激流の水たまりと、せせらぎの世界
今日は久しぶりの快晴で、ジメジメした空気もすぐに乾きそうな昼下がり。
俺は少し洒落た雰囲気の喫茶店の中で、白い湯気を立てるコーヒーを啜っていた。黒い液体に対して白い湯気というのは、なんとも複雑にさせる現象だと思った。
苦味が口いっぱいに広がる感覚が俺のお気に入りだ。
ここ最近この店のコーヒーを気に入った俺は、仕事の休憩時間の大半をここで過ごしていた。仕事場の休憩室など心を休まる場所ではない。というのも、俺はあまり社交というのが得意ではない。
つまり言うところ、一人の時間が欲しいというわけだ。
人と関わると自分の時間が食われるし、何より自由への制約がかかる。そんなのはごめんである。
一番窓際に座っていた俺は、書類の整理もほどほどに昼の僅かな休憩時間を有意義に過ごすため肘をついてボーッと外を見つめていた。目の力の入れ加減によって、窓に映る自分か外の風景かを選択できるもの一つの楽しみだ。
ふと自分の顔を見てみれば、髭の剃り残しが見られた。ボタンもほつれかかっている。傍から見れば俺は、どこぞの貧乏人に見えないこともないだろう。
窓ガラス越し、ギラギラと照りつける日差しの下、様々なものというものが輝いて見えたが、一際目立つものが俺の視界に入り込んできた。人一倍太陽の光を反射し、普段は見せない存在感を今だけ必死にアピールしている。そんな健気な姿に俺は魅せられたのかもしれない。
今、ヤツの顔はきっと努力で汗ばんでいるだろう。
子供が黄色い長靴を履いてヤツに近寄ってきた。しかしヤツは子供を避けることが出来なかった。無邪気な子供は、ヤツに気が付く様子も無く駆ける。
あぁ、焦りを見せ始めたぞ。必死になって光を反射してやがる。俺にとっては目に焼きつくほどの光であったが、肝心の相手には全く効果がないようだった。光の角度を変えられないからだ。
ヤツはアピールした苦労も虚しく、ゴムに遮断された。大きく歪んだその顔は、多分怒っているのだろうと思った。唾まで吐き出しやがって、汚らしい。
そういえばうちの上司もそうだ。
どれだけ俺が仕事振りをアピールしたところで、結果がそれに付いてこなければ意味が無い。褒められるどころか責められる。
俺には子供を避けることは出来るが、ヤツ同様努力を見せ付けられるほどの力は無い。
結局は達成し切れなかった俺が悪いのだが、自分の失敗と相手の激昂というものが交じり合うとどうにも反省の色が出ないもので、勝手にイラついて毒ずく。きっと、ヤツもそんな心情なのだろう。
自転車で女性が颯爽とヤツの横を通り過ぎる。いや、避けられたのだ。
無情にも通り過ぎた風だけがヤツの水々しい髪を揺らし、事の終わりを告げるかのように元の形に戻る。
小さく揺れた髪の向こう側は、きっと涙で濡れていただろうと思った。泣きたい直前の人間ほど静かな時は無い。
あの頃の恋人もそうだった。
嵐というのは過ぎ去った後もそうだが、来る前も静かなものだ。自転車が通り過ぎた時のように、何の前触れもなく颯爽とその時は流れ、一瞬にして記憶という名の過去になる。
恋人の長い髪の向こうが涙で濡れていたかは分からない。けれど、俺の周りには静寂しか残っていなかった。俺は、声を出して泣いていた筈なのに。
小さな女の子が、ヤツを見つけて遊びだした。
撫でられたり、大きく叩かれたりもして表情がころころと変わる。だが、先ほどのような激しさや悲しさは感じられない。ずっと、ゆるやかな顔を作っていた。それは女の子も同じであった。
苦労の末に与えられた愛情がどれほど嬉しいものか、俺は知っている。
昔、俺は成績などの関係から親に全く相手にされなかった。幼少期の俺にとってそれは悲しいものだった。
