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葛飾、最後のピース 作者:ぐろわ姉妹

一英編(時:2010年)

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第10話 アジト

 葛飾区最南端にある新小岩という街に生まれ育った者にとって、区内は近くて遠い、ほとんど見知らぬ土地だというケースが多くある。

そのレベルたるや、区内で知っている地名は柴又と亀有くらいという、余所者と同程度だったりもする。

理由は葛飾区の地図を見れば明らか、単純に区内への移動が面倒なのだ。

 まず縦長の土地に対し、路線がすべて横に走っている。

一本だけ区を縦に這うレールが新小岩駅から伸びてはいるが、それは貨物線のため人々の移動の足にはならない。

JR線に属す新小岩と京成線に属すその他の地域とを結ぶのは、ちんたらした路線バスのみという状況だ。

 つまり新小岩住民にとって、葛飾区役所よりも、総武線で十数分という東京駅のほうがよっぽど近い場所ということになる。

 新小岩駅から二キロほど行ったところで区内を分断する河川の存在も、新小岩住民をこの街にせき止める要因の一つだ。

ショッピングもレジャーも総武線沿線で充分間に合うため、役所関連以外で川向こうに赴く必要のない彼らはどんどんと区内に疎くなっていく。

区内を巡る路線バスなど、どこをどう通ってどこへ向かうのかすら知らないまま、成長して大人になることができるのだ。

 そんなわけで、今どこを走っているのか自分でも解らないという信号待ちの間、傾いた陽の差しこむ車内で一英の携帯が震えた。

通話に出ると美洋のでかい声が耳をつんざく。

「やっと出た! 
あんたってば電話しても全然出ないから心配したわよ! 
配達先に電話したらどこもちゃんと届いたって言うからビックリしちゃった。
配達先よく知ってたじゃない」

