水晶のまち
水晶でできた棺の中、白い娘は眠っていた。雪のごとき白髪に、抜けるような白磁の肌、ごく繊細な顔立ち。組まれた左右の手が置かれた胸が上下している事から、かろうじて彼女が生きている人間なのだと分かる。
やがてびっしりと白い睫毛に覆われた瞼が震え、薄く血の色の透ける瞳が開かれた。
娘が体を起こすと、棺の中を埋め尽くす作り物の花々が転がり落ち、音を立てて壊れていった。
「お目覚めですか、雪花石膏さま」
どこからともなく現れたのは、燕尾服を着た白塗りの顔の、道化師じみた人間。未だ意識の定まらぬ娘は、ぼんやりと瞬きを繰り返し、無意識のうちにむき出しの腕をさすった。
「さむい……」
「ここは、日の光の届かぬ場所でございますからねえ」
道化師は張り付いた薄笑いを浮かべたまま、優雅に一礼した。
「申し遅れました、わたくしの名はトムティットトット。お館さまが手慰みにお作りになった、しがない自動人形にございます。お気軽にトムとお呼びくだされば幸いです」
自動人形とは思えないほど滑らかな動きで、彼は薄布を取り出した。
「さあ、雪花石膏さま。こちらを」
「とむてぃ……? おやかた、さま……」
ろれつの回らない口ぶりで、言われた事をただ繰り返すだけの娘の裸体に、トムティットトットはふわりと薄布をかけた。
「さあ、雪花石膏さま。お館さまが首を長くしてお待ちです。わたくしの後についていらして下さい」
言われるがまま、娘は水晶の棺から透き通った地面へと脚を下ろした。ひんやりとしたその感触に思わず身をすくめるが、それでも頭の中が明瞭になることはなく、目覚める以前の記憶が蘇える事もなかった。
娘はかつてとある世界で「奇跡の子」と呼ばれ、崇め奉られた存在だった。その世界で神の眷属にしかゆるされないと言われる、清らかな白だけを持って生まれてきた娘。その両親は娘を強く愛すると同時に、不安に駆られた。この世ならざる色と美を纏う娘が、いつか魔に魅入られ攫われてしまうのではないかと。
その予感は不幸にも的中し、白くうつくしい娘は両親の前から永遠に姿を消し、彼らはその生を終えるまでの長い時間、絶えることなく嘆き哀しんだ。
全ては娘のあずかり知らぬ遠い過去。もう二度と蘇える事のない、記憶の断片の世界の話であった。
自動人形に導かれるまま、娘は水晶で出来た森を歩く。太い幹と枝は煙水晶、葉は緑水晶でできた木々は、風もないのにしゃらしゃらと音を立てた。
「とても、寒いわ」
娘は白い肌を粟立たせ、カチカチと奥歯を鳴らし、身を震わせる。
「もう少しでございます。館には、貴女さまの体に合った衣装をたんとご用意してありますので、しばしのご辛抱を」
トムティットトットの言うとおり、屋敷まではそう遠い道のりではなかった。水晶の森はやがて開け、視界に入りきらぬほどの大きな館が姿を現す。
「ようこそ、私の雪花石膏」
顔の上半分を仮面で覆った館主が、娘を出迎えた。
「うつくしい雪花石膏。お前がお前自身の美を保つ限り、私は全力でお前を愛そう」
娘はすぐに己をとりまく環境を享受した。誰からもかしずかれていた元の世界の記憶は全くないにせよ、身の回りの世話をされる事に違和感を感じることはなかった。
雪花石膏は起きているうちの半分の時間を自由に動き回り、残りの半分は与えられた自室で館主のお訪いを待つ。
「トムティットトットをお作りになったのは本当にお館さまなのですか?」
「あれは退屈しのぎに作った、いわば試作品だ。あの頃の私は会話に飢えていて、そのせいか良く口が回る。随分頑丈で、その点では重宝しているのだが」
館主の露わになった口もとが苦笑で歪んだ。
「ちょうほう?」
雪花石膏は不思議そうに首をかしげた。
「あれはあれで役に立つのだ。お前の世話をしたり、他のからくりの修繕をしたり、時には私の話し相手をしたり。おおかたは愚にもつかぬ戯言だが、それでも私の心の慰みになるのだよ」
「お淋しいのですか? お館さまはずっとお一人だったの?」
館主は、雪花石膏の白髪をそっと撫でる。
