>
オトマルが覚悟を決めた頃、フェリクスはすでに上階への階段を駆け上がっていた。
思ったとおり、立ちはだかる者はまったくない。時おり人の姿を見かけるが、訓練を受けた兵士ではないようだった。
三階まですぐに来たが、迷わずさらに上を目指す。
あえてここに留まったのなら、より遠くまで見渡せる最上階にいるのが当然だ。もしかしたら、そのさらに上にある小塔にいる可能性もあった。
――しかし、きついな……
弱音を吐いている場合ではないことはわかっているが、さすがに鎧をまとったままでの全力疾走は骨が折れる。
フィデースで負った怪我の状態も思わしくなく、ひょっとしたらすでに傷口が開いているかもしれない。
部下たちも限界ぎりぎりのところで、体を張って奮闘をつづけている。自分だけが苦しいのではない。将として、これくらいのことで負けるわけにはいかなかった。
――こうなったら――
右手に握っていた剣を放り投げた。あえて鎧も篭手もかなぐり捨て、身軽になってから再び駆け出した。
ここまで来れば、衛兵や宮廷兵が出てくることはもうないだろう。そもそも、カセル侯がひとりでいるのならともかく、護衛がいればこちらとしてはどうしようない。
だったら、動きやすさを優先したほうがましというものだ。
常に走りつづけたこともあって、最上階まではあっという間だった。
だが、そこに着いたちょうどそのとき、窓の外から響いてくる喧噪の音が一際高まった。
「なんだ……?」
窓を開けて身を乗り出すと、今まさに一艘の飛行艇が煙を上げながら地上へ向かって急降下していくところであった。
そのまま速度を落とすことなく、抗うべくもなく大地に引き寄せられていく。
立ちのぼる巨大な土煙と周囲を圧する轟音。
オリオーンではなかったことに正直ほっとしたものの、あの衝撃では地上のほうにこそ甚大な被害が出ていることは確実だ。
つい先ほどまで飛行艇の側が圧倒的に優位だったはず。いったい何が起きているのかと上空を確認したとき、その原因はすぐにわかった。
ノイシュタットのオリオーンを除く他の全飛行艇の船腹に、翼人の集団が群がっている。
彼らはフィデース襲撃の際と同じようにそこに穴を空け、飛翔石と飛翔機関を破壊することを狙っていた。
――そうか、他の諸侯は飛行艇の弱点に対処していない!
自分たちはかつて襲撃を受けたから、そのときのことを教訓としてオリオーンの改良を行うことができた。
しかし、他の諸侯にとってはすべてが初めてのことだ。よほどのことがない限り船腹が弱点だということに気づかないだろう。であるなら、その効果的な対策を採りようもない。
付け焼き刃の戦術を土壇場で試したことがかえって裏目に出てしまった。
――どうする……
フェリクスは、これから墜とされる可能性の高い飛行艇の姿を見ながら逡巡した。
放っておけば、さらなる大惨事につながるかもしれない。このままでは戦そのものの流れが逆転されてしまう危険性さえあった。
だが、答えは初めからわかっていた。
それは〝今の自分にはどうしようもない〟ということだ。
オリオーンをもう一度動かせばどうにかなるのかもしれないが、それには一階まで戻って伝令兵に決められた合図を出させるしかない。
その部下たちは、自分をここまでやるために必死になって体を張ってくれている。今引き返せば、その思いをすべて反故にすることになる。
一方で、自分が外へ出ていったところで何もできはしない。なれば、今の自分にしかできないことをやるまでだ。
意を決すると、フェリクスは窓の外から視線を戻し、通路の奥へとひた走った。
今の自分にしかできないこと――それは、カセル侯ゴトフリートを止めることだ。
もう手遅れかもしれない、無意味かもしれない、それはわかっている。
しかし、もしかしたら何かを変えられるかもしれない。その一縷の望みに賭けて、行ってみる価値はあるはずだった。
それに、このままでは自分自身が納得できなかった。まだカセル侯の目的も、真意も、何もわかってはいない。すべてを明らかにしないことには、こちらも前へ進むことはできなかった。
――この先か。
通路の突き当たりにある大扉を開けた。
すると、すぐそこに上へとつづく粗末な階段があった。
確か、この先に小塔への入り口があるはずだ。ということはつまり、ゴトフリートの元までは後少しであった。
今度は、階段を一歩一歩踏みしめながら上っていく。
と同時に、荒ぶる気持ちを少しずつ整えていった。正直、どんな顔をして会えばいいのか、まるでわからなかった。
