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つばさ  作者: takasho
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 この宮殿から見える帝都の景色は、わずかな時間で一変してしまった。

 家屋の多くが潰れ、衛兵の詰め所など帝国の各施設も壊滅的な打撃を被った。

 道は、飛行艇の落下と騎馬の疾走のせいで荒れ果ててしまっている。

 そして、その壮麗さが諸外国でも絶賛されるほどの大神殿も、外壁のあちらこちらがはがれ落ち、今は見る影もない。

 普通なら絶望感しか引き起こさないそんな光景でも、フェリクスはけっしてすべてを否定的にとらえているわけではなかった。

 確かに、美しき帝都はほんの数時間のうちに呆然とするほどに破壊されてしまった。

 しかし、その戦いが集結してからわずか数日のうちに、すでに驚くほど復興は進んでいた。破壊は早かったが、そこからの回復もまた早かった。

 だが、どうにもまだ何かが終わったという気になれない。

 反乱の首謀者であったゴトフリートは死に、翼人たちは去り、大神殿はバルタザルを大神官長から罷免することによって当面の責任はとった。

 逆を言えばそれだけだ。

 表面的なことに決着(けり)を付けたにすぎない。

 翼人との確執、神殿側への対応、そしてカセル侯領の統治――問題は、呆れるほどに山積している。

 そのすべてを一気に解決しようというのは、どだい無理がある。ひとつひとつやっていくしかなかった。特に、翼人にかかわることは、地道にじっくりと進めていくべきことであった。

 ――それにしても。

 つい、ため息が出てしまう。

 この半月ほどの間に起きたさまざまなことは、自分のこころを根底から揺さぶるものであった。価値観が揺らぐというのは、まさにこういったことを言うのだろう。

 何が正しくて何が間違っているのか、確信を持てなくなる時期もあった。

 自分にとってはこころのよりどころでもあったゴトフリートが今回の騒乱を画策していたことに、今でも胸を締めつけられる思いがする。

 それによって、一度すべてを洗いざらい考え直すしかなくなった。

 あれほどの人物が、あらゆる手段をもって帝国を倒すしかないと判断を下した。それは、一部の狂人の愚考とはまったく意味合いが異なっている。

 小父(おじ)は、何を一番に考えていたのだろうと思う。

 最後の最後に、それは確かに伝えられた。しかし、あのとき交わした言葉がすべてではなかったようにも思う。その根底においては、わからないままの部分もあった。

 なぜ、あんな過激な方法をとってしまったのか。

 なぜ、みずから皇帝になることで帝国そのものを変革する道を選ばなかったのか。

 なぜ、平和的な形で翼人と結ぶことができなかったのか。

 疑問はとめどなくつづき、果てることがない。

 結局、どんなに親しくとも他者のことを真に理解することは誰にもできないのかもしれない。人は自分自身のことでさえも、全体を俯瞰しつつ細部まで把握することはほとんど不可能なことだ。

 ――ただ……

 ゴトフリートの根底にある思いだけは痛いほどよくわかった。この世界をよりよくしたい、困窮する人々を救いたい、その思いには一切の欺瞞はなかったはず。

 だから、今も小父を信じられる、彼はけっして己のために行動したわけではないと。

 狂おしいまでの他者への思いがすべての根源であり、またそれゆえに道を踏み外してしまったのだと。

 ならば、ゴトフリートもまた犠牲者であったような気がしてならなかった。

 十八年前のアイトルフ騒乱がなければ、家族を殺されなければ、おそらく今回のことを画策することはなかった。そしてそのいずれも、本人に全責任があるとは言い切れないことばかりであった。

 小父は、ずっとひとりで苦しんでいたのだ。父ジークヴァルトと距離を置くようになって以降、相談する相手が周りには誰もいなかったに違いない。

 苦戦したアイトルフ騒乱から後、カセル侯軍は思いきった世代交代を押し進めてきた。その結果、若くて勢いのある軍にはなったものの、オトマルのような歴戦の勇士が存在しなくなった。

 それは、本当の意味でゴトフリートの片腕となれる人物がいなかったということを意味していた。優秀な家臣は数多くいるが、絶対的な経験不足をみずからの能力で補えるほどの逸材は、今のカセルには存在しない。

 ――だったら、なぜ自分になんの相談もなかったのか。

 いや、その理由はわかっている。

 自分もまた、一人前とは認められていなかったということだ。まだ、父の領域には達していないと思われていた。

 ――本当にそうか?

