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司書さんは自由

作者: 水池亘

「私って空が飛べると思うんだよね」

 司書さんは真顔で言う。

「それって新入荷した本の話ですか?」

「違うよお。生きた現実の話。私の背中にぴっと翼が生えて、力いっぱい羽ばたけばそこはもう夜空ってわけ」

 ときたま彼女はこんな奇妙な冗談を言う。

「まだ実現してるわけじゃないんだけど」

「たぶん一生実現しないと思います」

「あら、夢がないんだね。人間らしくないなあ」

 そして司書さんは僕の頭をくしゃくしゃとなでる。それは彼女のいつもの癖で、僕はそのたびに「止めてください」と言うのだけれど、本当のことを言えば、そんなに嫌じゃなかった。

「これはね、夢物語とか願望とか妄想とかそういう話とは違うの。未来のいつか、そう遠くないうちに、私は空を飛ぶ。確定事項と言っていい」

「その自信はどこから来るんですか」

「なにしろ私は浴びるほど本を読んできたから」

「関係ありますか、それ」

「ないって言い切れる?」

「それは……」

 僕はしばし思案した。

「言い切れませんね」

「でしょお?」

 司書さんがにかっと笑う。

「私が飛ぶそのときは、きみも道連れだからね」

 その笑顔が、僕はこっそり好きだった。


   *


 この学校は、窮屈だ。

 全国でも有数の進学率を誇る、中高一貫の男子校。

 特に有名なのはその校則の厳しさだ。服装は厳密、首元のホックすら外してはいけない。行き帰りの寄り道は厳禁。近くのゲームセンターには毎日教師の見回りが入る。恋愛沙汰も禁止だ。そもそも他校の生徒との交流は制限されている。教師も厳格で隙のない人が多い。

 僕は学校に逆らうようなことはしない。

 首のホックを締めて窒息するわけでもないから、締めろと言われれば締める。ゲームには興味がないし、そもそも放課後につるんで遊ぶような友達もいないから、行くなと言われたら行かない。恋人を作るためだけに外部と交流を持つようなアグレッシブさも持ち合わせてはいないから、つきあうなと言われたらつきあわない。

 でも、それらと僕の感情は別の話だ。

 やっぱり肌のどこかで窮屈さを感じていたことは間違いなかった。


 そんな僕の唯一にしてささやかな反抗が、小説を読むことだ。

 僕は隙間の時間の全てを本を読んで過ごす。例えばそれは授業と授業の合間の十分間。あるいは昼休み、弁当を食べながら僕は左手でページをめくる。通学中の永い電車の中なんて、最高の読書環境だ。

 この世界の片隅に佇みながら僕は物語の別世界を旅して回る。

 それが僕の日常であり生き方だった。

 残念ながら中学一年生に大量の本を買いあさる金はない。僕も例外ではなかったので、図書室をありがたく利用させてもらっていた。週に一、二度という頻度で、三十分ほど物色してめぼしいものをいくつか手に取り、カウンターで貸出手続きをしておしまい。無駄に足を止めることはない。僕にとって図書室とは手段以外の何物でもなかった。

 そして僕は進級し、中学二年生になった。


 それは四月の中頃だった。放課後、僕は例によって図書室で本を眺めていた。小説の棚は部屋の奥、隠れた薄暗い場所にある。その配置を見るだけでこの学校の小説に対する態度がはっきりとわかり、僕は少し残念だった。

 図書室に人はあまり居ない。テスト前になれば勉強にあけくれる学生も増えるが、今はまだ閑散としている。本を探しているような正常の客は数人がせいぜいだった。

 棚に並ぶ小説は純文学が大半で、それも明治~昭和中期にかけてばかり。平成文学は少ない。大衆小説は古めの有名どころがいくつかあるだけ。今売れ線のものはほぼ存在しない。もちろんライトノベルなんて論外だ。これでは中高生が見向きもしないのもあたりまえかもしれない。

 ただ、僕個人は純文学に抵抗はなかった。読めばわかるが、おもしろいものはいくらでもあるのだ。不満は特にない。

 そのとき僕が手に取っていたのは、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』。白地にタイトルとあらすじだけが書かれた簡素な表紙だったので、気になったのだ。以前読んだものは夜空を走るSLのイラストが描かれていたはずだ。


「いいよね、『銀河鉄道の夜』」


 いきなり声をかけられたので僕は振り返った。

 司書さんが少し首を傾げ、微笑んで僕を見ていた。


   *


 その司書さんは今年度から配属された新人だった。この学校に女性の教師は一人も居ないから、彼女の赴任は少しだけ学内の話題をさらった。けれど、それもすぐに下火になった。中学生にとって、いくら異性といえども十歳以上も年上であれば普通は興味の対象外だ。それに図書室自体の印象が薄いということもある。

 僕も彼女について特別に気にしたことはなかった。受付に座っている、教師に近い存在の人という以上の認識はなかった。

 だから司書さんの顔をきちんと見たのは、そのときが初めてだった。

「え……あ……」

 僕は言葉を失う。

「あ、まだ読んでなかった?」

「いや……読んだことはありますが……」

「あるんだ!」

 司書さんはうれしそうに両手を組んで、ぴょんと飛び跳ねる。全く教師らしくないその姿が僕をさらに戸惑わせた。

「やっぱり宮沢賢治ならこれって感じよね。もちろん他にもいいのはいっぱいあるけどさ、『銀河鉄道の夜』だけは格別の儚さが美しくて、すごく好きなの。最近の本って『カンパネルラ』って書いてあることがあるんだよ。信じられないよね、そこは絶対に『カムパネルラ』じゃないと! ()(ふゆ)くんもそう思うでしょ?」

