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葛飾、最後のピース 作者:ぐろわ姉妹

ジャスティー編(時:2012年)

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第24話 パラダイス・リファウンド

 眠くなるような暖かい空間で、サンダルウッドの香りとキャンドル色の照明、静かに流れるヒーリングミュージックに包まれ、ベッドに横たえられた女は身じろぎもせずじっとしていた。

 しばらく顔を覆っていた温かいタオルを外され、ふいに頬を撫でてきた泡まみれの刷毛に、閉じていた瞼を震わせる。

顎から首へ、きめ細かい泡で優しくふわふわと撫でていく刷毛に、女は照れくさそうに「くすぐったい」と小さく笑った。

「くすぐったい?」

とオウム返しに囁きながらも男は刷毛を動かし続け、女は満更でもなさそうに身をよじっている。

 男に「動かないで」と温かい指で頬を撫でられたあと、冷たい感触が同じ場所をスーッと走る。

女は一度も目を開けることなく男に身をゆだね、唇を薄く開き、鋭い刃物を柔肌に当てられるという危険な行為に酔いしれているようだった。

 その光景を薄く開けたリアドアから盗み見ていた正義が、トラックの横にある看板がわりのホワイトボードに駆け寄り、書かれていた『顔剃り屋台』を消し『エロティック・シェービングサロン(イケメンだから許される)』と書き直す。

 顔剃り前のメイク落としや、顔剃り後の洗顔からメイク直しなど、顔剃り以外はすべてセルフサービスだというのに、瞬平のトラック屋台前には寒い中、二十名ほどの女性が列を作っていた。

急きょ仲間内から集められたイケメンも数名、雑用サポートとして加わり、顔剃り屋台はなかなかの大盛況である。

 正義が再度リアドアに首を突っ込み、中の様子ににやにやしていると、黒づくめの男が走ってきて性急にその肩をたたく。

「ジャスティー! 
何してんだよ! 早く来て!」

「ん、タツヤ? なんだよ?」

「なんだよじゃない、ステージ!」

 なんじゃらほいという顔で振り返った正義だったが、ステージ進行を任せていた友人の焦りぶりを見るや、わぁっと驚いて走り出す。

「そうだ、百円カラオケ!」

「発案者が忘れやがって!」

 そろそろ二十時も間近に迫ってきた忘年会は、屋台だけでなくステージの催しでも好評を得ていた。

 正義は龍の着ぐるみのまま、予想以上の人出となった屋台村を駆け抜け、大急ぎでステージ袖へと飛び込む。

ステージ上では女友達である司会が落研仕込みのトークで場を繋いでおり、正義の登場に気づいた途端、ガサツかつにこやかに次のプログラムを発表した。

「それでは、そろそろカラオケコーナーのお時間です。
このコーナーで歌える曲は区民のソウルソング、葛飾音頭のみ。
生バンドが即興でアレンジしてくれますので、
ロック、演歌、ポップス、
様々なバージョンを注文し、挑戦してみてください。
おひとり様一回のみ、百円で参加できまーす」

