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つばさ  作者: takasho
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 雨が上がりはじめた。

 しかし、未だ空には雲が厚くたれ込め、そろそろ中天に差しかかっているはずの太陽を完全に遮っている。その黒い靄は、あたかも怨霊の群でもあるかのように不気味で重い。

 それを恨めしげに見上げたあと、フェリクスはすぐさま視線をそらした。

 ――今の空は見たくなかった。

 あそこには、悪意が飛んでいる。そう、自分の放った最大の悪意が。

 飛行艇オリオーンを使う決断を下したのは、他ならぬ自分であった。

 現在の情勢、翼人への対応、そして今後の帝国のことを思えば、戦いの趨勢を決することができる兵器を投入することは当然のことではあった。

 しかし、それと同時に、あれを使えば無実の人々にまで被害を及ぼすこともわかりすぎるほどにわかっていた。

 それにもかかわらず、あえてその使用を断行した。

 たとえどんな言い訳をしようと、その大罪を免れ得るようなことではない。犠牲を承知のうえでしでかしたことは、いつか自分自身の身をもって償わなければならないことであった。

「フェリクス様、御身(おんみ)を責めなさいますな」

 隣を行くオトマルが、心配げに声をかけてきた。

「あれは使わざるをえなかった。空を制することができなければ、どれだけ地上で踏ん張ったところで意味はなかったでしょう」

「理屈ではそうだがな」

「フェリクス様……」

「翼人相手に空を制するには、オリオーンを使う必要はあった。だが、相手の側も盤石ではなかったようだ」

「仲間割れですか」

「本当に仲間割れか、それとも前のように別の勢力が現れたのかはわからないがな。連中の事情はともかく、すでに襲撃者は地上を狙えなくなっている」

「こんなことならオリオーンを出さなくてもよかったかもしれない、ですか?」

「…………」

「しかし、決断したときの状況を考えれば、それはけっして間違いではなかったはず。未来を正確に予測することなど誰にもできはしないのですから、過去の判断を嘆いても意味がないでしょう」

