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5章 2つの覇道
5章 8話 広瀬理沙(7)
「……京子?」
 小さく、華が呟く。
 それに反応するようにベッドの上で京子が小さく身じろぎした。
 華は暫くベッドの上の京子を見て動きを止めた後、ゆっくりと優の方へ振り返った。
「ご、ごめん……わ、私、邪魔だよね」
 今にも泣きそうな笑みを浮かべて、華が言う。優は慌てて、華の手を取った。
「待って! 京子はただ看病してくれる為に泊っただけだから!」
 華は何も言わず、ベッドに視線を戻す。優は小さく息をついて、華の視線を追うように京子に視線を移した。
「京子。起きて」
 呼びかけるも、京子は目を覚まそうとはしない。どうやら、深く寝入っているらしい。
 優は京子を起こす事を諦めて、再び華に視線を戻した。
「……朝ごはん、作りに来たんだよね。少し待ってて」
 そう言って、浸けていた食器類を手早く荒い始める。華は何度か優と京子を交互に見つめた後、結局無言で優の隣に佇んだ。それを見た優は小さく笑みを浮かべて、本当に何もなかったから、と口を開いた。
「ご、ごめんね。その、へ、変な勘違いしちゃって……」
 華がおずおずと言う。優の落ちついた態度に釣られたのか、華も次第に冷静さを取り戻したようだった。
 優は食器を洗いながら振り返って、困ったような表情を浮かべた。
「……うん。仕方ないよ」
 そう言って、ベッドで眠る京子に視線を向ける。規則的な寝息がキッチンまで聞こえた。ぐっすりと熟睡しているらしい。
 視線を戻し、再び無言で食器を洗う。
 全ての食器を洗い終わり、水を切った後、優は一歩後ろに下がった。
「待たせちゃってごめん。空いたよ」
 華は戸惑った様子を見せながらも、おろおろとキッチンに一歩踏み出す。優はそれを確認してから、京子が眠るベッドに向かった。
「京子。起きて」
 強く揺すると、ようやく京子は眠たそうに瞼を開けた。
「……んー……今、何時ぃ?」
「九時半。起きて」
 再び強く揺する。京子はぼんやりとした様子でのそのそと上半身を起こした後、キッチンに目を向けて小さく首を傾げた。
「あれ? ……華?」
「……おはよう」
 少し間をおいて、華が口を開く。対して京子は大きく欠伸しながら、おはよう、と特に気にした風もなく言った。それを見た華が微かに安堵した表情を浮かべる。
「京子、泊ってたんだ」
「うん、桜井、体調悪そうだったから。華はどうしたの?」
 目を擦りながら、京子が言う。
「……私は、朝ごはん一緒に食べようと思って」
「ふーん。私はもうちょっと寝てる」
 興味なさそうにベッドに倒れこむ京子を見て華が慌てたように一歩踏み出す。
「きょ、京子も朝ごはん食べる?」
「後でー」
「……うん、じゃあ、京子の分も作っておくね」
 華はそう言って、ゆっくりと準備にとりかかった。
 優はベッドのわきに立ったまま華の様子を眺めた後、チラリと京子を一瞥して、とりあえず大きな誤解を受けなかった事に安堵の息をついた。

「できたよ」
 華が出来上がった朝食を部屋に運んでくる。それを察知した京子がベッドからもぞもぞと起き上がり、大きく欠伸した。
「んー、良い匂い」
 京子が僅かに眠たそうな様子を残したまま席につく。華と京子が向かい合う形で座った為、優はその間の一辺に腰をおろした。
「いただきまーす」
 軽く両手を合わせた後、京子が食べ始める。優もそれに続く形で、いただきます、と小さく口にした。
 暫くの間、三人は無言のまま食事を続けた。華はどこか元気がなく、京子も眠たそうに食べるだけで、優も無理に沈黙を破ろうとはしなかった。
 そのまま三分程沈黙が続いた時、不意に華が伏せていた顔をあげた。
「ね、ねえ。京子が看病しに来たって事は、桜井くん体調悪かったんだよね? 風邪ひいたの?」
「少しふらっとして軽く倒れちゃって。貧血かな。ずっと入院してたから、体力さがってるみたい」