 参加者の受付が始まるとそれが終わるまでの間、このコーナーのお手本的一番手として正義がステージに上がる。

 正義がスタンドマイクの前につき、葛飾音頭のイントロが生演奏で始まると、しっとり感のあるジャズアレンジに屋台村が一瞬でどよめいた。

 自然と身をゆすりたくなるようなシンバルレガートに乗せ、ピアノとサックスが新小岩公園を洒落たジャズバーのような空気にしてしまう。

 間違いなくジャズなのに、区民の魂に刻まれた旋律は違和感なく溶け込み、葛飾音頭の新しい可能性を見せつける。

スポットライトの中で正義が歌い始めた歌詞が英語であったことも、観衆を立て続けに裏切った。

 ステージを観客の一番後ろから立ち見していた一英が、凍えそうに腕組みしながら当然の疑問を吐き捨てる。

「なんでジャズ。
なんで英語」

 理解に苦しむ一英の表情がドラム缶の炎に照らされ、並んでステージを見ていた恵がマフラーを首に巻きなおしながら言う。

「葛飾にも外国人が増えたからって言ってたよ。
英訳はムハンマドとやったみたい」

「はぁ」

 呆れた一英が溜め息なのか相槌なのか解らない声を発する。

恵と身を寄せ合い、炎で背を温めていた絵梨香が笑う。

「あの子、日本語で歌ったら自分で感動して泣いちゃうかもって言ってた」

「やだー、ほんと?」

 くすくすと笑う絵梨香と恵の横で、一英は「この曲のいったいどこで、泣くほど感動するんだ。本気よたよたばばが行くのあたりか?」などと思いつつ眉をひそめる。

 一英の目に映る正義は照らしてくるライトだけを見つめ、必死で暗記した英語の歌詞を歌い続けていた。

高音をきれいに出すその声は、陰りと憂いを明るさで捻じ曲げたような質を持ち、はかなさの入り混じる乱雑な歌い方で会場に響き渡る。

 正義は歌いながら、無になろうと努めていた。

何も考えずとも、練習したおした発音は自然と舌を動かし、反射的に唇を割り、紡がれていく。

 このまま最後まで歌いきればいい。

 だが、太陽のようなライトは見つめるほどその残像を目に焼き付け、麻痺した視界に、泣き崩れた典子の姿を浮かばせてしまう。

 あの日のことが鮮明に蘇り、緊張からなどではなく身が打ち震えた。

 両親が離婚して、母が死ぬしかないとわめいたあの日――。

 すがるように抱きつかれ、支えるのは自分しかいないのだと思ったこと。

 あなたの望みを聞くことで、それであなたが生きていてくれるなら。

たとえ俺の前でだけでも、笑顔でいてくれるなら。

 そう思うから、どんな無茶でも聞いてやろうと思えたのに。

 正義は母の、男を取り換えるたびに見せる擦れた表情をかき消すように、スタンドマイクを握りしめ抱き寄せる。

 葛飾音頭。

 それはただこの土地を愛するだけの歌詞なのに、歌うほど積年の思いは身勝手に重なり、うねった回路を正すように自らへと臨んでいく。

パラダイスという言葉を何度も繰り返しながら、この街が真に楽園であれと願う。

 あの極上の笑顔がまた戻るなら、なんでもするよ。

 戻すためなら、なんでもやれる。

 そう思っていたのに、どうしてまだあの笑顔は戻ってこないのか。

 その原因をお前ははき違えていたのだと、いつしかこの歌声に乗せ、昨日までの自分に伝えようとしていた。

 三分足らずの曲が終わり、歌い終えた正義は温かくにぎわう拍手の中、深々と頭を下げる。

 笑顔でステージを降りた正義に、永原カメラがすかさず駆け寄った。

すると正義はコメントを求めるカメラにピースサインを向け、吹っ切れた声で無邪気に笑う。

「おーいノンちゃん、見てるー? 
二人が虹を見た思い出の場所、覚えてるよね? 
八時五十五分までにそこにおいで。
絶対来るんだよ、いいもの見せてあげっから」

 手を振りそのまま去ろうとした正義が、思い出したように振り向き「大好きだぜ」とカメラを覗き込む。

最後に男らしいウィンクをした正義に、永原がケラケラと笑った。

 自宅でパソコンを見ていた典子が顔を赤くして、口元を両手で隠す。

「やっ……ヨシくんたら! 
大好きなんて! みんなの前で! 
やだ、もう、やぁだ! 
やぁだ、もう! いやぁん!」

 パソコンの前で立ったり座ったりと忙しい典子の様子など見えるはずもないのに、正義は画面越しの典子を指さし言葉をかける。

「あと一時間後だからね、
遅れないでよ!」

