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「あのな」
ベアトリーチェの頭越しに声が聞こえてくる。
マクシムはヴァイクのあまりに一方的な物言いに、なかば呆れたように反論した。
「このばかやろうが。俺だって人間も重い業の鎖に縛られていることくらい――」
だが、その言葉を最後まで言い切ることはなかった。
「え?」
声を上げたのはベアトリーチェだった。その左の肩口から、剣の切っ先が顔を覗かせている。
一番はじめに、その意味するところを悟ったのはヴァイクだった。
「マクシムッ! 貴様……!」
ベアトリーチェが、ゆっくりと俯せに倒れていく。それを急いで受け止めながら、ヴァイクは怒りと憎しみに燃える目を、仇のほうへきっと向けた。
そのときになってようやく現状を正確に把握した。
マクシムの左胸を、鈍色をした小ぶりの剣が刺し貫いている。その巨体が目の前で、なす術なく頽れていく。
その背後に立っていたのは、黒に近い紫色の翼をした男――クラウスであった。
「な、なぜ……」
この男はマクシムの、〝極光〟の仲間ではなかったのか。
それがなぜ今、血に濡れた剣をその手に持つ。
「ヴァイク……」
腕の中から聞こえてきたか細い声に、はっと我に返った。
「ベアトリーチェ、大丈夫か!?」
「私より……あの方を……」
言われて、マクシムのほうを見やる。
左の胸やや中央寄り、ほとんど体の真ん中を剣が貫通し、大量の血を流している。
――これは、もう助からない。
絶望的な思いがこころをよぎる。
信じたくはないが、逃げようもなく、まぎれもない確信。
マクシムの命の灯は、確実に消えつつあった。
「貴様、どうしてこんなことをッ!」
すべての元凶に対して、ありったけの怒りをぶつけた。
なぜ、こんな真似をしたのか。
なぜ、仲間を裏切ったのか。
理由を聞いても納得できそうになかったが、それでも問わずにはいられなかった。
「マクシム……あんたのやり方では誰も救われない」
クラウスの声は震え、今にも消え入りそうだった。しかし、近くにいるヴァイクとマクシムの耳にははっきりと届いた。
「私だって、最後まであんたのことを信じたかった……。だが、あの惨状はなんだッ!? アルスフェルトでもこの帝都でも、なぜこれほどまでの犠牲が必要なのか! 屍の積み重なった世界のどこに救いがあるッ!」
その叫びは、マクシムだけでなくヴァイクの胸にも突き刺さった。
同じ、思いだ。
自分もまったく同じ思いを抱え、マクシムにぶつかっていった。自分は正面から挑んだが、クラウスはその背後を突いた。ただそれだけの差でしかなかった。
「――私にはわからなくなってしまったんだ、何が正しくて、何が間違っているのか。だが、ひとつだけ確信を持てることがあった」
悲しみに揺れる瞳をかつての主へと向けた。
「それは、このまま〝極光〟を放置しておいては駄目だということだ。どこかで手を打たなければ、かならず犠牲者は増える。誰かが止めなければならないというなら、自分が……」
クラウスは言葉を詰まらせた。その口調や様子から、彼にとっても重すぎる苦渋の決断であったことがうかがい知れた。
だから、ヴァイクは何も言えなかった。言えるはずもなかった。やり方こそ違えど、感じていたこと、考えていたことはまったく同じだったのだから。
一方、マクシムは仰向けになったまま、ただ黙ってその思いを聞いていた。
「すまん、マクシム……。私にはこんな方法しか思いつかなかった。許してくれとは言わない。だが……あんたを止めるにはこれしかなかった、少なくとも私にとっては」
深く頭を垂れ、そして飛び去っていった。
その両の眼に、後悔と懺悔の念を湛えたまま。
あとには、ただただ寂寞とした虚しさと、刺すようなこころの痛みだけが残った。
「――まさか、最後の最後まで最も近しい存在に裏切られるとはな」
マクシムが自嘲的に言う。その声はまだ、意外にしっかりとしていた。
「ファルクに裏切られ、アリーセに裏切られ、そして最後にクラウスか……。これこそが俺の人生だったのかもしれん」
「兄さんが……? マクシム、いったい昔に何があったんだ。俺は、アリーセのこともよくわからない」
