グンマ転生
その日はボーナスの支給日だった。
一人で酒を飲んでいて少し良い気分になっていた。
だからだろう。
ヨドバシカメラを冷やかしてJR新宿駅に向かう途中で足を止めて、見てしまった。
普段、絶対に声なんかかけたりしないのに、その日に限って気になった。
しっかりと見るのは初めてだったが、意外と若くて美人だった。
「私の詩集300円」
実年齢は結構いってるらしいが、とてもそうは見えない。
300円なら出してもいいか。
酒の勢いとは恐ろしいもので、ふらふらと財布から100円玉を3枚取り出して手渡していた。
「ありがとうございます」
無感情にお礼を言われ、黒い表紙の紙束を手渡される。何だこれ、詩集っていうか本だ。
300円を払ってしまったし、今さら要らないとは言いづらい。
ずっしりとした重みを感じる本をカバンに入れて、JRの改札口へ向かう。
読み捨てる雑誌だってそれくらいはするさ。自宅に着くまでの暇つぶしには良いだろう。
その後、運良く始発電車に乗ることが出来た。7人掛けのシートに座ってさっそく本を開いてみる。
1ページから大きく2行の詩が書かれていた。何だこれ、ひどいセンスだな。
酒の酔いに心地よい電車の揺れが眠気を誘う。
折角買った詩集も最初のページしか読まず、数分もしないうちに夢の中に誘い込まれた。
夢の中で、乗っていた豪華客船が氷山にぶつかって沈む夢を見た気がする。
目が覚めると、自分の周りが薄ぼんやりと明るい。
寝過ごしたのか、終点までいってしまったのか。
まだ電車あるかな、戻れるところまで戻ってタクシー捜して無いなら漫画喫茶にでも行くか。
それにしても、何でこんなにモザイクが掛かったみたいな見え方なんだ。
俺まだ酔ってんのかな。
身体が横になってるみたいだし、ちょっと起きてみるか。
あれ、なんだこれ、おかしいぞ。
「んぅー!」
身体が上手く動かないぞ。それに喋れない。呂律が回らない以前に、口が動かない。
どういうことだ、どうなっているんだ。
そういえば、夢の中で波間に沈む豪華客船に乗っていたな。
もしかすると半分は現実だったんじゃないか?
例えば、寝ている間に電車の事故で、座席から投げ出されたとか。
そうなると、ぼんやりとしているのは目を怪我しているからかもしれない。
身体も上手く動かないし、口も動かない。
全身か、脊髄なんかを怪我しているのだろうか。
「・・・ぁ・・・ね」
誰かの話し声が聞こえる。
日本語のイントネーションに近いようだが、何を言っているのか良く分からない。
耳に水が入ったときのような聞こえ方だ。
救助隊か? 誰でも良いから、兎に角助けてもらおう。
「あぁう!」
何か声が出ているが、意味を成さない。
自分の声がちゃんと聞こえない。不安になる。
感情が悲しみに流れて、泣きたくなる。
涙がじわじわと目に浮かんでくる。
喉の奥から絶叫が搾り出された。
「ほぎゃあほぎゃあっ!」
うん?