「そ、そうなんだ。じゃ、じゃあ、また倒れちゃうかもしれないし、今日は私が一緒にいるよっ」
 華が一気に捲し立てる。優は何度か目を瞬いた後、小さく笑った。
「ありがと。でも、もう大丈夫だよ」
「で、でも――」
 華が言葉を続けようとした途端、今まで黙っていた京子がどうでも良さそうな声色で横から口を挟んだ。
「……桜井が大丈夫って言ってるんだから、大丈夫なんじゃない? 昨日のはただの貧血でしょ。そんな大袈裟に心配する必要ないって」
「そ、そうかな」
 華がしゅんと顔を伏せる。京子はそれを一瞥してから、箸をおいた。
「ごちそうさま。ごめん、まだ眠いから部屋に戻ってる」
 そう言って立ち上がる京子を見て、華が慌てたように口を開く。
「え、あ、うん。じゃあね」
「じゃ、また六時に」
 欠伸をしながら、京子が部屋から出て行く。その後ろ姿を見て、優は思い出したように声をかけた。
「昨夜は心配してくれてありがと。またね」
 その言葉に京子がちらりと振り返り、ひらひらと手を振る。すぐに姿が見えなくなり、ドアの開く音と閉じる音が響いた。
 部屋に微かな沈黙が落ちた後、優は黙って食事は再開した。同様に、華もおずおずと食事を始める。優はチラリとその様子を見て、極力普段と変わらない様子で話しかけた。
「今年も今日で終わりだね」
「……うん」
「初詣、良かったら一緒に行かない? 愛ちゃんたちも誘って」
「……うん」
 どこかうわの空で、華が小さく頷く。優は困ったような笑みを浮かべ、僅かに視線を外した。
「あまり乗り気じゃないかな?」
「え? あ、ごめんね、少し、ぼうっとしてて」
 華が慌てたように両手を顔の前で振る。優は少し考え込む素振りを見せた後、何も言わず残り少ない食器の中身を口に運んだ。
「ごちそうさま」
 お箸を置いて、軽く手を合わせる。それを見た華も慌てたように残り少ない朝食を食べ始める。その姿を見て、優はクスりと笑った。
「そんなに急がなくても大丈夫だよ」
「う、うん」
 華は頷きながらも、一向にペースを落とそうはしない。優は苦笑を零して、華の食べる様子を微笑ましく眺めた。
 すぐに華が残りを食べ終える。無理に詰め込んだ為か、華の頬はハムスターのように膨らんでいた。それを華が全て飲みこむのを待ってから、口を開く。
「……僕は後少ししたらちょっと出かけないといけないんだけど、華ちゃんはどうする?」
「お出かけするの?」
「うん。出かけると言っても本部内なんだけど、ちょっと用事があって」
 華の顔に僅かな陰が差す。しかし、優がそれに気づく前に華は普段通りの笑みを浮かべた。
「わかった。じゃあ、私は部屋に戻ってるね」
「せっかく来てくれたのにごめんね」
 優が申し訳なさそうな様子を見せると、華は立ちあがって胸の前で両手を横に振った。
「仕方ないよ。桜井くんは忙しいもん。じゃあ、また六時に!」
 そう言って、ぱたぱたと逃げるように玄関へ走っていく。部屋に残された優は慌てて、声を上げた。
「うん。また後でね」
 直後に玄関ドアの閉まる音。残された優はゆっくりと瞼を閉じて、小さく溜め息を吐いた。
 それから、思い出したように食器を重ねて流し台へと運ぶ。蛇口を捻ると冷たい水が飛び出し、瞬く間に食器を満たしていった。そのまま洗おうとするも、すぐに水を止め、部屋に戻る。今日は何より優先すべき事があった。
 服を着替え、コートを着込んでから優は迷わず部屋を飛び出した。
 歩きながら、時計に目を向ける。午前十時。彼女は起きているだろうか、と優はぼんやりと考えを巡らせた。
 エントランスを抜けて外に出る。風が弱く、思いのほか寒くはなかった。黙々と舗装された道を進み、正面ゲート付近の広大な駐車場に到着する。それから道を逸れて本部敷地の周辺に広がる林に足を踏み入れた。