「かつてはお前と同じく、私の凍えた瞳が愛でた妻達が存在した。青い瞳の勿忘草、素晴らしい声の小夜鳴鳥、燃える赤毛の紅瑪瑙……」
「その方たちは、今どちらに?」
「私の雪花石膏、お前は質問ばかりだね」
館主が、その問いに答えることはなかった。
――御機嫌よう、雪花石膏さま。今日も相変わらずおうつくしい。
ぜんまい仕掛けのカワセミが囀る。
「ありがとう。あなたの青い羽だって、今日も素敵よ」
例外はいるものの、ここに生きている者は存在しない。ぴいぴい囀るカワセミも、飛び交う蝶たちも、滑らかに口の回る自動人形のトムティットトットも。
雪花石膏はこの世界での人生を謳歌していた。ここには、雪花石膏の白く弱い肌を焼き、淡い瞳を突き刺す、太陽の激しい光はない。
己のうつくしさを充分理解している雪花石膏は肌寒さなど構わずに、薄布一枚、時には生まれたままの姿で水晶でできた町を歩き回った。
――雪花石膏さま、どこに行くおつもりです? 向こうにある禁じられた森には醜い魔女が住むと、もっぱらの評判ですよ。
「魔女? まあ、見てみたいわ。もし出会ったらお願いするの。ずうっとこのまま幸せな時間が続きますようにって」
雪花石膏は軽やかな笑い声を立てて、くるりとその場で回り、そのままステップを踏むように足を進めた。
怖い物など何もない。
雪花石膏はこの上なく幸せだった。好きな格好で好きなように外を出歩け、周りのものからは常に賞賛と敬いの眼差しを向けられる。
何よりも、この世界の主である、水晶の館の館主から向けられる優しい愛情が、雪花石膏に大いなる自信を与えた。
雪花石膏のむき出しの白い足は、いつしかうら寂しい町外れへと向かっていった。
煙水晶でできた木々の枝には葉は少なく、足元には砕かれた黄水晶の葉の欠片が散らばっている。
「落ち葉?」
雪花石膏はしゃがみ込んで、水晶のかけらを指ではじこうとした。
「あまり、この森を荒らさないでおくれ」
しわがれた声が背後から掛かり、雪花石膏が振り返るとその先に、しなびた老婆の姿があった。
本来の背の半分程に曲がった腰、伸び放題の灰色の髪。皺くちゃな顔の、垂れ下がった瞼の下の瞳は白く濁っていて、長い間湯浴みもしていないような嫌な臭いが鼻をついた。
雪花石膏は思わずひっと息を呑んだ。
「いや、近寄らないで。なんてあなたは醜いの」
老婆は歯茎をむき出しにして笑いながら言う。
「この婆が醜いとな。ほうほう、確かに婆は醜いのう。娘さん、あんたがお館さまの新しい奥方さまかえ? ほんに、なんとうつくしい事か。その瑞々しい肌! 皺ひとつもない。その長い手足、透き通った瞳、柔らかなくちびる」
老婆は、雪花石膏の容姿を賞賛するたびに一歩一歩迫り、雪花石膏はその都度怯えたように後ずさる。
「全て、以前のわたしが持っていたものだよ、奥方さま。あんたはわたしを醜いと言う。でもね、わたしは、おまえの未来だ」
「何を言っているの? う、うそよ。違うちがう。わたしはあなたみたいに醜くない」
老婆はほっほっと愉快そうに体を揺らした。
「確かにそうだねえ。今のあんたは大層うつくしい。だがどうだい? あんたにとって時は無限ではない。これから何十年先、それこそ無限を生きるお館さまにとっては、瞬きに等しい時間さね。その時あんたは今のうつくしさのままでいられると思うのかい?」
雪花石膏はただ息をのみ、老婆の話を聞くだけだった。
「この婆をご覧よ。骨と皮ばかりのしなびた手足を、この皺だらけの醜い顔を。お前がそうなるのに、あと何年かかるかねえ。ひひっ、怯えているねえ。かつてのわたしもそうだった。いつお館さまから愛想を尽かされるかと、気が気でもなかったよ」
老婆は、今にも鼻と鼻がくっつきそうなくらい、雪花石膏に顔を近づける。
「だから、逃げたのだよ。醜く老いていくわが身が、いつまでも出会った頃のまま変わらないお館さまの隣にいることが、耐えられなかった。その後どうなったかって? 案の定、お館さまは若い娘を、醜いわたしの後釜に据えたのだがねえ」
「いやっ! それ以上近寄らないで!」
雪花石膏は後ろも振り返らず走り出した。
――そんなに急いで、どちらへ?
