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葛飾、最後のピース 作者:ぐろわ姉妹

一英編(時:2010年)

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第2話 公彦という男

この小説では工場を「こうば」とお読みください。
 何もせずとも噴き出す汗は、それを拭うことすら面倒にさせる。

それでも井梶家は、すべての窓を開け放せばかなりの風が通る家だった。

夏になるといつもそうだが、リビングの窓から見える空は底抜けに青く、俺にも描けそうな入道雲がもくもくと家々の向こうに立ち上がる。

 俺は昼食のそうめんを急いで食べ終えると、母の「宿題は!」という声を振り切り、玄関脇から伸びている外階段を駆け下りる。

後ろからは小学一年になった三つ下の弟、裕貴も、母を調子よくいなしついてきていた。

 井梶家は一般住宅の三階ほどの高さがある建物だったが、住居部分は一番上のワンフロアだけであり、地上部分は父の経営するプレス工場として使われ、天井の高い作業場には関連の機械が幾つも置かれていた。

 俺と裕貴はけらけら笑いながら階段を下り、競って工場のドアに首を突っ込む。

「公彦おじさん、あーそーぼー!」

 両親から工場には立ち入り禁止ときつく言われていた俺たちは、いつものように工場の外であるギリギリラインに立ち、大きな声で呼びかける。

その様子を階段の上から見下ろしていた姉が、

「あー、カズ一歩入ってる! 
母さんに言ってやろー!」

と叫んだ。

中学生になったせいか、それまで以上に偉ぶる姉に口答えしていると、工場の中から「おう、いいぜぇ」という間の抜けた挨拶が返る。

 昼休憩に沈黙するプレス機の隣で、パイプ椅子に座るくわえ煙草のおじは、大きな扇風機を独り占めにして競馬新聞を広げていた。

 母とはひと回りも年下の弟であるおじ、公彦は、高身長に浅黒い肌と黒々とした眉を持つなかなかの男前だった。

二十代ということもあってか子供に対して構えるところもなく、遊びにもよく付き合ってくれ、俺にとっても裕貴にとっても、恐らくは見知らぬ子どもにとっても、大変親しみやすい人物だった。

 母に言わせれば、お調子者で注意力散漫なうえに適当な性格、昔から不真面目でとにかく危なっかしい弟だったそうだが、俺からすれば職人気質な父なんかよりずっと人当たりはいいし、子供に対しての思いやりもある相当『できた』大人だった。

 だがそんな大人受けの悪い性格がたたってか、どうしてもサラリーマン社会に馴染めない彼は、すでに様々な業種でクビを経験済みだった。

今回も七回目のクビを受け、いよいよ姉夫婦を頼り数週間前から井梶プレスでアルバイトを始めたのである。

 周りはどうだったか知らないが、おじがいるだけで俺は楽しかった。

親の盆休みなどないに等しい町工場の子供にとっては、『夏休み』というのは『完全に暇を持て余す日々』の代名詞だ。

そこに毎日おじがいるということは、毎日遊び相手がいるということであり、俺も裕貴も休み時間のたびに工場へ下りては、こうしておじにまとわりついた。

 工場前の車道でおじ対兄弟二人という変則キャッチボールをしながら、俺は先日の悔しさをおじに話して聞かせる。

「下着ドロ?」

「そう、あと一歩のところで逃したんだ。
また今度見つけたら、おじさん一緒に捕まえようよ」

「いいね。つるしあげか」

 屈託なく白い歯を見せているおじを、工場の従業員たちが不快な目で見ていることに、その時の俺は気づかなかった。

休憩時間はとうに過ぎていたが、社長の義弟相手では注意もしにくかったのだろう。

「仕事はそれなりにこなしちゃいるが、
あれじゃあな」

と工場の中から従業員たちがささめく。

そんな中、怒鳴り散らしながらやってきたのは父、英博だった。

「いつまで遊んでやがる、馬鹿野郎が! 
カズ、裕貴、仕事中のおじさんとは遊ぶんじゃねぇって言ってんだろう! 
公彦、てめぇも下っ端なんだから休憩時間は厳守しろ!」

 父の容赦ないげんこつが飛び、頭を押さえた裕貴が大泣きする横で俺も痛みに悶える。

頭蓋骨が割れてるんじゃないかと思うほどの痛さに、その時ばかりはおじを遊びに誘うのはもうやめようと思うのだが、二日もすれば俺はまたこそこそと工場を覗き、そうするとおじも、休み時間だけならとちょこちょこ遊び始めたりする。