憎めばいいのか、怒ればいいのか、それとも――
答えは、すぐには出てこない。
複雑な思いがこころの中で渦を巻き、冷静な思考を阻害する。
カセル侯を止めなければならないとこれまで意気込んではいたものの、いざ実際にどうすればいいのか、どうすべきなのかが頭に浮かんでこなかった。
悶々とした気持ちを抱え、足甲を着けていたときよりも重くなったようにさえ感じる足を気にしていると、いつの間にか階段の一番上まで来ていた。
もうここまで上がったのかと驚くと同時に、未だ決心のできていない自分に苛立ちを覚えた。
しかし、考えても仕方のないことなのかもしれない。
答えなど、初めからあるはずがない。
何が起こるかわからない。
ゴトフリートの真意はずっと闇の中。
直接、本人に聞いてみる他なかった。
数歩先にある小塔の扉にゆっくりと近づいていく。
薄暗い中、一歩一歩着実にそこへ向かい、そして粗末な木製の扉に手をかけた。
意外に重いそれを、少しずつ引いていく。
目の前には半分予想どおりの、そして半分予想外の光景があった。
普段は見張り台として利用しているだけあって、ほぼ四方を見渡せるようになっている。外は相変わらずの騒ぎであったが、上空では何隻か飛行艇が姿を消していた。落ちた気配はないことからして、たぶんここから離脱したのだろう。
その窓の内側、部屋の中には簡素な調度類しかなかった。窓際の机に、引き出しのいくつか付いた棚がある。
そして、ひとりの大男がその前に立っていた。
カセル侯ゴトフリート。人はそう呼ぶ。
「人間とは儚いものだな。あっという間に消えていく」
窓の外を見つめ、背を向けたままゴトフリートはつぶやくようにして言った。
「どんなにあがいても、どんなに強く望んでも、ほとんどのことを成し遂げられずに死んでいくしかない」
人が一生のうちにできることは、いったいどれだけあるというのだろう。最大限の努力をもってしてもその成果はたかが知れており、大半が夢は夢のまま終わっていく。
虚しいといえば虚しいことだ。そもそも人間とは、その程度のちっぽけな存在でしかないということ。
いくら高みを望んでも叶えられない。そして、最後は落ちていく。
そう、人間とは上り、落ちていく存在だ。
「ですが、我々人は、ひとりでは弱いからこそ互いに手を取り合う術を知っています。それこそが、人間の可能性でしょう」
「――そうだな、そのとおりだ。相変わらず、お前からは教えられることが多い」
そう言って、ゴトフリートは初めて振り返った。
その表情にはっとした。
不思議なほどすっきりとした顔をしていた。
やや疲れが見えなくもないが、その瞳は澄み、口元には優しげな微笑みさえ浮かべている。
いつもの、ゴトフリートだった。
「小父上、まさかこんな――」
「言うな、フェリクス。言っても詮ないことであるし、言ってはならぬことだ。我々は、それぞれがみずから決断した。その結果がこういう形になったというだけだ。もしかしたら、こちらの計画が成功していたかもしれない、そうなればお前たちが考えるのとは逆の成果が出せたかもしれない」
ゴトフリートは、手に持っていた杯を机の上に置きながら言葉をつづけた。
「だが、現実にすべては決しようとしている。お前たちが勝ち、我々が負けた。ただそれだけのことなのだよ」
もはや、この戦の趨勢は明らかだった。
飛行艇のいくつかは撃退したものの、数隻は未だ攻撃をやめておらず、それは脅威以外の何ものでもない。地上では聖堂騎士団が撤退を始めたらしく、カセルの側が諸侯の軍に確実に押されていた。
壊滅するのはもはや時間の問題だ。
「小父上、なぜこんなことを始めたのです? なんのために計画したのです? 私には、どうしてもそれがわからないのです」
フェリクスは、これまでずっと抱えていた最大の疑問を思い切ってぶつけてみた。
事ここに至った以上、体裁を取り繕ったところで意味がない。さすがにもう、腹を割って話し合いたかった。
しかしゴトフリートは、すぐには答えなかった。再び窓の外に目を向け、遠くのほうを見つめている。
しばらくしてから、ようやく口を開いた。
「――フェリクスよ、お前はこの世界のことをどう思う?」
「前と同じことをお尋ねになるのですね」
「それこそがまさに大事なことだからだ。あのときは、すべてを話すことができなかった」