「そんなに真実を知りたいか。なら、教えてやる」
ヴァイクから視線を外し、上を見た。わずかだが、青空が雲間に顔を覗かせていた。
「ファルクはな、俺と一緒に部族を抜けるつもりだったんだ」
「な……に?」
「俺には愛する女がいた。ファルクも同じだった。だが、どちらも同じ部族の女ではなかった」
だから、つまらない部族の掟に縛られず、自分たちのために自由に生きようと誓い合った。
だが――
「ファルクは土壇場になってやめた」
「なぜ?」
「わからんのか? 鈍い奴だな」
マクシムは呆れたように言った。
「お前のためだよ。お前をひとりにしてしまうことが心配で、あいつは女を捨てて、部族に残ることにしたんだ」
「――――」
何もかもが、初めて知ることだった。
兄に部族の外の女がいたこと。
そして、自分のために……
「私は捨てられてなんかいないわ」
聞き慣れた声が上空から届いた。
見上げれば、そこには紅色の翼をしたひとりの女性がいた。
「ヴァレリア……」
ヴァイクの目の前に、すっと舞い降りた。
「噂をすれば来たか。こいつがファルクをたぶらかした女だ、ヴァイク」
「……なんだって!?」
ヴァイクは、とっさにはその言葉の意味するところを理解することはできなかった。
「誰がたぶらかしたって? 弄ばれたのは私のほうよ。おかげで部族を失うことになった」
とは言いつつも、ヴァレリアの言葉にはその内容ほどの険はなかった。
「でも、得たものも多かった。部族の枷から脱して、あの人の――子を設けることができたんだから」
「なんだって!?」
「それしか言えないの、ヴァイク? でも、あなたは叔父さんになったのよ。彼の血は絶えてないってこと」
驚愕のあまり言葉を失ったヴァイクに、ヴァレリアがいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「……そうか、あんたが俺にやたらと絡んできたのはそのせいだったのか」
「確かにファルクのこともあるけど、それ以上に見ていて危なっかしくて放っておけなかったってこともあるけどね。それよりも――」
と、ヴァレリアはマクシムのほうに向き直った。
「あなたは、本当にいつも茨の道を進んでしまうのね」
「これが俺の性だ、としか言いようがないな」
「こんなことは言うべきではないのかもしれない。けど、〝彼女〟にかわって私が言わせてもらう」
紅色の翼の女は、意を決して目の前の男と正面から視線を合わせた。
「アリーセは、あなたと出会えて幸せだったと思う。たとえ一緒になれなくても、出会えたことだけで彼女は幸せを感じていたはず」
アリーセという女性と直接の面識はない。以前、何度か遠巻きに見ただけだが、その表情、その身のこなしからして、傑出した人物であることは一目でわかった。
そして、過去のことで誰も恨んではいないことも。彼女にも悔いはあったかもしれない。しかし、それを他の誰かのせいにするような様子は微塵もなかった。
だが、マクシムはきっぱりと首を横に振った。
「いや、違うな。結局、最後の最後まで、俺は彼女を苦しめてしまっただけだ」
「そんなことは――」
「あるんだよ。ヴァイク、説明してやれ」
ヴァレリアの視線が義弟のほうへ向く。ヴァイクは少し顔をしかめてから、それでも口を開いた。
「アリーセは……アルスフェルトにいたんだ」
「え?」
「アルスフェルトの神殿にいたんだが、連中の襲撃のせいで建物とともに消えていった」
「…………」
マクシムは、どこか悲しみの色の映った自嘲的な笑みを浮かべた。
「これでわかっただろう? 俺は、また取り返しのつかないことをしでかしてしまった。俺は、いつも周りを巻き込んでしまう。こうして倒されたのも、すべては罰が当たっただけだ」
「マクシム……」
「勘違いしないでください」
そのとき意外なところから、意外な力強い声が聞こえてきた。
「アリーセ様は、確かに想い人と添い遂げられなかったかもしれません。でも、あの方は不幸だったわけじゃない。すべてに絶望していたわけでもないんです」
ベアトリーチェは、左の肩口の傷を抑えながら半身を起こした。
