牲者を出すかもしれない。男は足を止めて踵を返す。
「くそっ、追いかけることもできんとはっ……」
残された守衛が歯噛みする。彼は一刻も早く自分の任務、住民の避難誘導を果たさねばならない。惑う者たちを置いていくことはできないのだ。
角に差し掛かり、悔しげに振り返る彼の膝辺りに何かが寄り添ってきた。
「ん?」
女の子だった。先ほどの赤い髪の少女と一緒にいた子だ。黒と紫、それから藍を同じ比率で混ぜ合わせたような色合いの髪と、闇を帯びた金色の瞳が特徴的だった。
「さ、早く逃げよう。あともう少しだ」
怯えているであろう女の子を安心させるためにすぐに表情を切り替える。
だが守衛は、彼女の顔を見て驚きを隠せなかった。
少女は、にんまりと満面の笑みを浮かべていた。それも、よく見ると点々と返り血のついた、狂気的な笑みを。
「ねぇねえ、どうしてそんなに悔しがってるの?」
「ど、どうしてって……」
「あの子が死んじゃうから? それともいざというときの囮がいなくなったから? あ! もしかして、あの子を食べたかったとか?」
「そんなっ……!? 冗談でも言っていいことと悪いことがあるんだぞ!」
男は動揺を隠せなかった。混乱する脳で必死に考えていく。
この子はどうして返り血を?
まさか目の前で人が殺されたのか?
しかしそれにしては元気すぎやしないか?
いくつもの考えが脳裏を過って、男の思考はますます深みに落ちていく。
「え? 冗談って、それこそ冗談じゃないの? えへへっ、あの子って美味しそうだったよね!」
「そういうことを言っちゃダメなんだ! い、いや、それより早くここから逃げるんだ! 魔物がいつ襲ってくるかもわからない!」
少女の腕を掴み、男が走り出す。だが、手を引いているはずなのに重みがない。
重みがない?
「えへへへっ! これ、簡単に取れるよねー? 固くって美味しくないのに……でも、」
「──え」
男は振り返って、目を剥いた。
「食べずにはいられないの。さっきイーナと話してるとき、すっごく我慢してたんだから」
少女が男の腕を、腕だったものを、食んでいた。皮を噛みちぎり、露出させた肉を貪り、見えた血管から紅い液体を啜り、喉をこくりと鳴らす。
「あぁ……満たされる……でも、足りないよぉ……」
「く、来るなッ! 来るなァアアッ!!」
残っていた右腕で剣を抜き、ぶんぶんと振り回しながら後ずさりする男。少女は返り血のついた顔にあどけない笑みを表しながら迫りくる。さらに後退すると、男は何かにつまずいて尻餅をついた。ぐちゅっと何かが潰れる音がした。男の右の手の平には、潰れた目玉と血肉が付着していた。おそるおそる後ろに視線をやると、
「ヒッ!!」
そこには屍山血河が出来上がっていた。先ほどまでここに居た、生きていたはずの者たちが全員、変わり果てた姿になっていた。
頭蓋が潰れ、脳漿が半ば飛び出している男。いたるところに噛み傷がある女。顔の皮を剥がれた、人であったことしかわからない死体。心臓を抉られ、周囲の肉も食い散らかされている少年。目蓋がなく、二つの眼窟がそこにあるだけの少年。四肢をもがれ、臓腑を引き摺り出されている女。頭が胴体から千切られ、抜き取られた背骨が破られた腹に突き立てられている男。およそ原型を留めていない肉の塊。血だまりに浮かぶ脂肪。もぎとられた鼻。綺麗に取られた内臓。血を抜き取られて乾ききった老人のような死体。
「どれを食べてても途中で飽きちゃった。イーナを考えると全部不味く感じるの。あの子はすごくおいしそう。なんでかわからないけれど、すごく食べたくなる。私の目を惹いたの。早く食べたい……ああ、そうよ。これがきっと、恋なのね……えへへ」
狂っている。男は口をパクパクさせながら、涙と鼻水とで汚れた顔を俯かせた。