 枯れ木が擦れる音と優の足音だけが木霊する。辺りに人影がない事を確認してから、優は立ち止まってゆっくりと瞼を閉じた。それから、意識を集中し、周囲のESPエネルギーを探る。すぐに大きな反応が一つ感じられた。白崎凛のものだろう。それから、比較的大きい五つの反応。他の小隊長のものだとすぐにわかった。更に意識を集中すると、他の中隊員の大まかな位置が感じられるようになる。徐々に視界が開けていくような開放感に包まれ、本部外の反応がいくつも頭の中へ入っていく。数えきれない程のESPエネルギーを探知した後、優は一つの反応に辿りつき、それに向かって慎重にESPエネルギーを放った。
<広瀬さん、起きていますか?>
 風の音が消える。直後、奇妙な浮遊感に包まれると同時に頭の中に若い女性の声が響き渡った。
<桜井か?>
 広瀬理沙の声。優は理沙が無事であった事に安堵し、全身の力を抜いた。
<桜井です。お久しぶりです。お元気ですか?>
<ちょっと前に風邪を引いた。病院に行く訳にもいかないから随分と困ったよ。インフルエンザや肺炎にかかるとまずいかもしれない>
 予想外の言葉に、優は息を詰まらせた。病気。そんな事は考えた事がなかった。その事実に唖然とした後、もし病気になったら、という想像が頭をよぎり、優は暫くの間無言で立ち尽くした。
<桜井? そっちはどうだった?>
 優の返答がないのを訝しく思ったのか、怪訝そうな理沙の思考が直接届く。
<あ、うん。こっちは……ちょっと強い亡霊が出て、暫く入院してました>
<あぁ……それで、暫く連絡がなかったわけ。具合は?>
<今はもう大丈夫です>
<それは良かった。ところで、良かったらまた会えないか? 本当に桜井が暇な時で良いんだけど。今、東京にいるんだ>
<ごめんなさい。暫く、外に出られない事になっているんです。お金の方、余裕ないんですか?>
<いや……そっちは大丈夫だよ。おかげで当分は持つ。ただ、ちょっと直接話したいな、と思っただけだ。あ、いや、別に大事な話とかはないから気にしなくていい>
 向こうで、理沙が寂しそうに笑った気がした。優は何も言えず、黙り込んだ。
<そうだ。さっき小さい蕎麦屋に行ったんだ。夜は人目が多いから、今のうちに年越し蕎麦を食べようと思って。そしたらさ――>
 理沙が楽しそうに話す内容に、優は黙って耳を傾けた。
 理沙が話す事は、全て日常のちょっとした出来事だった。恐らく、ずっと話相手がいなかったのだろう。しかし、理沙の話を最後まで聞いている余裕は、今の優には残されていない。
<広瀬さん、そろそろ切ります。あまり長い間ESPエネルギー使ってると、自衛軍に……>
 そう切り出した途端に理沙の反応が途絶えた為、優は咄嗟に言葉を繋げた。
<また、お正月に連絡します>
<……わかった。また、お正月に>
 理沙との繋がりが切れ、全身を覆っていた浮遊感が消える。妙に身体が重たく感じられた。
 優は微かにふらついた後、ゆっくりと辺りを見渡した。ひと気はない。理沙との連絡に使用したESPエネルギーは少量だったが、恐らく本部には探知されているはずだ。場合によっては保安部が駆けつけてくるかもしれないと身構えていたのだが、どうやらお咎めはないらしい。帰ってから何か言われるかもしれないが、それほど大事にはならないだろう。
 小さく息をついて、近くの枯れ木に背中を預けた時、ふと柊沙織の事が頭に浮かんだ。亡霊に見せられた記憶の中で、彼女はこうして木に背中を預けてよく昼寝をしていた。沙織がいつもそうしていた理由が今は何となくわかる気がした。
 木にもたれかかったままずるずると座り込み、優は空を見上げた。冬の白い空と枯れ枝が視界に広がる。暫くその光景をぼうっと眺めた後、ゆっくりと目を閉じて広瀬理沙の事を考えた。
 軽率だった、と思う。彼女の置かれた状況があまりにも理不尽に思えて、軽々支援するなんて宣言して、結局、何もできなかった。
 中隊に入ったおかげで、銀行には充分なお金があった。それだけで、彼女一人くらいなら助ける事ができると信じ込んでいた。あまりにも子ども染みた考えつきだった。
 逃がして、その後はどうする?
