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つばさ  作者: takasho
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 だが、ゴトフリートの異変に気づいたのはそのときだ。

 額に大粒の汗をかき、呼吸が荒くなっている。

 それでもゴトフリートは、それを意に介した様子もなく話しつづけた。

「だがな、フェリクス。罪はいつか精算せねばならん。それもまた世の(ことわり)なのだよ」

「悪をなせば、その分、かならずみずからに返ってくる――小父上が以前からよくおっしゃっていることですね」

「そうだ。だから私も……そのときが来たのだ」

「!」

 まさか、と思った。

 目の前で、ゴトフリートがくず折れるようにして椅子に腰かけた。背もたれに上半身を完全にあずけたその姿は、明らかに常軌を逸していた。

「小父上!?」

「あの薬師(くすし)め……頼んだとおりではあるが、効くのが遅すぎるわ」

 いつも無表情なレナートゥスのことを思い起こし、ゴトフリートは苦笑を浮かべようとしたが、それさえもままならない。顔は無意識のうちにも歪み、その苦しみがありありと表情に出ていた。

「何か……何かを飲んだのですね!? どうして、そんなばかな真似をッ!」

「言っただろう、フェリクス。すべてを承知のうえで悪を行なったのなら、いつかかならずその罪を償わなければならない」

 拳を握りしめ、そして杯を見た。

「私は、そのために人の手を汚すようなことはしたくはなかった。だから……自分で手を打ったまでだ」

「そんな……」

 フェリクスは言葉を失った。

 考えてみれば、ある程度は予想できたことであった。

 ゴトフリートという男は、けっして引き際を間違えるようなことはせず、そして中途半端なこともしない。計画が失敗した際にそこから導き出される結論はひとつ。

 そもそも、ここにまったく護衛の者がいないことからしておかしいのだ。すべての覚悟を決めたからこそひとり残り、こちらを待っていたのだろう。

「小父上……こんな、こんな方法しかなかったのですか!?」

「なかった――いや、あったのだろう。愚かな私にはこれしか思いつかなかったのだよ」

 自嘲気味に笑うと、ゴトフリートは窓の外へゆっくりと目を向けた。

「ふふ、それにしてもわからぬものだな、世の中とは」

 途中までは、確かにこちらの予想どおりに動いていた。それがいつの間にか劣勢に変わり、気がついたときには趨勢が決してしまっていた。

「気がついたか、フェリクス?」

「え?」

「戦いの初めから、空を飛び回っていた白い翼の男がいる」

「そうでしたか」

「味方の翼人たちは、確実にあの男に気を取られていたな。そのせいで、それぞれの行動が予定よりかなり遅くなっていた」

 目を細めて空を眺める。

 今はその姿は見えないようだが、恐るべき力を持っていることは遠目にもわかった。

 とにかく、他の翼人が攻撃をしかけても当たらない。複数の敵から同時に狙われているというのに、そのことごとくをその男はかわしてみせた。

 当の本人は何か別の目的を持っていたらしくほとんど取り合おうとしなかったが、それによってかえって〝極光(アウローラ)〟の連中は混乱を(きた)したようだった。

「そのことで、全体に影響が出たのかもしれない。いわば、たったひとりの存在によってこの戦いの流れが変わってしまったのだ。面白い、というより〝怖い〟ものだと言ったほうがいいのか」

「それは戦に限ったことではないでしょう。そもそも、今回のことを引き起こしたのは一部の人々です。そして、我々他の諸侯はそれを止めようとした。ですが結局は、そのそれぞれはひとりの人間という存在でしかありません」

 たったひとつの存在が、程度の差こそあれ実際に流れを変えていた。諸侯に関しては権力を握っているからというのもあるだろう。それでも、ひとりが全体に影響を及ぼすという点に関しては、あらゆる状況下においてまぎれもない事実であった。

「ひとりひとり、ひとつひとつの存在は、まったく独立してあるように見えて、その実それぞれが密接につながり合っているのです。何かが変われば周りも変わる。そうして世界は動き、変化していくのでしょう」

「面白い、やはり面白いものだな、現実とは。もう少しこの世界を見ていたかった気もするが……」

 そう独りごちると、遠くを見るような目で窓の外を眺めた。

 煙と()えたような匂いが漂ってくるものの、徐々に怒号や悲鳴、馬蹄の轟きは収りつつあり、戦いの収束を予感させた。

 ゴトフリートはそれを見て、ただ大きく息をついただけであった。

「小父上……」

「だがな、フェリクスよ」

 すっと、愛すべき子供のほうを見た。その目には、優しさと同時にどこかしら厳しさも宿っていた。

「世の中には、既存の流れがあるということもまた事実なのだ。その流れに逆らったり、ましてや断ち切ったりすることは容易ではない。それどころか下手を打てば、かえって世に害を及ぼすことになってしまうだろう。いい加減な治水工事が、かえって洪水を増やしてしまうようにな」

