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4章 死の記憶
4章 37話 桜井優
 桜井優の原初の記憶とも呼ぶべきものは暴力で彩られていた。
 六畳半の部屋に男の怒声が轟き、その後に女の悲鳴と何かが壁に叩きつけられる音が部屋に響く。それは桜井優という人格が形作られてからずっと繰り返されてきた日常で、優はいつも部屋の隅でじっと座り、嵐が過ぎ去るのを待った。暴力の嵐が過ぎ去ると、多くの場合は部屋に泣き声が響いた。女のものではない。男が女に許しを乞うように縋りつき、泣き叫ぶのだ。そして傷だらけの女は聖母のように微笑み、男の懺悔を聞き入れる。それが常だった。しかし、常ではあったが、毎日それが行われていたかは定かではない。桜井優という存在は連続的なものではなく、フラフラと時空の狭間を彷徨うように漂っていた為、それがどれだけの頻度で行われていたのか確認のしようがなかったのだ。桜井優の意識は離散的にしか存在せず、それが自らの精神を守る為の防衛機制の一環である事を知らなかった為、優は世界が離散的にしか存在しえないものだと思い込んでいた。
 その日、優の意識は闇の中から急速に浮上し、いつものように暴力で彩られた世界の中に放り込まれた。優は薄暗い六畳半の和室の隅で丸まるようにして横になっている自らの身体を確認し、ゆっくりと起き上がった。そこに低い男の声が響く。
「静かにしろって、いつも言ってんだろうが!」
 次の瞬間、わき腹に強い衝撃が走った。その場に崩れ落ち、打たれた腹部を両手で押さえる。
「人が気持ちよく飲んでる時くらい、じっとしてろ!」
 男の怒声が轟く。優は肩で息をしながら、男を見上げた。まだ若く、体格の良い男がこちらを見下しているのが視界に映る。
「何だ、その眼は」
 男が腰を落とし、優と同じ目線に立つ。髪を掴まれ、優の顔が苦痛に歪んだ。
「なあ、俺言ったよな」
 男が顔を寄せて言う。口から強い刺激臭がした。
「うるさいと近所迷惑になるってよ!」
 再び腹部に殴打が入る。優は苦悶に顔を歪めるも、悲鳴をあげようとはしなかった。感情を押し殺し、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。それが暴力から逃れる唯一の手段である事を経験的に理解していた。
「おい、無視すんなよ。何か言ったらどうなんだよ!」
 壁に投げつけられ、ぐったりとその場に倒れる。その時、玄関のドアが開く音がした。男が小さく舌打ちして、部屋から出ていく。玄関の方から男と女の言い争う声。すぐに争う声が止み、扉から誰かが出ていく音が響いた。その後、男と入れ替わるようにして買い物袋を持った一人の女が部屋に入ってきた。女は地に伏せた優を見るなり、黙って傍に歩み寄り、その幼い身体を抱き上げた。
「ごめんね」
 女が耳元で囁く。そこで優の意識は途切れた。

◇◆◇

 桜井優の世界は連続的ではない。DVDのチャプターを進めるように、世界は離散的な振る舞いをする。
 次に優が目を覚まして初めに聞いた音は食器の割れる音だった。そしてダイニングから男の怒声。
 いつもの六畳半の和室で壁に背を預けるようにして座っていた優はゆっくりと立ち上がり、ふらふらとダイニングに向かった。冷蔵庫の前に倒れている女の姿が真っ先に目に入る。次に女の前に立つ男の後ろ姿に注意を引かれ、最後に周辺に散らばるガラスの破片に視線が映った。
 男が何かを叫ぶ。反射的に優の身体が小さく震えた。男がテーブルの上にあった平たい皿を手に取り、それを女に投げつける。鋭いガラス音ともに、破片が飛び散った。女の悲鳴。それに苛立ったように男が更に怒声をあげる。女は顔を押さえ、何かを叫んだ。そこで優は手で覆われた女の顔に血が流れていることに気付いた。床に雫が落ち、血だまりを作っていく。それがとても綺麗な赤色をしていて、優は血だまりから目が離せなかった。
 再び男の怒声。男は女を怒鳴りつけ続けている。その後ろ姿を見て、優は無意識にダイニングの中に入った。そして、床に落ちているガラス片の中で一番大きいものを拾い上げる。優は冷たいダイニングの床をゆっくりと進み、男の背後に回った。男が女を怒鳴りつける。女が悲鳴をあげる。優は叫び声をあげた。そこで、優の意識は失われた。

◇◆◇

 世界は離散的だ。コロコロと場面が変わる。優が気付いた時、目の前で男がうつ伏せで倒れていた。その後頭部には大きなガラス片が刺さり、そこから血が溢れ出している。優は暫くその様子を眺めた後、冷蔵庫の前で力なく座り込む女に視線を移した。女は呆然とした様子で男の死体を眺め、次に優に視線を移した。二人の目が合う。女は小さく何かを口にした。
 女がゆっくりと立ち上がる。そして、うつ伏せで倒れる男の元にしゃがみ込み、後頭部から生えるガラス片を握りしめた。女の手から鮮血が流れる。女はそれを気にした風もなく引き抜き、首元に向かって振りおろした。何の音もなく静かにガラス片が突き刺さる。女は優の方を向いて笑った。しかし、その瞳からは一筋の赤い涙流れていた。女の右眼は、その機能を既に失っていた。優の意識はそこで奪われた。

◇◆◇

 再び世界が始まる。今日は特に離散的な一日だった。
 身体が温かい。いつの間にか、優は和室で女に抱きしめられていた。窓からは血のように赤い夕陽が差しこみ、部屋を赤く染め上げていた。女は優を抱きしめながら何度も、大丈夫だから、と呟く。優は何も言わず女の胸に顔を埋めた。
 遠くからサイレンの音。徐々に近づいてくる。
「ママ、少しお出かけしてくるね」
 女はそう言って抱擁を解いた。温もりが失われる。優は温もりを取り戻そうとするかのように女に向かって手を伸ばした。女はそれをやんわりと拒絶し、微笑する。
「ちゃんと良い子にしててね」
 優は何も言わず、大きく頷いた。
「すぐ帰るから」
 女はそう言って優に背を向けた。優は思わず口を開いた。
「本当に?」
 女が驚いたように振り返る。そして、にっこりと笑みを浮かべた。
「そう、約束。じゃあ――行くね」
 サイレンの音が木霊する。女の後ろ姿がダイニングの影に隠れ、見えなくなる。優は泣き叫んだ。女は戻ってこない。
 世界が闇に包まれる。世界が反転したような奇妙な感覚に襲われ、優の意識は更なる深淵を目指して堕ちっていった。


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