3章 深淵から覗くモノ
3章 14話 佐藤詩織(4)
「響ちゃんを預かる?」
ミーティングを終え、中枢エリアから寮棟に繋がる通路を渡る際、優が話した響の今後の処遇を聞いて、華と詩織は声を揃えて驚いたように訊ね返した。舞はお腹が減ったと言って、優たちとは別行動をとっている為、この場には既にいない。
「うん。でも、二週間だけで良いんだって。秋山さんが何か良い方法考えてるみたい」
「それ、いつからの予定なんですか?」
詩織が疑問を重ねる。
「明日からだって」
「えー!」
またもや声を揃えて驚く二人を見て、優は笑みをこぼした。
「響ちゃんの衣類とかどうするの?」
「日用品とかは秋山さんが用意してくれるらしいから多分大丈夫」
話しているうちにセキュリティゲートの前に辿りついた。優が代表してセキュリティカードを通す。ゲートが静かに開き、三人は寮棟に足を踏み入れた。ゲートの近くにいた第一小隊の少女に手を振って軽く挨拶し、そのまま廊下を進む。
「ね、響ちゃんが来たら私も桜井君の部屋にお邪魔していいかな? 多分、桜井君だけだと色々大変だと思うから」
華が良い事を考えた、というように笑みを浮かべて提案する。それを聞いて、詩織も目を輝かせた。
「もしお邪魔でなければ、私も伺いたいです」
「んー、じゃあお願いしようかな。助かるよ」
優は笑って、二人の提案を受け入れた。詩織が安心したような表情を浮かべる。
その時、ちょうど華の部屋前につき、優たちは華と別れた。そのまま詩織と肩を並べ、詩織の部屋に向かう。しかし、不意に詩織が足を止めた。優も足を止めて振り返る。詩織は迷うように目を泳がせてから、意を決したように口を開いた。
「あ、あのっ、この後お時間ありますか?」
そう言って不安げに俯く詩織に優は優しく笑いかけた。
「今日は何も予定ないから大丈夫だよ。どうしたの?」
「えっと、勉強を見ていただきたくて……」
思わぬ言葉に優は一瞬怪訝な顔をしたが、すぐに詩織がまだ中学生であることを思い出して納得した。学校へは通っていないはずだが、優と同様に自習を進めているのだろう。もしかしたら、高校受験だけでもするつもりなのかもしれない。
「あんまり自信ないけど、それでいいなら」
「是非お願いします!」
詩織が本当に嬉しそうな表情を浮かべる。再び歩を進める詩織の後を追いながら、優は自分が中学三年生の時だった時の記憶を思い起こそうとした。しかし、過去の記憶は靄がかかったように曖昧なもので、詳しい事は何も思い出せない。軽い眩暈を感じ、優は思考を振り払った。
「ここです」
すぐに詩織の部屋の前に辿りつく。詩織が鍵を回してドアを開けると中からふわりと甘い香りがした。お香の類だろうか。
「どうぞ」
詩織に促され、暗い玄関に進む。後ろから続いた詩織がスイッチに触れて明かりをつけた。寮に共通する短い廊下が目に入る。背後でドアが閉まる音がして、優は急いで靴を脱いだ。
「おじゃまします」
「はい」
後ろで詩織がクスりと笑った気配がした。
詩織が優の横をすり抜け、廊下の奥にある白いドアを開ける。詩織の後に続いて中に入ると落ちついた雰囲気の部屋が目に入った。床にはライトブルーのカーペット。中央に小さな丸いテーブルが置かれ、奥に薄型テレとDVDデッキ。隣にはDVDケース、小さな本棚と引き出しが並んでいる。
「適当に休んでてください。飲み物もってきます」
詩織が廊下に設置されたキッチンの方に進んでいく。優は言われた通りに小さな丸いテーブルの前に腰をおろした。本棚に視線をやると、いくつかの少女漫画が目に入った。確か、映画化もされた有名なものだ。
「お待たせしました」
本棚をぼんやりと見つめていた間に、詩織がトレイにオレンジジュースの入ったコップを乗せて、優の顔を覗きこんだ。不意をつかれ、一瞬身体がビクリと震える。詩織はくすりと笑みをこぼして、ジュースをテーブルの上に差し出した。
「あの漫画、知ってるんですか?」
詩織が優の目線の先を見て、小首を可愛らしく傾げる。優は「いや」と答えようとして、それとは逆の言葉を口にした。