 己のこころに問いかける。ゴトフリートは本当に、能力の有無で判断したのだろうか。

 ――いや、そうじゃない。

 彼のことだ。きっと、でき得る限り周りを巻き込みたくなかったのだろう。

 実際に多くの犠牲者を出してしまったからには、そんなのは偽善にしかすぎないといえば確かにそうではあるが、それでもその犠牲を少なくしたいという思いは本物だったに違いない。

 結局、最後まで自分ひとりで苦しみ抜いて死んでいったのだ、あの人は。

 誰にも頼らず、誰も責めず、すべてを自分ひとりで背負って、そして果てていった。

 その潔さは、見事の一言に尽きる。たとえ道を誤ったにしても、その一点に関してはまぎれもない美点であった。

 ――こうして私は、これから帝都を見るたびに、小父上のことを思い出すのだろうな。

 部屋の扉が叩かれたのは、フェリクスが今日何度目かわからないため息をついたときだった。

「入れ」

「失礼します」

 返ってきた声は、意外にも若い女性のものだった。

 聞き覚えのある声。これは確か――

「やはり、ルイーゼ卿か」

「お忙しいところ申し訳ありません。帝都を離れる前に、どうしてもフェリクス閣下とお話がしたくて」

 入ってきたのは、かつてのゴトフリートの忠臣ルイーゼであった。少し疲れた様子ではあるが、いつものように毅然とした態度を崩してはいない。

「そうか、カセルへ戻るのだったな」

「はい、こちらでの交渉は一段落つきましたので」

「といっても、何が決まったというわけでもない。どうにかしてカセルの自立を支援する方向で話を進めたかったのだが、力になれなくて申し訳ない」

「いえ、閣下のご厚意は十分すぎるほどでした。そもそも、すべては我々が招いたことですから、問答無用で領地の取り潰しがなかっただけでもありがたいことです」

 戦いの終結後、近衛騎士のひとりエルンストが全面降伏を決定し、残存するカセル侯軍をまとめ、投降した。

 その判断は、至極正しかったと思う。

 あのまま闇雲に戦いをつづけても、双方の被害が大きくなるだけだったろう。よく指揮官がいない中できちんと対応してくれたと、今は亡きゴトフリートにかわり、エルンストに感謝したい気持ちだった。

「ただ、これからどうなるかはわからない。カセル侯領は分割して諸侯に治められるかもしれぬし、皇帝の直轄領になるかもしれぬ。今となっては、ゴトフリート殿の後継者がいないことが悔やまれるな」

「はい。閣下は、けっして新たな侯妃(こうひ)を娶ろうとはなさいませんでしたから……」

 ルイーゼの表情が、より一層深く曇った。

 フェリクスはあえてそれに気づかない振りをして、別のことを口に出した。

「だが、縁戚関係にある若い男がいるとも聞いたことがある」

「ええ、なんでも外祖父の妹の家系とか」

「母方の縁者か……。それでは、カセル侯家と直接のつながりはないわけだな。跡目としては厳しいかも知れぬ」

「それが、その妹君が結婚されたのがどうも五代ほど前のカセル侯の血筋らしいのです」

「なんだって? それは本当なのか?」

「はい。なんでも、それを嫌って本人は身分を隠して消えてしまったとか」

「ああ、それなら私も聞いたことがある。ゴトフリート殿が身分を保証しようとしたが、堅苦しい生活を嫌って姿をくらましたとな」

「そのとおりです。残念ながら、当時私はまだ近衛騎士ではありませんでしたので、くわしい経緯(いきさつ)を知らないのですが」

「ライマルが悔しがっていたよ。『なんで、そいつだけいい思いをするんだ!』ってな」

「目に浮かびます」

 そこで、初めてルイーゼの顔に笑みが浮かんだ。

「――それでいい。あなたには笑顔のほうが似合う。そのためにゴトフリート殿は、あえてあなたを後ろに残したのだと思う」

「フェリクス閣下……」

 しかしルイーゼは、悲しげな瞳ではっきりとかぶりを振った。

「それでも、私はゴトフリート閣下と最後までともに歩みたかったのです。たとえ、この命が尽き果てることになろうとも」

「だが、ルイーゼ卿――」

「わたくしは、すべてを閣下に捧げるつもりでこれまでお仕えしてきました。それなのに、最も肝心なときに後ろに回され、気がついたときにはすべてが終わっていたなんて……悲しすぎます」