この戦の直前の夜、当然のことながらまだ計画の内容を明かすわけにはいかなかった。どうしてもすべてを伝えきることができず、結果、互いに感情をぶつけ合うだけで終わってしまった。
それが無意味だったというわけではない。しかし、今度こそ自分の思いを正確に伝えたかった。
一方のフェリクスも、すぐには答えられなかった。この問いかけは、最も重要なものであるような気がする。
「そうですね……単刀直入に言えば問題だらけだと思います」
「どこがだ?」
「ほぼすべて。各国は対立することしか知りませんし、我々ヴィスト人とロシー族、そして翼人同士の関係もけっして良好とは言えません」
そのうえ各地では天災がつづき、飢饉が発生しそうな地域もあると聞く。さらに政治の腐敗もひどく、下級の官吏や地方の役人の間では賄賂が横行しているという。
今は、問題点のないところを探すほうが難しい。それほどまでに、この世界は行き詰まってしまった。
「ですが私は何も、すべてをあきらめているわけではありません」
「ほう?」
「問題が多いと同時に、一方では可能性も感じるのです。確かに、どうにもならないところまで来てしまったのかもしれない。ですが、真にこの世界のことを憂えている者も確実にいるのです。それに、新しい芽も出てきています」
たとえひとりでも希望を捨てない人がいるかぎり、かならず世の中がいい方向へ向かう可能性は開かれている。自分自身さえあきらめなければ、世界はすばらしき花を展開する契機を常に保持している。
何も悲観する必要はないし、してはならない。希望を捨ててしまうことそのものが、おそらく最大の愚行なのだから。
ゴトフリートはその答えを聞いて、口元にすっと笑みを浮かべた。
「お前らしい答えだ。だが、それでいい。すべてを否定的にとらえて諦念にとらわれるのは愚か者のすることだ。願えばかならず報われるというわけではないが、希望を捨てなければ可能性は常に残される」
この先、さらに状況が悪化することも有り得よう。しかし、どんな場所、どんな時代にいようとその本質は同じだ。
あきらめないかぎり負けではない。あきらめたその瞬間に負けが確定する。
うまくいかないことも、逆効果となってしまったことも、失敗はそれ自体で真の失敗になることはない。成功するまで意地でも挑戦をつづければ、失敗は無駄ではなくなる。否、逆に意味のあるもの、成功へとつづく階段の一段となるのだ。
失敗したことを恥じる必要も悔やむ必要もない。ただ反省し、その教訓を次に活かせばいい。それを継続していけば、いつかは目的地にたどり着くことができるだろう。
「だがな、フェリクス。私は同時に、人間の限界を感じてならないのだ」
「人間の限界を……?」
「お前の言ったとおり、今の世の中はあまりにも多くの問題を抱えてしまっている。だが、それは何が原因だ? 偶然か? 天罰か? それとも、他の誰かのせいか?」
轟音が辺りに鳴り響く。どうやら、また一艘の飛行艇が落とされたようだ。
「違う、違うのだよ。すべての原因は我々自身にある。翼人やロシー族と対立するのも、同族同士でさえ殺し合うのも、すべては我々人間自身にあるのだ。あらゆる問題の根底には、そう、人の弱さがあるのだよ」
ゴトフリートの表情は、いっそ悲しげですらあった。
どうにかしたい、しかしどうにもならない。そういったことの多くには、対象の物事の限界というよりも人間の限界そのものが関係していることが大半であった。
人は弱いから、他人を疑う。
人は弱いから、他人を傷つける。
人は弱いから、みずからあきらめ、みずから壊れていく。
なんと脆弱な生き物だろうか。なんと儚い存在だろうか。
どんなに己を鍛えようとも、大半の人間が自身の基礎を形作ることさえできずに一生を終えていく。一方、〝自分は強い〟と自惚れている輩に限って、その実、中身はたかが知れている。
「こうは思わぬか、フェリクスよ。もしレラーティア教の伝説の創始者、ソウのように優れた人物ばかりだったなら、この世界に〝問題〟など起こり得なかっただろう、と」
「確かにおっしゃるとおりかもしれませんが……」
「極言すれば、人の限界、不完全さがすべてを引き起こしているということだ。そして、この人間という生き物は、一朝一夕には改善されないだろう。我々は長い年月のあいだに、間違いなく多くの知恵と技を得た。だが、その精神性はどうだったか」
ゴトフリートは、ゆっくりとかぶりを振った。
「ほとんど変わっていないだろう? 違うというのなら、数千年の昔を生きたソウ以来、なぜ彼を超える人物がひとりとして出てこないのだ」