「ま、まぁね」

 配達が――というより配達だけが無事終了し、満身創痍の一英は、未だ助手席に座っているジャスティーを横目に見ながら口ごもった。

 美洋からの着信が溜まりに溜まっていたようだが、今日は一日、色んな意味で携帯を見る余裕などなかったのだから仕方ないだろうと思う。

ミニバンは新小岩へと向かっていた。

 信号が青になりそうな気配を察した一英が、十七時半を回る腕時計に目を落とし、

「夕飯のおかずでも買って帰るよ」

と言う。

すると耳元から、「ほんと? 助かるわー」と嬉しそうな声が漏れた。

 慣れない工場仕事を手伝って疲れているはずなのだから、せめて家事の負担くらい減らしてやりたい。

一英は通話を切り、そのためにはまずはこいつを追い出さなければとジャスティーを見る。

信号が変わり、ミニバンが走り出した。

 どうやって刺激せずに降ろそう。

刺激すればまた滅多にない奇行を見せつけられる気がして、一英はできるだけやんわりと声をかけてみる。

「えっと……どこで降ろせばいい? 
配達手伝ってもらったわけだから、降りたい場所まで送っていくよ」

「ほんとですか! やったー!」

 無邪気に笑ったジャスティーが「やったー」の「たー」と同時に、走行中のハンドルへと手をかける。

またかよと叫ぶ間もなくぐいっとハンドルを切られ、ミニバンは横滑りしながら交差点を曲がっていく。

 刺激しなくても奇行に出るのかよ、さすが不審者! と、もしアカウントを持っていたら盛大にツイートしていたに違いない叫びが、心で響く。

 一英の罵倒を待たず、ジャスティーが危険行為をけろっと笑う。

「ここ、左だったもんで」

「だったら口で言え! つかもうマジ出てけ!」

「嫌です、最高においしい惣菜屋を紹介するのです!」

 恐怖の急ハンドルをなんとか立て直し、左折した先の対向車にクラクションで怒鳴られながら、一英はジャスティーから飛び出した意外な言葉に眉をしかめる。

「惣菜屋ァ?」

 強引なナビに翻弄されながら進むと、数分も走らぬうちにミニバンは京成立石駅にやってきていた。

駅前の私道めいた道を誘導され、個人の月極駐車場にしか見えない場所に車を停めるよう指示される。

そして、

「ここからは歩きです」

などと嘘っぽい笑顔で言われ、無理やり手首をつかまれた一英は、細い猫背のあとを引きずられるように連行された。

その力が尋常でなく強いのが、恐ろしい。

「おい、ほんとにうまい店があんだろうな! 
ほんとはヤバイとこ連れてくんじゃないだろうな!」

 ジャスティーは迷いもなく行くが、進む狭い路地は何度もうねり突き当たり、あちこちに曲がらされた。

もう一人じゃ駐車場まで戻れまいと思った一英は、電波が相手なだけに、このまま拉致られて改造人間になりましょうとか言われるのではと青ざめる。

 そんな一英をよそに、ジャスティーは明らかに民家だろうという構えの薄暗い勝手口を遠慮なく開けて入っていった。

「どうもー大将、
今日も来ましたですよー!」

 一英が恐る恐る勝手口の中を見ると、そこは意外にも民家ではなく、昭和の雰囲気がふんだんに残る小さな居酒屋であった。

だがやはり、今しがたくぐってきたのは勝手口だったようで、本来の入口らしき引き戸が向こう側でしっかり暖簾をはためかせている。

 店内は木製のカウンターに七つの席あり、その背後の壁際には古い中華料理屋か定食屋でしか見たことのないような、細くて黒い脚に真っ赤な天板が乗ったテーブル五卓と、背もたれのある揃いの椅子が四脚ずつあった。

 ジャスティーはちらほらいる常連らしい客と挨拶を交わし、木製の床にサンダルをピュッピュと鳴らして一英を引いていく。

店内最奥の壁に一面シャッターが下りているのを見た一英がその不可解さに首を傾げると、ジャスティーがにやけ顔でそっと耳打ちしてきた。

「シャッターの向こうは団体様ご案内の宴会場です。
普段は開けませんがほんとの面積はここの倍以上広いのです。
そしてなにを隠そう、この店が僕たちのアジトです。
素敵でしょ、ヒーローさん♪」

「アジト……って」

 一英が「イタイよお前」という気持ちを顔いっぱいに刻み込む。

 と、カウンターの中からねじり鉢巻の店主が上半身を覗かせ、声をかけてきた。

一英の両親と同年代ほどの彼は、がっちりとした体に鯉口を着て、ひげだらけの口元を気さくに引き上げている。

「よぉジャスティー、来やがったか」

「大将見て! 
僕のヒーローさんです!」

 つかんだ手首を高々と上げて見せるジャスティーに、慌ててそれを下ろさせた一英が小声で歯をむく。

「ヒーローヒーローって、その呼び方いい加減やめろ。
そしていい加減、手を離せッ」

 店の中なのでかろうじて怒鳴らないでやった一英は、抑えた動きながらも強く腕を振りほどいた。

そして、何やってんだこいつらという大将の視線に、とりあえずの爽やかお愛想笑顔を返しておく。

すると大将はネギマの四串載った皿をすっと差し出した。

「二人とも腹減ってんだろ。
サービスだ、こいつでも食いな」

 湯気の上がるそれは醤油色にてらっと光り、夕食前の小腹を猛烈に刺激する。

わーいとすぐに飛びついたジャスティーに続き、今日は異常にエネルギーを消耗した一英も、一礼しながら「いいんですか? いただきます」とひと串口に運んだ。

「うめぇ」としみじみ呟いた一英に微笑み、大将が白いレジ袋をカウンターに置く。

「ほらジャスティー、
用意しといたぜ」

 大将に礼を言って受け取ったジャスティーが、それを一英に手渡す。

「はいヒーローさん! 
これ、もりのくまさん最強の惣菜セットです。
僕がさっき電話注文しておきました。
できたてホヤホヤですよ。
きっと美洋さんも喜びます。
あ、でも、奢りじゃないですよ。
お会計は自分でお願いしますね」

 夕食のおかずを買うと決めたのはついさっきじゃねぇか。

その後はずっと一緒にいたのにいつ電話したか解んねぇって怖ぇよ、なんかもうこいつ本当に怪しいんだよ、ってか『もりのくまさん』ってなんだよ?

