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葛飾、最後のピース 作者:ぐろわ姉妹

一英編(時:2010年)

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第42話 忘れないもの

 時刻は十八時を回ったが、走るミニバンの車窓からは、傾いてもまだ熱い太陽が射し込んでいた。

 あれからカーラジオは一日中流れっぱなしで、二人の会話はほぼないに等しかった。

一英としてもラジオが切れてしまえば話題に困るのは同じだったので、ジャスティーの選局に任せたまま最後の配達先へとハンドルを握る。

 放送は懐メロ番組に入り、二人が生まれた頃のヒット曲が次々と流れていた。

それを「懐かしいなぁー」などと声高にはしゃいで歌い繋いできたジャスティーは、先ほどから一英の知らない歌を何曲も本気モードで歌っている。

騒々しいことこの上ない状況だが、静寂や昔話に取って代わられるよりはと、一英は禅僧のようなオーディエンス精神を貫き続ける。

 気づけば、信号待ちで目の前になった車の後部座席からは、小さな子供がこちらを覗き、興味津々にジャスティーに見入っていた。

その熱視線に応えるように助手席の窓を全開にしたジャスティーが、今まで以上のでかい声で歌いだす。

一英が思わず「うるせぇよ」と呟き、目をつむって陶酔しきっているジャスティーの肩を小突く。

「なぁ。
さっきからずっと道なりだけど、ほんとにあってんの?」

 するとジャスティーは声量を下げることなく、「今立て込んでますんで、すみません」という表情で深々と頭を下げた。

イラッとした一英がもう一度肩を小突く。

それでもまだ歌をやめないジャスティーは、迷惑そうな素振りで交差点を指さすと、リズムに乗る指先で「左折、左折」と示す。

「口で言え、口で!」

 一英の文句もおどけた顔でスルーしたジャスティーは、結局最後まで歌い切り、アウトロになって初めて歌詞以外の言葉を発した。

「しょうがないでしょ、歌ってんだから」

「今ぜってぇ、ナビし忘れてたろ」

「まさかー。
あ、そこ左折、次も左折、最後右折で」

「Uターンしてんじゃねぇかよ、この野郎」

 言いながら馬鹿馬鹿しさに失笑した一英に、ジャスティーもあははと笑った。

窓風に煽られるジャスティーの髪が涼しげで、一英は少しほっとする。

 あんたがそんな風になったのは、俺のせいなんだ――!