 ――それこそが、上っ面の理屈でしかないのだが。

 という言葉を、フェリクスはあえてのみ込んだ。

 誰がなんといおうと、言い訳は成り立たない。それでも、オトマルのこちらを気づかう思いがわかるだけに、あえてこれ以上余計なことを言うつもりはなかった。

 ――それよりも、今はやらなければならないことがある。

 空にはもう視線を戻さず、後ろめたい思いを抱えつつも、フェリクスは再び走りはじめた。

 上空の翼人からの攻撃が実質なくなったとはいえ、戦況は逼迫したままだ。諸侯の軍はカセル侯軍と聖堂騎士団の連合に押され、未だ帝都内に入りきれないでいる。

 このままでは戦力がありながらそれを無駄づかいし、気がついたときには相手に圧倒されて負けてしまっていたという最悪の事態に陥りかねない。

 諸侯にとっては、元より状況が悪かった。

 ダルム=アイトルフ地方ではロシー族の反乱が多いために兵が疲弊しており、逆にそれ以外の地域では、長い平安の世のために兵は実戦を知らなすぎた。

 ましてや、十八年間もまるっきり諸侯同士で連携をとりながら戦ったことがないのだから、それがこのぶっつけ本番でいきなりうまくいくはずもなかった。

 それは、相手にしてみても同じことだ。

 聖堂騎士団とカセル側とはお世辞にも意志疎通ができているとは言いがたく、それぞれがてんでばらばらに動いているだけなのがはた目にもわかる。

 結果として諸侯側と反乱者側双方の力が均衡し、膠着状態が未だつづている。もっとも、カセル侯軍そのものの動きがやや鈍いのには驚かされたが。

 地上では、いわば低次元での拮抗した戦いのうちにある。

 それがどうだろう、上空では翼人同士が驚くほど質の高い戦いを繰り広げていた。

 ひとりひとりが自由に動き回っているように見えながら、その実、全体として不思議なほどに調和がとれている。

 単独で行動しているかと思えば、いつの間にか複数で相手を取り囲み、それを倒すと今度はすうっとそれぞれが離れていって、別の仲間と連係をとりはじめる。

 その美しさ、巧みさ、そして高度さに気づかない者にとっては、たまたまそうなっているとしか目に映らないかもしれない。

 ――しかし、それこそが凄い。

 個々の動きも全体の流れもあくまで〝自然〟であって、そこに無駄やぎこちなさなどは一切ない。一定規模の集団が機械的に動く人間の軍とは、決定的に違う何かがあった。

 おそらく、真似をしようとしてもできないことではないか。

 そもそも、どうやればあのような最も合理的かつ自然な戦い方が可能になるのかがわからない。それほどまでに、人間の側からすれば理解の範疇を超えた奇跡的とさえいえる高次元の所作であった。

 それに引き替え、地上の見苦しさは目に余るものがある。連動するどころか互いに足を引っぱり合い、有機的に動くどころか基本の戦術さえなっていない。

 ――人間とは、この程度の存在でしかなかったのか。

 翼人と人間のあまりの落差を思うと、情けなさと同時に絶望感さえ込み上げてくる。

「翼人は、我々よりよほど高度な知恵を持っているのかもしれませぬな」

「オトマルもそう思うか」

「以前から感じておりました。あのフィデースの一件以来」

 あのとき受けた衝撃は、今でもはっきりと憶えている。

 これまで自分が蓄積してきた戦いの概念をそっくりひっくり返す、美しいまでの連動性。あれを目にしたからには、もう人間が翼人よりも上だなどという傲慢なことは一切言えなくなった。

「おっと、今は上のことに気を取られている場合ではなかったですな」

「ああ」

 自分たちにはなすべきことがある。しかもそれは、おそらくこの戦いの趨勢を決するようなことだ。今ばかりは他にとらわれず、前へ進むしかなかった。

「フェリクス閣下! 上で……!」

 走る速度を上げようとした直後、近くにいた近衛騎士のひとりが鋭く上空を指し示した。

 急いでそちらの方角を見やったとき、唖然とする他なかった。

「なんだと……」

 西の空から飛行艇が現れた。

 それだけではない、北からも東からも大型の飛行艇が四隻も帝都に近づいてくる。

 しかもその舷側には、見たくもないが、けっして忘れることのできないものがあった。

「フェリクス様、あれは……」

「――大弩弓か」

 最強最悪の兵器。

 しかし、まぎれもなく自分が生み出した凶器。

 それが、バリスタを搭載したあの飛行艇であった。

 驚いたのは地上の人間だけではない。上空の翼人らもあまりのことに動きを止め、一時戦うことも忘れて、飛行艇のほうをそれぞれが呆然と見やっていた。

 だが、悠長なことをしていられるはずもなかった。予想どおり、新たに登場した飛行艇は迷わずバリスタに矢をつがえ、それらをいっせいに放った。

 あわてて逃げようとする翼人の群を、容赦なく悪意の太矢(ボウルト)が貫いていく。敵も味方も関係なくそれを受けてしまった翼人たちが次々と()ちていき、もはや同族同士での戦いどころではなくなっていた。

「ばかな! あれだけの飛行艇が同時に攻撃をしかけたら――」

 唖然とするフェリクスら一行の前で、予想どおり地上のほうが大混乱に陥っていく。

 考えてみれば当然のことだ。

 矢がすべて標的に当たるわけでもなく、当たったとしても貫通してしまえばその矢が上空から落ちてくるうえに、射抜かれた翼人の体も勢いがつけばそれ自体がひとつの凶器となりうる。