「アリーセ様は、常に希望を持っておられました。そして、他の人々にいつもその輝きを分け与えていたんです。それを、自分の思い込みだけでただの不幸な女性として貶めるなんて、アリーセ様に対する侮辱に他なりません」
その声、その言葉には、力も意志もはっきりと込められていた。歴戦の勇士であるマクシムたちでさえ圧倒される何かが、そこにはあった。
「……彼女は?」
「神殿でアリーセに育てられたらしい。言ってみれば、彼女の娘だ」
「そうか」
マクシムは、顔だけベアトリーチェのほうへ向けた。
「なら、俺はあんたにとって仇というわけだ」
「私はそういうことが言いたいわけじゃ――」
「わかっている。だが、謝らせてほしい。俺があんたの家族を奪ったことに変わりはないんだ。すまなかった」
珍しく、マクシムが己の非を認めた。昔のヴァイクだったら、腰を抜かすほどに驚いたに違いない。
だがベアトリーチェは、場違いとは知りつつ思わず吹き出してしまった。
「お二人は似てらっしゃるんですね。口調もそっくり」
いつも、どこかぶっきらぼうなところ。
そして強情でありながら、妙なところで素直なところ。
不思議なほど、共通する部分があった。
「確かに、ファルクには似てないわね」
「……不本意だ」
深く同意するヴァレリアを、ヴァイクが睨みつけた。
しかし自分でも、そのように感じるところがないわけでもなかった。
昔から兄は過保護というか、こちらのことを心配ばかりしていた気がする。その結果、危ないことはマクシムに付いて回って憶え、そのたびに兄に怒られていた。
兄からは優しさをもらい、マクシムからは厳しさをもらっていたのかもしれない。目の前の大男も、兄と呼べる存在のひとりであった。
「マクシム、どうしてこうなったのか俺にはまだわからないよ。アリーセと別れたんなら、部族に戻ってくればよかったじゃないか」
「ふん、一度抜けた男をまた受け入れるかどうか疑わしいがな。それより、そのあとに俺にとっての大事な出会いがあったんだ」
部族を失い、困窮していたはぐれ翼人たち。そのほとんどが、ヴォルグ族によってやられた被害者たちだった。
彼らはそれゆえに、ヴォルグ族への憎悪の炎を激しく燃やしていた。その熱くただれたものによって、みずからを焦がしてしまうほどに。
こちらに仲間になること、そして復讐の手助けをすることを求めてきた。
しかし、これではいかん、と思った。ヴォルグ族を倒すのもいいかもしれない。だが、憎しみで動くだけでは、いつかかならず己の身を滅ぼすことになる。
大事なのは〝何を為すか〟ではない。〝何のために為すか〟なのだ。
「俺たちは、この世界を変えることを志した。ヴォルグ族を倒すのはその通過点でしかなくなった」
「――そのために、人間と組んだのか」
「そうだ。ある男も、我々と同じように世界の変革を、人間と翼人の融合を望んでいた」
ヴァレリアが黙っていられず、その話に割って入った。
「それがどうして、こんな無茶な戦いを引き起こすことになってしまったの? 他にも、人間と翼人の協調を望んでいる人はいくらでもいるのに」
「らしいな。俺もあとになってそのことに気づいた」
マクシムは、一度目を閉じた。
「だが、待てなかったんだろうな、俺もあいつも。急ぎすぎたのかもしれないし、あまりにもひどい現状に我慢ならなかったのかもしれない」
今しかないと思った。そして、実行するための策もあった。
「うまくいっていたんだ、途中までは。だが、気がつけばこのざまだ」
「矛盾していたんだよ、あんたらのやったことは」
ヴァイクが言葉の刃を突きつけた。
「世のため人のためと言いながら、多くのものを犠牲にしていった。その歪みが、最後の最後ですべてを崩した」
「そうだ……。矛盾の歪みは、いつかかならずどこかに跳ね返ってくる。俺たちは、こころのどこかでこれでは駄目だと思いながら、あえて気づかぬ振りをつづけてしまった」
ゆっくりと目を開き、その瞳を弟へまっすぐに向けた。
「ヴァイク、憶えておけ。自然ならざることは、常に異常を生み出す。おかしいことは、やはりおかしいんだ。自然の法に従え。迷ったら自然へ還るんだ。そうすれば、たとえ一度は道を誤っても、きっと元のところへ戻ってこられる」