「……僕の名前を知ってるんですか」

「だってきみ常連さんじゃない」

 それはそのとおりだが。

「深冬くんは宮沢賢治なら何が好き? ねえ、教えてよ」

「……あの」

 正直に言うべきか少し迷った。

 でも、正直に言う以外に選択肢を見つけられなかった。

「僕、たしかに『銀河鉄道の夜』を読んだことはあります。でもそのときは小学五年生で、何がおもしろいのか全然わかりませんでした。宮沢賢治は、他に読んだことはありません。ごめんなさい」

 僕は顔を伏せつつ言った。

「あ……そうなの、へえ……」

 司書さんはみるみる落胆した。わかりやすいほどにがっくりと肩を落としている。

「あの……」

 僕がなんて言おうか考えあぐねていると、彼女は数秒してぱっと顔を上げた。きらきらした瞳が僕を見る。

「でもさでもさ! それからもう三年も経ってるでしょ。三年あったら人間は変わるよ。深冬くんだって、きっとそう。だからね、もう一度読んでみてよ、『銀河鉄道の夜』」

 そう言って彼女は僕が手にしていた文庫本をぱっと奪い取った。そのままカウンターへ向けて歩きだす。

「貸出手続き、してあげる」

 弾んだ彼女の声。

 僕は後ろをついていく他なかった。


 三年ぶりに読んだ『銀河鉄道の夜』はやっぱり全然おもしろくなくて、司書さんにそれを伝えると彼女は露骨に残念そうな顔を見せた。

「すみません」

「なんで謝るの?」

「だって司書さん、悲しそうだから」

「私がどう感じようが深冬くんの読書には無関係じゃない。謝られても困っちゃうな」

「すみません」

「ほらまた!」

 彼女は僕の額を人差し指でこづいて、ふふっと笑った。

「でもさ、これでこの本はもう無理だーって決めつけたりしないでさ、また時が経ったらチャレンジしてみてよ。いつか必ず楽しんで読めるようになるから」

「なりますかね?」

「絶対!」

 僕にはそれが真実なのかよくわからなかったけれど、彼女がにこにこ笑顔でいたから、僕はあいまいに頷いた。


   *


 図書室にいくたび、僕は司書さんと話をするようになった。

「あっ、深冬君だー」

 僕が入室すると、カウンターの後ろに座った彼女がぱっと顔を明るくさせる。

 客観的に見て、司書さんは美人とは言えないと思う。縦に長いたまご型の顔は、瞳や口などパーツ単体はいいのだけれど全体のバランスが少し悪い。どこにでもいそうな、普通の大人の女性だ。たぶん三十歳前後。眼鏡はかけていない。髪は肩までのセミロングにまとめていて、少しだけ茶色がかっている。白を基調としたおしゃれな服を着ていて、そこには大抵ひらりとレースがくっついていた。

「話し相手がいなくてつまんなかったんだ」

「生徒と雑談することは司書の仕事じゃないですよ」

「そーなんだけどさー」

 彼女は口をとがらせる。

「そもそもこの学校、本好きが少なすぎない?」

「それはそういうものだと思いますよ」

「深冬くんはちょっと達観しすぎ」

 カウンターを挟んで、僕と司書さんは対面している。

「深冬くんは誰が好きなの?」

「は?」いきなりとんでもないことを訊いてくる。「……今のところ、いないですが」

「いないってことはないよ。あんなに小説読んでるのに」

「小説?」

「好きな作家の一人くらい、いるでしょ」

「……ああ」

 誰が好きって、作家のことか。

「最近好きなのは星新一ですね」

「星新一かあ。私は後期が好きだな」

「後期?」

「彼は前期と後期で作風が微妙に違うの。一般的なイメージの、驚きのオチがあるタイプは前期ね。後期はもっと抽象的で曖昧で考えさせられるようなオチが多くて、一般受けはしないんだけど、私はこっちの方が本当の彼らしい気がするんだよね」

「へえー」

 初耳だった。

「好きだって言うわりには全然読んでないんだ」

「だってたぶん後期の作品はこの図書室にないですよ」

「あっ!」

 彼女はしまったという顔をして、頭をぺこりと下げた。

「ごめんなさい」

「司書さんが謝ることじゃ……」

「いや、これは私のミス。しまったなあ、気づかなかったなあ」

 言いながら彼女はキーボードをかたかたと操作する。

「すぐに入荷申請するから!」

「はあ……」

 そこまで急ぐことでもないと思う。

「よし、完了! あとは上の人が許可してくれるかどうかね」

「許可されないことってあるんですか」

「むしろすんなりOK出る方が珍しいね。ここは市立図書館じゃないから、この本は我が学園にふさわしくないって判断されたらそれで終わり」

「その判断は誰がやってるんですか」

「知らない。でも、きっと、本に愛情なんてない人だよ」

 正直な言葉を彼女は正直に言う。

「あ、そうだ。星新一といえば、あれよあれ」

 彼女はおもむろに立ち上がり、部屋の奥へと消える。しばらくして戻ってきた彼女の手には一冊の文庫本。

「はい、これ」

 それは『ショートショートの広場』という題名の本だった。星新一の名はあるが、最後に『編』とくっついている。

「これも星新一の作品集ですか」

「それが違うんだな」

 彼女はにっと笑った。

「これはね、ショートショートコンテストの優秀作品を集めた本なんだ。書いたのはみんな素人さん。あとでプロになった人もいるんだけどね。そしてその審査員が星新一ってわけ」