俺もしかして、赤ん坊なのか。
そうと自覚してからは、情報収集に努めた。
声が聞こえたのは俺の正面からだが、どうやら抱っこされたまま移動しているようだ。
薄ぼんやりと明るいのは、暗闇の中を懐中電灯のような小さい明かりをもって移動しているのが原因のらしい。
揺られているうちに頭もぼんやりとしてきて、いつの間にか眠ってしまった。
次に目を覚ますと、青空が見えた。
今は移動していないようだ。
首を動かして左右を見渡すと、俺以外にも子供が見える。
赤ん坊といえるのは俺だけで、他の子供は皆5,6歳くらいの幼児だ。
青空の下、皆で地面に座り込んで不安そうな顔をしている。
着ているものは俺の死ぬ前の時代のものと違いゴワゴワとした見た目だ。
麻で出来ているのか粗末な感じがする。山の中っぽいし汚れてもいい服なんだろうか。
どういうわけか分からないが、俺は赤ん坊になってしまっている。
以前にネット小説で見た転生という奴だろうか。
そうなると、やはり以前の俺は死んでしまったのだろう。
別段、惜しいような人生でもなかったし、心残りといえばボーナスを使えなかったくらいだ。
両親とも死別しているし、恋人や親しい友人もいない。
仕事は投げっぱなしになるが、死んでるんだし許して貰えるだろう。
何だ。何も思い残すことなんか無いじゃないか。
それはそれで悲しいものがあるけどな。
こうなったら、新しい人生を楽しんだほうが良さそうだ。
何故か前世の記憶を引き継いでいるようだし、うまくやれば人生イージーモードだな。
ネット小説だと西洋のファンタジー世界に転生するのが定番だっだが、周りの子供の顔を見る限り日本人のようだ。
「起立!」
いきなり号令がかかった。
周囲の子供達が立ち上がって声のした方を見る。
「注目!」
俺は布に包まれて地面に置かれていたが、そばにいた少年が抱き上げてくれた。
高い位置からだと号令をかけた人間がちゃんと見える。
ひげを生やしたおっさんだ。服装こそジャージではないが体育教師のような印象を与える。
「着席!」
何だすぐに座らせるのか。俺は自分の力で動かないから良いけど、あんまり意味の無いことはさせないでほしい。
「ここに集められたのは、シャーマンによって選ばれし者たちだ。
お前たちは、この【魔の山】から自分の力だけで生還しなければならない。
それだけの力を持つものが選ばれたはずだ。もし死んだとしても、それは受け入れなければならないだろう」
何言ってるんだ、コイツ。【魔の山】なんて、物騒な名前の場所から自力で下山しろ?
無茶苦茶だ。赤ん坊の俺はもとより、周囲の5,6歳の子供だけで下山なんて出来るはずが無い。
引率がいても子供をこんなに連れて移動するのは難しいだろう。
ジョークにしては性質が悪いし、何の意味があるのかも分からない。
それともあれか、町内会とかのレクリエーションか。
そういう設定のロールプレイをしているのかもしれないな。
「お前たちが誇り高きグンマの戦士となることを祈る」
それだけ言って、ひげジャージは去っていってしまった。周りの子供もぽかんとしている。
それを見る限りレクリエーションは無さそうだ。全く状況が伝わってない。
何が起こったのかわからないだろう、そりゃそうだ。
いきなり山の中に連れてこられて、置いていかれたんだ。
もしかして、食糧危機とかで口減らしのために山に捨てられたのか。
人生イージーモードだと思ったのに、まさかのスーパーハードの可能性が出てきた。
「おい、みんな聞いていたな」
俺を抱き上げていた少年が声を出した。
ここには10人近く子供が居るが、その中でも一番背が高い。
俺を除けば皆、小学校低学年くらいの子供ばかりだが少年は高学年でも通用しそうだ。
「俺たちは選ばれたんだ。これは名誉なことだ」
こいつはこいつで、何を言ってるんだ。
「ここは【魔の山】や【死の山】、【人喰い山】と呼ばれる危険な場所だ。
だが、グンマの戦士であれば問題なく下山することが出来る」
さっきからグンマって言ってるけど、群馬県のグンマか?
