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葛飾、最後のピース 作者:ぐろわ姉妹

一英編(時:2010年)

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第37話 マスクドヒーロー

 日没したばかりの空には藍色が滲み出し、雲だけがほの赤く染まっていた。

まだ薄明るい中でも道行く車はぽつぽつとライトをつけ始める。

今日は惣菜は買っていかないと一英が言うと、ジャスティーは自分も今日は盛熊に寄らないと言った。

そのまま静かなナビで立石を抜け、ミニバンは新小岩へと向かっていく。

 平和橋を渡り、景色が見慣れた新小岩に入ったあたりで一英が口を開いた。

「どこで降ろせばいい? 
あんたんち西新小岩なんだろ。
俺だってこの辺なら道解るから、ウチまでナビんなくていいよ。
このまま帰んな」

「嫌です。
せっかく助手席に戻れたんだから最後まで乗ります」

「帰れ」

 一英の引導をさらりと無視して、ジャスティーは窓の外を眺める。

頬杖を突きながら口元を隠してはいるが、その頬がわずかに盛り上がっていて、一英は悔し紛れにいらいらとした。

しばらく黙っていたジャスティーが、堪えきれなくなりブハッと吹き出す。

「笑ってんじゃねぇ」

「だってヒーローさん、まったく信用ないんだもん。
普通あれだけの情報で、男とできてたって結論に達します? 
っていうか、達せられます? 
仮にも婚約までした相手ですよ? 
あそこまで即決で振られるなんて、普段どんだけ信用ないのって話ですよ。
女ひとり信じさせることができないなんて、ヒーローらしくないんだから」

「失格で結構。
死ぬまで笑ってろ」

「でもこれで、
心置きなく葛飾に戻ってこれますね」

「こんなことで戻るか、バァカ」

 不要となったナビが降りるのを期待しながら、東新小岩と西新小岩の境を直進していた一英は、曲がるべき消防署を通り過ぎたことに舌打ちした。

 その横顔を見つめたジャスティーはにやつくのをやめ、すっと真剣な眼差しになる。

「なんで追いかけなかったんですか? 
唯一の癒しだったんでしょ?」

「あぁ?」

「過去のことなんかなーんも詮索しない女。
そういう女、理想でしたよね。
あなたが見たくないものを、おんなじくらい見たがらない女。
そりゃ気も休まったでしょう」

 ぴくりと一英の眉が尖る。

「でも皮肉にも、彼女は見たいものだけはしっかり見てた。
解ってくれる女だと思ってたのに、彼女はなにも解ってくれてなかった。
っていうか、解る気なんかこれっぽっちもなかった。
あなたの被ってた仮面が、彼女にとっては完璧だっただけのこと」

 言わんとすることを探る必要もないほど、ジャスティーは歯に衣着せなかった。

自称ストーカーは変質的に恋愛遍歴までも調べたのか、本人よりも一英の内面を知っているかのように得意げに語る。

「追いかけられるわけないですよね。
恋人を条件で選んでたのは、瑠奈さんだけじゃないんだから。
瑠奈さんが解ってくれないんじゃない。
何も話してないのはあなたのほうだ。
本気で受け入れてもらえるかどうかなんて、
そんなこと試したいとは一度だって思わなかったんじゃないですか?」

「あんたには関係ねぇだろ、
出しゃばんな」

 一英はジャスティーの言いぶりから、彼が意図して瑠奈のフェチを暴き、自分はその会話をあえて聞かされたのだということを悟った。

殺伐とした目で前方を睨みつける。

 恋人を条件で選んでいたかどうかなど、大きなお世話だった。

一緒にいてホッとするという理由が打算だと言うなら、打算的な交際だったのだろう。

だが、たとえ打算でも、二人の間はそれで上手くいっていたのだ。

 一体なんの咎があって、こいつに崖から突き落とされねばならなかったのか解らない。

一英ははらわたが煮えくり返っていた。

 男のほうは、過去など関係なく現在の自分をそのままで選んでくれ、そのままで愛してくれる女がいたと喜んでいた。

女のほうは、完璧に近いだろう理想の男に愛され、このままずっと所有できることに酔いしれていた。

それの何が悪いというのか。

(確かに俺は瑠奈の愛を誤解してたんだろうよ。
だがそれを知らずにいれば、
誤解のまま愛し続けることができたはずじゃねぇか)