 優は両手で顔を覆い、大きく息をついた。
 彼女は、一生逃げ続けなければならなくなったのだ。終わりは、ない。彼女が年老いて様々な機能障害を抱えることになっても、普通の暮らしを送る事はできない。重い病気を患っても重傷を負っても、公の機関に助けを求める事ができない。彼女は全ての庇護を受ける事ができなくなってしまった。そうした立場に、追いやってしまった。
 でも、と優は思った。理沙を自衛軍に、あるいはSIAに引き渡す事が正解だったとも思えない。もし引き渡していれば以前に白崎凛が言っていた通り、理沙は公正な裁判にかけられることなく、何らかの措置を受ける事になっていただろう。
 今となっては何が正解だったか分からない。ただ、無力感だけが残っていた。
 少なくとも、と優は再び小さく息をついた。少なくとも、SIAの方針は一貫している。功利主義的な彼らのやり方は多くの批判を生んでいるが、その存在が必要不可欠である事も周知の事実だ。例えそれが日本国憲法の第三章に抵触している可能性があろうと、多くの者はそれが限定的であれば許容するであろうし、司法もまた多分な政治的解釈を持ってその存在を許容するだろう。それが人道的であるかは別の問題であって、ただ必要なのだ。故に彼らは過去に何万もの死者を出した生命体の侵略に対抗する為、数十人の児童に強力な苦痛を与えて戦力を増強しようとするし、人を殺めた超能力者を不要な社会的混乱を招かない為に秘密裏に処分しようとする。
 SIAには、確固たる方針がある。何を切り捨て、何を守るのか。それが明確化されている。ところが自分はどうだろう、と優は思った。ただ感情に流されて、その場で思いついた事を軽々しく実行に移して。結局、理沙が優に攻撃を仕掛けたというシナリオになって理沙の立場を悪化させただけ。誰も、何も救えていない。
 優は唇を噛んで、ゆっくりと立ち上がった。冬の冷たい風が頬を撫でる。優は元来た道を再び歩き始めた。 
「お? 桜井じゃねーか。何やってんだ?」
 林から駐車場に出た途端、横から声をかけられる。振り返ると、正面ゲートから歩いてくる川上沙耶の姿が見えた。沙耶の後ろには深海百合と小山千夏の二人。
「三人ともおはよう。どこか遊びに行ってたの?」
 優が首を傾げると、沙耶が、ああ、頷いた。
「正月はゆっくりしたいから、色々と買いだめしてきたんだよ。お前はこんな所でどうしたんだ?」
「僕は……散歩かな。少し、涼みたくて」
「ふーん。丁度いいや。中まで荷物持ってくんない? こいつ、ちょっと肩痛めててさ」
 沙耶はそう言って、後ろの千夏を顎で指した。指名された千夏は、へ、と一瞬キョトンとした様子を見せた後、慌てたように荷物を地面に置いて両手をぶんぶんと振り回した。
「え、でもぉ、それは桜井に悪いしぃ――」
 千夏が言葉を続ける前に、沙耶がひょいと千夏の荷物を持ち上げる。次いで、沙耶はそれを優に向かって放り投げた。
「ほら」
「わっ、いきなりっ」
 優が慌ててキャッチすると、沙耶はにんまりとした笑みを浮かべた。
「じゃあ、後は頼んだ。私と百合は先に本部行ってるから」
 そう言って、沙耶は百合に、行くぞ、と呟いて走り始めた。百合が面倒くさそうな表情を浮かべた後、嫌々といった様子で沙耶の後を追ってゆっくりと駆け始める。
「……あの二人、何か急ぎの用でもあるの?」
 突然走り始めた二人の後ろ姿を見ながら、優は隣の千夏に苦笑混じりに問いかけた。千夏は引きつった笑みで、さあ? と呟いた後、大きく溜め息を吐いた。
「ごめんねぇ。無理やり持たせちゃってぇ」
 一転して申し訳なさそうにする千夏に優は微笑を浮かべた。
「あまり重くないし、大丈夫だよ。じゃ、行こっか」
 優がそう言って足を進めると千夏は、うん、と頷いて隣に並んで歩きはじめる。優はチラリと千夏に視線を向け、首を傾げた。
「肩痛めたって言ってたけど、どうしたの?」
「え、あ、ううん。ちょっとぉ……ね」
 言い淀む千夏を見て、優はそれ以上深く聞こうとはしなかった。無言で本部に向かって歩き続ける。
「……桜井、元気ないみたいだけど大丈夫ぅ?」
 千夏がおずおずと口を開く。優は苦笑して、朝はいつもこんな感じだよ、と首を振った。
 それから何も話す事なく、二人は本部に着いた。隣で千夏が居心地悪そうにしていたが、何も話す気にはなれなかった。頭の中で広瀬理沙の事がぐるぐると回り、後悔だけが募っていく。