マクシムの言葉も口調も真剣そのものだった。伝えたいことを必死になって伝えようとしている。そういう目だった。
「わかったな、ヴァイク」
「また説教かよ」
「そういうな。お前に期待しているからあえて言うんだ」
「…………」
「なあ、ヴァイク」
「うん?」
「部族を失ってから、仲間はいるか?」
「仲間なんて……」
いない、と答えようとしたところではっと気がついた。
――ベアトリーチェ。
今、隣にいる人のことを思う。
アルスフェルトで出会って以来、ずっと一緒にいてくれた人。
自分が折れそうになったときも、いきり立ったときも常にそばにいてくれた人。
部族も兄も失ってからは、自分はひとりぼっちだと思ってきた。だが、そうではなかった。孤独というのは勘違いで、いつも誰かが自分を支えてくれていた。
ベアトリーチェだけではない。ジャンもだ。今思えば、セヴェルスもこちらを逃がすのに苦心してくれたし、アルスフェルトではテオやオイゲーンも世話してくれた。
そしてもちろん、剣違えをしたアセルスタンも。
ヴァレリアだって、いつも自分を見てくれていた。
――そして、リゼロッテも。
あの子は自分のために犠牲になったのだと、そう思う。その命を賭して、自分の進むべき道を優しく、明るく示してくれた。
なんと多くの人たちに支えられてきたことだろう。故郷を失った身でありながら、思えば自分は恵まれた環境にあった。
「気がついたようだな。そうだ、この世界に孤独な存在などひとつとしてない。すべてがどこかでつながり合っている」
「――――」
「だから己の道を歩め、ヴァイク。ひたすらに道を進めば、いつかかならず志を同じくする者たちと出会える。同じ道をゆく者が増えるんだ。彼らを大切にしろ。お前なら……皆とこの世界を変えられるはずだ」
マクシムは、そこで皮肉げな笑みを浮かべた。
「この世界が憎いだろう、ヴァイク?」
「ああ、憎い。狂っているんだ、今の世の中は」
「だったら、自分で変えてみせろ。嘆いているだけでは何も起こらない。逆に、自分が動けば何かが変わる」
「――――」
「世界は変えられるんだよ、ヴァイク。わかるな?」
ふぅ、とヴァイクはため息をついた。
「あんたも同じことを言うんだな」
あのノーラという女神官のことを思い出す。当時は何を偉そうなことを、と思っていたが、今ならばその意図するところがはっきりとわかる。
何事も、自分でやるしかないということ。
そして、何かをなせば何かが起こる。そういった単純なことであった。
「いい出会いがあったようだな」
「――ああ」
やっとマクシムの気持ちがわかりはじめた気がする。
このわがままな男は、その実、他の誰よりも周りのことを考えていた。たとえその方向性が間違っていたにしても、そうした思いだけはけっして嘘ではなかった。
「結局、マクシムは兄さんと同じことを考えていたんだな。兄さんも、最期に似たようなことを言ってたよ」
「そうかもしれん。だがな、俺やあいつの言葉はいつか忘れてもいいんだぞ」
「え?」
「あいつの遺言は、お前を縛るために言ったんじゃない。お前に幸せになってほしいだけなんだ。もしそのせいで苦しんでいるのなら、本末転倒だ。ファルクの思いを無にするな」
「――――」
「お前はもう、十分あいつの願いを叶えただろう? これからは、自分のために生きろ。それだけは忘れるな」
ヴァイクは、はっきりとうなずいた。
「それなら大丈夫だ。俺がやりたいと思っていることと、兄さんやマクシムが言ったことは同じ方向を向いている。それを重荷に思う必要なんてない」
「そうか」
いつの間にか、大地が朱色に染められていた。ひとりの戦士から止めどなく流れ出した大量の血が、それを受け止める落ち葉とともに土を濡らしている。
確実に、終わりのときは近づいていた。
ふと、それまで黙っていたヴァレリアがマクシムのかたわらに膝を落とした。
「マクシム」
「ヴァレリア、か」
「悪いけど、私はもう行かせてもらうわ。身近な人を看取るなんて……もう嫌だから」
「そうか」
「さようなら、マクシム。たとえあなたの肉体はここで果てても、その魂はきっと受け継がれていく――若い子たちに」
それだけ言うと、さっと背を向けた。
「ファルクに伝言があるなら聞くぞ」
