詩織の変化は誰の目にも明らかだった。
機動ヘリから本部のヘリポートに降りる際、彼女は優に極自然に肩を貸したのだ。そんな事は今まで一度もなく、優よりは詩織の傷の方が酷い状態だったのだから、その光景を眺めていた奈々は思わず二人の姿を見つめてしまった。
優もはじめはキョトンとした様子だったが、素直に体重を預けた。純粋に嬉しかったのだろう。
二人の様子を眺めながら、奈々は頬を緩めた。詩織の男性恐怖症は治るものではないと思い込んでいたが、どうやら違ったらしい。
「全く、予想できない事ばかりやってくれる」
自然と言葉が漏れた。
入隊して一カ月のうちに奈々の常識を粉々にした桜井優が次に何を起こすのか、楽しみだった。
二人から視線を外すと、複雑そうな表情を浮かべる華の姿が視界に入った。舞はそれをからかって面白がっている。
女だらけの状況だった為に忘れがちだったが、年頃の少女たちにとっても、何らかの変化が訪れるかもしれない。
奈々は遠くから少女たちの姿を見守りながら、楽しそうな笑みを浮かべた。
◇◆◇
詩織は白い扉をノックした。暫く待ってみるも、返事はない。ドアノブに手を延ばす。
詩織は静かに扉を開けた。薬の臭いが鼻をつく。
すぐに優の姿が目についた。白いベッドで寝息を立てている。
詩織は起こさないようにゆっくるとベッドに近づいた。持参した果物をそばに置く。
綺麗な寝顔だった。ふと、上半身が裸であることに気付き、小さく赤面する。幸い、毛布があるので、目のやり場に困ることはなかった。
やることもないので、来客用の椅子に座る。
詩織は窓へ視線を向けた。開放的な大きな窓には、澄んだ青空がうつっている。詩織は目を瞑り、戦いとは離れた、静かな日常に身を委ねた。
こんなに安らいだ気持ちになったのはいつ以来だろう、と思う。そばに優がいるだけで、詩織は安心することができた。
以前は男、というだけで兄の姿が頭に浮かんだ。この人もアレと同じように私を傷つけるんじゃないか、と思った。
それは無意識レベルのもので、抑えようとしても何とかなるものではなかった。
だが、詩織は優に絶対的な守護を感じた。きっと、この人は私を傷つけない。きっと、私を守ってくれる。あの、翡翠の翼とともに現れた小さな背中を見た時、そう、根拠もなく信じられた。
「…っん……」
優が寝返りを打った。毛布がずれて、優の上半身が露になる。
詩織は息を呑んだ。優の体には無数の傷があった。新しい傷ではない。とても古い傷が全身に広がっている。火傷のようなものが一番多かった。まるで、煙草を押しつけられたかのような痕跡。
医療用ナノマシンによって、自然治癒が働いている箇所は既に回復している。と言うことは、この傷は特殊戦術中隊に入る以前に出来たものと推測できる。
詩織は優を見た。まだ幼い、天使のよう寝顔を見て、詩織は胸が熱くなるのを感じた。
「桜井さん……」
自然と震えた声が出た。
何があったのかは分からない。しかし、きっと優は周りが期待するような、強い人ではない。優は、本来守られるべき存在だと確信する。そして、詩織は何故優をすんなりと受け入れられたのかわかった気がした。
――私と似ているんだ。
詩織はそっと幼い少年の前髪を撫でた。
「んっ……」
優がゆっくりと目を開ける。
「気分はいかがですか?」
「……っ佐藤さん?」
優が驚いたように声をあげる。
「意外そうな反応、ですね」
「いやっ、そういう意味じゃなくて……でも、何でっ?」
優が混乱したような声をあげる。詩織はその様子を見て頬を緩めた。
「騒ぐと体に障りますよ」
詩織の注意で、優が幾分かの落ち着きを取り戻す。
「でも……大丈夫なの……?」
遠慮がちに優がたずねる。何が言いたいかすぐに理解して詩織は、はっきりと頷いた。
「はい。もう大丈夫です」
「……そっか」
優が安心したようにそう答えた時、ノックの音が鳴った。
優が返事する間もなく扉が開く。
出てきたのは体格の良い男だった。自衛軍の制服を着ていて、中将の階級章がある。詩織は男が上官であることに気付いて、すぐに椅子から立ち上がり、頭を下げた。
男は白色が混じる無精髭を撫でて、怪我はどうだ、と口を開く。
「もう大丈夫です。あの、どなた、ですか?」
優の困惑した声。
「中部方面隊総監の、上田だ」
上田中将はそう言ってから詩織の譲った椅子に腰かけた。詩織は恐縮したように一礼して、壁際に寄る。
「さて、疲れてるだろうが、少しききたいことがある。良いかな?」
「はい」
優の返事に上田中将は満足そうに頷いた。