 エントランスホールでエレベーターが来るのを待っていると、千夏が痺れを切らしたように口を開いた。
「さ、桜井ってそういえば特殊戦術大隊長になったんだってぇ? 普通に凄くないぃ? そのまま総理大臣まで行けそうな勢いだよねぇ!」
「……たぶん、やる事はあまり変わらないよ」
「で、でもぉ、軍隊にも命令したりできるんじゃないのぉ?」
「うーん、それは指揮系統が違うから関係ないと思う」
 そこでふと、このまま昇格を続ければいつかは広瀬理沙の処分に対して何らかの決定権を持つ事ができるかもしれない、という漠然とした考えが浮かんだ。しかし、優はすぐにそれを打ち消した。何の現実味もない妄想だ。たった一人の子どもが重要な案件を左右できるほどの力を持つなどありえない。
 エレベーターが到着し、扉が開く。優と千夏は黙ってそれに乗り込んだ。
「小山さんの部屋って何階だっけ?」
「三階ぃ」
 優は言われた通りに三階のボタンを押した。ドアが閉まり、エレベーターが動き出す。
「さ、桜井って、ボーリングとか結構やるぅ?」
「んー、たまに。あまり上手くないよ」
 優がそう答えると千夏は少し迷った素振りを見せて、何か大事な事を伝えるかのように一歩踏み出した。
「来月の四日に沙耶たちとボーリング行くんだけど、人数合わなくってぇ。さ、桜井が良ければ――」
 そこでエレベーターが停止し、ドアが開いた。途端、千夏が出入り口を見て黙り込む。優も釣られてそちらに目を向けると、出入り口の向こうに立つ神条奈々と目が合った。奈々は優と千夏を交互に見て微かに驚いた表情を浮かべた後、にこりと笑みを浮かべた。
「珍しい組み合わせね。ちょうど良かったわ。優君に用事があったの。千夏ちゃん、優君ちょっと借り良いかしら?」
  奈々はそう言って千夏の返事を待たずに優の手を掴んだ。
「神条司令……?」
 奈々は優の疑問の声を無視して、千夏に申し訳なさそうな視線を送った。
「ごめんなさい。ちょっと大事な話があるから」
 奈々が歩き始め、優の手がぐい、と強く引っ張られる。優は慌てて千夏の荷物をエレベーターの前に置いて、千夏を目を向けた。
「ごめん、これここに置いておくね」
「え、あ――」
 千夏が何か言いかけたのが聞こえたが、奈々の手を握る力があまりにも強い為、優は千夏から視線を外して奈々の顔を見上げた。
「あの……?」
 優が疑問の声を上げた時、奈々は突然立ち止まってすぐそばにあった扉に近づき、制服の内ポケットから一枚の電子カードを取り出してロックを解除した。扉が開き、暗い室内が戸口から覗く。
「さ、入って」
 奈々が小声で言う。優は不思議そうに首を傾げた後、言われた通りに部屋に足を踏み入れた。冷やりとした空気に包まれると同時に、中の照明が点灯する。どうやらサーバー室のようだった。棚のようなものが並び、いくつもの機械が低い唸り声をあげている。
「神条司令、ここは……?」
 優が疑問の声を上げた時、不意に背後から奈々の腕が腰に巻き付いた。次いで、クスりと耳元で奈々が笑う気配。
「二人っきりの時は別の呼び方にしてって言ったでしょう?」
「……奈々、さん?」
「よくできました」
 奈々が満足そうに笑う。優は戸惑った様子を隠せず、身をよじって背後の奈々に目を向けた。
「あの、用事って……?」
「お昼、一緒に食べない? 千夏ちゃんに先を越される前に連れ出そうと思って」
 奈々が悪戯っぽく言う。優はキョトンと目を瞬いた後、小さく笑った。
「是非、ご一緒させてください」
「私の部屋で良い?」
「はい」
 頷き、奈々の抱擁が解かれるのを待つ。しかし、一向に抱擁が解かれる様子がない為、優は怪訝な視線を奈々に送った。
「あの、奈々さん?」
「……もう少し、こうしていても良い?」
 腰に回された腕に力が込もる。優は目を瞑って、遠慮気味に身体を預けた。
「……はい」
 サーバーが立てる重低音が響くだけで、辺りは酷く静かだった。
 暫くしてから、ゆっくりと瞼を開ける。奈々の階級章が近くに見えた。准将の章。優は少し考え込んだ後、じっと奈々の顔を見上げた。
「あの……少し、変な事をうかがってもいいですか?」
「……なぁに?」
 奈々が首を傾げる。その時、奈々の髪がさらりと頬に落ちた。