 男の誤解が解けた時、入れ替わりに女に誤解が生じた。

男が誤解していたうちは取れていたバランスが、女の番になった時、それは脆くも崩れ去った。

 その脆さは自分でも驚くほどで、自虐的な怒りが込み上げる。

 だが怒りが湧けば湧くほど、何に怒っていいか解らなくなっていた。

悪いのは瑠奈なのか、自分なのか、こいつなのか。

何か口にすれば理性なく怒鳴り散らしてしまうに違いないと、一英はだんまりを決め込む。

この男にこれ以上、周囲を荒らされたくなかった。

 正直、瑠奈とよりを戻せるとは思えない。

彼女の奔放なところは嫌いじゃなかったが、あの様子ではもしこちらから連絡を入れたとしても、完全無視で取りつく島もないだろう。

それに自分だって、知らなくてもいいことを知ってしまった以上、今までのような安らぎを再び抱けるわけがない。

 それでも一英は、今夜はもう横浜に帰りたいと思っていた。

瑠奈がいてもいなくても、もう用のなくなったこの街から離れ一人になりたいと、一英は無言でハンドルを握り、道の先だけを見つめる。

 その無表情な横顔を助手席からじっと見つめたあと、ジャスティーは自分も車外に視線をそらした。

「頑固者……」

 一英に聞こえないくらいの声でそう呟き、ジャスティーはふてくされた仏頂面で窓にもたれる。

たつみ橋交差点で赤信号に停車したミニバンは、張りつめた車内にカチカチとウィンカーを刻んでいた。

 と、車窓の人波を眺めていたジャスティーが、ハッとして目を見開く。

「ヒーローさん、あれ――!」

 ただごとでない声色を上げ、ジャスティーは身を起こして歩道を凝視する。

一英が無表情のままジャスティーの視線をたどると、混雑した信号待ちの歩行者の中で、不自然な動きをしている一人の中年男がいた。

 筋肉質で背の高いその男は信号待ちの人だかりに紛れると、ミニスカートの女性に背後から近づき、通り過ぎる瞬間、手にしていた携帯をスカートの裾あたりに何気なく差し出す。

そしてすぐに女性から離れ画面を確認すると、悪人らしくほくそ笑んで携帯を閉じた。

 周囲の歩行者は気づいていないが、それは明らかな盗撮現場だった。

 ジャスティーが今の見ましたよねと言わんばかりの目で一英を振り向く。

 だが一英は目をそらし、今自分が注意を払うべき赤信号だけに視線を注いだ。

「いまの間違いなく盗撮ですよね!」

「さぁ」

「悪者じゃないですか、懲らしめましょう!」

「なんで俺が」

 一英が鼻で笑うのと同時に信号が青に変わり、歩行者の波が対岸へと打ち寄せ始める。

盗撮男もそれに乗り、歩いていく。

するとジャスティーはシートベルトを解き、「捕まえなきゃ!」と叫んでドアロックを外した。

一英が今にも飛び出しそうなジャスティーの腕を強く掴み、力いっぱいに引っ張る。

「やめろ!」

「離してください!」

 ジャスティーはもがくように腕を振り回すが、一英も力を込め決して離そうとはしない。

そうするうちに盗撮男は人波にさらわれ、どこかへと消えてしまっていた。

ジャスティーは怒りの叫びを上げ、緩んだ一英の手を振り解いて、ダッシュボードに拳を振り下ろす。

「なにやってんですか! 
あなたはヒーローなんですよ!」

「ほっときゃいいんだ、パンツの一枚や二枚。
あんなミニ、履いて歩いてるほうも悪い。
そんな子供じみたことやって何になる」

「……子供じみてる?」

 ジャスティーは溢れる憤りを、腐ったような笑いで吐き捨てる。

だが一英の固い表情は変わらない。

「俺は人を助けようとか、悪を懲らしめようとか、
そんな正義感なんか振りかざしたくねぇんだよ」

 後続車にクラクションでうるさくせっつかれ、ミニバンは左折レーンを発進した。

一英が淡々とハンドルを切って続ける。

「悪者を倒すために戦うよりも、
事なきを得る、
そのほうがよっぽど平和なはずだ。
ヒーローフリークだかなんだか知らないけど、
あんたの勝手な理想を俺に押しつけんのだけはやめてくれ。
迷惑だ」