 そんなものがあったこと自体、僕は始めて知った。

「この本の最後に載ってる『海』って作品。これがすごいんだ。一般的なショートショートとは全然違うの」

「どんな内容なんですか」

「読んでみてよ、今」

 彼女は本を僕の目の前に差しだす。

「ショートショートの美点の一つは、すぐに読めるってことなんだから」

「……わかりました」

 僕は本を受け取る。近くの椅子に腰掛けて、僕はページをめくりはじめた。


『海』は不思議な作品だった。

 物語と言えるほどの物語はない。町がゆっくりと広がる海に浸食されていく様を淡々と描いているだけのショートショートだ。

 特徴的なのは、誰も悲観していないこと。現実を現実として、あるがまま受け止めている。

 そしてこの作品には驚きのオチはなかった。

 代わりに、なんとも言えない物静かな余韻だけが強く残るのだ。


「……読みましたよ」

「どうだった?」

 司書さんは期待感に目を輝かせている。

「いい作品だと思います」

「そうだよね!」

 彼女は嬉しそうにぴょんと飛びはねた。

「なんだかよくわからない部分もありますが、とにかく雰囲気が好きですね」

「そうそう。これはこれで一つのショートショートの形だと思うの。これを最優秀賞に選んだ星新一も、きっと同じ思いを抱いてた。自分には書けないものを、この公募に求めていたんじゃないかな」

 それは充分に頷ける意見だった。

「言っちゃ悪いけど、星新一のショートショートって、通過儀礼みたいなものだと思うんだよね。おもしろくて、一時(いっとき)はハマるんだけれど、いつかスッと冷めてしまう日が来る。私、今でも覚えてる彼の作品ってほとんどないの。でもね、この『海』という作品は、きっと一生忘れない」

「そういうものですか」

「時が経てば深冬くんにもわかるよ」

 そう断言するときの彼女はなぜだか自信満々で、他人の気持ちなんて、未来なんて、絶対にわかるわけないのに。

 でも、だからこそ僕は、彼女と話すのが新鮮だった。


   *


「これ、今月の新入荷」

 新しい本が入るたび、司書さんは僕にその全てを紹介してくれる。

「……これ、変なタイトルですね」

 僕が指さしたのは、『どくとるマンボウ医局記』という名の本だった。

「それに目を付けるかあ」

「意外ですか」

「だってこれエッセイだよ。深冬くん、小説しか興味ないでしょ」

「そんなことないですよ。基本的には小説が好きですけど、エッセイだっておもしろそうなら読みます」

「そうなんだ。ますますいいねえ」

 司書さんは僕の頭をくしゃくしゃなでる。

「止めてください」

「いいじゃん、いいじゃん」

 ひとしきりなでまわしたあと、彼女はいたずらっぽく笑った。

「マンボウシリーズといったら普通は青春記か航海記なんだけど、最初に医局記ってのも、まあいいかもね。クオリティはそんなに変わらないし」

「じゃあ借ります」

「はいはいー」

 彼女は楽しそうに貸出処理を始める。

 本棚に並ぶ前に僕はその新入荷本を借りてしまっているわけで、厳密にはルール違反と言えるかもしれない。それはつまり司書さんが僕を特別扱いしているということだ。僕はその事実が少し嬉しかった。面と向かって言ったことはないけれど。


『どくとるマンボウ医局記』は作者が精神科医として働いていた経験を元に書かれたもので、出てくる医者は奇人変人ばかりというコメディだ。中でも一番変人なのが作者本人というところがユニークだった。精神を病んだ患者もたくさん出てくるが、一歩間違えば不快になるようなデリケートな内容を、現実を変に歪めることなく、美談にもせず、絶妙なユーモアでくるみ込む。そこには患者への愛が明確に存在している。彼は変人ではあるかもしれないが精神科医としては間違いなく優秀な人であったのだ。


 あっという間に読み終えた僕は、即座に『どくとるマンボウ青春記』を手に取った。でもそれで、僕は首をひねることになってしまった。

「『青春記』、あまりしっくりこなかったんですよ。『医局記』はすごくおもしろかったのに」

「あー、やっぱり?」

 彼女はどこか納得した表情だ。

「やっぱりって、どういうことですか」

「一般的にマンボウシリーズで一番評価高いのは『青春記』だと思うけど、それはあの作品だけがちょっと特殊だからなのね」

「特殊?」

「『青春記』の全編には、ノスタルジーが漂っているんだよ。あの本は、大人になった作者が大学時代を振り返って『あのころは奇妙で楽しかったよなあ』という視点から描かれている。だからこそ特別で、他にはないオーラをまとうようになったの」

「オーラ」

「そう。でもさ、深冬くんは現在進行形で中学二年生じゃない。大学生活なんて未来の未来でしょ? だからそういうノスタルジーを感じ取ることは絶対にできないわけ。そこが『青春記』に乗り切れなかった理由だと思うな」