 文字どおり、地上には矢の雨が降りそそいだ。市民も兵士もただただ逃げ惑い、次々とその犠牲になっていく。

 それだけでなく、上空から勢いのついた太矢は建物の屋根さえ貫通し、壁を破壊し、無数の家屋を無惨に潰していった。

「なんてことだ! 威力が強すぎることがなぜわからないのか!」

 要するにあとから来た飛行艇の乗員らは、まったくと言っていいほどまだ大弩弓を使いこなせていなかった。

 しかも同時に現れたはいいものの、それぞれの艇が悲しいくらいに連係がとれていない。

 結果として、無茶苦茶な攻撃をただくり返すだけという最悪の状態に陥っていた。

 ――だが、すべて私の責任だ。

 飛行艇に武器を搭載すると決めたあの日から、それを実際に使ってしまったあの日から、こうなることはある程度予想できた。

 これほどの破壊力のある兵器だ。一度(ひとたび)(おおやけ)になれば、他の諸侯が追随するであろうことは自明であった。

 事実そうなり、しかも基本の確認さえもできていないから、敵を倒すだけでなく味方の被害をも大きくしている。

「オリオーンに、すぐ攻撃中止の合図を出せ。このままでは、我々自身が帝都を壊滅させかねないぞ」

「しかし、それをするとこちらの位置が周囲に……」

「そんなことを気にしている場合か! ことは一刻を争う。早く合図を出すんだ」

 フェリクスに一喝され、あわを食って騎士のひとりが配下の兵に命じた。

 その兵士はすぐさま二本の特殊な矢を抜き出し、その先端に火をつけて上空高くへと同時に放った。

 雨が上がったとはいえ厚い雲が残っているせいでまだ薄暗い上空を、わずかな炎の尾を引きながら矢が消えていく。

 その直後、小規模ながら攻撃をつづけていたオリオーンの動きがぴたりと止まった。合図は通じたようだ。

 これで、とりあえずは自領の飛行艇の心配をする必要はなくなった。あわよくば、その動きに他の飛行艇も追随してくれるかもしれない。

 もうこれ以上、上空に対して地上からできることはなかった。フェリクスはすぐに気持ちを切り替え、前方に向き直った。

「やっとここまで来たぞ。ここからは、我々の仕事だ」

 目の前には、宮殿の威容が広がっていた。簡素な造りではあるが、その大きさは他を圧倒している。

 フェリクスら一行は秘密の抜け道を通っていったんは外へ出たものの、再び宮殿のところまで戻ってきたのだった。

 危険は覚悟のうえ。今は実質、こちらが逆賊とされてしまっていることはわかっている。

 たとえ実際に反旗を翻したのがカセル侯であっても、ノイシュタット側への不信感は消えてはいないだろう。

 だが、それでもここに来なければならない理由があった。

「本当にここにカセル侯が?」

 半信半疑といった様子で、オトマルがフェリクスに問うた。

「おそらくな。あの人が自分の身を顧みていないのならば、かならずここに本陣を置くはずだ」

 それは、けっして勘だけではなかった。

 この宮殿は小高い丘の上に建てられ、しかも建物それ自体の高さが結構ある。ここからならば、ほぼ帝都の全域を見渡すことができる。

 帝都での戦の指揮を執るには、宮殿ほど相応しいところはない。

 とはいえ、それは大きな危険をともなうことではあった。

 ここは宮廷軍の本拠であり、諸侯の集う場所でもあるから、一歩間違えば、すぐさまみずからが捕らえられる愚を犯すことになりかねない。

 しかし、それも自分の身を守る意志が初めからないのならば、リスクはリスクにならない。

 ――あの人のことだ。おそらく、もし将が倒れても軍はそのまま機能するように、なにがしかの手を打っているはずだ。

 でなくば、いくら己を捨て去っているとはいえ、ここまで思い切ったことをできるはずもなかった。

「それもこれも、実際に行ってみればわかる。いなかったらいなかったときの話だ」

「まずは、兵を数名放ってみてはいかがでしょう。いきなり突入するのはさすがに……」

「もはや時間がない。それに万が一、宮廷の連中に感付かれたら、少人数では耐えることも逃げ切ることもできない。たとえ数名でも、今、兵を失うのは痛い。ここは、全員で行ったほうがいい」

