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葛飾、最後のピース 作者:ぐろわ姉妹

一英編(時:2010年)

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第41話 忘れるもの

 ぐったりと投げ出されていた指先が時折小刻みに動き、閉じられた目蓋の裏では眼球が忙しなく転がる。

開いたのか閉まったのか、聞こえてきた引き戸の音にジャスティーはハッと目を覚ました。

 飛び込んできた景色に、自分の寝入った場所がどこだったのか、記憶が戻るまでに数秒の時間を要す。

ジャスティーは三畳ほどしかない部屋の天井をしょぼつく目で確かめたあと、のそのそと布団の上に起き上がった。

 開け放しだった板戸の向こうには厨房が滲んで見え、エアコンの涼しい風が入ってきている。

大将が厨房の暖簾をくぐり、三畳間を覗き込んできた。

「起きたか?」

「……大将おはよう……
ってか、デジャブ?」

「それは俺のセリフだ。
昨日の朝も同じ光景見たぞ」

 寝ぼけたしわがれ声のジャスティーを大将が笑う。

厨房から更に奥にあるこの部屋は大将の休憩室で、ジャスティーは二日続けて盛の熊さんで寝てしまったことを思い出した。

 一昨日、旋盤に下着をばらまき、井梶プレスから追い出されたあと、ジャスティーが最終的に逃げ込んだのがこの店だった。

泣きながら入店したせいで、いつものように楽しく盛り上がる憩いの場を台無しにしてしまったことが、今でも申し訳ない。

 すぐに取り囲んできた女たちに問いただされ、自棄になったジャスティーはこの二週間ほどで一英にしてきたことのすべてを話した。

そして三人から散々に怒られた。

 一番怒っていたのは絵梨香で、日付が変わってもくどくどと説教されていたことを覚えている。

ただ彼女らがいつ帰ったのかは記憶がないので、怒られながら飲みつぶれそのまま盛熊に泊まったのだろう、と解ったのは、この布団の上で目覚めた昨日の朝のことだ。

 結局昨日は一日中、家に帰るのが億劫でそのまま店に居座っていた。

そうしたらまた夜に絵梨香たちがやってきて、再び散々に怒られ飲みつぶれ、昨夜も彼女らが帰った記憶がないまま、同じ状況で泊まったのだった。

 二日連続で飲んだくれたジャスティーに、二日連続で説教する絵梨香は、学級委員長みたいな手厳しさでこんこんと諭す。

「本当に大切な人なら、
今の気持ちも尊重してあげるべきだと思う。
今彼がどうしたいのか、
それは大事じゃないっていうの?」

 絵梨香の正面切って見つめてくる真摯な目を、ぶすっとしたまま睨み返していたことを思い出し、ジャスティーは汗ばんだ首のあたりを掻く。

「絵梨香って偉そうですよね。
正論すぎて一個も反論できないもん」

 大将が笑いながら差し出してくれたグラスを、ジャスティーは礼とともに受け取り、冷たい水を飲み干す。

しっかりした記憶はないが、自分がここに泊まったせいで大将もこの二日間、自宅に帰れなかったのではないだろうか。

ジャスティーは目を擦りながらグラスを返すと、着の身着のままで寝乱れた服を適当になおし、布団をたたみ始める。

「ごめんね、大将。
今日は帰るから」

「大丈夫なのか? 
ヒーローがいる間は新小岩には帰りたくないとか言ってたろ」

「……そんなこと言ったっけ?」

「言ってたぞ」

「帰るよ。
ここにいたら邪魔だもん」

 ふふ、と笑いながらそう言ったきり、ジャスティーは黙々と布団をたたみ続ける。

その姿は、作業に没頭するため無理やり真剣になっていることが手に取るようで、大将が困ったように眉を下げた。

「ヒーローとは、このままでいいのか? 
お前にだって、お前なりの考えがあってのことだったんだろ?」

 敷布団をたたんだ手が、枕を拾おうとして一瞬止まる。

枕はすぐに拾われたものの、行き場を失ったようにその手の中で弄ばれた。

「よくはないけど、いいよもう……
どうせ面接には受かるわけだし、
そしたらやっぱり横浜に行く気みたいだし。
横浜の人になっちゃえばいいんだ」

 そう言って、ジャスティーは枕とタオルケットを敷布団に重ね、部屋の隅に押し寄せる。

 と、どこからか、くぐもったロッキー三倍速が聞こえてきた。

部屋を見回したジャスティーが、座布団の上にヨレヨレワンショルダーを見つけ、のろのろとその中をあさる。