「……なるほど」

 司書さんの言うことには不思議と説得力がある。

「まあでも北杜夫の真骨頂はやっぱり小説だよ。小説を読みなよ。楽しめるからさ」

 彼女の言葉に従って、僕はいくつかの作品を読んだ。小説はエッセイとは全然違うシリアスな気配の感じられるものが多く、より切実な欲求から生まれたものという気がした。

「『幽霊』が最高だったんですよ」

「あー、デビュー作」

「あんな少し触れるだけで壊れてしまう脆いガラス細工のような繊細な雰囲気の作品は初めて読みました」

「あれは私、まだ習作の域を出てないと思うけどな」

「そんなことないですって」

「そうかあ。じゃあもう一度読んでみよう」

 彼女は僕が今返却したばかりの『幽霊』を自分の鞄にしまいこむ。

「いいんですか、そんなことして」

「明日には返すよ。それに、どうせ北杜夫なんて借りる生徒、深冬くん以外にいないんだから」

 彼女の口調はどこかつまらなそうだ。

「寂しいですか」

「まあね。でも深冬くんが居てくれたから、少しは満足」

 そんなことを言って司書さんが微笑むから。

 僕は少し顔が熱くなった。


   *


「今日は人が多いですね」

「ねー。なんでかな」

「それは中間テスト前ですから」

 6月の中頃だった。僕はもうほとんど毎日図書室に来るようになっていた。

「だからみんなあんなに必死な目で勉強してるのか」

 明らかに興味のない口振りだ。

「図書室なんかでよく勉強できるよね」

「こんなに勉強に向いた環境もないと思いますが」

「だってすぐそばに大量の本があるんだよ。私だったら絶対に誘惑に負けちゃうな。深冬くんだって、そうじゃないの?」

「……まあ、そのとおりですが」

「だよねー」

 彼女は嬉しそうに手を叩く。

 さすがに生徒に気を使って、僕たちはいつもより声のボリュームを落としている。とはいえ、そもそもこうして図書室のカウンターで会話をしていること自体がよくないし、実際、耳栓をしながら勉強している生徒を見たこともある。

 それでも僕は止められなかった。止める気もなかった。きっとそれは司書さんも同じだ。

「図書室は本を愛でる全ての生徒のためにあるものよ。ただ勉強のためだけに図書館を使うなんて、不純だよ」

「その発言は学校の職員としてはギリギリですよ」

「知らないよお。ふふふ」

 司書さんは不適に笑う。その姿が実に彼女らしかったので、僕も少しだけ笑った。

「ところで深冬くんは勉強しないの?」

「う……」僕は一瞬言葉に詰まる。「してますよ、もちろん」

「嘘じゃないかなあ」

「そんなことないです」

 彼女はじとーっと音が出るほど僕を見つめる。

「楽しい科目だけはがんばって勉強やっておくといいよ」

「楽しいならがんばらなくても勝手にやるんじゃないですか」

「そうでもないよ。やれば楽しめることはわかってるんだけど、大変でもあるから、なんだか手が動かない。そういうことって、多いんだよ」

 なんだか実感がこもっている。

「深冬くんは何の科目が好き?」

「数学ですね。あとは理科も少し」

「あー、やっぱり」

 彼女はこくこく頷いている。

「驚かないんですか」

 意外と言われると思っていたのに。

「深冬くんの本とのつきあい方は、あんまり文系って感じがしないよ。べたべたくっつきすぎるところがないんだ」

「むしろ逆と思ってるんですが」

「まあ自分のことは自分が一番よくわかってないものだから」

「司書さんも、自分がわからなかったりしますか」

「あたりまえだよ。だから、私のことは深冬くんが理解して」

「それは……無理です」

「できるよ。小説を読む人は、いくつもの人間を生きているんだから」

「……がんばります」

 僕の言葉に、司書さんがやわらかく微笑んだ。


   *


「村上春樹を読みなさい」

「いきなりなんですか」

 司書さんはすごく嬉しそうな表情をしている。

「ついに村上春樹の全作品が入荷できたんだよ」

「それはめでたいことなんですか」

「もちろん。村上春樹を入れてなかったなんて、この学校はやっぱり理解が足りないよね」

 僕も名前は知っていたが、それほどのものなのかはよくわからない。

「とりあえず『ノルウェイの森』を貸してあげよう」

「それが一番おもしろいんですか」

「まあとにかく読んでみて」

 彼女が強く進めるので、僕はとりあえず本を受け取る。こういうことはさして珍しくはない。

 緑と赤の表紙が印象的な『ノルウェイの森』は、上下巻のわりにあまり長い話ではなかったので、数日で僕は読み終えることができた。

「読みましたよ、これ」

「どう? オナニーした?」

「ぶほっ」

 僕はしばらく呼吸困難に陥った。

「……なんてこと訊くんですか」

「だってこの学校で合法的に入荷できる数少ないポルノの一つなんだよ。この質問をしなきゃ失礼じゃない」

「わけがわかりません」

「実際、村上春樹と性描写は切っても切り離せないからね」

「それはわかりますけど」

『ノルウェイの森』から性描写を抜いたらスカスカのスポンジのようになるだろう。

「で、したの?」

「してません」

「本当にい?」

「してませんよ」

 彼女はにたにたと笑っている。僕はため息をついて首を振った。やれやれ。

「そんなことよりこの本、全然おもしろくないんですけど」

「そうでしょうね」

「わかってて貸し付けたんですか」

「村上春樹に対するハードルを下げたかったんだ。それに、読んで損になるとも思わないし」

「騙された気持ちでいっぱいです……」

「この作品は作者自身が『100%の恋愛小説です』って言ってるからね。恋愛の経験がない人が楽しむのはちょっと難しいかもしれない」

「司書さんは楽しめたんですか」

「だから無理だったんだよ」

 ということは、彼女に恋愛経験はないのだ。年齢(正確には知らないけれど)を考えると、かなり驚きの事実ではある。

「次は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を読むといいよ」

「それも恋愛小説ですか」

「全然。というか『ノルウェイの森』が異端なのよ。本当の彼の作風が一番わかりやすいのが、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』」

