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葛飾、最後のピース 作者:ぐろわ姉妹

一英編(時:2010年)

36/75

第36話 好きな人の好きな人

 時間指定に間に合って最後の納品を終えた一英は、配達先の工場長に頭を下げ、その敷地を出た。

日没が近くなってきたとはいえ辺りはまだ眩しいほどに明るく、それなのにきっと今日も馬鹿みたいに暑かったせいだろう、工場前のねむの木はすっかりと葉を閉じている。

 だいぶ低くなった太陽が照らす雲を見上げ、一英はやっと配達の日々が終わったことにふうと息をついた。

 これでもう、瑠奈を葛飾区で引きずり回す必要はなくなった。

普段、浮気など疑うことのなかった瑠奈をあんなに怒るほど不安にさせたのは、やはり自分のせいに違いないのだから、今夜はさっさと横浜へ帰って瑠奈の気に入るデートでもしよう。

 住宅地で走り回る小学生たちの自転車を慣れたステップで交わし、一英はミニバンへ駆け戻る。

だが、公園横に停めた車内に二人の姿はなかった。

窓越しに見ればキーが差さっておらず、ドアもロックされている。

 二人を探して辺りを見回すと、中川沿いの公園の中、小高い土手に這う散歩道を上って、川の方へ歩いていく瑠奈の姿が見えた。

そのすぐ後ろにジャスティーもいて、二人が何か会話している様子が遠くても解る。

一英も二人を追い、自然と公園に踏み入った。

 散歩道を上り切った瑠奈が信号のない小さな横断歩道を渡り、階段の手前で足を止める。

階段は中川の水辺に沿う遊歩道へと下りられるようになっていた。

 ジャスティーが隣に並んでくると、瑠奈は溜め息をつき、眼鏡をかけた横顔を見上げる。

「浮気……
ほんとにしてないんですよね。
信じていいんですよね」

「どうぞ。
信じるという自由は誰しもが持つ特権ですから」

 何度聞かれても答えは同じなのだがと言いたそうなジャスティーが、まだ苦悩している瑠奈をくすくすと笑う。

 そんなに笑わないで下さいよと照れたようにうつむく瑠奈を見ながら、ジャスティーは背後から風に乗って聞こえてくる音に耳を澄ませていた。

草を蹴る足音を捉えると、それを振り返らないまま、温和な調子で「ところで瑠奈さん」と続ける。

「初めての新小岩はどうでした? 
不審者、いっぱいいたでしょ?」

 瑠奈は声だけで柔らかく笑い、スカートの汚れを気にしながら眉を寄せる。

「いましたね~。
初めあの車に乗った時にもね、
スカート履いてる男の人が乗ってたんですよ。
信じられます? 
スカートですよ、スカート。
一瞬女の人かと思って、やっぱり浮気してたのねと思ったんだけど、よく見たら男の人で。
私もう、びっくりしちゃって!」

 横断歩道を渡ろうとした一英は、耳に飛び込んできた瑠奈の言葉に身を固めた。

二人の背にかけようとした声も、驚きとともに呑み込まれる。

 帰路を急ぐような人も、車も通らず、数メートル先にいる瑠奈の息遣いまで聞こえるほど、辺りは静かだった。

シロツメクサの茂る土手を駆け上がってきたジーンズから、白線の入ったハート型の葉が何枚も零れ落ちる。

 瑠奈の言葉に耳を疑った一英だったが、彼女の背中からは本気の嫌悪が滲み出ていて、冗談で言ったわけではないことを物語る。

瑠奈がスカート男とジャスティーを別人と思っているなんて、にわかには信じられなかった。

「男なのにスカートなんて私もう……」

 続けてキモイと言うだろうことが、思い出すのも嫌そうな声色から察せられた。

ジャスティーもそれを予期したのか、続きを聞かずに笑い始める。

「もう何年もあの格好なんですよ」

 きょとんとした瑠奈がすぐにハッとして、「やだ!」と口元を抑える。

「あの人、
もしかしてお知り合いですか?」

 急にジャスティーへの対応が良くなったのも、この辺にカフェはないかという質問を繰り返したのも、別人と思っていたのならその方が素直に納得できた。

 確かに、変態スカートファッションから爽やかなスーツ姿に変わったのは、一英にとっても意外なほどだったし、そもそも変態の顔などろくに見てなかっただろう瑠奈がそれを別人と誤解しても、無理のないことではあった。