だから、少しでも努力をして認められようと思った。結果、俺は成績を上げて親に褒められた。あの頃の親の笑顔は忘れられない。ささいな出来事でも、自分の努力しだいでは大きな出来事となりうることがあるということだ。
それからは、怒られる、という行為もそこに愛が存在しているのだと知った。変態ではないが、怒鳴られるのもいいかもなとも思っていた。
女の子の親が子を連れて帰ったとき、ヤツで遊んでいた女の子を叱った。だが、それでも女の子は笑っている。
ヤツは人に流されやすい。
誰かがそこを通れば怒るし、避ければ泣く。光を反射していれば汗を流しているし、人がヤツを見たらヤツは笑うだろう。
俺も同じだ。
誰かが危害を加えようとしたなら怒るし、必要とされなくなったら悲しい。自分のアピールのために汗は流すし、その苦労を認めてもらえたら嬉しいだろう。
だから俺は社交というものが苦手だ。自分の意思に関わらず、人と関わっていくということは即ちヤツのように流されていくことになるのだ。たとえそこに自分の意見が存在していても、相手を参考にし、比較し、結論する。
結局そこに絶対の自分は存在しない。
―――なんて、哲学的に語っても仕方が無いんだがな。
コーヒーの最後の一滴まで飲み干す。コーヒーカップの底に茶色の粕が残るが、それを飲むという行為までは及ばない。
少し経って、ふと、俺がヤツをもう一度見ようとしたとき、そこにヤツの煌きはなかった。
姿を追うように目で探してみるが、ヤツの仲間は沢山いるもののヤツ自信が見当たらない。見失ったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。
ヤツは消える際、足跡を残していった。
カンカン照りの太陽の下、整備されきったコンクリートの道路は無機質な灰色をしている。だが、ヤツの足跡は少し黒ずんでいた。そこだけは無機質ではなく、生命の残像を思わせる色をしていた。
あぁ、ヤツは最後まで周りに流されたままだったのか。いや、自然の摂理というものには逆らえないだろう。それは、ヤツも俺も、全ての人が同じことだ。
その時だった。俺の胸ポケットに微振動が発生する。
その正体を手に掴むべく、手を突っ込んで取り出す。携帯のバイブレーターだ。
一人の時間を邪魔されたことに不快な気分を覚えながらも、通話ボタンを押す。
「はいもしもし。…え?あの件ですか。……は?全て私に一任すると。しかし……あ、はい。他の社員……」
ヤツの足跡を見る。
結局ヤツは、周りに流されて怒り、悲しみ、笑い、そして消えていき、また生み出されるだろう。
上司の声が耳に響いた瞬間、俺はあることに気が付いた。
俺は、ヤツと同じだと思っていた。人の波に流され、自分の意思もなくロクでもない日々を過ごしているのだと思っていた。それは紛れも無い事実であろう。
だが気付いた。俺とヤツの決定的に違う点を。
ヤツには足が無い。俺には足がある。ただこれだけのことだ。
しかしこの違いは、決定的な人生の差を生むんだ。
「……いえ、私にやらせて下さい。ええ、結構です。私がやります。はい、では後ほど…」
電源ボタンを押し、通話を切る。
俺は動くことが出来る。前に進むことが出来る。選択することが出来る。後悔することが出来る。学ぶことが出来る。
ヤツの激流のような世界と比べれば、俺の世界なんてせいぜい水溜りくらいだったってことだ。誰かが波を起こさなければ、水溜りは流れを作らない。流れが発生したところで、所詮は水溜り。抗う事だって出来る。
俺はレジでお金を払うと、すぐに店を出てヤツの足跡へと駆け寄った。
感謝しなければならない。こんな小さなヤツに教えられたんだからな。
次会うときにお礼を言っておこう。傍から見れば変に思われるかもしれないが、そんなもの矮小な流れだ。
さて、次の雨の日はいつだったか。