「タイトル長すぎませんか」

「でも省略する気になれないんだよね。いい略称もないし」

「とにかく僕はそれを読めばいいんですか」

「そういうこと」

「これでつまらなかったらたぶんもう村上春樹は読みませんよ」

「いいんじゃない、それで」

 というわけで僕はそのやたら長い題名の作品を読むことになったのだった。


『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は二つの物語が交互に語られる形式の作品だ。

 周囲を高い壁に囲まれ、一角獣の生息する、静かで奇妙な街に住むことになった僕の物語、『世界の終り』。

 暗号の専門家である計算士として仕事をするうちに、世界的な騒動に巻き込まれていく私の物語、『ハードボイルド・ワンダーランド』。

 それらは一見して全く別の話であるけれど、読み進めていくうちに奇妙なリンクを見せるようになる。

 村上春樹の世界観が縦横に溢れている作品であり、全世界で今も読み続けられている、代表作の一つだ。


 そして僕は司書さんと激論を交わすことになった。

「これは結局物語としては同時並行に進んでいるわけではないということでいいんですよね」

「でもそうすると骨が光る場面の説明が付かないじゃない」

「あれはあくまで演出的な効果をねらってのもので、ストーリーとは関係ないと思うんですよ」

「私はそうは思わないな。描写がシンクロしてるのなら、そこには物語としての意味が確実に存在してるはずだよ」

「そう受け取ってしまうとどうしても矛盾が発生します」

「だからやっぱり描かれざる何かが裏に隠されているのよ」

 僕たちは、答えが欲しくて会話しているわけではない。

 もとより小説の読み方など千差万別で、統一された答えなんてあるわけがない。それを僕も彼女もわかっているからこそ、この討論は心地が良かった。

 夏休みをかけて僕は村上春樹の長編作品を全て読み切った。『ねじまき鳥クロニクル』も圧倒的で良かったし、『海辺のカフカ』では三人称による新鮮さも感じられた。けれどやっぱり『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』の衝撃は格別で、僕の中でこの作品は特別な位置を占め続けることになった。そのことを司書さんに伝えると、彼女は「嬉しいなあ。嬉しい」とぴょんぴょん飛び跳ねながら顔をほころばせた。

 嬉しいのはこっちですよ、司書さん。


   *


 二学期も中盤にさしかかった秋の日、僕がいつものように図書室に向かうと、先客がいた。

 高校生らしき生徒が、司書さんと何かを話している。

 二人とも、楽しそうに見えた。

 僕は何か声をかけようとした。でもできなかった。しばらく立ちすくんで様子を眺めた後、僕は小説の棚へと足を進めた。

 いろいろな本を手に取る。けれど、僕はそれらを見ているようで、その実何も見ていなかった。頭がうまく回らない。それは初めての感覚で、僕は明らかに戸惑っていた。

 三十分ほどして受付に戻ると、あの生徒はもう居なかった。司書さんがこちらを見て「あ、深冬くんだー」と手を振る。

「あの……」

 声が少しこわばっていることが自分でわかった。

「さっきの生徒、誰ですか?」

「高二の(あい)(ぞら)くんだよ。知ってるでしょ? ほら、こないだ小説の賞取った。」

「ああ」

 たしか一ヶ月ほど前の全校集会で表彰されていた。高校生限定ではあるものの、わりと有名な賞を取っていたはずだ。

「やっぱり小説書く人って、印象違いますか」

「それはそうだね。やっぱりさ、本読みにとって作者は神様みたいなものだから」

「……そうですか」

「ん、なんか元気ないね」

「そんなことないです」

「あるよー。一緒に保健室行こうか?」

「心配無用ですから」

「そうかなー」

 彼女は疑いの目を向けたので、僕は思わず瞳をそらした。


 (あい)(ぞら)(あおい)

 ペンネームのように見えるけれど、本名だ。モデルのような顔立ちで、所属する硬式テニス部では県大会の上位入賞。成績もトップテンの常連。さらには小説まで書ける。一見して、非の打ち所がない。

 彼が受賞した賞は政府主催のもので、新聞に記事が載っていた。彼は特別賞だった。選評を読むと、小説の基本的な部分が未熟なため正賞はあげられないが世界観が実に魅力的であり捨てるのは惜しかったと書かれていた。作品は全校集会のときに配られていたから、すぐに読むことができた。正直に言って、僕と三つしか年の違わない高校生がこれを書いたというのは信じられなかった。ぶっきらぼうでめちゃくちゃで冷徹で、何より世界を見つめる瞳に破滅的な美しさがあった。

 これは、かなわないかもしれない。

 そう直感的に思った。

 かなわないって、何が?