「ないわ。私は過去に囚われていない。今を生きている」
そしてもう振り返ることもなく、すっと飛び去っていった。
その後ろ姿に悲しみを湛えたまま。
少し風が出てきた。
やや湿り気を帯びたそれはそれぞれの頬を撫で、森を東から西へ吹き抜けていく。
木立が揺れ、葉の先々から無数の滴を払っていった。
青空をのぞかせながらも、日を覆った厚い雲のせいで辺りはまだ薄暗い。
しかしそんな中でも、光の航跡は見えつつあった。
マクシムは、中天を越えて西に傾きつつある太陽の方向に目を向けた。何かが見えるわけではない。だが、何かがわかる気がした。
「ヴァイク」
「うん?」
「最後にひとつ頼んでもいいか?」
「なんだ?」
マクシムは、一呼吸置いてから告げた。
「俺の心臓を喰え」
「――言うと思った」
ヴァイクは、深く嘆息した。さすがにもう驚かない。
そして、きっぱりと言った。
「断る」
「なぜだ?」
「理由は簡単だ。俺はもう、大切な人を犠牲にしてまで自分が生き延びようとは思わない」
マクシムの目をまっすぐに見た。そこには、もはや迷いなど一切ない。
「だが、俺にはやるべきことがある。だから、これからもジェイドを狩るだろう。それを偽善と言いたければ言えばいい。確かにそのとおりなんだからな」
虚勢を張るヴァイクに、マクシムはかぶりを振った。
「偽善じゃないさ。ただ、お前が正直なだけだ」
「……それに、あんな思いをするのはもうたくさんだ」
「そうか、ファルクの奴も俺と同じことを言ったか」
目をつむり、苦笑する。考えていることは同じだった。
――今を生きる者たちのために。
――そして、未来の子供たちのために。
そのために、自分たちは動いてきた。それは無謀だったのかもしれない、無意味だったのかもしれない。
だが、けっして利己だけでやってきたわけではなかった。
常に仲間のことを思い、未来に想像の翼を広げ、そしてこの世界を憂えてきた。それだけは、絶対に偽りではなかった。
しかし、それももうすぐ終わりだ。死の精霊がすぐそこで待っている。
「ヴァイク、これまで言ってきたことが俺の真実だ」
「ああ」
「だが、大事なのは真実なんかじゃない」
マクシムは、ヴァイクと静かに目を合わせた。死期を目前にしながら、その瞳には驚くほどの強い意志が込められていた。
「真実など、結局は人それぞれだ。だから何が真実か《、、》ではなく、そこから|何を思うかが大切なんだ」
この世界に、固定化した唯一絶対の真理など存在しない。常にあらゆるものが千変万化しているがゆえに、世の真理もまた常に変化している。
大事なのは真理を掴むことではなく、それぞれの〝思い〟であり、またその結果としての行動である。
今日真理を得たとしても、明日にはそれは別のものに変わってしまっている。ならば、その変化を、その流れを把握することこそが何よりも肝要なのだ。
それができれば、自分の身の置きどころもわかる。そして、人にも優しくなれる。流れを悟った者こそが、世界の本当の姿を知ることができる。
「お前なら、もうわかっているだろう。だから――これ以上の言葉は必要ない」
「マクシム……」
「少し喋りすぎたかもな」
自嘲気味に笑い、天を仰いだ。
灰色の雲間に驚くほど深い蒼をたたえた空がかいま見え、ほんのわずかにだが日の光が射し込みはじめていた。
「マクシム……俺は、やっぱりあんたにもう一度会ってよかった気がする。それと――今までありがとう」
「ふんっ、妙に素直になったじゃないか」
ヴァイクは近くに落ちていたマクシムの愛剣〝イリア〟を拾い、彼の右手に握らせてやった。
その感触を確かめながら、マクシムはもう一度だけ空を見た。
――一羽の鳥が翼を広げて、元気そうに飛んでいるような気がした。
「今日は死ぬのに悪くない日だ」
ゆっくりと瞳を閉じた。そして、すうっと息を深く吐いていく。
それが翼人の世界で最強と謳われた戦士、マクシムの最期であった。
「――――」
周囲に、音が戻ってきた。
風が梢を揺らし、その葉擦れの音が耳に届く。森の中から鳥たちの鳴き声が聞こえてきて、いつもの様子を取り戻しつつあった。
だがそれとは反対に、帝都の方角から聞こえていたそれ自体暴力のような音は、いつの間にか鳴りを潜めていた。