それなら【死の山】って谷川岳のことか。年間700人くらい死んでるらしいな。
そんなところに置き去りなんて、俺の知ってる日本じゃないのか。
日本に見せかけた中途半端なファンタジーなのか。
「自分の力で歩けるものは立って、歩けない者の足となってくれ。
誇り高きグンマの戦士として、決して見捨てたりしないで欲しい」
おぉ、格好良い。小学生並みの少年なのに、凄く格好良い。
グンマの戦士とやらは良く分からないが、この年齢で既に一人前に見えるな。
「さあ、日があるうちに歩こう。土合の洞窟を通って麓に下りる道が安全だろう。
この子は一番小さいから、俺が守ろう。皆は他の子を頼んだ」
頼もしい少年の腕に抱かれると、暖かい安心感に包まれる。
名前は分からないが、この幼児はアニキと呼ぼう。
アニキの腕の中とか書くと非常に誤解を招きそうな気がするが、傍目から見れば赤ん坊を抱いている小学生でしかない。微笑ましい以外の感想なんてない。
「おい、何でお前が仕切ってるんだよ」
安心感を再確認しているとアニキに食って掛かるガキが出てきた。
アニキほどではないが背が高く大柄な子供だが、まるきり悪ガキという言葉がぴったりの子供だ。
「お兄ちゃん、やめなよぉ」
妹なのか、悪ガキの服を引っ張って止めようとしている女の子がいる。
この子も同年代だが、色白で眼のパッチリした美少女だ。
ちょっと気の弱そうな感じが庇護欲を掻き立てる。俺が結婚してたらこんな娘が欲しい。
どう見ても悪ガキと血が繋がっていないので、複雑な事業があるとしか思えない。
「ああ、済まない。何か意見があったら言ってくれ」
「その態度が気にいらねえんだよ!」
悪ガキの意見を受け止めたアニキだったが、それすらも気に入らないようでいきなり殴りかかってきた。
アニキは俺を抱いているから防御することも出来ない。
俺の喉からあうあっ、と心配する声が漏れるがアニキはその場で悪ガキに背を向けると、俺をあやし始めた。
「大丈夫だぞ。心配してくれてありがとうな」
その背中からはボスボスという肉を叩く音が聞こえる。
見えないが、悪ガキがアニキを殴っているのだろう。しかし、俺を抱く腕は少しも揺れない。
悪ガキの妹が「やめてよぉ!」と涙声で叫んでいるのも聞こえるが叩く音は止まらない。
だが、1分もしないうちに音はしなくなった。それを確認してアニキが振り返る。
「気は済んだか」
「はぁはぁ……う、うるせぇ!」
悪ガキの手は真っ赤に腫れていた。ものすごく痛そうだ。
どれだけの力で殴りつけたのか分からないが、それをものともしないアニキの背中に賞賛を贈りたい。
力強く逞しい、これぞ男の背中だ。いやグンマの戦士の背中か。
「気が済んだのなら行こう。日が暮れてしまう」
「お前なんかと一緒に行けるかよ! おい、皆行こうぜ!」
悪ガキが他の子供を連れて離れようとするが、誰も動こうとしない。
そりゃそうだ。頭の悪そうな悪ガキとアニキでは、どっちが頼りになるか分かりきってる。
「クソッ。カナ行くぞ!」
「お兄ちゃん、待ってよぉ。みんなと一緒に行こうよぉ」
「うるさい、いいから一緒にこい!」
「なんなん! なんなんなん!?」
女の子はカナという名前らしい。妹を連れて離れようとし悪ガキだが、妹はかなり嫌がっているようだ。
子供兄妹など微笑ましいだけだが、アニキは厳しい目つきで周囲を睨みつけた。
「おい、何かいるぞ。戻ってこい」
アニキの声が響く。何かいると言われて周囲を見てみるが、それらしき姿は見えない。
「そんなんでビビるわけねえだ……」
鼻で笑う声に重なるように、カサッと草を踏みしめる音がした。
音の方向を注視すると、木の陰の中を動く影がある。アニキの俺を抱く腕に力がこもる。
全員の視線が草むらに向けられる。
ガサガサと揺れる草から白い生き物が出てきた、ウサギだ。
悪ガキが吐息を洩らした。
「なんだ、ウサギか。驚かせやがって」
ビビってるじゃねえか。
それに、その台詞は決して言ってはいけないフラグだぞ。
「ぅあう!」