「――――」

「流れに逆らうな、フェリクス。あえて流れに身を任せることもまた、時には必要なのだ。そうした中で、自分のなすべきことを考えよ」

「恐れながら、小父上」

 と、フェリクスは納得しなかった。今でも尊敬する小父の目をまっすぐに見つめた。

「流れを止めることは確かに容易ならざることではありますが、流れを変えることは誰にでもできます。世の流れとは、人と人とのつながりの中で生まれるもの。ひとりひとりが変われば、おのずとこの世界も変わっていくのです」

「…………」

「よき治水工事が洪水をなくすだけでなく農村や都市を豊かにするように、流れを変えればすべてが好転する可能性もある――そうではないですか、小父上?」

 初めは黙って聞いていたゴトフリートではあったが、すぐにふっと笑みを浮かべた。

「そなたならそう言うと思ったよ」

 そして、ぐっとフェリクスの手を握りしめた。

「流れの中に身を委ねることは安易だ。楽で安心できる、『みんなと一緒』というのはな。だが、流れの中にのみ込まれているかぎり、真に新しいものなど生まれるべくもない」

「はい」

「主流にのみ込まれるな、フェリクス。その主流がすばらしいものならば大いにその流れに乗ればいいが、たいていは腐敗と陳腐化に行き着く。そうなる前に、流れから脱せよ。(おの)が流れを変えてみせよ。もしくは、本当にすばらしい別の流れを見つけるのだ」

「はい」

「たいてい新しい流れというのは、初めはか細く弱々しい。泉から発したばかりの小川のように。しかし、その水が限りなく澄んでいるように、その小川にこそ真実が秘められている」

 握りしめる手は、すでに冷たかった。しかし、その握る力はまぎれもなく〝豪将〟のものであった。

「そなたならそれを掴めるはずだ、私が見込んだそなたなら」

「小父上――」

 かけるべき言葉を思いつかなかった。もうすぐひとりの勇士が、自分の最愛の人が目の前でその生を終えようとしている。

 それなのに、何を言えばいいのかわからない!

 どのように思いを伝えればいいのかわからない!

 気持ちだけが(はや)り、声を詰まらせた。

 しかし、なぜかゴトフリート自身は驚くほど落ち着いていた。

「今の世界の流れは確実に間違っている。翼人と人間の二つの〝川〟に分かれるべきではなかった。しかも、その川の中でいくつもの存在がぶつかり合ってしまっている」

「流れを、ひとつに?」

「しかり……。だが、そのために何をすべきかが結局のところ私にはわからなかった。もしかしたら、今回のようにいくらかの血が流れることが必要なのかもしれない。もしかしたら、すべてを平和裡に行う方法もあるのかもしれない」

「…………」

「フェリクス、お前には翼人もロシー族も、そして我々ヴィスト人も共存できる世界をつくるための考えがあるか?」

「――わかりません。これまで考えたこともありませんでした」

 ゴトフリートは、深くうなずいた。

「そうだな、それが正直なところだろう。大半の者は、そういったことをわずかでも思ってすらいない。だから、差別が横行してしまうのだ。だから、偏見が定着してしまうのだ」

 このままでは誰も救われない。

 それで自分が動いた。その方法が最善のものではないとわかってはいても。

「怖いのは……そのおかしさに気づかないことだ。世界が歪んでいても、自身のこころがすさんでいても自分では気づけない。そして、わかったときにはもう遅い……」

「小父上、あなたは気づいてしまったのですね? そして、それに耐えられなくなった」

「そうかもしれん……いや、きっとそうなのだろう。私は、狂った流れを放置しておくことができなかった、許せなかった」

 しかし、それももう過ぎたこと。

 大事なのは〝これから〟だった。

「お前ならどうする、フェリクス。どんな考えがある。よくも悪くも、今回のことで翼人と人間の世界は完全に交わった。もはや、この流れを止めることはあたわぬ」

 声がかすれだした。それでも、しぼり出すようにしてフェリクスに告げるべきことを告げた。

「ならば、やるしかないのだ。翼人と人間の流れをひとつにし……美しい川へと変えるのだ! そうすれば、すべては楽園の方向へ反転する。この世界は、己の限界を超えることができる」

「――――」

「人間と翼人が共存できる世界をつくってくれ、フェリクス。いや、絶対につくらなければならん。それができないのなら……この世界に未来はないだろう」

 ゴトフリートの手は震えていた。もはや、ほとんど力が入らないようではあったが、そこからは確実にその強い意志が伝わってきた。

 自分はひとりの男の最期を看取り、その思いを受け継がなければならない――フェリクスは覚悟を決めた。 

「他者を恐れたり貶めたりしているかぎり……本当の自由を獲得することなど有り得ない。私は……世界という曖昧なものなどではない……この世界をまさに生きる〝人々〟をこそ、その(くびき)から救いたかった……」