 だが、笑っているジャスティーの声からは、おかしいから笑顔してるわけではないことがうかがえる。

それは虚しさの混じった、呆れからくるものだった。

服装が違うくらいで、半日をともにした相手からまったく気づかれなかったのだから、それは乾いた笑いも出るだろう。

 しかし瑠奈はまだ真相に気づかず、ジャスティーにつられるように笑っている。

男がスカートなんて引くでしょというジャスティーの言葉に、瑠奈は首を横に振り、ちょっとビックリはしたけど自己流のファッション持ってるなんて素敵です、などと愛想のいい社交辞令を並べていた。

 眼鏡を押し上げたジャスティーが他人事のように言う。

「どうも井梶の影響で履いてるみたいですよ、スカート」

「カズくんの影響って?」

「詳しくは僕の口からはとても。
まぁ色々あって」

「色々……?」

 疑問符を頭に浮かべている瑠奈を、ジャスティーは突然、だがゆっくりとした優しげな仕草で覗き込んだ。

瑠奈はその目を受け、驚いた様子は見せたものの、何だか意味深に見つめ返す。

 見てはいけないものを見てしまった気がして、一英は咄嗟に小さな花壇へと身を隠した。

頭上では太陽発電塔がカラカラとオブジェを回し、シロタエギクの草間から二人の姿が見え隠れする。

 見る見る紅潮する瑠奈の頬に、抑えがたい胸騒ぎが湧く。

激しく動悸がし、まるでキスでもしそうな角度で顔を近づける二人から目をそらせずにいると、ジャスティーが「あれぇ? まだ解りません?」とおどけた声を上げた。

そしてパッと瑠奈から顔を遠ざけ、

「あは、解った! 
瑠奈さんて、スーツフェチで眼鏡フェチで優男フェチでしょ? 
それも重度の!」

と高く笑う。

 ジャスティーの言葉に、思考が停止させられたのは一英だけではなかった。

瑠奈も愕然と目を瞬いている。

半分開いている桃色の唇からは一言も発せられず、瑠奈の沈黙に一英の背はどっと嫌な汗を溢れさせた。

 瑠奈がなぜ否定しないのか。

なぜ黙ったままでいるのか。

 問いただしたい思いが渦巻くが、聞こえてくるのはジャスティーの呆れ返った笑い声だけで、建設半ばのスカイツリーが斜陽にかすむ。

 笑顔のジャスティーはブレスレットの揺れる左手でネクタイを緩めると、ジャケットを脱ぎながら煌めく中川に目をやった。

「そんなんだから、
男がスーツを着て、眼鏡かけて、柔和に笑ってるだけで、
そいつの本当の姿がまったく見えなくなるんですよ」

 新品のジャケットを脱ぐや惜しげもなく地面に放り、外した眼鏡も階段下に投げ棄て、ふうと息をしたジャスティーは形よくセットしていた髪をぐしゃぐしゃと乱す。

その仕草には怒りが半分滲み出しているようにも見えた。

 そしてピスポケットから小さくたたまれた布を取り出し、バッと広げると、慣れた手つきでそれをパレオのように腰に巻きつける。

バスタオル以上に大判のそれには、たくさんの茄子を散らした小紋柄が茄子紺で染め込まれていた。

 その姿を見てやっとジャスティーの正体に気づいた瑠奈は、先ほどとは違った理由から言葉を失っていた。

ジャスティーは解いたネクタイを胸元で蝶々結びに改めながら、さっきまでの優しさを無くした冷たい目で瑠奈を見る。

「あんたさ、
誰が誰だかなんてどうでもいいんでしょ。
でも結婚するんだったら、
もう少し相手のこと解ったほうがいいんじゃない?」

 瑠奈の眉が屈辱に震え出し、わななく唇は今にも何かを言いそうだった。

 いま何かを言ったら、そしてそれが決定的な言葉だったらと思うと、一英は瑠奈には何もしゃべらせたくなかった。

瑠奈の声が耳に入る前に、急いでその場へと割り入る。

「お待たせ!」

 一英が何も聞いてなかった風を装い横断歩道を駆け寄ると、ジャスティーだけがパッといつもの笑顔を向けてきた。

「あ、終わりましたー?」

「って、なんでスカートに戻ってんだよ?」

「もう配達終わったし、いっかなーって」

「いくねぇよ」

 一英は自分でも白々しいと思いながらジャスティーのパレオ姿に驚いて見せ、瑠奈には機嫌をうかがうような笑顔で覗き込む。

「ごめんね瑠奈、
男のスカートなんて見苦しいよね、ほんと!」

 ハッとした瑠奈がジャスティーよりも明るい笑顔をこちらに向け、胸へと飛びついてくる。

だが笑顔とは裏腹に、瑠奈の声はどこかしら焦りを含んでいるように聞こえた。

「カズくん、配達終わったんだよね? 
ルナもう、横浜に帰りたい。
はやく帰ろ? 
今晩、うちに泊まりに来て?」

「どうしたの急に」

「だって月曜になったら、採用の電話が来るんだよ? 
カズくんを面接した上司がね、カズくんのこと超いい感じだったって。
採用したいと思ってるって。
だから週末はずっとお祝いしようよ、月曜は二人の記念日になる日でしょ」