他に何か居るかもしれないぞ。というつもりで声を出した。
俺が急に声を出したことで、緩みかけた空気が再度緊張する。
その瞬間、悪ガキの姿が消えた。
「っ!?」
消えたように見えたのは地面に押し倒されたからだった。
四足の動物が悪ガキを地に押し付けている。茶色い犬のような姿だ。
野犬か……いやどこかで見た覚えがある。確か、上野の国立博物館の剥製で……。
「うぁう!」
あれ、ニホンオオカミじゃねえか。すげぇな群馬、現存してるのか。
凄いけど、その狼は今にも悪ガキを食いつこうとしている。
普通の犬にも勝てるかも怪しいガキなのに向こうは狼だ。逃げるのも無理だろう。
「俺がやる、みんな下がってろ」
俺を悪ガキの妹、カナに渡してアニキが一歩前にでた。だが、いくらアニキでも無理だ。
他の子と比べて体が大きくても、狼から見たら肉の食べ応えが多い程度の違いしかない。
必死に逃げるように声を上げるが、あうあうとしか声が出せない。
悪ガキは腰が抜けたのか動こうともしない。いつでも食えると見たのか、悪ガキを放置して狼がアニキに向かって飛びかかる。
ああ、アニキ。どう見ても足手まといの俺を見捨てないで連れて行ってくれたのに。
その腕に抱かれる安心感はもう得られないのか。
アニキが鋭い牙に襲われる。
仁王立ちになったアニキが軽く身じろいだか思うと、狼が地に伏した。
何が起きたんだ。依然、アニキは立ったままだ。
「ふぅ……何とかなったな」
狼は伏したままピクリともしない。
アニキが振り返り、預けていた俺を抱き留めようとして躊躇する。
その右手は血に染まっていた。
倒れている狼を見ると、その口からは血が流れ落ち、腹の辺りからは大量に出血している。
状況から判断すると、アニキが拳で狼の腹をぶち破ったようだ。アニキ、マジパネェ。
血の汚れなんか気にしないで抱きしめて欲しい。
「きゃっきゃ!」
笑って声を上げるとアニキも俺を見て微笑む。
ヤバいカッケー。多分俺生まれたばっかだけど、アニキに一生ついて行きたくなった。
ふっと俺を抱きかかえる力が弱くなって、ずり落ちそうになる。
声を出してカナに抗議すると、「ご、ごめんなさい」と謝りながら俺を抱きなおした。
その顔は真っ赤になっている。色白だからか、その変化がよくわかった。
それに胸に抱きかかえられた俺には、その鼓動の高鳴りがこれでもかと聞こえていた。
あぁ、こりゃ惚れたな。ちょろいなんて言わないさ。気持ちは分かる。
狼を撃退して、子どもたちは歩みを進める。悪ガキも何も言わずにアニキについてきた。
格の違いというのを理解したようだ。
狼は群れからはぐれた一匹だったのか、それっきり襲ってくることはなかった。
のんびりとしたハイキング気分で、腕の中で何度か眠ったりしているうちに土合の洞窟にたどり着いたようだ。
洞窟って言ってるけどトンネルだよな、これ。
「止まれ、何かおかしいぞ」
狼を素手で倒せるアニキの信頼は既に全員に浸透しているのか、その指示に皆の動きが一斉に止まった。
アニキが手で動きを制して、トンネルの中の様子をうかがう。
「ベンガルトラだ」
今なんて言った? ベンガルトラ?
何でそんな猛獣が山中にいるんだよ。群馬だろ、ここ。
アニキの視線の先、トンネルの中からのそりのそりと音もなくトラが現れた。
「昔、サファリから逃げたのが野生化したんだ」
群馬サファリパーク、仕事しろよ。
サファリの係員に文句を言っても仕方ない、目の前でこちらの様子をうかがうトラは先ほどの狼が比較にならないほど大きい。
テレビでお笑い芸人がまたがっているのは見たことがあるが、赤ん坊の目で見るとさらに大きく見える。これはもう、怪獣だ。
「皆、逃げろ。半人前の俺じゃ、野生のベンガルトラには勝てない」
恐ろしいことにアニキでもまだ半人前らしい。というか一人前なら勝てるとでも言うのか。
アニキは再び俺をカナに渡すと、一人で歩みを進めて立ち向かう。
大きいといっても小学生の体躯だ。ベルガルトラなんて比べるまでも無い、大人だった頃の俺よりも大きいんだ。
