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3章 深淵から覗くモノ
3章 24話 神条奈々(3)
「この子が?」
 部屋に入るなり、恵は響を見てそう言った。突然の来訪者に警戒しているのか、響は壁際に寄っている。
「そうです」
「キミ、名前は?」
「……ひびき」
「響ちゃんかぁ。少し協力してほしい事があるんだけど、いいかな?」
 恵はそう言って、響の答えを待たずに鞄から一つの透明なシートのようなものを取り出した。シールのように表面の皮を捲って、それを響に差し出す。
「これに人差し指を当ててくれないかな。大丈夫。痛くないよ!」
 響が困ったように優を見る。優は安心させる為に笑って頷いた。恐る恐るといった様子で響がそれに触れる。その上から恵が手を優しく添えてシートに押しつけた。一秒ほど触れたところで恵が明るい声で、はい、と宣言する。
「終わったよ。協力ありがとう!」
 恵が透明なシートを大事そうに別の布で包んで鞄にしまうのを眺めながら、優は気になっていたことを訊ねた。
「総基ネットにどうやってアクセスするんですか? 確かe-JAPANプロジェクトの基幹システムですよね。いくらそういった事に詳しい人とかでも無理なんじゃ……」
「そ。総基ネットへの不正アクセスは物理的に不可能になってる。けどね、正規の手順を踏めば簡単なんだよ。当たり前だけどね」
 そう言って恵は悪戯っぽく笑った。
「正規?」
「こういう仕事はね、コネが大事なんだよ。私みたいな可憐な女性にはアクセス権限を持ってる女日照りのお友達が大勢いるの。今回は中身を改竄する訳でもないから、誰も嫌がらないしね」
 今回は、という言葉が気になったが、気付かなかった振りをする。可憐な女性という表現も意識的に無視した。
「なるほど。えっと、それでお礼の方なんですが……こういう事の相場がわからないのでご希望金額を言って頂きたいんですが……一応かなりのお給料をいただいているので、ある程度までは出せるはずです」
 ずっと気になっていた事を言う。思いつきで恵に電話をしたまでは良かったが、相応の対価が優には分からなかった。法外な行為でもある為、見当もつかない。内心ビクビクしながら恵の様子を窺うと、恵はキョトンとしていた顔で優を見て、すぐにクスリと笑った。
「別に私はこれを仕事と思ってないから大丈夫だよ。何て言うのかな、そう、人助け」
「わざわざここまで来ていただいてるんですから、そんな訳には……」
 予想外の言葉に逆に慌てる。恵は困ったような笑みを浮かべて、バツが悪そうに目線を逸らした。
「──私ね、防衛大にいたことがあるの」
「え?」
 突然の言葉に疑問の声が漏れる。恵は目線を逸らしたまま話を続けた。
「二年の夏だったかな。いきなり亡霊が出てきて両親に凄い反対されてさ、結局中退しちゃったけどね」
 でも、と恵は言った。
「でも、奈々は残った。当時はESP能力者なんて見つかってなかったからさ、防衛大に残留するってことは自分で武器を手に取って得体の知れない化け物と戦う覚悟があったってこと。私には、そんな覚悟なかった」
 そこで初めて恵と奈々が同級生であることに気付いた。元々、優と恵は奈々の紹介で知り合ったのだ。随分と深い付き合いだったのだろう。
「奈々だけじゃない。キミも亡霊と戦う事を覚悟した。私は個人的な感情からキミを支援したい。それが、安全な場所でぬくぬくと暮らしている私に唯一できること」
「そんなこと──」
 優がそれを否定しようとした時、恵は横に置いていた鞄を手にとった。そして、子どものように無邪気な笑みを浮かべる。
「じゃあ、お代として一つお願いしようかな」
「はい。僕にできることなら」
 頷く。
「奈々を支えてあげて」
「神条司令を、ですか?」
 予想外のお願いに困惑する。
「そう。奈々はね、昔から他とは違ってた。全てから独立していた」
「独立?」
「そう。集団極性化っていう言葉を知ってるかな。その名前の通り極性化、極端に偏っていくの。例えば異なるスポーツ団体のファンの間での流血沙汰、例えば仮想ゲーム内での仮想国家間による異常な憎悪感情、例えば信仰対象に対する異常な執着と他宗教への異常な攻撃性。リスキーシフトと言うんだけどね、閉鎖的な環境でこれが起こりやすい。一般的にそれがどんなにくだらないことでも、その集団自体が一つの意思を持つように動き始める」
 視界の隅で響が動いたのが見えた。ベッドに潜る様子をチラリと見てから恵に視線を戻す。
「洗脳みたいですね」