 一昨日そう叫んだ形相からはずいぶんと遠ざかった、穏やかな表情だった。

 笑ったことで、二人の間に朝からずっと張りつめていた緊張感が途切れ、そのままふざけた会話が続くように思われた。

だがその期待を、前触れもなくカーラジオから流れた曲が寸断する。

 なんの紹介もなく流れ始めたその曲は、イントロを奏でただけで、タイトルに気づいた二人をハッとさせた。

それは誰もが知る、往年のヒット曲『ヒーロー - Holding out for a hero』だった。

 一英はとにかく平静を装って運転を続け、ジャスティーもなんでもないように窓の外を眺める。

しかし、曲がサビに入ったあたりで不意にラジオが途切れた。

 見ると、ジャスティーの指がラジオの電源を切っていた。

てっきり最後まで聞かされるか、途中で歌い始めるか、最悪、あなたはヒーローなんですという説教が始まるのではと覚悟していただけに、急に訪れた静けさに一英の耳が痛む。

 スイッチから指を離した横顔は、長く垂れた前髪の間から物憂げな目元を覗かせる。

一昨日、危険を冒してまで旋盤に歯向かっていったジャスティーは、一英がこの街を拒否することは自分が拒否されるよりずっと辛いのだと叫んだ。

だが、あの時のような異常なまでのぎらつきは、今の彼の目には見られなかった。

 互いに無言のまましばらく行くと、覚えのある景色が見えてくる。

学校の目の前にある公園は、その校庭よりも広い芝生を今日も青々と茂らせている。

それが瑠奈に振られた公園だと一英が気づいた時、ジャスティーが口を開いた。

「そこで停めてください」

 慌てて路肩に寄せる一英に、こないだも配達したばかりの工場だから解るでしょと、ジャスティーは続けた。

こないだとは瑠奈に振られた日のことだろう。

あの日も最後の配達先だった工場が、目の前に現れる。

 ミニバンが停まると、一英が降りるより先にジャスティーが助手席のドアを開けた。

「じゃあ僕はこれで」

「え、帰んの?」

「はい。
最後までナビしましたし」

 ジャスティーはにっこり笑ってそう言うと、後腐れもなさそうな軽快な足取りで立ち去って行ってしまう。

住宅街に消えるその背を呆然と見送っていた一英は、最後の配達にも時間指定があったことを思い出し、腕時計を確認しながら自分も急いで車を降りた。

 その時の一英は、帰るなんていうのは冗談か嫌がらせで、どうせその辺で飲み物でも買ったりしたらまた戻ってくるのだろうと思っていた。

だが十数分が経ち、配達から帰ってみてもやはりミニバンにジャスティーの姿はなく、一英は空っぽの助手席に唖然とする。

「……あいつマジで帰ったとか?」

 信じらんねぇと呟きながら辺りを見渡す一英の目に、広々とした公園の芝生が映る。

 芝を見ているうち、そこを怒りの足取りで横断し、街に消えていった瑠奈が思い出された。

思い切り平手打ちされた痛みよりも、指輪を突っ返された怒りよりも、その大きな目が虚ろに見上げてきて眼鏡のフレームだけをなぞっていった悲しい不快感が、何よりも強く蘇る。

 ミニバンの窓ガラスに目をやると、汚れてもいいような安い黒Tシャツに作業着を羽織り、眼鏡をかけてこちらを見つめ返す自分が映っていた。

(だせぇな……)

 そう思いながら見つめていると、なぜか、新小岩の駅前で一切風景に馴染んでいなかった瑠奈が目に浮かんだ。

あの雑然とした風景に不釣合いな、ゆるくてふんわりとした瑠奈の姿が目蓋にちらつく。

 窓に映る男を改めて眺めれば、その薄汚い出で立ちの中でスタイリッシュな銀フレームの眼鏡だけが、恥ずかしいほど借り物じみて浮き立っていた。

 そっと溜め息し眼鏡を外した一英は、躊躇なく、公園のゴミ箱目がけて振りかぶる。

 数メートル先のそこに狙いを定めて放り投げると、眼鏡は回転しながらもきれいな放物線を描き、かしゃんと軽い音を立ててゴミ箱に入っていった。

 夕暮れの空に映えたあまりにもきれいなストライクに、完封試合を達成した投手のごとく、肩の荷がふわっと下りたような気がした。

 黒い裸眼が黄金色に染まる鱗雲を映し、輝く。

「また地図と睨みあいか」

 そうひとりごちクゥーッと背伸びした一英の鼻に、鉄くずのにおいが届く。

思い当たるのは、今しがた配達に訪れた工場のにおいだった。

風に乗ってきた方角を見ると、その見当は当たり、工場の奥さんが機械油で黒ずんだアスファルトを掃き掃除しているところだった。

 キーを差し運転席のドアを開けると、また別のにおいがかすかに香ってくる。

すんと鼻を鳴らすと、それは線香のにおいに思われた。

「……そういや、途中で寺かなんか通ったな」

 一英はもう一度確かめるように大きく空気を吸うと、においのする方角へ行ってみるかと思い立ち、ミニバンに乗り込む。

 窓を開けたまま細い道をノロノロと走り、線香の香りを辿っていけば、確かにさっきもここを通ったと確信できる寺院が見えた。

墓地を通り過ぎ、景色の記憶を頼りに進もうとするが、一方通行という壁が至るところで立ちはだかる。

 そうこうするうち、今度はうっすらと薬品じみたにおいがしてきた。

「あぁ……
このにおいも嗅いだ気がするな……」

 すべての窓を全開にした一英は、交差点に出るたび窓の外に鼻を向け、薬品のようなにおいを辿った。

するとそこには見覚えはないが小さな病院が現れ、すぐ近くの交差点を確かに通った記憶が蘇る。

 後続車がいないのをいいことに歩行者にも抜かれるような徐行を続け、この病院のにおいがする前にはどんな場所を通ったかと、一英は探り探りに記憶をたぐった。

しばらくすると、どこか小学校の前を通った記憶が浮かんでくる。

 再びくんくんと鼻を鳴らしてみると、わずかだが、鼻の奥に引っかかるような塩素のにおいがしていた。

それがプールに繋がると確信し、迂回させられながらも走っていけば、きちんと小学校にぶちあたったあと、次はどこかの家庭からやたら本格的なカレーのにおいが漂ってくる。

 何度かにおいと記憶とを突き合わせ、答え合わせしながら道を行けば、和出汁の香りと和食レストランが一致した地点で、ミニバンはなんとか無事に平和橋通りへと出ることができた。

 四つ木方面から平和橋を目視できるここまでくれば、ホームは目の前だった。

あの橋さえ渡れば、小学生の頃から遊び回った馴染みの地域に出る。

そこではもう、道に迷うことはない。

 平和橋を悠々と渡り無事実家に到着した一英は、やりゃできるじゃねぇかと心底自分を誉め、満足げにエンジンを切った。



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