「頼む、逃げてくれっ」
アニキの声は震えていた。怖いんだろう、前世で30年以上生きていた俺だって怖いんだ。
人生経験の少ない子供はもっと怖いに違いない。さらに俺よりもずっと近くに寄っている。
ベンガルトラは舐めるようにアニキを眺めている。
「グォオウ!」
トラ怖い。声が怖い。大きい。声だけで圧倒される。
「お、おい。カナ早く逃げるぞ」
悪ガキがカナに逃げることを促す。そうだ、せっかくアニキが時間を稼いでくれてるんだ、逃げろ。
俺を預けられたカナの腕が小刻みに震える。逃げるのもままならないほど硬直してしまっている。
悪ガキが「早く、早く」と言いながら皆を引っ張って動かそうとする。
ギクシャクとだが、動き出した子供達がこの場を離れようと動き出すが、ベンガルトラはそれを察したように吼えた。
「グォォオオオオオオオ!」
空気が振動する。さっきの比じゃない、再び動きが固まってしまった。
見渡せば、悪ガキも動けないでいる。ズボンが濡れているのを見ると、恐怖のあまり漏らしてしまったようだ。安心しろ、俺もとっくに漏らしてる。
「うぉおおおおっ!」
アニキが吼える。それはかろうじて声を搾り出しているようにしか聞こえなかったが、この場では十分頼もしかった。
未だ狼の血で汚れている右腕を振りかぶり、ベンガルトラの顔面を殴りつける。
狼とトラという違いはあるが、生きたまま腹をぶちやぶる攻撃力だ。頭をふっとばすとは行かなくても、致命傷を与えるには十分な一撃のはずだ。
「ガァアアッ!」
だが、ベンガルトラは一滴の血も流さずに前肢で反撃を繰り出す。
軽く撫でる程度の動きでアニキは10mも吹き飛ばされ、木に叩きつけられて動かなくなる。
嘘だろ、何で無傷なんだよ。アニキの攻撃だぞ、恐怖で力が入りきらなかったのか?
それにしたって強すぎる。子供とはいえ10mも吹っ飛ぶのか。あれは普通のトラじゃないぞ。
「ゲホッ……みんな、逃げてくれ……」
骨が折れているどころじゃないだろう、内蔵を損傷したのか口から血を吐き出しながらアニキが立ち上がる。
あのトラも尋常じゃないが、アニキも普通じゃない。なんで立ち上がれるんだ。
でも、何とか立っている感じだ。どうにか立とうとしているアニキの足が震えているのが見えた。
ダメージのせいか、恐怖で震えているのか。武者震いという可能性はないだろう。
生存は絶望的だ。このままでは全滅は免れない。
こうなったら、俺を餌として置いて行って貰おう。まだ親の顔も見たことないが、緊急事態だ仕方ない。
まだ死ぬのが惜しいと思うほど生きていないし、運が良ければまた転生するだろう。
何とか3分くらいは稼ぐから、皆で生き残ってほしい。そうだ、それがいい。そうしよう。
満身創痍のアニキが、あうあうと泣きながら訴える俺のところへ足を引きずりながらやってくる。
「ごめんな、俺が弱いばっかりに怖い思いをさせちまって。
大丈夫だ。お前だけでも、何とか生かして帰してみせるから」
違うんだアニキ。俺を使ってくれ、アニキが生き残るべきだ。
あぁろくに喋れもしない体が歯がゆい。
足手まといにならないように自分の足で走ることもできない幼さが口惜しい。
前世の知識を引き継いでイージーモードだなんて思っていたが、そんなものは何の役にも立ちやしない。
トラの弱点とか嫌いな物を思い出そうとしても何も出てこない。何かを思い出そうとしても、出てくるのは前世の最後の記憶だ。
よりにもよって、一番役に立たない黒い本に書かれた、酷いセンスの2行の詩。
そういえば、詩にも群馬って書いてあったな。一体、群馬に何の思い入れがあるんだろう。
センスは酷いがインパクトはある。妙に頭に残るフレーズだ。声には成らないが、思わず呟いてしまう。
「つる舞う形の群馬県、つる舞う形の群馬県」
『……らけ』
どこからか声がする。子供の高い声じゃない。低く渋みのある大人の声だ。
助けがきたのかと思って周囲を見渡すが、大人の姿は見えない。
すぐ近くで聞こえたから、そんなに遠くにいるはずがない。