「もしもし? なに?」

 携帯を耳に当て、しばし相槌を繰り返していたジャスティーが「一人で?」と呟く。

「……ごめん、俺のせいだ」

 また相槌を繰り返し、最後には解ったと言ってジャスティーは通話を切った。

左手で携帯を閉じると手首でブレスレットが揺れ、ぶつかりあった飾りのかすかな音が鳴る。

その音が耳の奥に突き刺さって不快だとでもいうように、寝癖頭が小さく首を振った。

 ジャスティーは思い切るように溜め息をつき、バッグを掴んで立ち上がると、座敷席のように小高くなった三畳間から飛び降りサンダルをつっかける。

厨房脇の勝手口へ向かいノブに手をかけたその背に、大将が声をかけた。

「これ、ケイちゃんが新作だって置いてったぞ」

 差し出された紙袋には、着替えが一式入っているようだった。

一昨日から帰宅もせず店に入り浸って風呂にも入ってないことを、恵が心配していたと大将が言う。

「ありがと」

「また来いよ」

 厚い胸板を開くように柱に手をついた大将を見上げ、ジャスティーはコクンと頷いたが、ふと正体のなくなったような目を泳がせ、低く呟く。

「どうなるのかな。
ほんとのヒーローが、ほんとに新小岩からいなくなったら」

 答えを求めるような言いぶりをしたくせに、大将の答えを待たず、ジャスティーは勝手口を開け出て行ってしまう。

 目に痛い朝日に顔をしかめ、そのスカート姿は立石の裏通りを曲がりくねり、消えていった。

 ◇

 一人で配達に出た一英は、一件目の配達先に向かう信号待ちで早くも地図と睨みあっていた。

 環七を走り中川を越えたあと、すぐに右折して、曲がりくねる中川をもう一度越えた。

そこまではいいのだが、そこにあったのが見覚えのある奥戸車庫だったものだから、自分が一体、どこをどう走って今ここにいるのか解らなくなったのだ。

 車列で頭をかくその姿は、車の外から見ても明らかに迷子になっている様子だった。

 ネットカフェでシャワーを浴び、恵の新作に着替えてきたジャスティーが、呆れた溜め息をしてからガードレールを飛び越える。

 突然乗車してきたジャスティーに、一英がわあっと大声を上げ跳ね上がった。

「この配達量で、
よく僕を置いていく気になりますね」

 来るはずがないと思っていた一英は完全に不意を突かれ、大した言い訳も思いつかずどもってしまう。

確かに自分でも、どうして姉すら同乗させずに一人で出てきてしまったのかと後悔していたところだった。

 今日のジャスティーは、白いタンクトップの上にくすんだ緑色のカシュクールシャツを重ね、膝下のスカートは落ち着いた紺色の江戸小紋、足には男物の下駄を履いていた。

小ざっぱりとした出で立ちとは対照的に、セットされていない髪がやけに目立っている。

 ぼさぼさの髪がかき上げられ、見えたのは鼻筋のシュッとした横顔だけだったが、一英の脳裏には否応なく、ジャスティーの今にも泣きだしそうな顔が思い出された。

 ジャスティーは井梶プレスで暴れた一昨日のことには一切触れず、実に飄々と、普段と変わりない仕草でシートベルトを締める。

だが、まったく目を合わせようとしないあたり、それなりの気まずさがあるのではと思い、一英のほうもうっかり一昨日の話にならないよう言葉を選ぶ。

「えっと、とりあえずこれ! 
一番早い時間指定。
急いでんだ、ナビってくれよ」

 一英は裕貴に書かせたメモを咄嗟に手渡す。

受け取ったジャスティーはそれを見て、驚くでもなく眉間に皺を寄せ、笑った。

「一件目、高砂? 
あなた、まるっきり反対に出発してますよ。
そこ左折」

 信号も変わり、ミニバンは慌てて左に曲がる。

 奥戸車庫の裏を通りながら、一英はジャスティーの指摘でやっと、自分が環七と平和橋通りを間違えて走っていたことに気づいた。

その二本の通りは、井梶プレスから出て東に行くか西に行くかのチョイスなだけに、いよいよ新小岩でも道を間違えるほどこじらせてしまったのかと、気が萎える。

 しかも、この時間指定なら高砂より先に新小岩のほうを回るべき、などとダメ出しを食らい、ぐうの音も出ない。

 数枚にわたるメモに目を通し始めたジャスティーに、一英はずらりと並んだ荷台の納品箱を指した。

「なんか解んねぇけど、
ジジイどもがゲリラ注文してきて」

「知ってます。
井梶プレスは残すべき工場ですから」