「君がESP能力者と接触した、と聞いた。それは間違いないね?」
詩織が戸惑ったように優を見る。優は詩織の視線に気付かなかったようで、ゆっくりと頷いた。
「はい」
「ESP能力者の名前は分かるかな?」
「いいえ」
そうか、と呟いて、上田は一枚の写真を取り出した。
「君が接触したのは、この女の子かい?」
詩織の位置からは写真が見えなかった。しかし、優が頷くのは見えた。
「はい。間違いありません」
「この子と何を話した? つまり、彼女の行方の手がかりとなるようなことは――」
「何も話していません」
「どんな小さなことでも何か手がかりに繋がるかもしれない。話した内容を全て教えてくれないかな?」
「話していません。何も、です。急な戦闘で、話せる雰囲気ではありませんでした」
優が繰り返す。それに対して、上田中将は粘り強く質問を重ねた。
「じゃあ、何故襲われたのかも分からずに戦闘を?」
「はい。正当防衛でした。拘束状態から逃げる時も相手の不意をついたので、本当に話す機会はありませんでした」
詩織は気付いた。これは尋問だ。優は何かを疑われている。
「そうそう、その逃げる時に君は無数のESPエネルギーを全包囲に放ったね? それが軍の持つESPエネルギーの探知手段を結果的に無力化してしまったんだよ。君はこれを予想したかい?」
優が黙る。上田中将は口調こそ子どもを諭すような優しさを保っていたが、目は笑っていなかった。
「それについては謝罪します。しかし、ESP能力者もESPエネルギーを感知することが可能です。追撃を避ける為に、撹乱手段は必要不可欠でした」
「ふむ。では、その行為が軍のESPエネルギー探知能力をも撹乱することは予想できたんだね?」
答えをはぐらかした優に対して、上田中将が質問を繰り返す。
詩織には一連のやりとりの意味が分からなかった。一体、中将はどういう答えを求めているのだろう。上田中将は優の責任を問いたいのだろうか?
「はい。予想はしました」
「では、少し待てば軍が支援行動を取る、とも予想できた訳だ。君が気絶して拘束された時点で、相手は君に殺意を持っていない、と判断できる。しかし、君は待機しようとはしなかった。何故だ?」
上田中将の言葉に、明確な批判の色が滲み始める。
詩織は扉に目をやった。出ていくべきか考える。しかし、どのタイミングで出ていけばいいのか分からなかった。
「僕、いえ、私が遠方から強いESPエネルギーを感知したからです。同僚が苦戦しているのを感じ、軍の支援を期待している余裕がないと判断しました」
中将は何かを考えるかのように黙りこんだ。部屋に沈黙がおちる。
詩織は居心地の悪さに目を伏せた。優も、緊張した様子で中将を見ている。
「そうか」
不意に、上田中将が立ち上がった。
「療養中のところ、悪かったね。参考になったよ」
そう言って、扉に歩を進める。しかし、詩織が安堵の息を吐いた瞬間、中将の足が止まった。
「最後に。君は、何だ?」
詩織は質問の意味が分からず、首を傾けた。反対に、優は質問から何かの意図を読み取ったように、真剣な顔で答えた。
「特殊戦術中隊に所属する一兵士です」
上田中将は何も言わず、扉を開けた。上田中将の姿が消え、扉が静かに閉まる。
詩織は優を見た。優も詩織を見ていた。優が苦笑する。
「何だったんだろうね?」
詩織は答えに困って何も言えなかった。優もそれを感じたのか、話を続けようとはせず、ベッドに全体重を預けた。
そしてすぐ、何かに気付いたように跳ね起きる。
「あーっ! そういえば、買ってきた本とか全部忘れたっ!」
思わず、詩織は小さく笑みをこぼした。優との会話で笑ったのは、これが初めてだった。
「あ、そうだ。前に桜井さんが言ってたルーライズのプリン買ってきました」
「覚えてくれてたんだ」
「はい。あそこ凄いですね。プリン以外にも――」
医務室に笑い声が響く。
二人の間に以前のようなぎくしゃくした雰囲気はなかった。
その日、少女は生涯で見れば小さな、けれども本人にとっては大きな、かけがえのない一歩を踏み出した。
そして、停滞していた世界中の時計が動き出す。亡霊が現れて八年。永遠に続くかと思われた不毛な闘いは、この時新たな局面に突入しようとしていた。
亡霊が、軍が、亡霊対策室が、そしてESP能力者――ハーフ達が、それぞれの思惑を抱いて動き出す。
世界は徐々に、だが確実に変わり始めていた。
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