あの頃の俺たちは懲りるということを知らなかった。

 そんな日々が続いていたある日。

まだ夏休み中だというのに珍しく早起きしてしまった俺は、朝食前に家を抜け出し、愛用の自転車にまたがっておじのアパートへと出向いていた。

 歩いても五分ほどのそこは昭和中期に建てられた風情で、風呂なしトイレ共同という下宿屋の雰囲気を残す作りのアパートだった。

間違ってトラックでも突っ込んだら最後、ドリフのオチのごとく簡単に全壊大破し、もしかするとぐるりと回ってセットチェンジでもしてしまいそうなくらいにボロくさい。

 共同玄関をくぐり一階一番手前の部屋を覗くと、玄関ドアが豪快に開け放たれ、そのノブはビニール紐で外の柱に引っかけられていた。

ドアの脇に蚊取り線香の燃えカスがあったが、これでは虫どころか人間だって出入りが自由すぎる。

ところが部屋の主は人間よりも虫の侵入のほうが一大事なようで、ドア枠にはどこから外してきたのか、網戸が一枚、内側から力任せかつなおざりにはめ込まれていた。

 間違いなく一晩中この状態だったろう不用心な玄関先で、俺は穴だらけの網戸を一応はノックする。

だが網戸は「公彦おじさん」と声をかけるよりも早く、ぱったりと部屋の中に倒れていった。

「ねぇねぇ! 
今日もさ、仕事終わったらまた銭湯行こうよ!」

「おめぇ早ぇよ……」

 不意の訪問者に叩き起こされ、せんべい布団の上に座ったおじはぼんやりしながら煙草をくわえる。

早いとはいっても時計は七時を回っていた。

寝汗でべとつく首元をぼりぼりと掻くおじに、俺は朝っぱらから眩しいほどの瞳でかぶりつく。

「行こうよ行こうよ、
ぜったい約束だからね!」

「うわー、めんどくせー」

「行きたいよー! 
今日も明日も、あさってもー!」

 何日か前、いつも井梶家で夕食を食べさせてもらっているからと、おじは子守りがてら、俺と裕貴を銭湯へと連れてってくれていた。

きっとおじは軽い気持ちだったのだろうが、それがデビューだった俺たちはすっかり銭湯が気に入ってしまい、風呂付きの家に住んでいるくせに連日の銭湯通いをおじにせがんだ。