 おかしくなったのは、ゴトフリートに言われて薬を飲みに幕舎に戻ってからだった。

 そにいるはずの薬師(くすし)が、かなり後方の隊に派遣されていることがわかったのだ。そのときだった、他の近衛騎士からついでにそちらの確認をしてこいという閣下の命を伝えられたのは。

 なぜ直前になってそんなことを、なぜ副官である自分が、などと疑問が次々と浮かんでは消えたが、ゴトフリート直々の命令では逆らうわけにもいかない。渋々、帝都のさらに西へと向かった。

 確かに予定どおり、そこには万が一のときの補給を司る隊が配置されていた。しかし、それほど規模の大きなものでもない。

 実際にそれを調査してみても、とても自分がわざわざ出向く必要のあるものとは思えなかった。

 苛立ちとそこから来る怒りを誰かにぶつけたかったが、なんの落ち度もないこちらの隊の者に八つ当たりしても仕方がない。

 激情をぐっとこらえて本陣へ戻ろうとしたとき、その隊にいた幼なじみのレナートゥスが『まあ、落ち着いて』などと悠長なことを言って、いつもの無表情のまま一杯の茶を差し出してきた。

 確かにその香りは澄んだもので、嗅ぐだけでもいきり立った気持ちが静まるような気がした。しかも、薬師であるレナートゥスが作ってくれたものだ。めったなことはないだろうと思い、程よいあたたかさのそれを一気に飲み干した。

 しかし、そこで〝何か〟を疑うべきだった。相手が薬師だからこそ危なかったのだ。

 それを飲んだあと、意識がほとんどあっという間になくなるほどの眠気に襲われ、そもそもそれに抗うということを考えるよりも早くその場に倒れ込んでしまった。

 どこかでレナートゥスの『すまん』というつぶやきを聞きながら。

 そのとき見た森の景色が、騒乱前の最後の記憶だった。

「恐れながらフェリクス閣下、これだけは憶えておいてください。過ぎた情けは、かえってその人を苦しめることになります。世の中には、敬愛する人物とならあえて死地に飛び込みたいとこころから願う者もいるのです。そうした思いを反故にしてまで相手の安全を優先することは、たとえどんな理由があれ、その当人にとっては苦痛以外の何ものでもないのです」

「ルイーゼ卿――」

「私は、何度もあとを追おうと考えました。しかし、それを思いとどまらせたのは、ただ騎士としての義務感だけです。私が一介の女だったなら……すでにみずから命を絶っていたでしょう」

 その声、その言葉、そしてその表情はあまりに悲壮であった。

 フェリクスには返す言葉がない。それほどまでにルイーゼの想いは強く、激しく、そして真摯なものであった。

「すみません、こんなことを申し上げるつもりはなかったのですが……」

「いや、いい。あなたから、何か大事なことを教えられた気がするよ。私も、必要以上に人のことを気づかってしまうことがある。しかし、それがときには(あだ)になることもあるのだな」

 ――それに今のルイーゼには、愚痴をいう相手が必要だ。

 できれば同性がいいのだろうが、残念ながら似たような立場の女性は帝国広しといえども多くない。それほどルイーゼは、女性の中では傑出した存在だった。

「では、わたくしはこれで失礼させていただきます。お時間をとらせてしまい申し訳ありませんでした」

「そんなことはどうでもいいよ。それより、おそらく領内に帰ってからのほうが大変だろう。ノイシュタットとしてもできるかぎりの協力をするから安心してくれ。だから、けっして無理だけはせぬよう」