 助手席の指示通りに進むミニバンは、中川沿いの車道へと誘導される。

まっすぐに進行方向だけを見るジャスティーの、明るいながらも感情のこもらないその声は、本物のカーナビアナウンスを思わせた。

「残すべき?」

 と一英が問うと、メモをシャツの胸ポケットへ差し込んだジャスティーは突拍子もなく、「製品というものは、売れた後はメンテナンスが大半ですから」と言った。

 『製品』とは、たった一つの部品が悪くなっただけで台無しになるもの。

それなのにいずれ製造は終了し、購入者が性能重視で高い買い物をしても、メーカーは数年でケアしてくれなくなる。

メーカーに見放されたその時、修理してくれるのは結局手練れた職人で、必要になるのは結局『部品』なのだとジャスティーは言った。

「あなたのお父様が製造する謎のパーツは、
そういう生死の境にいる製品を助けるための部品なんです。
飛び込みだろうと、たった一個の注文だろうと、
相手が困っているなら快く受注する。
そんなことしてくれる優良な工場、なくなったら葛飾の損失です」

 淡々とした説明に、一英が噛み殺すような溜め息をする。

 いくら人から必要とされようと、その優良な工場は静かになくなろうとしていた。

 次の橋まで道なりと言ったあと、ジャスティーはしばらく葉桜の並木をぼんやりと眺めていたが、脈絡なく「でも」と口を開く。

「堀田金属、
今はマンションになってますよ」

「え……」

「公彦さんの事故の後、
十年経たずに潰れたんです」

「そうだったんだ」

 なぜ潰れたのかジャスティーは言わなかったし、一英も聞かなかった。

ゆえに会話がすぐに途切れる。

この話題をどう展開させようとして口にしたのか、そんなことが疑問になるほど、ジャスティーは何も続けようとはしなかった。

 再び平和橋通りに出たミニバンは、新小岩方面へと向かいながらガタガタと揺れる。

「三百メートル先、右折です」

 そう言うだけでジャスティーはまた口を閉じたが、公彦の切断事故にまつわる話をするよりは沈黙のほうがずっと良かった。

 だが一英は、黙っているジャスティーがまだ堀田金属の話題を引きずっているような気がしてしまい、右折待ちの信号で眼鏡を上げ、咳ばらいをする。

そわつく視線は、交差点から見える大きな空き店舗に留まった。

「潰れたって言えば、そこも潰れて結構経つってな。
前はよく買い物に行ったけど」

 なんでもいいからジャスティーに堀田金属以外のことを考えさせたくて、そんなことを言う。

何か得意のうんちくでも語り始めないかと期待したが、ジャスティーは空き店舗を一瞥し、「またマンションにでもなるんでしょ」と半ば投げやりに言った。

 一英が「みんな変わっちまうな」と言うと、「新小岩もだいぶ再開発が進んでますからね」という言葉が返る。

対向車が途切れ、虚しくカチカチと鳴くウインカーを黙らせるように、一英はハンドルを切った。

 確かに、新小岩は昔に比べ、更地になったと思えばマンションが建つということが多くなっていた。

幼い頃からの馴染みある景色が消え、見知らぬ人ばかりが増えるのは、なぜだか己の身をそがれたような痛みを抱かせる。

 見れば、ジャスティーはいつの間にか窓枠に頬杖をつき、流れ去る景色を見つめていた。

その姿が、彼にも当然この街にあるだろう古い思い出を、現在の街並みに重ね合わせる作業のようにも見え、それをしたがるのは自分も同じだと一英が思う。

「不思議だけど、新しい建物が建つたびに、
そこがどんな風景だったのかって少しずつ忘れちまうよな。
そんで、気づいた時にはすっかり思い出せなくなってたりしてる」

 ジャスティーは一英の言葉に穏やかに頷いたあと、しばらくしてからぽつりと呟いた。

「だから僕、忘れないでいたいんですよ。
忘れないで欲しいんです。
……でも絵梨香に言われます。
そんなの自分勝手だって」

 忘れないで欲しい。

 その言葉が『ほんとのヒーロー』である自分に向けられているのだと解り、結局はそこへと舞い戻ってきてしまった会話に一英は黙り込む。

 今度はジャスティーが、流れ続けそうになる沈黙を切ろうとでもするように、カーラジオへと手を伸ばした。

そしてわざとらしいほど忙しなく、「かつエフ、かつエフ!」と選局し始める。



かつエフ…かつしかFM
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