 それから彼のことを図書室で時々見かけるようになった。彼は決まって司書さんと数十分ほど話をして、最後にいくつかの本を借りて帰った。僕は勉強用の机に座りながら、こっそりその様子を眺めていた。

「深冬くんも一緒におしゃべりしようよ」

 司書さんは平然とそんなことを言う。

「無理ですよ」

「どうして?」

「僕は人づきあいが苦手ですから」

「でも私とは普通に話できてるじゃない」

 それはあなたが特別なんですよ。

「哀空くんの小説、読んだ?」

「読みましたよ」

「どうだった?」

「……すごいなと思いました。荒削りだけど、おもしろかったです」

「うん。私もそう思う。やっぱりあの子、天才だよ」

 その言葉で僕は胃がきゅっと絞まった。

「だってね、あの子全然小説読んでないんだもの」

「え?」

 それは予想外の言葉だった。

「でも哀空さん、いつも本借りてるじゃないですか」

「あれはただ借りてるだけ。全然読まないで返すんだ」

「そんなことわからないでしょう」

「だって本の感想訊いても全然まともな答えが返ってこないんだよ。たぶんあらすじと、最後のオチくらいしか読んでない」

 彼女は首をひねった。

「どうしてあんなことしてるんだろうね」

「どうしてって……」

 その理由に、僕はすぐに思い当たった。

「本当にわからないんですか?」

「うん、全く」

 彼女はきっと嘘を言わない。本当にわかっていないのだ。

 司書さん、おそらく彼は、あなたと話がしたいからそんな真似をしてるんですよ。

「深冬くん、わかるなら教えてよ」

「……さっぱりわかりません」

 目を伏せて、僕は嘘をついた。


   *


 それから一ヶ月して、哀空葵はぱったりと図書室に来なくなった。それは僕にとって安心できることではあったのだが、入れ替わるように不穏が忍び寄っていることに僕はまだ気づいていなかった。