 溜め息しながらしばらく時計を眺めていたおじは、体のあちこちにできてしまった膨れに十字の爪痕をつけつつ、ぼそりと言った。

「そんなに銭湯行きたいか?」

「行きたい!」

「悲しいな、
せっかくの夏休みに風呂ばっかなんてよ」

「だって父さん、
どこにも連れてってくれないし」

「遊園地とかにも行きたいと思うだろ?」

「そりゃ行きたいよ、
毎日行きたいに決まってる!」

「連れてってやろうか」

 思わぬ言葉に俺は歓声を上げた。

「ほんと!」

「うっそ」

 おじがしれっと舌を出し、俺は強めのパンチをその十字だらけの二の腕に食い込ませる。

「いって!」

「なんだよもう! 
俺、遊園地行きたいよ、おじさん連れてってよ!」

「っかー、しょうがねぇなぁ。
そこまで言うんなら、俺今日仕事休みだからよ。
このままどっか出かけっか」

「ほんと!」

「ほんと。
でも裕貴はなしな。
そうと決まったらさっさと行くぞ、
お前の母ちゃんにはあとで電話しときゃいい」

 思わぬ外出に俺は飛び上がって喜び、おじのあとについてJR新小岩駅へと向かっていく。

前もった予定など何もなかったのに、思い立ったその日に即決で遊園地へ行く。

そんなこと初めてだった俺は、リュックひとつ背負っていない自分にクールなワイルドさを感じてしまい、胸を高鳴らせた。

 駅前の立ち食いそばを朝食にしたあと、総武線に乗り、おじは『遊園地』を目指す。

下りの電車は通勤時間でも空いていて、キヨスクで新聞を買ったおじは「ずっと我慢してたんだよ」と、遠足に行く小学生のようにわくわくしていた。

 遊園地だと期待して着いたところは、激烈に渋い、地方競馬場だった。

お出かけ慣れしている小学生ならそこでおじを責めるのだろうが、遊園地に行った記憶のない俺にとって両者に大差はなかった。

まだ午前中だというのにわんさかと集まる人混み、日常とは違う熱気あふれる雰囲気、それだけですぐに目を輝かせる。

 俺以上にテンションの上がったおじは、立て続けに何レースも楽しみ、俺も買ってもらったフランクフルトを頬張りながら、いつしか一緒になって予想するようになっていた。

おじは俺の予想も必ず百円だけ買ってくれ、そのたびに「来るかもしれないから、しっかり目ぇ凝らせよ!」と肩を叩く。

 俺が握った馬券はほとんどが的外れだったが、一度だけ万馬券をかすめ、その時ばかりはゴールする馬に二人して最大級の大声を上げた。

鼻差で負けたあまりの惜しさに、俺たちは互いの必死すぎる応援ぶりを再現しては、腹がよじれるほど笑った。

 競馬好きのおじは何度も予想を的中させ、昼食も食べずつまみとビールだけで終始ご機嫌だった。

俺はずっと笑っているおじに肩を組まれながら、自分もいっちょまえの大人になったような気がして、煙草のかわりにつまようじをくわえたりなんかした。

 ずいぶんと競馬を楽しみ、俺たちがほくほく顔で新小岩に戻ると、駅前の空はまだ夕暮れ前だった。

朝早くから遊んで、体感的にはもう夜になっているだろうと思っていたのに、早起きをしたせいで一日が長い。

 あくびをしながら、帰って昼寝でもしようと言ったおじだったが、改札を出た途端、その目が駅前のパチンコ屋に留まる。

一瞬の躊躇もなく、すすすと軍艦マーチに無抵抗で吸い込まれたおじは、「ずっと我慢してたんだよ」と、朝と同じ台詞で俺をパチンコ屋に連れ込んだ。

 初めて入ったパチンコ屋は小学生の鋭敏な耳にとっては地獄、清潔な肺にとっても地獄で、とにかく赤ばかりが目立っている不思議な空間だったが、おじの隣でデジパチ指南を聞いているだけでも俺は楽しかった。

ここでも当てたおじから、茶色い紙袋にたっぷり入った菓子をもらい、俺たちはすっかり日の暮れた街をのんびりと井梶家へ帰る。

「公彦、てめぇ仕事サボって何してやがった! 
なんでカズも一緒なんだ!」

 俺は井梶家の玄関先でおじが張り飛ばされるのを見て初めて、今日は休みなんだというおじの言葉が嘘だったことを知った。

お前の母ちゃんにはあとでするから、と約束した電話すらしていなかったことも、すぐに察しがついた。

「アパートにカズの自転車があったから、
どうせ一緒にいると思ったがな」

 朝から行方不明になった息子に家族は大騒ぎしたに違いない。

出勤してこないおじのことも心配しただろう。

おじに「休みだ」などと嘘をつかせたのは、自分が遊んで欲しいなんて無理を言ったからだと俺は思った。

 咄嗟に謝ろうとした俺の先に、おじが歩み出る。

「いやぁ、義兄さん。
やっぱり俺は駄目な男だ。
サボりたくて一英をダシにしちまった。
姉ちゃんもごめん」

 しっかり頭を下げたおじだが、仁王立ちを崩さない父は冷たく言い放つ。

「こんなことじゃ、もうウチには置けねぇよ。
どこかよそで働くんだな」

「父さん!」

 俺がいくら謝っても、いくら懇願しても、父は聞く耳を持たずに家に入ってしまい、母は「もう決まったことなんだから」と諭してくる。

 夕食を食べずにそのまま階段を下りていくおじは、どうしていいか解らない俺に手を振り、

「いいんだよ、これで。
今日は楽しかった、ありがとうな」

と笑って帰っていく。

おじの姿が見えなくなり、母の手を振りほどいた俺は、悔しい雄叫びとともに菓子の入った袋を玄関に叩きつけた。

 その後は二週間ほど井梶家に遊びに来なかったおじだが、次の就職先が決まったことで、また以前のように頻繁に夕食を食べに来るようになった。

 就職先は、父の口利きで今までの仕事とほとんど変わらない金属加工の工場を紹介されたということだったが、俺たちがその勤務先を知ることは両親が決して許さなかった。

どれだけおじに聞いても、よほど固く口止めされていたのか、彼が口を割ることもなかった。

「なんだよ、ケチ……」

 仕事をさぼらせてまで遊んでしまったことは確かに反省する。

だがそれくらいでおじをクビにし、どこかへ追いやってしまった父に、俺は不満を抱くようになっていた。




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