「似たようなものかな。多くの政治団体、宗教団体、企業までもがこの状態に陥っている。こういった現象が起こるとね、もう手遅れなの。その集団の持つ思想に反する事は一切許されない。論理的な思考が出来なくなる。論理の上に思想を選ぶんじゃなく、思想の上に論理を選ぶ。思想を強化する材料しか受け入れなくなる。相互に依存しあって、強化しあって、一切の懐疑を許さない。色々な取材をやってるとね、こうした状態に陥っている団体の多さに驚いちゃうよ。自集団の正当性を疑わない人達、逆に自集団を貶す事によって自身を知識人だと勘違いしている連中。誰も、正当な評価を下そうとはしない」
「さっきの神条司令が全てから独立しているとは、神条司令だけは例外ということですか?」
「そ。奈々は本当に頭が良かった。奈々だけは常に正確な評価をくだして、常にそれを再評価していた。防衛大ってね、そもそもがエリートしかいないの。私みたいな、ね」
 そこで恵は笑った。優も困ったように笑みを浮かべる。
「そんな中で奈々だけが飛び抜けてた。全てから独立していた。あそこは女が少なくってね、女ってだけですぐに声をかけられるんだけど、奈々だけは全然声かけられないの。あれだけの容姿なのにさ、凄く話しかけづらい雰囲気でね。ああいうのを孤高っていうんだろうなぁ」
 恵は懐かしむように上を見上げながら、奈々の事を自慢げに話した。それで、恵が奈々の事を本当に尊敬していることがわかった。
「たまに馬鹿が声かけてもね、奈々は波風をたてない程度の言葉でキッパリとそういうのを断り続けた。でね、奈々はよくノイズという言葉を使った。少しでも現実を不明瞭にする要素があれば、奈々は全力でそれを排除した。奈々にとって、そこら辺の男はノイズでしかなかったんだろうね」
 でも、と恵は言った。
「最近会う度にね、奈々は君の事を楽しそうに喋るの。常に自身の思考を懐疑し続けて、更新し続けて、ノイズのキャンセルに心的リソースを注ぐのを惜しまなかった奈々が、君の事を少し盲目的と言えるくらいに評価していた。奈々は、現実を見抜く力に長けている。マスコミ対策のお飾り司令官なんて揶揄されることがあるけど、彼女以上に有能な人間を私は知らない。多分、キミは奈々の言う通りの人柄なんだと思う」
 そこで恵は言葉を切って、じっと優の目を覗きこんだ。
「だからお願い。奈々を支えてあげて」
「……はい」
 真剣な恵の雰囲気に優は静かに頷いた。途端、恵が屈託のない笑みを浮かべる。
「ありがとう。キミならそう言うと思った」
 じゃあ、行くね。そう言って、恵は背を向けた。
「明日か明後日にまた連絡するよ。バイバイ」
「はい。ありがとうございました」
 一度だけ恵がこちらを振り返り、玄関ドアが閉まる。優は恵の言葉を反芻した。
 ──奈々を支えてあげて。
 それがどういう意味なのか、優には良く分からなかった。恵の話を聞いた限りでは、奈々を支える必要が感じられない。それに今の奈々のイメージとは随分違うようだった。奈々が孤高であるとは思えない。クールな印象はあっても、奈々は基本的に優しかった。性格が変わるほどの何かがあったということなのだろうか。
 考え事をしながらベッドに腰かける。既にベッドの中に潜り込んでいた響の頭を撫でながら、集団極性化について思考を巡らせる。亡霊にも集団極性化という現象は起こり得るのだろうか。亡霊の一見整合性を欠く一連の行動は何らかの特性が極端に現れたものなのかもしれない、とぼんやりと思った。
 それから再び奈々の事が頭に浮かぶ。集団極性化が起きるのは、多分精神的に楽だからだろうと思う。絶対的な何かがあるのは、それだけで心の拠り所になる。正しいとか悪いとかではなく、楽なのだ。そして全てを懐疑し続けるのは膨大なリソースを必要とする。リソースの節約と心の拠り所。しかし、奈々はそれを拒絶した。何故、奈々はノイズをキャンセルする事に固執したのだろうか。わからない。ただ、ノイズの先に待つものを見たかっただけなのかもしれない。それとも、奈々はその先に待つものを既に見たのだろうか。
 ──奈々は全てから独立していた。
 恵の言葉を思い出して、優は身震いした。奈々は何も見なかったのかもしれない。そこに、奈々以外は何も存在しなかったのかもしれない。
 支えてあげて。恵の言葉が、今の優には計り知れない重みを持った言葉のように思えた。そして、ふと思う。自分が死を恐れるように、奈々は何年もの間、敗北の恐怖に耐え続けてきたのだ。戦術的敗北が戦略的敗北に直結するこの戦争で、最高司令官である奈々はたった一人で全てを運用してきた。奈々もまた、優と同様に高度化していく亡霊の戦術に脅威を感じている筈だ。あるいは、優よりも遥か上のレベルでそれを直に感じているのだと思う。そう思うと亡霊に対する恐怖感が薄れていった。自分の死よりも、奈々の抱える不安を少しでも和らげたいと思った。恵の言っていた意味が少しわかった気がする。
 桜井優は自分の右手から溢れるESPエネルギーをじっと見つめ、強くそれを握った。


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