 現在、周りにいる味方はオトマルを含めても十二人。

 残念ながら、逃走途中にはぐれたり敵の刃にかかってしまったりした兵が何人かいた。

 ただでさえ、厳しい状況。このうえじり貧にでもなろうものならば、何の行動もとれなくなってしまう。それだけは避けたかった。

「皆で進むぞ。そうすれば、たとえひとりだけでもカセル侯の元へ行ける可能性は高まる。すまないが、なんとしても私をあの人のところへ連れていってくれ。それができたら、この戦を終わらせられるかもしれない」

 フェリクスの言葉に、臣下の者たちが真剣な面持ちで首を縦に振った。

 非常に危険な策ではあったが、それをやらなければどうにもならない。元より、今帝都の中にいることそのものが危険極まりないことだ。だったら、成功の望みのある方向へあえて一歩を踏み出したほうがよかった――未来のために。

「幸い、警備のほうは手薄のようですな」

「ああ、この状況ではそれどころではないだろうし、そもそも宮殿を守る意味はないからな」

 現在は、皇帝不在の状況。主がいないところをわざわざ攻めようとする者はいないし、仮にいたとしてもここの守りを優先することはしなかっただろう。

 この宮殿は、戦のための砦を兼ねた城とは違う。守ったところで益はなく、奪ったところでたいして役には立たない。せいぜい、奥の倉庫にある備蓄を手に入れられることくらいだろうか。