「――そっちこそもうやめてくださいよ、
そんなふうに仮面かぶるの」

 シートベルトをしていないジャスティーは、カーブする重力に押されて揺られながらも、一英に体を向けたまま見据えてくる。

その声は語気を強めていた。

「ヒーローの仮面は存在の証としてつけるものなんですよ。
正体を隠して、無難に生きるためにつけるものじゃないんです」

「俺はヒーローじゃねぇっつってんだろ!」

「そうやってれば、いつかはそれが真実になるとでも思ってんですか? 
本当はああいうの見てるだけで腹が立つくせに! 
ぎゃふんと言わせてやりたいって思うくせに! 
そう思うあなたこそが、本当のあなたなんですよ? 
僕は本当のあなたを間近で見たから解るんだ、だから言うんだ。
どれだけ嘘ついたって変わらないものは変わらない、
自分に嘘をつき続けたって、いいことなんか何もないでしょ!」

 フロントガラスに井梶プレスが映り込むと、ミニバンは急に猛スピードを出し、その駐車場へと突っ込むように停車した。

乱暴に開いた運転席から一英が出てきて、ドアを強く閉める。

 そのまま逃げるように実家の外階段を上がろうとすると、続いて飛び出してきたジャスティーが一英の前に立ちふさがった。

懇願を含んだ真剣な声に、熱い執着が滲み出る。

「このままこの工場が畳まれたら、
みんな一生引きずるに決まってる。
そうは思いませんか」

「……」

 ジャスティーは期待を込めて一英の目を覗き込んでくる。

だが一英は恐ろしく冷えた目で顔を上げた。

「……言いたい事、それだけ? 
悪いけど、誰になんと言われても、俺はこの街に戻る気ないから」

 そう言うと一英はジャスティーを押しのけ、階段を上り始める。

 突き飛ばされたジャスティーは、一英が三段すら上るのも許さずその腕を乱暴に掴み、力任せに引きずり下ろした。

眼光は切実な怒りに鋭さを増し、その喉は怒鳴り声を上げる。

「これ以上、誰も巻き込みたくない? 
誰も傷つけたくない? 
ふざけんな! 
あんたは今でも家族を巻き込んで傷つけてんだよ! 
みんなあんたのこと気遣って、間違ってもこんなことなんかしねぇだろうが!」

 言うなり工場のドアを蹴り開け、ジャスティーは終業後の工場内に一英を連れ込もうとする。

咄嗟にドア枠に掴まった一英が身をよじり離せと叫ぶが、ジャスティーにその気はなく、冗談では済まない力で腕を引き続けた。

 ここへ戻ることを望まれ、ここを継ぐことを望まれているのは痛いほど解っている。

 そんなこと今さら言われなくても、できるものならとっくにやっていた。

 抵抗しても工場へと引きずられそうになり、一英はそっちが離さないならと、引かれる腕を自分から伸ばしジャスティーの胸ぐらに掴みかかる。

「戻れないんだよ! 
俺が工場に入れば、また誰かが傷つく! 
工場なんか継ぐ資格、あるわけないだろ! 
俺はこの土地にいるだけで馬鹿なことやらかして、できもしないことをやろうとする! 
人を危ない目に合わせるだけのどうしようもない人間なんだからな!」

 他人の領域に土足で上がりこみ、無断でかき散らかす自称ストーカーは、自分こそ正当だと言わんばかりの目で睨んできていた。

その目はエゴイスティックに脂ぎり、切羽詰まった焦りをもはらむ。

 一英は尋常でない気迫を感じつつも、しつこくヒーロー像を押しつけてくるその目に吐き捨てた。

「ストーカーが知ったかぶんのもいい加減にしろよ。
こそこそ調べたって俺の気持ちまでは解んねぇんだから、黙ってろ」

 すると、言い返す言葉を失ったのか、ジャスティーは一英を悔しそうに睨み返した。

 掴みかかる互いの手にいっそう力が入り、一英はジャスティーの胸元をシャツがちぎれそうなほどに捩じ上げる。

ジャスティーも負けじと食らいつき、一英の腕には爪がぎしぎしと食い込んでいく。

 だがジャスティーは意を決したように一英の腕を突き離すと、そのままひとり工場に進み入り、突然ショルダーバッグの中から大量の女性下着を出し、ばらまき始めた。

「な……」

 辺り一面にカラフルなブラジャーやショーツが散らばり、一英の心臓が早鐘を打ち出す。

ごっそり掴んでは四方八方へまき散らすジャスティーは、数回のばらまきの末、最後の一枚を旋盤の上へと放り投げた。

 清楚で真っ白なレース使いのブラジャーが、くすんだ緑色を機械油で更に黒ずませた旋盤の上で不気味に映え、一英が固唾を呑む。

蘇るのは、否が応でも公彦が巻き込まれた事故現場の風景だった。

「なにやってんだ……」

 絞り出した声が震える。



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