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林檎
作:しお


 ここに林檎が一つある。
あると言っても別にテーブルの上に載っているわけでも、地面に無造作に置かれているわけでもない。
重ねて言うなら、空中に浮いてはいない。ただ、そこに在るのだ。
 空間は真っ白である。白紙の画用紙のように白い。何もない、という表現の方が適切なのだろうか。
 林檎の色は、世間一般の人々がおよそ林檎というものをイメージするときに現れる赤である。
この赤という色は紫がかった赤、つまり赤紫ではない。写真で見る林檎というものは、実はそんなに赤くないのだが、
今私の目の前にある林檎は真っ赤である。例えるなら、油彩絵の具で赤だけを使って描いたつまらない林檎の絵のように赤い。
 私、と言ったが、今私はおぼろげながら自分が人間の女性であることを認識した。
目鼻立ちや髪の毛の色、長さ、身長、体重、体型、趣味、などは思い出せない。元よりそのような設定は無意味だ。
無意味という言葉の意味は、この話の性質上必要ないということである。
故に私は女であるが、それ以上の特徴は持たない。あえて言うなら、私は女という意識を持った"何か"である。

 さて、私は林檎を眺めてみる。
傷一つ無く、とても形の整った赤い林檎である。立体感はあるものの、紙に書かれた絵のような妙な薄っぺらさを感じる。
何しろ背景は真っ白なので、距離感がつかめない。上下左右といった区別まで分からないのでは、立体感云々を語ってもしょうがない。
 林檎は、触ればつるつるとした、ベニヤ板のような感触があると予想できるが、生憎私には手がないらしい。
光源があるわけではないのか、それとも全方向から光が差し込んでいるのか、はたまた私の目の錯覚なのか、
林檎の表面には反射光が見えない。酷くのっぺりとしている。
これが水滴などついてみずみずしければ、さぞかし美味しそうに見えたはずだ。
 赤いということで、私は赤に関するものを思い浮かべてみる。
血、郵便ポスト、トマト、炎、消防車、警告ランプ、口紅、東京たわ。
不意に思考が途切れた。どうやら林檎から話題がそれてはいけないらしい。私は林檎の話をしていたのか。
 林檎と言えば、キリスト教の聖書では善悪の木の実と考えられている果実である。
これを食べてしまったアダムとイヴは神の怒りを買い、楽園を追放されてしまう。
とすれば、私達は罪の果実を何気なく、ムシャムシャと、時には丸かじりで食べているのか。何とも恐ろしい話である。
今頃思い出したが、私は林檎が好きである。しかし、聖書に出てくる罪の果実はイチヂクであると信じているので食べる事に問題はない。
 アダムとイヴは、林檎を食べたときどのような感想をもったのだろうか。
あのシャリ、というみずみずしさを全面に押し出したような食感と、口の中に広がる酸味と甘味。
酸味と甘味は、すべての林檎において比率が違っていて、なかには個性的な味のものもあるが、私が勧めるのは酸味の比率が高い林檎だ。
私が林檎を食べたいと願うときは、大抵口の中をさっぱりしたい時である。さっぱりという言葉には、酸っぱいという言葉が
とてもよく似合うと私は考えている。林檎は水っぽいので、さらに口の中をさっぱりさせるのに適している。
甘味の比率が高いと生食には向かない。言い忘れたが、今私が前提としているのは生食である。
 林檎は生食以外にも食べ方がある。私は調理された林檎を想像してみる。
アップルパイ、アップルジュース、林檎入りサラダ、林檎ゼリー……
私の想像の限界はここまでだが、意外と林檎を使った料理というのは少ないのかもしれない。
林檎というのは生で食べるもの、という勝手な偏見が私の中には少なからずあるが、それも影響しているのか。
しかし林檎というものを一目見て、それを料理に使うという発想が瞬時に出来る人間がいたのかどうか、
非常に疑わしい。そもそもあのみずみずしい林檎が生食出来ないなどと考える人間はいないだろうし、一度食べてみれば
その口中に広がる甘美な世界に魅了されてしまうのは必然であろうと思う。
ここで誤解してほしくないのは、私は調理された林檎を嫌っているわけではないということだ。
あくまでも、林檎料理を想像できなかった私自身に腹を立てているだけである。