 象徴的な意味を除いて、危険を冒してまで宮殿を重視する意味はないのだった。

「今はただ時間が惜しい。行くぞ!」

 フェリクスの号令一下、いっせいに全員が動きはじめた。真正面からなりふり構わず突進し、宮殿の巨大ではあるが簡素な扉へ向かっていく。

 不安げな表情で空を見上げていた衛兵が、こちらにはっと気づいて鉾鎚(ハルバード)を構えようとする。

 だが、一同の必死の形相に恐れをなしたか、武器を投げ捨て、あわてて逃げていった。

 だらしがない、と思いつつも、今ばかりはかえってありがたかった。できるだけ無用な戦いは避けたい。相手は、本来ならば味方のはずの存在なのだ。

 しかし、いくら大混乱の最中(さなか)とはいえ、このまますんなりと行けるほど宮殿の守りは甘くはなかった。

 騒ぎを聞きつけ、そこここの通路やら部屋などから衛兵が現れ、すぐさま集まってくる。

 その数は少なく見積もっても三十。

 これから自分たちは、三倍近い人数を相手に戦わなければならない。

 だが、悪いことばかりではなかった。

 それまで固く閉じられていた扉が、ありがたいことに内側から開かれた。これで道だけは確保された。あとは、どうにかして突破するだけだ。

 首を振り、周囲を確認しようとしたフェリクスの横を、オトマルと数人の近衛騎士が追い越して前へと出た。

 そして、そのまま相手の懐へ突っ込んでいく。

「よいな、皆の者! この戦いが我々にとっての最後の正念場だ! なんとしても、主だけは奴の元へ送り届けるのだ!」

 オトマルの呼びかけに応え、騎士たちも雄叫びを上げた。

 それに怯んだ衛兵や宮廷兵を一気に押し込み、宮殿の中まで入っていく。

 ここの入り口からつづく通路は、扉の大きさの割に幅が狭く、ロビーがやけに奥にある。建築当初の設計上の間違いが原因とも言われているが、真相のほどは定かではない。

 その通路を、オトマルはあえて利用することにした。

 横幅が限られているから、人数の多い相手に取り囲まれずにすむ。一度に相対する敵を、正面の少数に絞ることができるのも大きかった。

 オトマルは、みずから第一列目に立って剣を振るった。

 主君フェリクスの右腕は、フィデースの一件で負った傷のせいでまだ万全ではない。先のことを考えても、まだ戦わせるわけにはいかなかった。

 突き出されてくる剣や槍をことごとく打ち返し、恐るべき的確さで反撃していく。

 剣を一振りするたびに、ひとり、またひとりと確実に衛兵らが倒れ伏していく。

 ――たいしたことはないな。

 数合打ち合わせただけで、相手のおおよその力量がわかった。

 弱い、というほどでもないが、強くもない。いたって普通の力だ。

 かつてゼルギウス帝の御代みよには宮廷軍が極端に力を付け、皇帝をはじめ諸侯を恐れさせるほどになったこともあったが、現在は皇帝不在の期間が長引いていることもあって、どうも想像以上に|ゆるんでいるようだった。

 それでも、楽に勝てるような相手でもない。しかも数が多く、油断をした瞬間にやれるのはこちらのほうだろう。

「ええいっ、何をしておるか! そんな少人数に手こずっていてどうする!」

 相手の後方が騒がしくなりだした。

 戦いながら、ちらりとそちらを見やれば、豪奢な羽根飾りが三つも付いた兜をかぶった男たちが、兵をかき分け、こちらへと向かってくるのがわかる。

 ――〝千人隊長〟クラスの奴が出てきおったか。

 その名のとおり、千人規模の隊を取りまとめる宮廷軍の要職だ。これだけ劣勢の中でまだ千人隊長がこんなところに残っていたとは驚きだが、立場上、この宮殿を完全に留守にするわけにもいかなかったのだろう。

 その男の周りには、近衛兵が何人も付き従っている。一筋縄ではいかないであろうことは明らかであった。

 ――ふふ、体がうずきおるわ。

 より強い男が来るというのなら望むところだ。このオトマル、老いたりとはいえ剣の腕はいささかも錆びついてはおらぬ。

 長らくみずから斬り合うことから遠ざかっていた分、真剣勝負に飢えに飢えていた。

 もっと戦いたい、もっと戦わせろと血が騒ぐ。

 それは、オトマルというひとりの人間の根源にある、ごまかしようもない戦士の魂であった。

 いよいよ、剣の届くところまで来た千人隊長に喜び勇んで躍りかかっていく。すぐさま近衛兵が立ちはだかろうとするが、それをあっさりとねじ伏せ、目的の男と剣を打ち合わせる。

 相手が対等に渡り合っていたのはほんの数合であった。右、左、斜めと斬り合っていくうちに、いつの間にか剣の出しどころがなくなり、防戦一方となった。

 勝負は、その時点ですでに決していた。

 やがて防ぐことさえ困難になった千人隊長は、じりじりと下がりだした。

 すべてが後手に回っている――そのことを悟った彼は、逃げ道がないかと必死に探った。

 そこへ、近衛兵のひとりが横合いからどうにしかして助太刀しようと剣を突き出した。ほんの一瞬、男はそれに気を取られ、わずかな希望が見えたような気がした。

 しかし、それが仇となった。歴戦の勇士であるオトマルがその隙を逃すはずもない。

 あっという間に距離を詰め、相手の額に剣の切っ先を突き立てていた。

 派手な金属音を響かせ、千人隊長の幅のある体がゆっくりと(かし)いでいき、どうっと音を立てて倒れ込んだ。

 その瞬間、相手の勢力は明らかに怯んだ。

「今だ! 一気に押せ!」

 ここぞとばかりに、味方をなかば強引に鼓舞する。

 ただでさえ、こちらは人数が絶対的に少ない。こうした好機を活かさなければ、いつかは相手に圧倒されてしまう。

 オトマルの声に応え、ノイシュタットの騎士たちはいっせいに攻勢を強めた。隊長があっさりと倒されたことで動揺が出た相手方は、その勢いに耐えきれず、じりじりと後退していく。