 一英は、瑠奈の積極的な誘いに満更でもないようなふりで、とりあえずの笑いを浮かべてみる。

だがどうしようもないぎこちなさは、やはり拭えなかった。

 顔を上げた瑠奈は、いつもと変わらない癒し系の笑顔で一英を見上げてくる。

ジャスティーにフェチがどうだと言いがかりをつけられ、瑠奈は何を言おうとしていたのだろう。

そんな思いがせっつくが、この笑顔に何度も救われてきたことも鮮明に思い出された。

 瑠奈はいつも、「カズくんはカズくんだから」と言って、無粋なこともすべて受け入れてくれた女性だ。

その彼女が、あんな小さな言いがかりで怒ったりなどするだろうか。

ジャスティーの言う事実無根の文句など、きっと気にもしていないはずだ。

瑠奈とはそういう、根っから懐の広い女性なのだ。

 頭ではそう思えるのに、心は何もすっきりしなかった。

 瑠奈は戸惑う一英の胸にもう一度身を摺り寄せ、背中に回した手をきゅうっと締めつけてくる。

抱きしめ返そうにも、瑠奈に嫌われた油まみれの手では、そうすることができなかった。

「瑠奈、
ほら作業着だし、汚れるよ……?」

「カズくん。
ルナはね、モードスタイルのタイトなスーツ着て働いてるカズくんがカッコイイと思うの」

 突然そんなことを言い出した瑠奈がひどく遠くに感じられ、重たいものが胸につかえる。

一英が相槌を打って頷くと、

「あと、
ルナには新小岩は合わないなって思った」

という悪気のなさそうな主張が続いた。

 応えない一英の横顔をジャスティーが見つめる。

その冷めた目が、一英に抱きついている瑠奈に移り蔑むように眺めると、気づいた瑠奈も一英からは見えないことを知って、反論じみた視線を返す。

「ねぇカズくぅん。
今晩、うちに来てくれるよね?」

 一英が絡まるような猫撫で声を見下ろすと、なんでもしっかり見えていそうな大きな目が見上げてきていた。

その目を一度だって疑うことなどなかったのに、よく見れば、こちらを見つめているはずのそれはどこかしら虚ろで、この期に及んでちらちらと眼鏡のフレームを撫でていく。

(嘘だろ……)

 信じたくなかった。

 この目を同じように向けられたジャスティーはいつ気づいたのだろうか。

いや、どうして俺は今まで気づかなかったのだろう。

こんなに焦点の違う目でずっと見られていたなんて、知らなかった。

 奥歯を噛みしめる一英が見つめ返しても、瑠奈の揺れ動く目は、一英のそれとしっかり合わさらずに何度もフレームをなぞる。

 ジャスティーに目をやると、彼は一英と目が合う前にふいと背を向け、放り捨てたジャケットを拾ったりしながら遊歩道への階段を下りていく。

瑠奈は一英の視線を訝しげに追うが、ジャスティーのスカート姿に顔をしかめるだけだった。

 一英は何をどう言ってよいか解らず、逃げるように瑠奈から身を離す。

どうしたのと言いたげな瑠奈が見つめてくるが、できることなら理由は聞かないでほしかった。

曖昧な笑顔を返すのが精いっぱいで、それすら上手くできない。

 瑠奈の不信に満ちた気配に突き刺され、一英の視線は川面へと逃げる。

(考えるな……
考えるな……)