 仲間を見つけ遠ざかっていく正義に、典子はハッと壁時計を見上げ、ばたばたとタンスをあさり始めた。

「は、八時五十五分? 
八時五十五分にどこって言ってたっけ!」

 新小岩公園の一角では、肉体派の男たちが本当に出店した『サンドバッグ屋台』が熱い盛り上がりを見せていた。

客に大きなハリセンでバチコーンと打たれたタンクトップのマッチョが、起き上がりこぼしのように笑顔で立ち上がってくる。

 その隣のマッチョに風が唸るほどハリセンを振り抜いていたのは、赤いドレスのお姫様であった。

見事なくらいかわいくメイクアップしたこの姫が、ついさっきまでは眼鏡のおブスだったなどとは誰も思ってないのだろう。

見た目を裏切る痛快ぶりに、オーッという見物人たちの喝采が湧く。

 彼女の隣では召使い風に女装した寿夫が「姫様、素敵っ!」と惜しみない拍手を送っていて、その光景に目を細めた正義が、三発百円と書かれた看板の前を通り過ぎていく。

 凛が手伝う盛熊の屋台には親父たちの列ができ、リヴェルには老いも若きも女子列ができ、子供がたかるカタヌキ屋台ではものすごい削り技を見せている一英とハイテンションな江田がいる。

 顔剃り屋台では女がキャーキャーしてるし、女装屋台では男がキャーキャーしてるし、外人勢は飲むこととプリントアウトに大忙しだ。

 被写体に一心不乱なカメラマンの横を抜けた正義は、ベニヤ板のテーブルでおでんを頬張っていた男が目に入るや、手を振って駆け寄った。

「朔ちゃん!」

「お、ジャスティー!」

「来てくれたんだ!」

「見たよ、歌うまいじゃん。
まさか着ぐるみで歌うとは思わなかったけど」

「ありがとうね、ほんと助かった。
貸してくれたアンプ、いい音してる」

「俺も歌いたいけど、
葛飾音頭知らないしなぁ。
超残念」

「なに言ってんの。
いつものライブみたいに、
即興ラップでも全然オッケーよ!」

 二人は中年男性が歌い始めたロックアレンジの葛飾音頭を背に笑いあう。

ハードなギター音に負けないよう、正義は朔田に顔を寄せ耳元で声を張った。

「カズくんには? 会えた? 
あそこでカタヌキしてるよ!」

「ハハ、ほんとだ! 
じゃあ、あっちに参加してこようかな!」

 立ち上がった朔田から、正義は空になった皿を受け取る。

振り向きざま「カタヌキってなんだっけ」と問う浜っこに、岩っこは「行けばわかる」と不親切な親切で返していた。

 ◇

 手足がかじかむほど冷え込みが増し、時刻が二十時半を回った頃。

ステージでは宴の締めくくりと称して、各屋台のこれまでの売り上げ高などが発表され始めた。

 そのあんまりな低金額に湧く酔っ払いたちの歓声が、赤々としたかがり火に照らされる。

ステージ脇で立ち見していた一英も、並ぶ朔田と笑いながら拍手を送っていた。

 正義はステージ袖から人々の笑顔を眺め、その平和極まりない光景に穏やかな笑みを浮かべる。

見知った仲間も、見知らぬ人も、皆一様に笑っていた。

 結果発表が終わり売上一位となった屋台に称賛が送られたあと、幹事挨拶のためステージに上がった正義がマイクを受け取る。

「そろそろお開きの時間が近づいてきました! 
最後まで楽しんでくださったみなさん、
きょうは来てくれて本当にありがとう。
忘れられない年末になったでしょうか? 
あなたの思う『あの人』には会えたでしょうか? 
とにかく少しでも、
皆様の憂さが晴れていったなら、
尽力した仲間一同なにがどうでも幸いです」

 頭を下げた正義に野次と大きな拍手が送られる。

 その頃、言われた通り平井大橋へと姿を現した典子は、見当たらない正義を探して膨れ面をしていた。

しばらくして、風に乗って聞こえてきたアナウンスが正義の声だと気づき、新小岩公園を振り返る。

 あちこちの仲間から飛び出す指笛のしつこさに、笑った正義はフィギュアスケーターのような華麗さで何度もおじぎを返していた。

「それではこれから、
よそ見厳禁の三分間をご覧頂きたいと思います。
ささやかではありますが、
プログラムには書かれていなかった隠しイベントをこの空に捧げます。
――忘れられない年末を、
きっとあなたに会えますように――」

 伸ばされた龍の腕が、澄み切った夜空へと掲げられる。



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