『開け』
もう一度声が聞こえた、幻聴じゃない。これは耳で聞いていない、頭に直接聞こえる音だ。
それに気づくと、俺の目の前に黒い四角い物体が浮かび上がった。
カナが驚いて俺を強く抱きしめる。カナが一歩後ろに下がるのに合わせて、黒い本も宙に浮いたまま移動した。
どこかで見たことのある物体、これは。
「あうあ!」
新宿で買った「私の詩集300円」だ。何で今こんな時にこんなものが出てくるんだよ。
『開け』
声が聞こえる。さっきも聞こえた気がしたが、聞き間違いではない。
カナは茫然とした顔で俺を見つめている。アニキも同じように俺を見ている。
何だか分からないが、今より悪くなることはないはずだ。開いてやるよ、そうすればいいだろ。
短い手を伸ばして黒い本を掴む。背表紙を掴んだ瞬間、黒い本が輝き始めた。
光はどんどんと輝きを増し、周囲を白く照らして包み込む。
薄目で黒い本を見ると、光の塊は本を離れて飛びながら次第に別の形に収束する。
ベンガルトラは異様な出来事に様子をうかがっているのか、光を睨みつけたまま動かない。
子供達も固唾を飲んで見守っている。あるいはこの事態を打開すると思っているのかもしれない。
光は丸い形となり輝きが収まる。その後には、丸っこい馬のような生き物がいた。
生き物というか、多分あれは着ぐるみだ。しかもご当地のゆるキャラ。
「おぉ……おお……」
アニキがうめき声のような音を洩らす。傷が痛むのかと思ってみると、涙を流していた。
「聖獣様だ……まさか、生きて眼にする日が来るとは」
聖獣様? ずいぶんと凄い呼ばれ方だけど、あれはどうみてもゆるキャラだろう。
デフォルメした馬に洋服を着せたようなデザイン。どっかで見たことがあるぞ。
「あぅっ」
がんまちゃんだ。テレビで見たことがある。
『ほぅ……我が古代名を知っているとは、唯の赤子ではないな』
さっきの頭に響くような声だ。がんまちゃんの声だったのか。外見はゆるいのに、妙に渋い声だ。
それより何だよ古代名って。ただのがんまちゃんだろう。
『些事に過ぎぬ。さあ、汝の望みを言え』
そうだ。ベンガルトラだ。がんまちゃんなんてどうでもいい。トラをどうにかしないと。
『容易い』
がんまちゃんが、短い足を動かしてピコピコと音を立てながらベンガルトラに向きなおる。
ベンガルトラは少しだけ怯んだように後ずさった。そりゃあ、驚くわな。
『赤子よ、詠み上げろ』
がんまちゃんが俺に背を向けたまま声をかけてくる。相変わらず頭に直接届く声だ。
詠み上げろって言うのは、この本のことだよな。でも詠めって言われても、これ1ページ目以外は白紙だ。
その時、俺の読もうとする意志に呼応して指を押し広げるように勝手に本が開き、バラバラと白紙のページが捲れる。
本の重さを感じないし、本自体が手のひらに吸いついたように離れない。ページは10枚くらい捲った所で止まった。
白紙だったページに色がつく。文字が浮かび上がる。読めということだろう、どうせ喋れないがやってやる。
大きい文字で詩のような文章が書いてある、日本語だからそのまま読めばいいんだろう。
挿絵なのか見開きの隣のページには電車の路線図と山のイラストが入っていた。その横に丸に囲まれた「か」の字がある。
「関東と信越つなぐ 高崎市」
しゃべれた。本に書かれた文字を声に出して読むことが出来た。俺の声に呼応するように本が再び輝きだす。
がんまちゃんが腰に左手を当て、左足のかかとを地面に突き立てた。右手を大きく掲げると同時に強大な力の奔流が弾ける。
『高崎灼熱獄』
変なルビが見えた気がするが、そんなことを気にするより先に目の前の景色が揺らいだ。
何が起きているのかは、すぐに分かった。がんまちゃんの知識が頭の中に流れ込んでくる。
このトラを囲む3m四方が真夏の高崎市と同じ温度となっている。呼吸をすれば喉が焼け、目を開けば眼球が蒸発する。
景色が揺らぐのは、急激に温度の変化が起きたからだ。ベンガルトラを包むように灼熱の空気が渦巻く。