「…………」
「人類は成長していない。余計な知識を蓄えてきただけだ」
そう訥々と語るゴトフリートの言葉に、フェリクスはただの一言も反論することができなかった。
自分たちは先人から学ぶべきことが多い。ということは、種として太古の昔よりたいして変わっていないどころか、もしかしたら反対にひどくなっている面もあるのかもしれなかった。
「そういった意味では、すべての問題はくらだらぬのだ。程度が低いのだよ」
フェリクスはその一言に、暗いもの、危険なものを感じた。実際、今のゴトフリートの目はどこか濁り、どこかくすんでいる。
「――よもや、この世界を壊そうというわけではありますまい」
「いや、そうなのだ」
「小父上……?」
ゴトフリートがゆっくりと振り返った。
「私は、この世界を変えたいと心底思った。そのためには、すべてをいったんは更地にしなければならぬだろう」
右手で平らな机の上をすっと撫でる。そこには、障害となるものはみずから置いた杯以外、一切ない。
「新しい世界をつくるには、一からやったほうが手っとり早い。余計なしがらみがないからな。しかし――」
「あなたにはできなかった」
「いや、それは違う。私は確かに実行に移した。この帝都を見よ。この大混乱は誰が引き起こしたというのか。まぎれもなく私だ。帝国二五〇年の歴史を根底から揺るがしたのは、この私だ」
「……それこそがあなたの目的だったのですか? まずは、この帝国を転覆させることが」
ゴトフリートは静かに、しかしはっきりとうなずいた。
「私の知るかぎり、このノルトファリア帝国ほど欺瞞と悪意に満ちた国は他にない。それぞれが強国の名のもとに自惚れ、傲慢の種を育ててしまっている。しかも、だ。他者を虐げることで自分たちが生きながらえていることにまるで気がついていない」
「ロシー族――」
「翼人もだよ。帝国の大半の人間は、自分たちヴィスト人のことしか考えない。同じ場所に同居する他の存在のことなど気にもかけないのだ。それどころか、我々のほうこそがあとからきた新参者であるというのに、先住の民たちを邪魔者扱いすらしている」
「…………」
「これほど厚顔無恥なことがあろうか。発想が完全に逆転していながら、それが当然だと思い込んでいる。強盗が押し入った館の主人として振る舞うようなものだ」
「同じヴィスト人としてあまりにも情けない、と……」
「そうだ。だが、これこそが帝国の現状だろう。他の種族、民族による反乱は必然だ。何を驚く必要がある。自分が逆の立場だったらどうするかを考えてみればいい。そうした不満を無理やり押さえつけ、問題の本質に目を向けようとせずごまかしつづけてきたのが、この帝国の歴史なのだ」
「では、翼人や聖堂騎士団と結託したこともそれが理由なのですか」
「そうだ。もっとも、神殿はおまけのようなものだがな」
眼下に見える白い鎧の姿を見て、ゴトフリートは珍しく皮肉げな笑みを浮かべた。
聖堂騎士団がすでに退却を始めている。ソウの思想を受け継ぐ彼らならば、もしかしたらこちらの理想に共感してくれるのではないかと期待していたのだが、しょせんは形骸化し、腐敗した組織でしかなかった。約束も誇りも関係なく、ただみずからのために引いていく。
その理想とは程遠い状況の窓の外から目をそらし、ゴトフリートはフェリクスのほうに再び向き直った。
「そこでお前に問いたい」
「――――」
「お前自身は他の存在のことを、特に翼人たちのことをどう思っている?」
フェリクスは一瞬、答えに迷った。
この短期間の間にさまざまなことがあったせいで、近くて遠い存在だったはずの隣人に対する思いもいろいろと変わってきた。
うまく表現することはできないが、今の自分の素直な気持ちをゴトフリートにぶつけてみることにした。
「私は――正直、まだ彼らのことをよく知りません。ただ、彼らの戦いぶり、というよりその動きを見ていると、非常に洗練されたものを感じるのです。いえ、洗練されているだけではない、何かこう……我々とは次元の違う何かがあるような気がして」
一度目はフィデースが襲撃された際、結果的にこちらを助けてくれた翼人たちを見たとき。
二度目はつい先ほど、感動的なまでに見事な動きを、戦いの両者が当たり前のようにやってのけているのを見たとき。
いずれも、衝撃を受けるに値することであった。なまじ戦における用兵の難しさを知っているだけに、彼ら翼人たちのすごさ、高度さに感嘆の念を禁じ得なかった。