「なあ、深冬」

 僕が弁当を食べながら本を読んでいると、隣の席の生徒が僕に声をかけてきた。滅多にないことだ。僕は思わず箸を落としそうになった。

「な……何?」

「おまえよく図書室行くだろ」

「まあ……」

 別に隠しているわけでもないから、クラスメイトに知られていても不思議ではない。

「あそこの司書って、どうだ?」

「どう、って……」

「いやさ、最近よく聞くんだよ。あの司書はすごい問題児だって」

「問題児?」

 たしかにそれは事実ではある。けれども彼の言う意味はどうやら違っているみたいだった。

「なんか学校の金を使って自分の好きな本を大量に買いあさってるって噂があって」

「えっ」

「他人と会話ばかりしていて全く仕事してないって話も聞いたし、それが本当ならおまえが知ってるんじゃねえかなって思ってさ」

「……」

 僕は言葉を失っていた。

「どうなんだ? やっぱりひでえ司書なのか?」

「……知らない」

 絞り出すように僕は言った。

「知らないってことはねえだろ」

「本当だよ。知らないものは知らないんだ」

「うーん、そうかあ。まあ司書って別にどうでもいい存在だしなあ」

「どうでもよくはない」

「え?」

「……いや、なんでもない」

 僕は弁当のふたを閉じた。もう何も食べる気になれなかった。


「最近さ、私の悪い噂が流れてるらしいんだよね」

 司書さんは平然としていた。

「知ってるんですか」

「呼び出されたからね、教員室に。いろいろ訊かれて面倒だったな」

「それ、まずくないですか」

「別にやましいことはしてないもの。それに噂も完全に荒唐無稽ってわけじゃないし」

「でもあれはデマじゃないですか」

「私の入荷希望する本が偏ってるのは事実だよ。それにこうしてきみとおしゃべりしてる時点でまともに仕事してないって見られてもしかたないよね」

「それは……」

 間違いではなかったので僕は言葉に詰まった。

「ほんとのところ、噂の出所は検討ついてるんだけど」

「えっ」

「ちょっと前にね、告白されたんだ。哀空くんに」

「……ああ」

 そういうことか。

「振り方が良くなかったかなあ」

「そんなにばっさりと振ったんですか」

「『哀空くんみたいに適当に小説を読む人とはつきあえないよ』って言った」

 それは彼にはショックの大きい言葉かもしれない。

「でも司書さんは何も悪くないですよ。悪いのは全部彼の方です。本当にひどい人だ」

「そう? 私、彼にはむしろ愛おしさを感じるな」

「はあ?」

 わけがわからない。

「振られた腹いせに相手の悪口言いふらすなんて、いかにも高校生らしいじゃない。素朴で素直で人間らしいよね」

「怒ってないんですか?」

「どこに怒る要素があるの?」

 彼女は嘘は言わない。強がりも言わない。

 本心から彼女はそう思っているのだ。

「……僕はそんなにものわかり良くないです」

「そうだね。でも、止めた方がいいと思うな」

「何をですか?」

「今きみが考えてること」

 見透かされている。

「……何もしませんよ。何も」

 僕は笑顔を作って言った。

 それが偽物だって、きっと彼女は気づいていただろう。


   *


 高校棟の二階。2ーBの教室。

 こんなところに来るのはもちろん初めてだった。

「あの……」

 近くにいた生徒に声をかける。明らかに中学生である僕を彼は怪訝な目で見下ろした。

「何?」

「哀空さん、居ますか」

「あー、居ると思うけど」

 彼は教室に引っ込む。少しして出てきたのは、まぎれもなく哀空葵だった。

「ああ、きみか」

「僕のこと知ってるんですか」

「いつも図書室にいる子だろ? さすがに名前までは知らないけどさ」

「深冬将馬です」

「ふうん」

 名前に興味はないらしい。

「きみ、俺に話があるんだろ?」

「はい」

「場所を移そう。あんまり人に聞かれたくない内容だからね」

「内容がわかるんですね」

「まあ見当は付くよ」

 彼の振る舞いは堂々としている。予想よりもはるかにまともな態度だった。


 三階の隅に空き部屋があって、僕はそこに案内された。

「ここも完全に隔離されているわけではないけれど、贅沢は言えないからね」

「僕もここで充分です」

「さて、どこまで知ってる?」

「あなたがデマを流しているところまで」

「なるほどね」

 彼は一つ頷く。

「あの司書さんも困った人だなあ。人の告白を軽々しく他人に伝えないでほしいよね」

「そこは同意します」

「君が盲目な人じゃなくて良かったよ」

 彼は爽やかに言う。

「それで俺をどうしたいんだい」

「どうもしません。ただ言いたいことを言うだけです」

 僕は大きく新呼吸して、緊張を紛らわせる。

「どうしてデマなんて流したんですか」

「それは勘違いだよ。俺はただ複数の友人に俺の見た事実を伝えただけだ。広まるうちに尾ひれが付いたようだけれど、それは俺には責任ないよ」

「そうなるってわかっていたくせに」

「ははは」

 認めたような、乾いた笑い。

「正直に言って、彼女を見るのが俺はもう嫌なんだよ。同じ空間にいることすら辛いのさ。だから、彼女にはこの学校を辞めてもらうのが一番いい」

「あなたが辞めればいいでしょう」

「高二のこの時期に学校を辞めて、受け入れ先があると思うかい。彼女なら司書の資格を持ってるんだからどうにか次の就職先も見つかるだろう。リスクが全然違うんだよ」

「……あなたという人は、本当に身勝手だ」

「そうさ。そしてそれが人間というものだ」

「そんなことはない」

「君がどう思おうと知らないよ」

 彼は笑みを絶やさない。

「俺が心から司書さんが好きだったのは間違いのない事実さ。でも、儚い夢だった。君もさっさとあきらめた方がいい」

「は?」

「もしかして、気づいていないのか」

 彼は押さえきれないと言うようにくっくと笑った。

「このままだと君も俺と同じ絶望を味わうことになる。あの人は俺のことも君のことも何とも思っちゃいない。なぜなら彼女は司書なんだ。楽しそうに会話をするのは、彼女にとっては単なる仕事さ」