 もはや形勢は決していた。

 少しずつではあるが宮廷兵の下がる速度が徐々に増していき、ほとんど敗走に近くなる。長く思えたロビーまでつづく細い通路も、一気に相手を押し込んで奥へ奥へと進んでいく。

 初めから、兵の質の差は明らかだった。

 ノイシュタットの側も長い平安の世のため戦いの経験が豊富というわけではなかったが、それでも厳しい訓練を重ねることによってそれぞれが確実に洗練されていた。

 逆に宮廷軍の側は、おそらく皇帝不在をいいことに相当に怠けていたのだろう。日々の小さな積み重ねの差が、後の決定的な実力の差となって表れた。

 底力では他を圧倒し、さらには勢いにのったノイシュタット側を、今の宮廷兵らに止められるはずもなかった。

 ロビーまで出るとすぐさま騎士たちは二列になり、どうにかして通り道を確保した。

「よし! なんとかなったぞ! フェリクス様――」

 主を呼びやろうとしたオトマルは、次の瞬間、わが目を疑った。

 ――なんだと?

 目の前に子供がいた。

 市民の子だろうか。粗末な身なりをして、薄汚れた何かの布を握ったまま呆然とそこに突っ立っている。

 そして、その子を挟んだ向かい側には宮廷軍の兵士がいた。必死になった男は子供に気づかず、剣を思いきり振り下ろそうとしている。

 ――いかん!

 危険を承知のうえ、捨て身の覚悟で前へと出た。

 子供と相手との間に割って入り、その子を抱えながらなんとかして剣の軌道から逃れようとする。

 ――ぎりぎりで間に合いそうだ。

 それは、うまくいったかに思われた。

 しかし、予想外のことが起きたのは、最後の瞬間であった。

 腕の中で子供がもがく。

 そのわずかな動きが、すべてを一瞬だけ遅らせてしまった。

 オトマルの右腕を剣の切っ先がかすめていく。

 ぱっと、血の花が弾けた。

 ――やられたか。

 最初の感触としては、傷は浅いかのように思われた。しかし、血の流れる量からしてそれなりに斬られたようだ。痛みはたいしたことないものの、これで片腕は使い物にならなくなった。

 それを見た相手が、すかさず二撃目の剣を振り下ろしてくる。

 だが、オトマルはそれを左腕一本で弾き返し、体勢の崩れた男に渾身の一撃を見舞った。

「オトマル!」

「行ってくださいませ、フェリクス様! (わたくし)どものことは心配ありません。おそらくここにいるので全部でしょうから、あとはおひとりでも大丈夫のはずです」

 仰向けに倒れていく相手のことを確認することもせず、主君に必死の声をかける。

 今は、いちいち配下の者を気づかっている場合ではなかろうに。

 ――オトマル。

 それでも、フェリクスの胸のうちにはわずかなためらいがあった。

 仲間を危地に置き去りにしていくことへの迷い。己の身よりも臣下への心配が先に立った。

 ――だが確かに、自分にしかできないことがある。

 それを成就しなければ、ここまで来た意味も、仲間が必死になって道をつくってくれた意味もすっかり消え失せてしまう。

 決断すべきだった。

 それが遅れれば遅れるほど、いろいろな犠牲が大きくなる。

 本来、迷うことすら許されない状況であった。

「無茶はするなよ、オトマル!」

 意を決して、フェリクスは駆け出した。

 あえて背後は振り返らず、剣を握ったまま一気に〝道〟を走り抜けていく。

 宮廷兵や衛兵らはすぐさま追いかけようとするが、オトマルらノイシュタットの騎士たちがそれを許さない。

 フェリクスがロビーの奥にある通路へ消えてゆくのを横目で見届けながら、オトマルは不敵に笑った。

「お言葉ながら、それは無理というものでございます、フェリクス様」

 子供を後ろへやってから、再び剣を構える。

「私は、根っからの戦士なのですから」

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