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見るもの触るもの、すべてが新しかった。
人間の上半身だけの不思議な置物や、何に使うのだろうと首をかしげたくなるような巨大な|甕(かめ)、そして壁に無数に飾られたタペストリー。
そのどれもが、リゼロッテが初めて見るものばかりだった。
自分とディーターという名の男の子は、大きな館の一室にいた。以前にも入ったことはあるのだが、人間の住居というのはおそろしく精巧にできているものだと改めて感心する。
どの部屋もきちんと長方形になっていて、通路も直線でつながっている。枯れた木と葉で適当に造る翼人の住み処とは大違いだった。
そのかわり、翼人のそれは必要とあればすぐに建て、不必要になれば簡単に崩して捨てられる。一方、人間の家は、しっかりとしているがゆえにそれは難しそうだった。
男の子と二人でそんな館の一室を興味津々の体で眺めていると、扉を二度叩く音がした。
リゼロッテが返事をすると、きっちりとした身なりの初老の男性が静かに中へと入ってきた。
「くつろいでいただけてますかな? お嬢さんとお坊ちゃん」
二人がうなずくと男は微笑んで、二人の前にカップを置いた。
「さあ、ミルクを温めてきましたぞ。まだたっぷりとありますからな、好きなだけ飲んでくだされ」
言われるまでもなく、二人はそれを喜んで口にした。
――お母さんと一緒に飲んで以来かな。
リゼロッテは昔、母とそれを分けて飲んだときのことを思い出していた。
食べる物に困っていたとき、人間に金色の粉と山羊のミルクを交換してもらった。初めて飲むそれは不思議な味だったが、母の笑顔が何よりの喜びだった。
しかし、その母はもういない。それを思うと、少しだけ寂しさが込み上げてきた。
それを知ってか知らずか、執事であるオイゲーンは優しく声をかけた。
「今は大変なときですが、心配はいりませんぞ。いたいだけここにいていいのですよ。|御館(おやかた)様もきっと認めてくださるはずです」
それを言われて、リゼロッテは大切なことを思い出した。
「あの、カトリーネさんのお加減はいかがですか?」
「心配してくださってありがとうございます。でも、大丈夫。怪我はそれほどではありませんでしたし、きっとすぐに目を覚ましてくれるでしょう」
リゼロッテに笑顔で答えると同時に、こころの中でレラーティアの神々に懺悔の言葉を述べた。
実際にはまったく楽観できる状況ではなく、今もテオと交代しながら付きっきりで看病している。怪我がたいしたことはないというのは事実だったが、頭を打ったのが災いしたのか高熱を発してしまい、意識が戻る気配もない。
しかし、そんなことを子供たちに正直に伝えても不安がらせてしまうだけだ。ただでさえ、とんでもないことが起きたあとだけに。しかも、いきなり人間の世界にまぎれ込んだ翼人の少女にとってはなおさらだろう。
そんなオイゲーンの本心に気づいた様子もなく、リゼロッテは笑顔を彼に向けた。
「本当にありがとうございます。私たちを助けてくださって」
「おや、小さいのにお礼がきちんと言えるなんて偉いですね」
オイゲーンが少しおどけたようにして言うと、リゼロッテははにかんで答えた。
「母が厳しかったんです、こういうことには」
「なるほど、良いお母様だったのですね」
こくりとうなずく。
母はどちらかというと何ごとにも厳しかったが、それは優しさの裏返しでもあったことが今ならわかる。
本当は母にも礼を言いたいのだが――それは、もう少し先のことになりそうだった。
「あ、そういえば、テオさんのほうは大丈夫なんですか?」
その名が出たとたん、オイゲーンの眉間にはっきりとしわが寄った。
「ああ、あの男のことなら放っておいても問題ありません。猛獣の檻に閉じこめても生き残るような奴ですからな」
それがなまじ比喩でないところがテオのテオたるゆえんなのだが、それが子供たちにわかるかどうか。
いっそのことどこかで死んでくれたほうがせいせいするのだが、今日もまた生き残った。しぶとい奴である。
まあ、今回ばかりはそのおかげでカトリーネが助かったのだから文句は言えないが、だからこそ余計に腹立たしいという思いもあった。
「でも、足を――」
「しっ!」
口に人差し指を当てて、リゼロッテの言葉を遮る。
何者かが近づいているようだった。
少しすると、子供たちの耳にも翼の羽ばたく音が徐々に聞こえてきた。身を強張らせたディーターの手を、リゼロッテは優しく握ってあげた。
オイゲーンは音もなく窓際に近づき、顔を半分だけ出して外をうかがった。
――やはり、翼人が近づいてくる。
まだ遠くてはっきりとはわからないが、明らかにこちらへ向かっている。
