「司令、凛ちゃんから、訓練許可の申請が来てます」
加奈の言葉に、奈々はディスプレイから視線を外し、加奈の差し出した一枚の書類を受け取った。
「飛行訓練?」
「ええ。機動力に問題を感じているらしいです。熱心ですよね」
奈々はじっと書類を眺めた。自主訓練の届けを凛から受けるのは珍しい事ではない。むしろ、日常的なことだった。
「最近、更に増えてるわね」
「そうですね。優君の存在が良い刺激になってるんじゃないでしょうか」
奈々は考える素振りを見せて、小さくため息をついた。
「あの子を見ていると、昔の私を思い出す」
加奈が不思議そうな顔を浮かべる。
「昔の司令、ですか?」
「ええ。凛はあまりにも真っ直ぐすぎて、悲しいまでに現実的すぎる。それが、たまに怖い」
「怖い……」
「そう。現実は一つではない。抽象的な意味ではなく、人は四歳になれば仮想的な世界を作る。『いま、ここ』を離れ、表象世界を生きていく。そうやって、人の心を理解していく。それはとても重要なこと。でも、私たちは代わりに現実を見失っていく。二重化していく不条理な世界に、あの子は対応できていないんじゃないかしら」
かつて、感情を殺して最大限の効率を求めることが強く生きる事だと思った。それは、結果的に一つの世界を壊した。奈々はまだ若く、ノイズの先に待つ『真の現実』のみしか見えていなかった。現実が投影されたもう一つの現実が見えていなかった。見ようとしなかった。
「あの子は聡い。そして、まだ幼い。アンバランス過ぎるのよ。私と同じ失敗を繰り返して欲しくない」
「司令……まだあのことを気にしてるんですか?」
加奈の声が僅かに震える。奈々は加奈の顔を直視できなくて、ディスプレイに無意味な視線を向けた。
「忘れてはいけないのよ。それが、二重化した世界を生きるということ。どちらも、決して忘れてはいけない」
思春期を迎えた子どもには、ふと懐疑的になる時期がある。
何故、勉強しなければならないのか。何故、大人のいうことを聞かなければならないのか。何故、人を殺してはいけないのか。
でも、それに対する答えを出すには、あまりにも知識が乏しく、社会への不信感がたまっていく。反抗期。
しかし、凛は違う。凛は恐らくシステムが形成されていく過程を正しく理解している。彼女には、それだけの知恵と知識がある。
普遍的な思春期の課題を容易に退けた彼女は、その奥に聳え立つ更なる壁を見てしまったのではないか。そう、奈々は危惧した。
かつての自分と同じように。二重化していく世界に、剥離していく現実に、隔絶される感覚に怯えているのではないか。
故に、ノイズを消そうとする。無視しようとする。幼年期に置き忘れた真の現実を取り戻すために――
しかし、ノイズと現実の違いを正しく理解していなければ、その先に待つのは現実の崩壊だ。
『桜井優を中隊長に就かせるべきです。先日の闘いで、システムの脆弱性がはっきりしました』
ふと、以前に凛に言われた言葉が脳裏に蘇る。迷いのない真っ直ぐな瞳。綺麗だった。
それを思い出して、凛と昔の自分は違うな、と考え直す。凛は、一人ではない。明確に桜井優を求めている。
羨ましいな、とふと思った。自分の学生時代には、そうした存在がいなかった。凛は恵まれている。
胸の奥で、チクリと何かが痛んだ。奈々はいつの間にかスクリンセーバーに変わったディスプレイを意味もなく見つめ続けた。
◇◆◇
「……疲れたぁ」
ぐったりとした様子の優が呟く。ビリヤードが終わった後、女性陣の買い物に散々振り回され、肉体的にも精神的にもボロボロだった。
「さて、夕食はどうする?」
まだまだ元気な舞が、疲弊しきった優を無視して残りのメンバーに問いかけた。
既に陽は落ちて、人工的な光が街を満たしている。時刻は十九持をまわっていた。
「私は中華が食べたい気分」
京子が我先にと希望を言う。しかし、華がそれに不満を漏らした。
「やだよ。京子の言う中華ってラーメン屋でしょう? 今、無駄に値段高いし、それだったら私は洋食が良いな」
「……お寿司」
愛がそれに続く。舞が詩織に視線を向けると、詩織は慌てたように優を見た。
「わ、私は何でもいいです。桜井さんは?」
視線のバトンリレーを受けた優は、投げやりに答えた。
「休めるならどこでも」
「じゃあ、中華で決定ね」
「絶対やだ!」
「……中間をとってお寿司」
「なんの中間!?」
わいわいと不毛なやり取りを続ける女性陣を眺め、とりあえず休憩したい、と優は呟いた。
視線を辺りの街並みに向ける。居酒屋、スナックが目に入るが、このメンバーではどれも適さない。
優はそのまま人混みをぼんやりと眺めた。楽しそうに笑う人々。賑やかな空気。平和な風景。その中に、優は小さな違和感を覚えた。異質な何かを感じ、無意識に足を踏み出す。
横断歩道の中に、チラりと白い何かが見えた。視線が釘付けになる。人混みの中に隠れ、フラフラと歩くそれが視界にはっきりと映った時、優は弾かれたように地を蹴った。
◇◆◇
「じゃあイタリア料理とかは?」
「この辺りにあったっけ? そういう食材が値上がってから殆ど潰れてるような気がする」
舞の提案に、京子が疑問を投げた時、華の視界の端で優が動いた。
「桜井君……?」
何かに見入られたかのように人混みの中を見つめながら、ふらりと足を進める優を華は不思議そうに見つめた。
不意に、優が駆け始めた。驚いて名を叫ぶ。
「さ、桜井くん?」
華の声で、舞と京子も優の異変に気付いた。
「桜井?」
「ユウくん?」
すぐに京子が後を追う。華、舞愛、詩織が遅れて続く。
「いきなり何を――」
京子の疑問は、開けた人混みの先を見て解消された。
割れた人混みの向こうにいたのは、汚れた白いワンピースを着た幼い少女。それを正面から抱き締める優。
華の目が大きく見開かれる。優に抱かれた少女は明らかに衰弱していた。しかも裸足で靴を履いていない。
それで、華は少女の身の上を容易に理解した。しかし、今はそんな事は気にならなかった。
少女を抱き締めて、じっと目を瞑る優の横顔が聖母のように慈悲に満ち溢れていて、ただその光景に見入った。
――救世主。
その単語が、頭の中に自然と浮かんだ。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。