「はい、ありがとうございます」

 ルイーゼが、少しだけ笑みを浮かべて一礼した。まだその笑顔はどこかぎこちないが、無理やりにでも笑えるのならまだ大丈夫だ。

 その彼女がきびすを返して部屋を出ていこうとしたとき、フェリクスはふと気になったことを最後に問いかけた。

「そうだ、先ほどの後継者の話だが、名はなんといったか」

「エルヴィーン、と。ただ、今はなんと名乗っているかはわかりません」

「そうか、身分を隠しているだろうからな」

「そういえば」

 と、ルイーゼは今思い出したことを告げた。

「隠居した元騎士に聞いたところ、以前からゴトフリート閣下はしきりに手合わせしたがっていたそうです」

「ほう、ならば相当の手練れなのだろうな」

 それほどの人物なら、自分も会ってみたい気がしてきた。きっと、ゴトフリートもどこかでその彼のことを期待していたのではないだろうか。

「フェリクス閣下……」

「うん? どうした?」

「その、聞くべきか否か迷っていたのですが……」

「なんだ? 遠慮なく聞いてくれ。こちらだって、カセルの後継者という内部の事情を教えてもらったのだからお互い様だ」

 フェリクスの言葉にうなずくと、ルイーゼは少しためらいがちに言った。

「今回のことで〝アルスフェルトの十二の約定〟は改定されるのでしょうか?」

 それがずっと気になっていた。

 この約定は、諸侯がそれぞれ自領を守るために帝国という名の共同体を生み出す礎となったものだ。しかし、有力諸侯の反乱が起きた今となっては、どれほどその効力があるのか疑わしくなっていた。

 実は、それにはなんの罰則規定もない。約定を破ったところで、何かしらの罰が与えられるわけではなかった。

 それは元々互いを信頼する証でもあったのだが、今回の騒動で考え直さざるを得ないという意見が強まっていた。

 ルイーゼは、そのきっかけを作ってしまった者のひとりとして、慚愧(ざんき)の念は強かった。

 たとえどんな理由があれ、帝国を極度の混乱のうちに陥れてしまったのは事実だ。それに対して言い訳をするつもりはないが、帝国のこれからを思うと気が気ではなかった。

 それに関しては、フェリクスも同じであった。だから、すぐには答えることができなかった。

「――そうだな。率直に言えば『わからない』な。この騒乱で諸侯の危機感が飛躍的に高まったことは間違いない。だが、約定に手を加えるのが怖いというのも本音なんだ」

 アルスフェルト条約は、まぎれもなくこの国の基礎だ。

 つまり、その基礎を変えようとすれば必然的に帝国全体も変わっていくだろう。それがうまくいけばいいのだが、もし悪い方向へ流れれば、それこそ取り返しのつかない事態に陥るかもしれない。

 だが、このままでは第二、第三のカセルが出てこないとも限らない。

 実際、意外にあの諸侯が危ないというのを感じることもある。なんらかの形で約定そのものに手を入れなければならないのは、おそらく避けようがないことであった。

「やはり、時代が動き出してしまったということでしょうか」

「いや、もう前から動き出していたのだよ。ゴトフリート殿は、それを思いきってさらに強めたにすぎない。たぶん、カセルが動かなかったとしても、あの翼人の集団は何かをやっていただろう。それに――他の諸侯が動いていたかもしれない」

「そうなのですか」

 フェリクスは、はっきりと首を縦に振った。

「そもそも国内の問題が多く、そして大きくなりすぎた、もはやどうにもならないくらいに。いずれにせよ、帝国の体制そのものを改めなければ我々に未来はないだろうな」

 今や、問題を抱えていない分野など存在しない。

 農耕、治水、交易、軍事、そして政治。そのどれもが厳しい状況であり、またそれゆえにか、人々の内面もどこかおかしくなっているような空気をひしひしと感じていた。

 時代の転換点と呼ぶにふさわしいときは、今をおいて他にない。我々は現在の人々だけでなく、未来の人々に対しても重大な責任を負っていることになる。

 だが、それを自覚している者が一体どれだけいるのだろう。

 ゴトフリートはそのひとりだった。しかし、彼はもう存在しない。人間は結局、己のことしか考えないという現実をたびたび見るにつけ、憂鬱な気分になることもよくある。

「だが、安心してくれ。私が帝国の中枢にいる限り、けっして悪いほうへ向かわせはしない。かならず流れを変えてみせる。だから、あなたもカセルで己の仕事をまっとうしてくれ」

「はい、全力を尽くします。散っていった仲間たちのためにも」

 ルイーゼは、静かに一礼して去っていった。

 フェリクスは今一度、窓の外を見た。

 荒れ果てた町並み、しかし活気ある人々の声。

 ――絶対にこれ以上、民を苦しませてはならない。

 呆れるほど澄んだ青空からそんな天の声が舞い下り、みずからのこころと合致したような、そんな錯覚にとらわれていた。

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