「そんなことはない」

「きみも本当はもうわかっているんだろう? 認めた方が楽になる。俺は君のためを思って言っているんだ。俺みたいに惨めな思いをしてほしくない」

「どうしてそう、あなたは自己正当化ばかりするんですか」

 僕は一歩前に踏み出す。それは意図した行動ではなかった。衝動が溢れた結果だった。

「あなたは、とても醜い。自分の責任を全部他人に押しつけて、それを何とも思っていない。最低の人間です」

「君にそう思われても俺は全く痛くもないよ」

「残念です。本当に、残念でなりません」

 そして僕は次の言葉を放つ。

「あなたの小説はあんなにも美しかったのに!」

 その言葉を聞いた瞬間。

 哀空の顔色が変わった。

 さっと青ざめ、目が鋭く光った。

「おまえに俺の小説の何がわかる!」

 彼は叫んだ。そして僕に向かって飛びかかった。

「がはっ!」

 僕の首に彼の両手が張り付く。

 すさまじい力だった。

「ぐ……が……」

 息が、できない。

「おまえごときに何かを語れるほど安い小説書いちゃいないんだよ!」

 ますます力が強まって、骨がきしむ音が僕の体を走り抜けた。


 司書さん。

 司書さん。

 これが彼の本性です。

 だから僕も、彼のことが嫌いになれないんです。


「何を騒いどる!」

 教師の叫び声がして、がらりと教室の扉が開いた。


   *


 僕は一週間の停学処分を受けた。

 喧嘩両成敗がこの学校の方針だ。哀空も同様の処分を受けている。

 暴力を振るったのは彼の方で、僕は何もしていない。そう考えれば理不尽な扱いなのかもしれないが、彼に手を出させた非は僕にある。だから処罰には納得していた。

 停学明けの朝、教員室で僕は担任に頭を下げた。

「すみませんでした」

「なあ、深冬。一つ訊きたいんだが」

「はい」

「おまえ、あの司書とデキてたりしないだろうな」

「はあ?」

 僕は思わず素頓狂な声を上げた。

 担任によると、今回の僕の処分に対して最後まで非を唱えたのが司書さんだったらしい。

 何も手を出していない深冬くんが一週間も停学になるのは、絶対に間違っている。せめて処罰に差をつけるべきだ。

 そう言っていつまでも譲らなかったそうだ。

「その結果、彼女は三ヶ月の減給処分を受けたようだ」

「……そうですか」

「あれはちょっと尋常じゃなかった。おまえは彼女と仲が良かったらしいな。本当に、特別な関係になったりはしてないだろうな」

「……そんなこと、ありえません。僕と彼女は、単なる生徒と司書です」

 担任はしばし黙って考えていた。そして「わかった」とだけ言った。


 職員室を出て、僕は廊下の壁に額をつけた。

 司書さんはきっと、僕をかばってくれたんじゃない。

 自分が正しいと思うことをきちんと主張しただけなのだ。


   *


 司書さんが今年限りで学校を辞めると発表されたとき、僕はあまり動揺しなかった。それは頭のどこかで予想していたことだった。

「わりと早い時期から考えてたことではあるんだよね」

 司書さんはあっけらかんとしていた。

「もちろん悪い噂がくすぶってるとか、おしゃべりばかりしてたから勉強したい人にはうるさくて不評だったとか、いろいろ理由はあるんだけど」

「それだけじゃないですよね」

「うん」

 彼女はいつもと変わらない表情をしていた。

「やっぱり私の存在は、この学校には似合わないから」

 それは僕にも痛いほどによくわかった。

「そうですね。司書さんには他にふさわしい職場があると思います」

「深冬くん」

 彼女が急に真顔になり、僕をにらみつける。

「私はものわかりのいい言葉なんて聞きたくないな。本当の言葉を話してよ」

 僕は目を見開いた。

 そうだ。

 これで最後なのだ。

 僕も、言いたいことをきちんと言わなくてはならない。

 彼女のように。

「司書さん、あなたはどこにいたって自由な人です。ルールの中で、束縛の中で、それでも羽ばたいて空を飛べる人です。そんなあなたが、僕は好きでした」

「うん。わかってる」

「司書さん。行かないでください。ずっとここにいて、僕と本の話をしてください」

 それは今まで一度も言わなかった言葉。

 心の奥の奥から、僕を突き動かしていた言葉。

 司書さんがすっと両腕を伸ばす。僕の頭をやさしく掴むと、抱きとめて髪をくしゃくしゃとなでた。

「ごめんねえ」

「謝るなんて、卑怯です」

「そうだね」

 彼女はもう何も言わなかった。

 僕は彼女の体の温もりを感じながら、壊れた機械のように「行かないで」といつまでも繰り返していた。


   *   *   *


 気持ちいいくらいに澄んだ青空だ。

 僕は大学へと向かう坂道をふうふう言いながら歩いていた。

 一応、夏休みではある。だが研究に夏休みなど存在はしない。学会発表も近いのだ。

 とは言ってもここは僕の通う大学ではない。

 用があるのは、大学図書館だった。

 研究のためにどうしても読みたい論文が、ここにしかないのだという。

 自動ドアをくぐると涼しげな空気が僕を出迎えた。生きた心地がよみがえる。椅子に座って一息つくのもいいか。そんなことを考えながら遠目に受付カウンターを眺めて、僕は硬直した。

 セミロングの、薄い茶髪。

 フリルの付いた白い服。

 丸みを帯びた顔の輪郭。

 ……まさか。

 僕はしばし息をするのも忘れていた。

 踏み出す一歩が、少し震えている。

 彼女は下を向いて何か作業をしている。だからカウンターの目前まで来ても、顔の判別は付かなかった。

 僕は大きく息を吸った。

「……あの」

「はい」

 透き通った返事と共に、彼女が顔を上げた。


 用事を済ませ、即座に図書館を出た。

 目的の論文はコピーして鞄に投げ込んだけれど、少なくとも今日は読む気にはなれない。

 空は変わらず青色に澄んでいて、僕はなんだかしっちゃかめっちゃかに殴りつけたくなった。

 これで何度目だろう。

 新しい図書館に行くたびに同じことを繰り返している。

 わかっている。

 わかっているんだ。

 僕がいるこの場所は、都合のいい物語なんかじゃないってこと。

 ありふれた奇跡なんて起こらないってこと。

 それでも。

 僕はこれからもそんな奇跡を追い求め続けていくのだ。

 生き続ける限り、ずっと。


   *


 空を飛んでいた。

 夜の帳に塗れた空はどこまでも広がっていて、遠く遠くに輝く星が実は手を伸ばせば掴むことも可能だった。

「ちょっと速すぎるかな」

 下から司書さんの声がする。

「もっと速くてもいいくらいです」

 僕は司書さんの背中に乗っていて、だから彼女に生えている翼をじっくりと観察することができた。よく見るとそれは無数の本の一枚が組み合わさってできていた。見覚えのある文面も、全く知らない文面もあった。きっとそれは、彼女が人生の中で出会ってきた全ての本たちなのだった。僕は思わず笑ってしまう。彼女の言うことは本当だった。本を浴びるほど読んだ人間には、いつか翼が生えるのだ。

「疲れたよー。どこかで休憩したいな」

「それならあのビルのてっぺんがいいですね」

「りょうかーい!」

 ぐんぐんと加速度を増す。強くしがみつかなければ、すぐに振り落とされてしまうだろう。でも恐怖は全く感じなかった。だって司書さんがすぐそばにいるのだ。

 そのビルはこの界隈で最も背が高く、だから僕たちはきらきら瞬く夜景を存分に見下ろすことができた。

「どう? 道連れにされた気分は」

「なんだかふわふわして、気持ちいいです」

「よかった、よかった」

 満足そうに彼女が揺れる。

「ねえ、最近おもしろかった本って何?」

「ここまで来て本の話ですか」

「だってそれが深冬くんの一番したい話でしょ?」

「それは……」

 僕はしばし思案した。

「そうですね」

「でしょお?」

 司書さんがにかっと笑う。

 その笑顔が、僕はこっそり好きだった。

「深冬くんの好きな本の話、聞きたいな」

「わかりました。司書さんにまた出会うまで、たくさんたくさん本を読んだんです」

 彼女に微笑みかけながら、不意に、わけのわからない悲しみが僕を襲った。それは避けようもないほど強烈で、僕は全身を締め付けられて思わず体を丸めた。両の瞳から涙がつうっとこぼれ落ちた。どうやっても止まらなくて、いつしか僕は声を上げて泣き叫んでいた。


 司書さん、僕、『銀河鉄道の夜』が楽しめるようになったんです。


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― 新着の感想 ―
[良い点]  司書さんと主人公の微妙で繊細な関係がよく表れている。司書のルックスを安易に美人設定にしなかったのも好感。それによって周囲の彼女に対する冷遇が現実味を増していた。 [気になる点]  エンタ…
2014/03/02 09:01 退会済み
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