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ヨアヒムは混乱の渦に翻弄されながらも、ひたすらに大門へ向かって走りつづけていた。
これだけ騒然となった帝都の中にいても、主君フェリクスを見つけられそうにない。
それ以前に、いつまでもこんなところに留まっていては、自分のほうが先に倒れてしまいそうだ。
フェリクスらがすでに外へ脱出していることを願い、自分もどうにかしてこの危機をくぐり抜けなければならない。
――それにしても、どうしてこんなことになってしまったのだ。
今さらながらに思う。
つい今朝方まではいつもの帝都だった。それが一瞬でここまでひどい状況に陥った。
ちょっとやそっとのことでは驚かない自負はあったが、さすがに脅威を感じずにはいられない。
それもこれも、あの謎の翼人たちのせいだ。
なんの目的が、なんの恨みがあってのことなのかは知らないが、あまりにも常軌を逸している。
――前兆はあったのかもしれないが。
アルスフェルトの噂、そしてフィズベク、さらに飛行艇フィデースの件。
思えば、一時期にこれだけのことが重なったのだから、選定会議と春の大祭が行われ、諸侯も庶民も集うこの帝都で何も起きないほうが不自然だ。
しかし帝国の騎士としては、より衝撃的なことがあった。
「まさかとは思ったのだがな……」
あの鎧、あの紋章を見るたびに顔がおのずとしかめられる。
聖堂騎士団が裏切った。
否、裏切りという表現は適切ではない。元より帝国と神殿は、これまでずっと相容れない存在だった。
騎士や神官だけでなく誰もが、いつかはこうなるであろうことを予見していた。
仲が悪いことの隠喩として〝帝国と神殿〟が使われるほどに。あのカイザースヴェークの争乱以来六十年、むしろよく持ったほうだと言えた。
だが、驚きはそれだけではなかった。いっそ聖堂騎士団のことよりも鮮烈な驚きと強烈な失望は大きかったかもしれない。
――まさか、カセル侯が反乱を起こすとは。
双頭の鷹の紋章きらめく騎士団が、諸侯の軍と真正面からぶつかり合っている。目を疑いたくなる光景だが、確かにカセル侯軍が聖堂騎士団と共闘していた。
ゴトフリートが翼人の側に与した。
理由はわからないが、その事実はあまりにも衝撃的すぎた。
カセル侯ゴトフリートといえば、すべての騎士憧れの存在。剣技に長け、戦に強く、器量が大きい。将としての資質をほぼすべて備えた彼にこそ仕えたいと思う者は、前々から帝国全土に無数にいた。
しかし、この現実はどうだろう。当のゴトフリートが、今回の争乱の首謀者だったのかもしれないとは。
今は正直、それについて冷静に考えることはできなかった。だが現実にカセル侯は敵となり、我が主君フェリクスは逆賊との濡れ衣を着せられて行方も知れない。
このままでは、帝都が陥落してしまいかねない危険性もあった。
裏の事情がどうあれ、ともかく真の反逆者たちを止めなければならない。
そのために今自分ができることは、はぐれてしまったフェリクスらと一刻も早く合流することだ。ノイシュタット侯軍には、主君のフェリクスをはじめ猛者が多い。こうした難しい局面でも、なにがしかの解決策を見出せるかもしれない。
ただし、
――合流どころか、外に出るのも難しいのだがな……
辺りは、無軌道の混迷のなかにある。
たとえどんなに剣の技に長けていようと、修練を重ねてきた騎士同士がぶつかり合っている大通りをひとりで正面から無理やり突破することなどできようはずもない。
かといって、裏道は逃げ惑う群衆でごった返し、流れに逆らうことさえ難しい。
動きのとりようがなかった。
こちらは剣を持った騎士、強引に行こうと思えば行けるのかもしれないが、それでは罪なき人々をも傷つけることになってしまう。そこまでして、己の目的を遂行するつもりはまったくなかった。
――だが、こんなところに留まっているわけにもいかない。
今は外套で鎧の紋章を隠してはいるものの、いつノイシュタットの騎士であることがばれるとも知れない。
上空からは未だ翼人による攻撃がつづているのだから、こうして立ち止まっているのも危険だ。
特に、上からの弓矢による攻撃には注意する必要があった。不意を突かれれば対処のしようがない。盾を持っていない今は、なおさら矢を払いのけるのが難しい。
翼人の動きを確認しようと上空を振り仰いだとき、思わぬ光景が目に飛び込んできた。
「……どういうことだ?」
何かがおかしい。何かに違和感がある。
目をこらしてよく見れば、翼人同士がいざこざを起こしているのがわかった。
否、いざこざという程度ではない。
明確に剣を打ち合わせ、互いに本気で戦っている。よもや空で攻撃を受けるとは思っていなかった弓を持っている側は、至近距離からの攻撃に次々と落とされていく。
仲間割れだろうか。