「小父上……」

 きっと、他の誰よりも人々のことを真剣に考え、思い悩んでいたのだろう。そこから導き出された答えは間違っていたのかもしれない。

 だが、その思い、その優しさはけっして偽りのものではなかった。

 この狂おしいまでの思いやりのどこに嘘があるというのだろう、私欲があるというのだろう。

 そこにあるのはすべて、他者に対する無私の奉仕に他ならなかった。

 やはり小父は、尊敬する小父のままだった。ここしばらくずっと抱いていた疑いの思いは、氷が溶けるように消えてなくなっていった。

「フェリクス、己の信じた道を生きよ。己を信じよ、周りを信じよ。この世界の可能性を信じよ。人間も翼人も自然の生き物も……世界のあらゆる存在が幸福に生きられる世界は夢物語というわけではけっしてない」

「はい」

「信じて……そして行動すれば、いつかかならず訪れる。今やるべきことをやり遂げれば……」

「はい」

「お前には……重荷を背負わせてすまない……。だがフェリクス、そなただからこそ人間と翼人の――」

 その全身からすうっと力が抜けていく。眠るように別世界へと旅立ち、この世に別れを告げた。

 それが、豪将と呼ばれたカセル侯ゴトフリートの静かな最期であった。

 窓の外では相変わらず混乱がつづているものの、不思議なほど静けさを感じさせた。おそらく、この戦いも終わりを迎えつつある。当初に比べれば、明らかに鎮静化してきた。

 フェリクスはゴトフリートのその静かな顔を見て、ただ座り込んでいた。泣くことも嘆くこともしない。

 いろいろなことに思いを馳せた。父とゴトフリートがいた頃の記憶。そして、現在に至るまでの彼の行動。

 中でも、この最後の会話はけっして忘れることのできないものになった。アルスフェルトの一件以来、ずっとゴトフリートが何を考えているのか理解することができなかった。

 だが、そのすべての思い、すべての願いは確かに伝わってきた。

 それに比べ、自分の考えのなんと浅かったことか。みずからとその周りのことしか意識せず、ゴトフリートのように全体のことを真に憂えることはついぞなかった。

 これでは、身勝手な奴だと後ろ指をさされようとも反論のしようがない。事実そこには、自分たちさえよければそれでいいという、利己的なこころがなかったとは言い切れなかった。

 その点、ゴトフリートは〝己〟というものを捨て去っていた。自己のためではなく他者のために――その思いにあふれていた。

 いったい、自分はゴトフリートの遺志をどれほど受け止めることができるのだろう。彼の理想をどれほど理解できているのだろう。

 ――やるしかない。

 きっとゴトフリートも、自分の考えが正しいという絶対的な確信をもって生きてきたわけではないはずだ。迷いながらでも、不安に(おび)えながらでも、必死になって前へ進んできた。その積み重ねが、ゴトフリートというひとりの人間だった。

 自分も、それと同じ領域に達することができるかどうかはわからない。ただ、そうなるべく努力することだけは可能なはずだった。

「やってみるしかないのか――」

 すっと立ち上がった。

 そして、椅子に座ったまま眠りこけているようにうつむいているゴトフリートを抱き上げ、部屋のすみにあった長椅子のほうへ運ぶ。

 そこへそっと横たえ、胸の上に手を置いた。

「あなたは……あなたは、いつも私の先を行ってしまうのですね」

 その声は震えていた。ずっと追いつきたいと憧れていた大きな背中。しかし、それが叶う前に目標は突然消えてしまった、あまりにも一方的に。

 結局、走っても走ってもそこへはたどり着けなかった。

 しかし、今ならわかる。いずれにせよ、そこへはいつまで経っても追いつくことはできなかったのだと。

「新しい流れを探せ、か……」

 他の人の後追いでは駄目だ。自分から新たな道を切り開くか、本当に自分に合った別の道を見つけ出すしかない。

 そのためには時間がかかるだろう。多くの困難がともなうだろう。もしかしたら、一生かかっても見つけられないかもしれない。

 たとえそうであっても、その努力はけっしてすべてが無駄になるわけではないはずだった。

 フェリクスはゆっくりと立ち上がり、そして空を見上げた。相変わらず煙でかすみ、雨は上がりつつあるものの、厚く雲がたれ込めている。

 しかし、そのほんのわずかな切れ間から、弱々しいものの確かに見える光が射し込んでいた。

 ――やるしかない、自分のためにもみんなのためにも。

 そう己のこころに言い聞かせた。

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