――雪花石膏さま、雪花石膏さま……
鬱陶しくついて回る、からくり達の声を振り切って、雪花石膏はやっと屋敷にたどり着いた。
「いや、いや。わたしは醜くない、醜くならない。わたしは誰よりもうつくしい、お館さまだってそう言っている」
部屋に篭りながら、呪文のように繰り返した。何度も何度も繰り返し、気分が落ち着いたところで、己の真っ白な腕を透かし見る。
桜貝色の爪、誰よりも白い細い指。そこから続く、しなやかな手首、肘、二の腕。染みひとつ、瑕ひとつ無い腕を見て、雪花石膏は満足げに頷こうとしたのだが。
一瞬の後、手の甲に浮き上がった青黒い静脈と、萎び、骨と皮ばかりに枯れ果てた腕にとってかわる。
「いや、いやあああ!」
雪花石膏は、館主のお訪いを待つと同時に、その場にひれ伏した。
「どうか、どうかお願いです。わたしの時間を止めて下さい。もうこれ以上、わたしには耐えられない」
「落ち着きなさい、雪花石膏。一体何が耐えられないと言うのかね」
館主は問う。
「わたしの時間。有限であるこの時間が耐えられないのです。これ以上老いたくない、醜く老いた姿で、貴方さまの傍にいる未来を考えるだけで、気が狂いそうなのです。醜くなって貴方さまから嫌われるのが怖い、疎まれたくない。ああ、時が過ぎていくのが怖ろしい」
お願いです、と涙ながらに雪花石膏は請うた。
「お館さま。もしも、わたしを少しでも愛しんで下さるのならば、わたしの時を止めて。できるのならば、いつまでもうつくしい今のわたしのままで、貴方さまの心を癒したい」
「それが、お前の愛の形なのだね。私の雪花石膏」
館主の指が雪花石膏の白い頬に触れ、雪花石膏は泣き濡れた赤い瞳で館主をじっと見詰めた後、こくりと肯いた。
――雪花石膏さまが眠りについたそうだよ。
――今回は随分と早い事で。
――もう、何人目になるのだろうね。
――これでまた、お館さまの蒐集物がひとつ増えたね。
館主の部屋には、水晶でできた棺がびっしりと据えられていた。そのひとつひとつに彫られている名前を、館主は白手袋で覆われた指でたんねんに辿る。
孔雀石、瑠璃立羽、小夜鳴鳥、金盞花、黒真珠、紅瑪瑙、そして――。
「皆と同じく、雪花石膏も私を置いて行ってしまった。私はまた一人になってしまったよ。……いや、お前がいるね。愛しい勿忘草」
後ろを振り返ることもなく館主は言う。
「嫌ですよう、お館さま。こんな婆をつかまえて」
現れたのは、腰が曲がった蓬髪の老女。ゆったりとした足取りで館主の元へ歩いてくる。
「お前は、お前だけは何があっても己の時を止めることなく、私の傍にいてくれる。そうだろう? 私のうつくしい勿忘草」
老婆は皺だらけの顔に、苦笑を浮かべた。
「お館さまがかつて愛でたこの眼はもう薄汚く濁ってしまった。ごらんよ、この醜いありさまを。それに、娘をそそのかしたのが、この婆だとしても同じことが言えるのかえ? 我ながら怖いねえ、女の悋気はいくつになっても治まらない」
老婆は己の醜い、ほとんど抜け落ちた歯を見せ付けるように、歯茎をむき出して二イっと笑った。
「それでも、お前が私を思う気持ちはうつくしいと、私は思うよ」
館主は穏やかな笑みを口もとに浮かべた。
「お前がこの世界でたった一人、私のためだけに時を刻みながら生きているのだと思うと、私は孤独を感じる事なく、このただ垂れ流れ落ちるだけの、永遠の時間を過ごす事ができる」
「ほんに、お館さまは罪なお人だよう。そんなんだからいつまで経っても、わたしは未練がましく、このまちを去ることができないのさ、一旦は逃げ出した癖にねえ。このまま朽ちはてて、されこうべになったらどうするおつもりだい?」
「お前はお前のしたいようにするといい。私はいつだってそれを受け入れよう。お前がどんな姿になろうとも、お前がお前のうつくしさを保つ限り、私はお前を愛おしく思うよ、私の勿忘草」
老婆は何も言わずに、館主の傍にそっと寄り添うのだった。