やがて視認できるところまで来ると、腕に何かを抱えているのが見えた。
――赤い翼? いや、白か。
夕陽に照らされて見まちがえたが、あれは白だろう。ということは、抱きかかえられているのは〝彼女〟のはずだ。
ほっと胸をなで下ろして、オイゲーンは一階へ向かった。
ちょうど扉を開けたとき、二人が地上に降り立ったところだった。日はもうなかば没し、薄暗がりだが二人が憔悴しきっているのがわかる。
「大変な目に遭われましたな。ようこそ、カトリーネ様の館へ。ここでゆっくりと休んでくだされ」
「あんたは?」
「私は執事をしているオイゲーンと申す者です。あなたがヴァイク殿ですな。テオから、お嬢様をお救いしてくださったと聞いております」
オイゲーンが深々と頭を下げると、ヴァイクはかぶりを振った。
「俺は何もしていない。何もできなかったんだ。礼を言われる筋合いではない」
「しかし、あなたが――」
「何もできなかったんだ!」
ヴァイクの一喝に、辺りが静まり返った。
「……すまん、怒鳴るつもりはなかったんだが。とにかく、俺は何もしてない。礼ならベアトリーチェに言ってくれ」
「ヴァイク……」
気まずい空気が周囲を支配する。
それを破ったのは、意外にも少女の声だった。
「ヴァイクさん、それは違うと思います」
全員が振り返ると、いつの間にかリゼロッテが外まで来ていた。その背後には、まだ怯えた様子のディーターがいる。
「私たちを助けてくれたのは間違いなくヴァイクさんですし、きっとそこのお姉さんも――」
「そうよ、ヴァイクがいなければもうこの世にはいなかった」
ベアトリーチェが大きくうなずいた。
今のヴァイクはやや自暴自棄になってしまっているようだが、アリーセの死に何かを思い出してしまったのだろうか。
自分を貶めようとする今の彼は、見ていられなかった。
「――いろいろあったようですな。ともかく、今日はお休みください。これからのことは、明日話し合いましょう」
オイゲーンが場を和ませるようにあえてゆっくりと言葉をつむぐと、全員がほっとしたように息をついた。
促され、一同は館の中へゆっくりと入った。
簡素だがしっかりとした食事にもありつけた。ヴァイクにとっては正直、口に合わなかったのだが、文句を言っていられる状況でもない。我慢してきれいに平らげた。
すべては明日の朝に、ということになった。誰もが、今はもう何もする気になれない。食事のときも、誰ひとりとしてしゃべろうとはしなかった。
その後はすぐに部屋へ引っ込み、それぞれ休むことになった。
しかし、ヴァイクはすぐに眠れるはずもなく、窓際に立ってずっと窓の外を眺めていた。
――今日は、いろいろなことがあった。本当にいろいろなことが。
不審な死体を見つけ、人間の女と出会い、はぐれ翼人を追い、翼人の集団による襲撃を目の当たりにした。
そんな中、自分は人間たちに手を貸した。それが間違っていたとは思わない。自分は自分の信ずるところに従ってやってきた。
――だが。
何が正しくて何がいけないのかがわからなくなってしまった。
自分は翼人だ。それなのに人間に味方し、翼人を倒してきた。
――アリーセ。
彼女は、自分の鏡だったのかもしれない。痛いほど彼女の気持ちがよく理解できた。
償えない罪。
耐えきれない重み。
どうしようもない疲れ。
そのどれもが、自分と共通している。おそろしく、彼女の思いに共感してしまった。
会ったのはあれが最初で最後だったのだが、あの瞬間にすべてを共有することができたような気がする。
可能なら、もっと話をしてみたかった。いろんなことを聞きたかったし、聞いてもらいたかった。
しかし今ではもう、それは叶わぬ夢だ。
すっかり夜も更けてきたというのに、窓の外では未だ西の空が赤く燃えていた。
町のある方角だ。
翼人の襲撃がつづいているのか、それとも昼間の火が止まらないのか、まだ凶悪な炎の精霊は|猛(たけ)り狂っているようだった。
――それにしても、あの〝極光〟と名乗った連中はなんだったのか。
結局、その目的もよくわからないままだった。心臓が|抉(えぐ)られていた死体が多かったことからしておおよそのことはわかるが、どうしてあのようなことを。
ヴァイクの思考は、そこでいったん止められることになった。
「ヴァイク、いる?」
ベアトリーチェの声だ。もう夜更けなのを意識してか、小声だった。
「ああ、なんだ?」
「少し話をしようと思って」
返事をすると、扉を開けて中に入ってきた。今はあまり人と話をする気分ではなかったが、あえて黙っておいた。
ベアトリーチェはベッドの端に腰かけた。暗がりの中でも、彼女も憔悴しきっているのがその表情から嫌でもわかった。
「まだお礼をきちんと言ってなかったよね。今日はありがとう、本当に助かった……。いろいろと振り回してしまって申し訳なかったけど」