「そんな彼らを、お前はどんな人物たちだと思う?」
「それは答えようがありませんし、答えるべきでもないと思います」
フェリクスは、きっぱりと言い切った。
「それを答えられるほどには、私は彼らのことをわかっておりません。私たちは、翼人のことをほとんど知らないのです」
「――そのとおりだ、フェリクス。それでいいのだよ」
「え?」
「我々人間はこれまで、彼らに関してあまりにも無知だった。ずっと身近にいた存在なのに、な。こちらは彼らを理解しようとしなかったし、彼らもまた我々と交わろうとしなかった。すべての齟齬は、そこから始まったのかもしれない」
この世界には、二つの歴史の流れがあったと言っていい。
人間のそれと、翼人のそれと。
その二つの川はほとんど交わることなく、ここまで来た。
しかし、出発点は同じであったとも言われる。伝説の太古の時代、〝黒翼の大鴉〟が皆を率いていた頃は人間と翼人が同じ場所で共存していた、と。これは、珍しく人間と翼人の双方に共通する伝承であった。
にもかかわらず、どこですれ違ってしまったのだろう。その差がいつの間にか広がっていき、気がついたら今のようにまったく別の道を歩むようになっていた。
「我々はまず知らねばならない、相手のことを。知ることから始めて、そこから本当の交流が起こるのだ」
「一番いけないのは知ったかぶりをすることなんですね」
「そうだ、それが偏見の温床となる」
「知ろうとするためには、まず自分が知らないことを自覚しなければならない」
「それが、相互に理解するための出発点だ。しかし、裏を返せば始まりでしかない。大半の人間はそれすらしようとしないし、何も知らないくせに思い込みで他の存在のことを貶める」
「…………」
「なんと愚かで、なんと恥知らずなことか。知らないことを認めようとしないどころか、知っている振りをし、あまつさえその内容が間違っているというのだからな。フェリクス、お前ならわかるだろう。これがいかに危険なことか」
「ええ。間違っていることを教えようにも、本人は自分が知らないことを知らず、だからこそ周りから何を言われようとも信じようとしない」
「そうした根拠のない盲信ほど、周囲とみずからを危地に陥れる」
フェリクスは、相手の目を見据えた。
「では、あなたは翼人のことを知ろうとしたのですか?」
「確かに知ろうとした。それが私にとっての端緒だった」
「何があなたを――」
「そうせたか、か? そうだな、お前にはすべてを話したほうがいいのだろうな」
きっとフェリクスの父、ジークヴァルトもそれを望んでいるはずだ。すべての責任を負う者としてそうしなければならない義務が自分にはあった。
ゴトフリートは、意を決して再び口を開いた。
「直接のきっかけは、わが館を襲撃されたことだ」
あの日、たまたま留守にしていた間に、配下の兵もろとも妻子までもが無惨に殺された。帰ってきたときには何もかもがすでに終わっており、なす術があるはずもなかった。
「そのときのことは憶えているだろう、お前も」
「ええ……ユリアーナとはずっと仲がよかったですから。訃報を聞いたときは、正直信じられなかったし、信じたくなかった」
ユリアーナ、カセル侯女。
歳は二つ彼女のほうが上だったが、互いに最高の友人としてシュラインシュタットとヴェストヴェルゲンの距離など関係なく親しく付き合っていた。
それが、ほんの一瞬で絶たれたのだ、訳もわからないまま。
父やオトマルに詰め寄ったが、当時はまったく真相を教えてもらえなかった。ただ『ユリアーナは賊に殺された』ということだけ。それは、今も変わらなかった。
「いったい……いったい、あのとき何が起きたのですか? 本当のところはどういうことだったのです!?」
カセル侯の館ならば警備も厳重だったはず。ましてや、守るのは当時から最強の名をほしいままにしていたカセル騎士団。
それが援軍の来る間もなく短時間でやられてしまうとは、普通ではとても考えられないことであった。
しかも、風の噂では襲撃者を特定する手がかりすら見つけられなかったという。つまり、相手は少人数だった可能性が高いということだが、それはなおのこと信じがたいことであった。
ゴトフリートはしばらく黙っていた。その視線は窓の外、さらに上空へと向けられていたが、振り返って意を決したように語りはじめた。
「あのときのことを話すにはさらに遡らねばならない」
「え?」
「〝アイトルフ騒乱〟――それが私にとっての転機だった」
(つづく)