「そうなのね、これが私の初恋……ふふふふふふ、──ああぁあァアアああ!! ……あの子の艶のあるほっぺも綺麗な赤い目もみずみずしい身体も全部食べたい……食べたい食べたい食べたいぃいい…………」
少女の口振りは、まるで大人びていて、しかし子供を残している。身体の成長が止まったまま精神だけが成長し、だが途中でそれすらも止まったかのようだった。
「あの子を捕まえたらね、きっとわたしはこう言うの。あなたを食べさせてって。そうしたらきっとあの子はこう言うの。もちろん、あなたに食べてほしいって。えへへへ、そうしたら私は次にあの子の指を一本一本噛んで、爪の先から肉を噛みちぎって、口いっぱいに頬張るの。あの子が痛がってもやめてなんかあげない。でも指を食べ終わったらちゃんと止血しなきゃね。もったいないもの。次はどうしよう。ああ、ふくらはぎがいいかも。ナイフで削ぐなんて無粋。ふくらはぎを食べたら、次は耳ね。きっとコリコリしてて美味しいんだろうなぁ。あ、メインディッシュも食べないとだめだった。傷まないように開腹してあげてね、煙草の毒も知らないあの子の健康な肝臓の切れ端をゆっくり食べるの。当たり前だけど、心臓は取れないわ。だから周りもしっかり舐めて味わってあげるの。うん……心臓を舐めた後はあの子の舌を食べる。口のなかに私の舌を入れて、絡ませて、ゆっくりねぶって味わったあとに、少しずつ食んであげる。血が出るだろうから、私はそれをすする。きっと私たちの愛の味がするんだろうね。それから片目を貰うわ。あ! 私の目を片方あげるのもいいかもしれない。うん、きっと素敵ね! そうだわ、殺さないで私とあの子の臓器を交換していけばいいのかも! でもそうなるとあの子の肉しか食べられない……ああ、恋の悩みって素敵ね……」
頬に両手を当てて恍惚とした表情になる少女。男はその場で嘔吐した。下半身の濡れが血液なのか、それとも他の液体なのかすら判断がつかない。しかしわかることがひとつ。このすべては目の前の少女への恐怖ゆえ。
「あぁ……だめ、渇く……あ、」
プツッと、線が切れたように。
「ああああァァああああアアアあァあああ!!」
突然、奇声のような金切り声を上げ始め、少女が目を剥いて自らの喉元に爪を立てた。上から下へ。引っ掻くごとに鮮血が噴き出し、皮が剥げ、肉が削がれ落とされる。
「食べなきゃ……そうだよ、これは浮気じゃない。ただ飢えを凌ぐだけなんだから」
虚ろな目の少女が幽鬼の如く歩み寄り、男の四肢を容赦なく捥いだ。
「~~~~ッッ!!」
想像を絶する痛みの嵐に、男は声にならない悲鳴をあげ、自害しようと舌を噛みちぎる。
「どうして死のうとしてるの? 私は生きたまま食べるのが好きなの。だから勝手に死ぬことは許さないよ?」
少女は妖艶に舌なめずりすると、男の腹に拳を突き刺した。ぐちゅぐちゅと音を立てて探し出した結果、取り出されたのは肋骨の突き刺さった片肺だった。少女は肋骨を持って、男の肺にかぶりつく。くちゃくちゃと、幼子が食事をするように、気味の悪い旋律を奏でていく。少女は口の周りの血を舐めとり、
「あなたのコレも結構美味しい! 次はどこを食べよう……腕はさっきので飽きたから……面倒ね、考えるのって。よし! 次は目にしよっ」
男の身体がわなないた。力の限りを尽くして目を閉じるが、外側から無理矢理にこじ開けられ、少女の可愛らしい顔が視界いっぱいに映る。昏い、金色の瞳がこちらを誘うがごとく覗き込んでいる。それを見た男は、
ああ、食べられるのもいいかもしれない。
そう、思っていた。そして男の視界は真っ暗になった。ぷちゅ、と小さな破裂音がして、目玉を食される残響が頭蓋の内側を叩いた。