「確かに、今日は女に振り回されてばっかりだったな」
ベアトリーチェ、カトリーネ、リゼロッテと、やたらと女にかかわる機会が多かった。こんなことは、自分の人生の中でも前代未聞なのは言うまでもない。うち二人が人間なのだから、自分でも驚いてしまう。
その言葉に苦笑しつつ、ベアトリーチェは優しい目を男に向けた。
「振り回してしまったのは悪かったけど、あなたのおかげで親友もリゼロッテも助かったし、テオさんだって――」
「よしてくれ」
ベアトリーチェの声をヴァイクが邪険に遮った。今は、感謝の言葉など聞きたくもなかった。〝あがりがとう〟の一言がつらいときもある。
しかし、背後からくすりと笑う声が聞こえてきた。
むっとして振り返ると、彼女が口を開いた。
「あなたって感謝されることに慣れてないのね」
「悪かったな」
「悪くはないけど、もっと自分に自信を持ったほうがいいと思う」
それは、ヴァイクのことを思っての言葉だったのだろう。しかし、今度は彼が苦笑する番だった。
「自信とかそういう問題じゃない」
「そう? だったらいいんだけど」
再び沈黙が下りる。風が少し出てきたのか、木々がざわついた。
「なあ、ベアトリーチェ」
「うん?」
ややためらいがちにヴァイクが聞いた。
「アリーセはどういう人だった?」
その質問は予想していなかったようで、ベアトリーチェは面食らったように言葉を詰まらせた。
「アリーセ様は……私にとっては母親だった」
神殿に捨てられていたらしい自分を拾って育ててくれたのは他でもない、アリーセだった。
常に毅然とした態度を崩さず、あまり甘えさせてくれないことを恨んだこともあったが、それもすべては自分のことを考えてくれていたからこそであった。
その彼女が、最後の最後で見せた弱さ。
そのことが今は頭から離れなかったが、自分にとって最高の神官であり最高の母であることに変わりはなかった。
「彼女は、翼人とのかかわりはなかったのか?」
「翼人と……」
「俺の部族の名を知っていた。しかも、あれだけのことが起きたのに、翼人を恨んでいる節がなかった」
翼の色を見ただけで部族名を言い当ててみせた。同じ翼人でも、部族が違えばなかなかできないことだ。翼人について何かを知っているとしか思えなかった。
だが、ベアトリーチェはかぶりを振った。
「ごめんなさい、よく考えたらアリーセ様の昔のことは何も知らないの」
「謝る必要なんてない。だけど、彼女の言葉は俺にも重かった」
〝償える罪なんてない〟
〝あなたはもっと知らなければならないわ、この世界のことを〟
そして、
〝一度信じたのなら絶対に貫き通しなさい、何があっても〟
ひとつひとつの言葉に、ひとつひとつの思いが込められている。
――兄さん。
ヴァイクは、兄の遺言とそれらとを重ね合わせていた。
二人は同じことを言おうとしていたのかもしれない。なぜか、そう思えてならなかった。
「ただ、引っかかったのは、彼女がこの騒動を引き起こしたのが自分だと言っていたことだ」
「ええ、あれはどういうことだったのか」
「〝過去のあやまち〟か――」
それがわかれば、町の上空を飛ぶ翼人の姿を見ただけでひどく狼狽していた理由もわかるのかもしれないが、今となってはどうしようもなかった。
「でも、大切なのはアリーセ様の過去じゃなくて、残された自分たちがこれからをどう生きていくかだと思うの。そのために、アリーセ様は――母は、最後の力を振り絞って言葉を遺してくれた」
「わかってる」
言葉が途切れ、わずかな静寂が部屋に戻った。
それを打ち破り、ベアトリーチェは隣の男にややためらいがちに聞いた。
「ヴァイクは……これからどうするつもりなの?」
「知らん。明日考える」
つっけんどんだった。相変わらずその目は窓の外を見ていて、その表情はうかがい知れない。
それでもこれがヴァイクという男なのだろうと思うと、不思議と嫌な気はしなかった。
「ヴァイク、もし――」
「うん?」
「もし、これから私が進む道とあなたの道が重なったら、また力を貸してくれる?」
ヴァイクはしばらく黙っていた。
その沈黙は、ベアトリーチェにとっては気まずく感じるものだった。
――今日、あれだけ世話になっておきながらまた助けてもらおうなんて、身勝手な女だと思われたかな。
「俺に道なんてない」
ヴァイクが、ぽつりと言った。
「そう、そうよね。ヴァイクは空が飛べるものね。じゃあ、私を見ていて、上からでいいから」
――そういう意味で言ったのではないのだが。
と、ヴァイクは内心苦笑した。
「お前は面白い女だな」
「どういう意味?」
ベアトリーチェが細い眉をひそめた。ヴァイクはまだ窓外を見ている。
夜が更けていく。西の空は赤みがかかっっていた。