 浮気疑惑を抱かれて不快な思いをしたくせに、今度は自分が瑠奈に疑惑を向けていることが嫌だ。

それなのに、湧き上がる疑念は速やかに形を成していく。

 ねじ伏せても思い出されたのは、以前に何度か交わしたことのある会話だった。

 ことに及ぼうという最中、眼鏡を外そうとした一英に、瑠奈は「外さないで」と言った。

その理由を瑠奈は、「だっていかにもって感じで、ムード台無しだもん」と言っていたが、今となってはその言葉は嘘だったのではと思える。

 一英は瑠奈の目を見られなくなり、途切れた会話をどちらからも繋ごうとしない時間が流れる。

階段の上で、二人は気まずく立ち尽くす。

 眼下の遊歩道では、水辺の柵に寄り掛かるジャスティーが裸足になり、こちらには無関心なご機嫌さで、巻きスカートを履いたままトラウザーズを蹴り脱いでいた。

 サンダルに履き替えて満足そうなスカート男の生足を、瑠奈は気味悪そうに見ていたが、突然ハッとして小さな声を上げる。

「カズくんの影響って……
やだ、そういうこと……?」

 青ざめた呟きに一英が顔を上げると、キッとこちらを振り向いた瑠奈と目が合った。

 どうしたの、などと声をかける暇はなかった。

なんらかの確信に満ちた瑠奈は、「ひどい」と声を震わせて睨んでくるや、次の瞬間には思いきり頬を平手打ちにしてきた。

 思わぬクリーンヒットで視界がチカつき、一英はバランスを崩し階段を転げ落ちそうになる。

咄嗟に手すりにつかまった一英が身を起こすよりも早く、瑠奈は物凄い勢いで踵を返した。

よろける一英が、反射的にその腕をつかむ。

「ちょっと待って……」

「やだ、離して!」

「待ってって!」

「いやぁ、気持ち悪い!」

「なんだよ、急に! 
なんで叩くんだよ!」

 気持ち悪いってなんだ! ひどいってなんだよ! 俺、さっきの話、聞いてたんだよ? ひどいのは瑠奈のほうなんじゃないの? 俺には浮気疑惑かけておいて、自分はフェチだけで俺を見てたとか嘘だよね? 答えろよ、あいつの言ってたことどう説明すんの? 今ここで俺に説明してみろよ! 

 そう口にしたら確実に終わりのような気がして、一英は一言も発せないまま、逃げようとする瑠奈の腕を更に強くつかむ。

「痛い!」

 甲高い瑠奈の悲鳴に思わず力を緩めると、もう一度平手が飛んできて、一英の頬がさっきよりも高らかに打ち鳴った。

 空を背景にした土手の上はまるでステージのようで、そこでもめる二人を演劇でも見るかのように見上げていたジャスティーが、欧米人さながらの冷やかしで「うへ~」と顔を歪める。

 瑠奈が一英の手を振りほどき、薬指から外した指輪を投げつける。

嫌悪に満ちた瑠奈の視線をまともに受け、一英はそのあまりの変貌ぶりに何もできなくなった。

 瑠奈の言う、「好き」とは一体なんだったのか。

(これ投げつければ、
こんな簡単に終われちゃう俺だったんだ……?)

 一英は自分でも驚くほど急速に消沈する愛情を認め、自分が何かを口にしなくても身勝手に終わっていく非情さに、むなしい胸でただ呆然と瑠奈を見つめた。

「変態!」

 そう一言言い残して背を向けた瑠奈は、これ以上一英を寄せ付けないオーラを振りまきながら、そのままずんずんと公園を抜けていく。

「……変態って……」

 そんな言葉、瑠奈から投げつけられる日が来るとは夢にも思わなかった。

(俺、なんでぶたれたんだ?)

 一体、俺が何をしたというのか。

せめて理由くらい言っていけよと思う気持ちが通じたのか、携帯を耳に当てた瑠奈の大声がこれ見よがしに辺りに響く。

「ちょっとマイ、聞いてよぉー! 
カズくん、やっぱ浮気してたぁ! 
しかもホモだったぁ! 
っちょーーーーーー信じらんない! 
地元に男の恋人がいたの、しかもスカート履いてる男だよ! 
信じらんないでしょ? ほんとだよ! 
疑惑じゃないの、ガチ! 
お前にはスーツは似合わないとか言っちゃってさ、
それって俺の前ではずっとスカート履いてろよってことでしょ? 
もうキモイいんですけど、キモイんですけど、キモイんですけど! 
ルナ、ショックで頭痛いよぉ! 
このままじゃ立ち直れないから、今日は絶対合コンしたぁい! 
マイお願い、助けてッ! 
あーもう、それはもちろん、スーツの似合うモードなメンズがいいに決まってるし!」

 土手の上に立ちすくむ一英が、小さくなっていく瑠奈の姿を呆然と見送る。

一度もこちらを振り返らない瑠奈は、ヒステリックに笑いながら土地勘もない住宅街へと消えていった。

 すっかりいつもの不審者に戻ったジャスティーがついと隣にやって来て、足元から拾った指輪を一英の手に返してくる。

だらりと開いたそこに押し付けられた感触は、硬く、生ぬるかった。

「えっと、僕追いかけて、
誤解解いてきましょうか?」

 そんな気もないくせに吐かれたセリフはいかがわしいほどに爽快で、一英は力なく聞き流しながら、静かだが深い溜め息をし、むなしさを吐き出す。

夕暮れの空には街に墜落していくような、飛行機雲が伸びていた。

 黙って歩み出す一英の後を、同じように黙したジャスティーがミニバンのキーを鳴らしながらついていく。


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