 いつの間にか、私は林檎を眺めることを忘れていた。
 林檎はやはりそこにある。相変わらずリアリティが無い。
 ひょっとすると、私はこの絵画のような林檎を描写し、そこから連想されうることをはき出させるためだけに
存在しているのではないか。私は少し怖くなった。ともすれば一体ここは何処なのか、そして何故私はこんなことをしているのか。
林檎を描写するためだけに存在する人間の女(というのが真実であるかも疑わしい)。何とも間抜けな存在である。
しかしそういった存在は、物語の中ではごく普通に登場する。主人公が林檎を買う時のためだけに存在するスーパーの店員、
目の前にある林檎を置くためだけに存在するテーブル、りんごのみずみずしさを表現するためだけに存在するシャリ、という効果音。
――むなしい。むなしすぎる。私はその程度の存在と同価値なのか。
いやその程度、とは適切な表現ではない。そう言った存在のおかげで、物語が成り立つのであれば、スーパーの店員やテーブルや効果音は
りっぱに存在意義を持つはずである。彼らはしっかりとした存在意義が与えられているため、存在意義について悩むことはない。
近頃の若者は自分が何のために存在しているのか分からなくなることが多いのだという。
そんな若者達にとって、自らの存在意義をしっかりとした効果音など、羨望の的であろう。
つまり私は、この物語において、何と林檎を語るという目的しか持たない主人公という位置づけになる。実に豪華だ。

 林檎に話を戻さなくてはならないと私が強く感じた。
しかしそろそろ語ることが無くなっているのも事実である。これ以上何を語れというのか。
「ちょっと」
 今私は初めて声を発した。相手は林檎である。耳がないのか、声は聞こえなかった。しかし、「ちょっと」というカギかっこ付きの台詞が脳裏に浮かんだのは事実である。
この林檎が意志を持っているとすれば、どうして私がこんなことをさせられているのか教えてくれると思ったからだ。
しかし、林檎からは何の返答もない。当然と言えば当然である。林檎は物であって意識を持ってはいない。
この林檎が意識を持っているとすれば、おそらく「何だよ」「俺に何か用か」などとぶっきらぼうな返事をしてくれるのではないか、
そんなことを妄想していた私は急に恥ずかしくなった。だが縮まるような体はない。
 林檎は意識を持つか。何とも哲学的なテーマである。
私は今人間の女であるという意識を持っているが、それを証明する手だてはない。ただ思っているだけだ。
もしかしたら、林檎も「俺は林檎だ」という確固たる意識を持っていて、それを外界に表現できないもどかしさを感じているのかもしれない。
そして、人間やその他の動物に果肉を食べられるとき、苦痛の叫び声を上げているという想像さえできる。
だが残念ながら、私の目の前にある林檎は言葉を発することが出来ない。私は彼が何を思い、そこにあるのか理解することは出来ない。
もし仮に理解できたとしても、この生意気な林檎めなどと言いながら彼(?)を蔑んだ目で見ないという自信はないのであるからやはりここは意識を持たないと仮定した方が彼(?)のためだ。

 突然、私は林檎以外の存在を感じた。
瞬間、小さな子ども(それ以外表現できない。とにかく小さな子どもである)が、今私が眺めていた林檎を両手で持っていた。
無表情で、上目遣いに私を見つめている。上目遣いに見られると、睨まれているような印象を抱くため、私は何となく嫌な気分になった。
子どもは嫌いではないが、好きでもない。その子どもが突然私の目の前に現れ、林檎を手にしている。
 子どもは持っていた林檎に視線を移した。じっと見つめている。息づかいは聞こえない。
 ところが、子どもはいきなり林檎にかじりついた。良い効果音が浮かばないので、とりあえずシャリ、にしておく。
衝撃はすさまじかった。まるで最終電車を待っているときに後ろから常識的に考えてあり得ない巨大なハンマーで後頭部を殴られたかのような衝撃であった。
私の林檎が、食べられた。いや、私のものだと思っていた林檎が、見ず知らずの子どもに食べられた。
 子どもは林檎にかじりついたままの姿勢で、私を見た。上目遣いに、無表情で、口元に林檎の内部にあった水分を含ませて。
それは何とも言えない、言葉の通じない外国に一人佇んでいるかのような寂しさがあった。

 子供が一言、「じ、えんど」とつぶやいた。
私は、この意識が途切れていくのを感じていた。


The end


純文学というんでしょうか。
そんなたいそうなものを狙っていたわけではないんですが、明らかにエンターテインメントではないですよね。
思いつきのまま書いた作品です。













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