「広瀬理沙さんの事なんですが、彼女がもしSIAなどに身柄を拘束された場合はどうなるんでしょうか?」
 微かな沈黙が落ちる。奈々は無表情に優を見つめた後、ふう、と小さく息をついた。
「君は、どうなると思う?」
「……わかりません。でも、殺されたりは……しませんよね?」
「ええ。少し、質問を変えましょう。中隊から離脱する子が年に何人かいる事は知ってる?」
「はい。実際に会った事はありませんが、そうした事があるのは知っています」
「どうして、離脱すると思う?」
「……怪我をしたり、その、精神的な限界が来るから、ですか?」
「ええ。精神的な問題を抱える子が一番多いの。精神的な問題を抱えると、そう、たまに私達の価値基準から逸脱した行動をしてしまう子もいるわ。もちろん、それは彼女たちにとって何らかの目的がある、あるいは何らかの理由を伴う合理的な行動である場合が殆どだけど、私達がそれを理解することは難しいし、それが社会的な脅威である可能性もある。そうなると、そうした問題を抱えて中隊から離脱した子は広瀬理沙と同じような危険分子と見なす事もできる。そうした子は、どうやって管理されると思う?」
 奈々の声が妙に淡々としていて、優は背中に冷たいものを感じた。
「……わかりません」
「お薬を使って、大人しくさせるの。いわゆる精神病院に行ってみると、多くの患者は一見すると異常が見られなかったりする。それは、そうした措置を受けているから。強制的な身体拘束というものは、今はあまり必要がないの。最近は医療用ナノマシンを使って、より精度の高い措置を与える事もできる。だから、広瀬理沙が身柄を拘束されればそうやって管理されることになるでしょう」
 優はベッドの上でぐったりとする広瀬理沙の姿を想像し、唇を噛んだ。
「後悔、しているの?」
 奈々が優しく言う。優は、はい、と小さく呟いた。
「優君は広瀬さんの意思を無視して、勝手に彼女を逃がしたの?」
 首を振る。奈々は小さく息をついた。
「なら、優君が考えるべき事じゃないでしょう。あなたは選択肢を与えただけ。彼女は彼女自身の手で道を選ぶべきだし、その結果についても外野が評価すべきじゃない。何でも人のせいにするのは許されない事だけど、何でも自分のせいにするのも許されない事よ。彼女が得た結果はベストじゃなかったかもしれないけど、少なくとも来るべき最悪の結果は免れた。彼女にには、未来が与えられた。それだけで十分だと思う。一個人が全てを思い通りに運べるなんて、傲慢な考えよ」
 優はじっと奈々の言葉に耳を傾けた後、ゆっくりと目を瞑った。傲慢。多分、その一言に尽きるのだろう、と思う。
「僕は、どうすれば良かったんでしょうか? どうすれば、良いんでしょうか?」
 問いかけると、奈々は一拍の間をおいた後、諭すように言った。
「君が何かする前に、広瀬さんが何かするかもそれない。一人で考え込むのは、やめなさい。君は広瀬さんの置かれた状況を悲観しているけれど、彼女は違うかもしれない。下手をすれば、押しつけにしかならないわ。決定は、君がすることじゃない」
 優は弱々しく笑った。
「そうかも、しれないです。そうですね。広瀬さんと、しっかり今後の事について話してみます」
「ええ。それがいいわ。一人で考えても何にもならないからやめなさい」
 奈々はそう言って、そっと優の頭を撫でた。それから悪戯っぽく笑う。
「あまり、私が偉そうに言える事じゃないんだけどね。職権乱用して、こんな所に未成年を連れ込んでる身だから」
 そこに含まれた微かな自嘲的な響に、そんなことは――、と優が言いかけた時、腰に回された奈々の手が、さわり、と蠢いた。
「今日の予定は?」
 耳元で奈々が囁く。優は身体を強張らせ、あの? と奈々を見上げた。
「六時から、行かないといけないでしょう? それまでは大丈夫?」
「……はい」
 優が小さく頷くと、奈々はにこりと微笑んだ。
「私の部屋に行きましょう」
 奈々の吐息が頬にかかる。次いで、奈々は抱擁を解いて優の手を取った。
 優は先程の奈々の言葉に含まれていた自嘲の響を忘れる事が出来ず、何度もそれについて考えを巡らしながら奈々に手を引かれてサーバー室を後にした。


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