 押し付けられるまま惣菜の入った袋を受け取りながら、一英の戸惑う目が店の入口に留まる。

 そこには、さっきは気づかなかったが、『盛の熊さん』と書かれた看板がかけてあった。

それが屋号だと解ったものの、なぜ看板を店の中にかけているのかという新たな疑問が湧く。

 だがそれを教えてくれそうなジャスティーは奥にあるカラオケ機へと行ってしまい、一英は袋から立ち上る温かく香ばしい匂いに誘われ、まぁどうでもいいやとレジへ歩み寄る。

「じゃあ、お勘定お願いします」

「あいよ」

 流れてきたカラオケはドラムの連打から始まるノリのいい曲だった。

八〇年代を感じるイントロに聞き覚えがあるような気もするし、ないような気もする。

一英は大将の勘定を待ちながら、思い出せそうで思い出せないという、脳の中央が妙にモゾモゾするような感覚を覚えた。

グラマラスなシャウト系の熟女が歌っていたような気がしてくる。

 ふと見ると、勝手口からはカウンターに隠れて見えなかった場所に、もう一つのテーブル席があった。

引き戸横のその席には外国人が男二人で座っており、下町の居酒屋にそぐわない流暢な英語で語り合っている。

しかし、二人の醸す『ここは俺らの席オーラ』から察するに、彼らも常連なのだろう。

 こちらを向いて座っているのは四十代くらいのイラン系の男で、背を向けている男は白人ということしか解らない。

二人は狭いテーブルに並べたいくつもの小箱から、細かな何かをつまみ上げてはしげしげと眺めていた。

 太い指には小さすぎるそれを手元の絵と見比べたり、あれこれ向きを変えては、ほかのものとくっつけたり外したりして試行錯誤を繰り返している。

恐らくは二人で楽しく遊んでいるのだろうが、作業が地味すぎて一英にはその楽しさが理解できなかった。

 彼らがこさえたものを盗み見ると、テーブルに広がるぐにゃついた逆三角形からして、どうも彼らはインドの模型でも作ろうとしているらしい。

しかし居酒屋に持ち込んでまでなぜそれをするのかが、一英には不可解極まりなかった。

彼らの英会話から「カナマチ、シラトリ、ハクチョウ」といった断片的な日本語が聞こえてくる。

 一英がそんな妙な光景に気を取られているうちに、カラオケはサビへと差し掛かり、今日どれだけ聞かされたか解らない、そしてもう聞きたくないと思っていた単語が歌声となってジャスティーから飛び出した。

「ヒーロォォォー!」

 そのフレーズで一気に熱血青春ラグビードラマが脳内に駆け巡った瞬間、一英の目が据わる。

急いで釣り銭を受け取るや、一英は「焼き鳥ごちそうさまでした」となんの憂いもなさそうな涼しげな笑顔で大将に会釈し、悦に入っているジャスティーを無視して店を飛び出した。

 大将が歌い続けるジャスティーに近寄り、一英の出ていったガラスの引き戸を顎で指す。

「いいのか、帰っちまったぜ?」

「いいんです、今日のところは! 
あなたというヒーローが必要だ! ということが伝わりさえすれば!」

 そう叫び曲の二番へとなだれ込んでいくジャスティーに、

「伝わってないと思うがなぁ」

と肩をすくめた大将がのそのそと、それこそ熊のようにカウンターへと戻っていく。




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