「昔、見た事があるよ」
言ってから、優は自分の言葉に驚いた。不明瞭な記憶が突然はっきりとしたものになり、ストーリーが頭の中に浮かぶ。突然入りこんできた莫大な情報量に鋭い頭痛が走った。しかし、詩織は優の様子に気づかず、嬉しそうに話し始める。
「凄く面白いですよね。少し古いですけど、あれ以上のお話を読んだ事がないです」
少し古い。詩織の言葉に強烈な違和感を覚える。あれは、優の記憶では比較的新しいものだったはずだ。再び眩暈を感じ、頭がふらりと傾く。しかし、優は強い意志の力でそれを辛うじて抑えつけた。そして笑顔を浮かべ、簡単な同意の言葉を放つ。優がそれ以上その少女漫画について話を広げる気がないことに気付いた詩織は素早く話題を勉強のことに修正した。
「えっと、教えていただきたいのはここなんですけれど……」
詩織がノートと参考書をテーブルの上に広げる。優はぼんやりとする頭を必死に動かし、参考書に目を通した。
「ここは──」
考えるのが酷く億劫だった。しかし、詩織に心配をかけさせまいと無理矢理平静を装う。掴みどころのない記憶の海から数学の知識を拾い出して、ノートにそれを出力していく。
「あー。そこ、今まで無駄な計算してました」
「ここは少し慣れれば随分と楽になるから、ひたすら反復練習だね」
暫くそうして教え続けると、気分が大分ましになった。貧血の類だったのかもしれない。
そのまま一時間ほど経ち、どちらともなく休憩を入れようという話になり、詩織はペンをテーブルに置いた。小さく背伸びして、凝り固まった筋肉をほぐす。
「はぁ。こんなに集中して勉強できたの久しぶりです。桜井さんが教えるの上手くて助かりました」
「昔、教師を目指してたことがあるんだよ」
詩織が少し驚いた顔をする。そして、すぐに複雑そうな顔になった。特殊戦術中隊に入った以上、教師になることが叶わない事に気付いたのだろう。それを見て、優は慌てて付け加えた。
「と言っても幼稚園くらいの話だけどね。目指してたというよりも夢って感じかな。漠然となりたいなぁ、って」
「そうなんですか。桜井さんみたいな先生に会えてたら、私もっと勉強が好きになれてたかもしれません」
詩織が少し安心した表情を見せる。優は手のつけていなかったジュースに手をのばし、一口飲んでから、気になっていた疑問を口にした。
「詩織ちゃんは高校受験するつもりなの?」
「はい。合格しても通う気はありませんが、昔から入りたかった高校を受けてみたいんです」
それを聞いて優は微笑んだ。特殊戦術中隊の15歳組は例年、通う気はなくても受験だけする人が多いという。それは手の届かなくなった世界への未練なのだろうか。それとも、一種の清算といえるものなのかもしれない。
「そういえば、桜井さんってどこの高校に通っていたんですか?」
「えっと、花公院って知ってるかな」
そう言うと、詩織は驚いた顔を浮かべた。そして、神妙な顔をする。
「花公院って、誰か他にも入学してた人がいませんでしたっけ?」
予期せぬ言葉に優は目を丸くした。
「他にもって、特殊戦術中隊に? 知り合いはいないはずだけど……」
「誰か、有名な人がいた気がするんです。ちょっと名前は思い出せませんが」
詩織はそう言って記憶を掘り起こそうとするかのように頭を抱えながら唸った。優も記憶を手繰り寄せてみるも、それらしい人物は思い出せない。それどころか、短かった高校生活の記憶が全く思い出せなかった。どうも、自分が思う以上に記憶力が悪いらしい。優は記憶を手繰る作業を放棄し、早々に話を打ち切った。
「多分、勘違いじゃないかな」
「そう、かもしれません」
詩織が自信なさげに笑う。
「あ、結構休憩しちゃったね。そろそろ再開しようか」
「はい」
再び参考書をめくり始める詩織を見つめながら、優は静かに花公院での生活を思い出そうとしたが、遂に最後までそれが思い出されることはなかった。
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