「終わった――か」
これまでにない虚脱感が身もこころも支配していた。
兄を失ったときにさえ感じたことのない、深い、深すぎる虚しさ。言い様のない倦怠感がそこにはあった。
マクシムは、己の道を突き進んだのだろうと思う。その結果、まだ若くして果てることになったのだが、それをどこか羨ましく思う気持ちもあった。
自分の信念に従ってひたすらに前へ行く。
たとえそれが艱難辛苦の道であったとしても、それは幸福なことではないだろうか。
だが自分は、いろいろなことを考え、いろいろなことを経験してきたけれど、未だ己の道を見出せていない。これからどうなるのだろう、どうすべきなのだろうと不安が残る。
それもすべては自分次第だ。どんな状況に置かれようと、自分さえしっかりしていればどんな危地でも切り抜けられる。
大切なのは道を探すことではなく、今やれること、やるべきことをただひたすらに、一生懸命にやるということ。
それを、この短い期間のあいだにいろいろな人から教えられた気がする。
ベアトリーチェ、ジャン、アリーセ、ノーラ、アセルスタン、ヴァレリア、マクシム――そして、リゼロッテ。
自分は、やはり幸福だった。これだけの出会いを、これだけ大切なことを経験できる人はそうそういないはずだ。今にして思えば、すべての人々のすべての思いが己の糧となってくれていた。
そのための犠牲はあまりに大きすぎたが。
リゼロッテ、マクシム――失われた命は永遠に帰ってこない。
帝都やジャンの村のような集落、そこで犠牲となった人々も同じことだ。
自分さえもう少ししっかりしていれば〝極光〟を止められていた、被害を最小限にとどめられていたかもしれないと思うと、後悔の念が刃となって己の胸を突き刺す。
これは、自分の罪だ。
これからそれを背負いつづけ、少しでも償うためにいろいろなことをしなければならない。それは重い荷物を背負い、荒れ果てた道をひとりゆくに等しかった。
「アリーセはきっと、ずっとこんな気持ちだったんだろうな」
「え?」
「今なら、あのときの彼女の気持ちが痛いほどよくわかる。俺も逃げ出してしまいたい。でも、それは絶対に許されない」
「ヴァイク……」
ベアトリーチェは、傷口を押さえたまま立ち上がった。
「マクシムさんの言葉を思い出して、ヴァイク」
「…………」
「仲間を、仲間を大切にしろって言ってたでしょう? それはね、ただ単に協力しろって意味だけじゃない」
ヴァイクに向けて、やさしく微笑んだ。
「つらいときや、苦しいときはお互いに支え合いなさいってことだと思う。ひとりでは耐えきれないほど重いものでも、二人や三人ならなんとかなる。ひとつの目標に向かっていくだけが仲間じゃない。どうにもならないときに、手を取り合って励まし合うのも仲間なのよ」
「――――」
「あなたは出会ってから、ずっといつも私を支えてくれた、本当に申し訳なくなるくらいに。これからは、私があなたの重荷を半分背負ってあげる。いつも、かならずあなたを見ている」
ベアトリーチェの目を真摯に見つめていたヴァイクが、ぷいっと背を向けてしまった。
その態度に思わず笑ってしまう。
――もうわかっている。これがただの照れ隠しだということを。
「何がおかしい?」
「別に。でも、マクシムさんが亡くなってもヴァイクは泣かないのね」
アリーセ様のときは一緒になって泣いていたはずなのに。
「…………」
一瞬の沈黙。背後からでも、唇を噛みしめているようなそんな気配が感じられた。
「俺はもう、そんなに弱くない」
「泣くことは弱いことなんかじゃない、大切な人のために泣けることが弱いことなわけがないじゃない。我慢しないで、泣くときは泣いて――」
「言うなッ! もう……もう、誰にも涙は見せたくないんだ! 俺は、強くならなきゃ駄目なんだッ!」
「ヴァイク……」
その叫びはあまりに物悲しく、悲痛でさえあった。ベアトリーチェでさえ、言葉では何も言い返すことができなかった。
だから、その背中を抱きしめた。傷の痛みなど関係ない。そうすることが当たり前だと思った。
――ヴァイク――
その肩は、小さく震えていた。
しかし、その翼はただ、あたたかかった。