それにも関らず、まるでSF映画のバリアでも張ってあるように一定の距離からは気温に変化は無い。
『骨も残さずに全身を焼かれるが良い』
「……っ!!……!!」
声を伝える空気の振動すら燃やし尽くしているのか、揺らぐ空間の中で暴れまわるベルンガルトラの断末魔すら届かない。
ほんの数十秒でベンガルトラ動かなくなり、揺らぎが消え去った後には消し炭があるばかりだった。
がんまちゃん、ヤバい。のほほんとした見た目なのにやることがえげつない。これからは「がんまさん」と呼ぶことにしよう。
『敬愛をこめて「がんまちゃん」と呼ぶが良い』
「がんまちゃん」は光の塊に戻ると、また本を包みこんで消えてしまった。
ちゃん付けのお許しを得たが、何だか恐れ多いな。
「カナ、大丈夫か」
トラの脅威が去り、悪ガキがカナを心配して近寄ってきた。一応、兄らしいところもあるようだ。
「私は大丈夫だけど、この子が黒い本をどこからか取り出して」
カナは今起きたことを説明しようとするが説明にならない。説明できるほどのことを見ていないし、分からないだろう。
アニキも俺の所へ戻ってきた。全身打撲じゃ済まない怪我で、意識があるのも不思議で仕方無いくらいだ。
足がふらつくアニキに、カナがそっと寄り添って肩を支えるが、体格が違いすぎて一緒に潰れそうになる。
そこへ悪ガキが反対側の肩を支えて、何とか二人で地面に倒れずに済んだ。
もう悪い感情なんて無いのだろうアニキに向かって「お大事なさい」と声をかけていた。子供は仲良くなるのも早い。
黒い本は用が済んだとばかりに空に消えて行ってしまった。また呼べば出てくるんだろうか。
「この子は魔道書使いだ。この年齢で【上毛かるた】を使いこなして、さらに聖獣様まで……。将来は総理大臣になるかもしれないな」
明らかに違う。かるたは魔道書じゃない。あうあうと抗議の声をあげるが、伝わるはずもなく頭をなでられた。
「ありがとうな、助けるつもりが逆に助けられちまった」
力強い掌に頭を包まれると、安心感が全身を支配する。赤ん坊だからなのか黒い本のせいなのか、急激に眠気が襲ってきた。俺をみつめながら微笑むアニキの姿が薄れていく。
俺がおかしな世界観のグンマに転生したのは、酒の勢いで買った本のせいなのかもしれない。だが、その本のおかげでアニキや他のみんなを助けることができた。
無感動に生きていた前世に比べれば、それだけで生まれてきた意味がある。俺は大事な人を守ることができた。この世界に生まれてよかったんだ。
夢の中のような出来事だったが、目を覚ますと抱かれている俺の横をカナが歩いていたので夢ではないとわかった。
「ずっと寝てたから心配だったが、ようやく起きたな。もうすぐセーブオンに着くぞ」
誰か人がいるはずだ。とアニキは言う。
その通り山の中でおいてけぼりにしたヒゲのおっさんが俺たちを待っていた。
「まさか誰も脱落せずに生きて帰ってくるとはな」
まさかって何だよ、何人か死ぬのは織り込み済みだったのか。俺なんて死ぬ筆頭じゃないか。もしかして自分で言いだすまでもなく囮として選ばれてたのか。
「この子の魔道書のおかげだ」
「なんと……選ばれるには小さすぎると思ったが、そういうことだったか」
「俺の力だけでは無理だった、俺にグンマの戦士の資格はない」
何言ってるんだ、アニキが戦士じゃなければ他の誰が相応しいって言うんだ。
俺が「ぁぁああっ」と声にもならない声で抗議をすると、カナも「そんなことないよっ」と言ってくれた。
「結果として、お前たちは【魔の山】を土合の洞窟を通って生きて戻ってきたんだ。その瞬間から、お前たちはグンマの戦士だ」
こうして俺たちは、グンマの戦士として認められた。だが俺はまだグンマの本当の恐ろしさを知らない。
灼熱の高崎市だけではない。10分に1回、鼻先を落雷がかすめるような過酷な環境。グンマとトチギ、ツクバによる三つ巴の熾烈な争い。
そして、【上毛かるた】に翻弄される運命が幕を開けたばかりだとは、この時はまだ知る由もなかった。