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「あーあ、ヴァイクの奴も行っちゃったか」
ナーゲルは木の上で思いきり伸びをしながら、手にある赤黒い布きれを握り直した。
ほとんど一瞬と言ってもいい短い間にすべてが終わってしまったことの虚無感。
まさか計画が完全に失敗するとは思わなかったし、まさか翼人最強のマクシムが倒されるとも思わなかった。
予想外の出来事の連続――しかし、これが戦なのだとも思う。
これまで大規模な戦いには参加したことがなかったが、実は思うとおりにならなくて当たり前だった。あれほどの広い範囲で、あれほどの人数が一度に戦ったのだから、想像どおりにことが運ぶと考えるほうが無茶というものだった。
中でも驚きだったのが、自分たちの他にはぐれ翼人の大きな集団が存在していたことだ。
しかも、おそろしく強い。
もし真正面からぶつかっていたら、こちらはこてんぱんにやられていたはずだ。先の戦いがそれなりに拮抗していたのは、状況が混乱していたのと、飛行艇が邪魔をしたためにすぎなかった。
あの翼人たちは何を目的にしていたのだろうかと思う。こちらを敵とみなして襲いかかってきたということは、まさか帝国の人間たちを守ろうとしていたのだろうか。
それとも、こちらの心臓が目当てか?
いや、それは違うだろう。あれだけ激しい戦いにかかわれば、ジェイドを狩るどころか自分たちが巻き込まれて命を落とす危険性のほうがよほど高い。
あれだけの実力をもった人物たちなら、わざわざそんな選択をする必要はなかったはずだ、他の翼人を個別に狙えばいいだけなのだから。
では、何が狙いだったのかといえば……よくわからない。自分たちがカセル侯と結んだように、他の諸侯の中にも翼人と通じている者がいるのだろうか。
「ああ、やめだやめだ」
思いきり上体を起こす。
考えたところで答えは出そうにない。そもそも、わからないことが多すぎた。
「ナーゲル」
表情から憂鬱さが消えないナーゲルに、上から呼びかける声があった。
「ああ、フーゴか」
緑の翼をした巨体が見える。それは、すぐ近くにある太い枝に舞い降りた。
「他の連中は、いったんアジトに戻るそうだ」
「そうか、後始末は終わったか」
あえて帝都の近くに留まっていたのは、犠牲になった仲間を埋葬するためだった。かといって、さすがにもう帝都内に行くわけにもいかない。
だが人間たちは意外にも、翼人の遺体もきちんと帝都の外に埋めてくれているようだった。
もしかしたら亡骸が蔑ろにされるかもしれない――飛翔石のために――と思ってしばらく様子を見ていたのだが、その必要はないようだった。
とはいえ理由はもうひとつあって、こちらのほうがより重要だった。
万が一のときのことを考え、帝都の外にいろいろな策を弄しておいた。帝都内ですべてが決してしまったのでそれも無駄に終わったが、ひょっとするとマクシムは初めからその策を用いるつもりはなかったのかもしれない。そんな気がしていた。
ただ、それを放置しておくわけにもいかず、またその実行のときのために指示された位置に留まっている仲間もいた。予想よりも長く、伝令と罠などの解除に時間がかかってしまった。
「俺たちはどうする、ナーゲル?」
「アジトに戻っても、どうなるものでもないような気がするが……。クラウスもいなくなっちまったし」
「本当に彼はどうしたんだ。まさか、やられてしまったわけではあるまい」
「わからんぞ。あれだけの混乱だったんだ。誰に何が起きたって不思議じゃない。マクシムだって倒されたくらいなんだ」
かつての主の名前が出たとたん、フーゴの表情が急変した。
「そのことだが、本当にヴァイクという男がやったんじゃないんだな?」
「ああ、本人がそう言っていた。実際に戦ったけど、殺したのは自分じゃないと」
「信用できるのか?」
「嘘を言っているような目じゃなかった。それに、俺たちよりあの人を失った衝撃は大きかったのかもしれない。疲れ果てた顔をしていたよ」
「……義兄弟だったそうだな」
「ああ。翼人としての誇りを誰よりも大切にしているあいつのことだ。義兄弟の契りを無視してまで、マクシムの命を奪うとは思えない。そもそも、その理由がない」
「ならば誰がやったというのだ、あれほどの戦士を。その場にいた奴なら、わかるはずだろう」
「それだけは、けっして言おうとしなかったな。『マクシムのことはもう忘れろ、お前たちはお前たちの道を歩め』だとさ」
そのとき、彼の形見だと一枚の布きれを残していった。なんの変哲もないものだが、どこかで見たような気もする。
フーゴは、首を横に振った。
「それは正論ではあるが、納得いかん。俺たちにとっては、族長が殺されたようなものなんだ。忘れようとしても忘れられるはずがない」
「それは俺だって同じだ。けどな、やっぱりいつまでも気にしていたってしょうがないだろ? 死者は何も語らない、何も起こさない。過去に何が起きたかよりも、今を生きている俺たちがどうするかのほうが大切なんだよ」
それは、マクシムが口癖のように語っていたことだった。
それゆえに、なんとなくではあるが、この戦いが成功裡に終わったとしても、マクシムはこの〝極光〟を去るつもりだったのではないかと思えた。
前々から、仲間たちは自分に頼りすぎると愚痴をこぼすことが多かった。大事なのは他の誰かがどうするかではない、今、自分が何をするかなのだ、と。
「マクシムの死に顔は安らかだった。俺には、それで十分だ」
「――そうか」
フーゴも、そのことに関してはもう何も言わなかった。
「ならば、俺たちもアジトへ帰ろう。どうも、ネリーが待っているらしい」
「ネリーが? じゃあ、ま、とりあえず戻ってみるか」
ナーゲルがゆっくりと身を起こした。
そして、もう一度だけ帝都のほうを見た。
これから、人間と翼人の関係がどうなるのかは自分には見当もつかない。
だが、よかれ悪しかれ、今回の一件がその端緒となる、そんな予感があった。
帝都からは、無数の炊き出しの煙が上がっていた。
それは天高くまで達し、そして静かに消えていった。