それにしては、剣を持つ側の動きが整然にすぎる。逆に、弓を持つ側の驚きは尋常なものではなく、明らかに態勢を乱して散り散りになっていった。
弓の側はひとかたまりになってどうにかして退却しようと試みているが、そこへ再びあの〝悪意〟が飛来した。
ほとんど一本の線のようになって、巨大な鋭い矢が鳥の群を突っ切っていく。
それらが感情もなく次々と訪れ、無防備な翼人らをひとまとめにしてひたすら冷淡に貫いた。
だが、それによって被害を受けるのは上空にいる者たちだけではなかった。
外れた太矢、もしくは標的に当たっても勢いの衰えないそれらが、|地上にいる人々にも容赦なく襲いかかってくる。
ある物は群衆のただ中に落ち、ある物は民家の屋根をあっさりと突き破る。
無差別に攻撃を仕掛けるそれは、さながら黒く激しい雨のようであった。
――あれが、人間の、ノイシュタットの落とし子か。
あまりの威力、そして暴力に、あのフィズベクのときと同じ戦慄を覚える。
敵に対してだけでなく、それ以外の存在にとってもあれは激しすぎ、厳しすぎる代物であった。
――だが、新型のオリオーンがああして動いているということは、フェリクスらは無事に脱出したということなのかもしれない。
ノイシュタットの飛行艇は、侯の直接の命令なくしてはけっして動かせない。
もし、本当にフェリクスが無事ならばそれでいい。あの方さえ生きていてくれれば、なんとかなる。
たとえ誤解から逆賊の汚名を着せられようと、かならずこの困難な状況を打破してくれるはずだった。
――だが、今の私には何もできない。
もし侯に万が一のことがあったとしたら、近衛騎士としてあまりにもつらい。混乱の中、主君を失うなど絶対にあってはならないことだった。
――とにかく、フェリクスが無事であるとするなら、ほぼ間違いなく帝都の外にいる。
だったらなおさら、自分もどうにかしてここから脱出しなければならない。
ヨアヒムは意を決すると、北へ向かって走りだした。西大門前の混乱は想像以上で、状況の変化を待ったところでたいして効果があるとは思えなかった。
だったら、別の方策を探ったほうがいい。
宮殿を出るとき、北の方向はそれほど混乱がひどくなかったような気もする。宮殿が帝都の北寄りに存在するせいもあるのだろう。
ここからだと北大門へはかなり距離があるが、こんなところでくすぶっているよりは遥かにましだ。
大通りでの戦いをしり目に、裏道を抜けて北へ向かう。それでも普段とは比較にならない混乱のせいで、思うように前へ進めない。
はっとして横に身を投げたのは、苛立ちを覚えつつ一本の道をひた走っているときだった。
「なんだ!?」
地面に膝をつきながら、上体を起こして周囲を確認する。
視界の隅に突然何かの影が飛び込んできたからとっさによけようとしたのだが、それはなんだったのだろう。
目に緑色の翼が映ると同時に、金属の打ち合わされる甲高い音が響いてきた。
「翼人、か」
見れば、翼人の男が剣を振るって戦っていた。
しかし、その相手もまた白い翼の翼人だ。弓を剣に持ち替え、応戦している。
いや、応戦しているというよりも、後者のほうが明らかに優勢だった。相手を下へ落としたのも白いほうらしい。
緑の翼人は徐々に追いつめられ、敵の剣をどうにかこうにか防ぐので精一杯のようだ。
――見ている場合ではなかった。
仲間割れしてくれるのならありがたい。
弓を背にしているほうは確実に襲撃者だが、もうひとりのほうが本当に連中の仲間なのかはわからなかったが。
――そんなことは気にする必要のないことだ。
今は余計な戦いを避け、どうにかして帝都の外へ出ることのほうが先決だ。
両者に気づかれないようにうまくその場から離れようとしたとき、思わぬところから呼び止められた。
「ああっ、あなたはノイシュタットの騎士ですね!? 私は、あなたたちの敵ではありません。どうか助太刀を!」
背後からかけられた声にぎょっとして振り返る。
見れば、緑色の翼の男がすがるような目をこちらに向けている。
――敵ではない?
どういう意味だろうか。そんなことを言ったところで、翼人が自分たちの味方であるはずもなないというのに。
――それなら、どうしてこちらがノイシュタットの者だとわかったんだ。
鎧の紋章を見たのかもしれないが、人間でさえ、それだけでどこの所属なのかがすぐにわかるものでもない。
ノイシュタットのことを以前から知っているとしか思えなかった。
「助けてッ! 僕は戦いが苦手で……」
と、必死に防戦しながら悲痛なまでの声を上げている。
――そんなことを言われてもな……
と、こちらとしては逡巡してしまう。
確かに弓を持った翼人と戦っているということは、こちらの敵というわけではないのかもしれない。しかし、味方であるという保証があるわけでもなかった。
そもそも、どうして彼らは翼人同士で争っているのか。どうして人間に助けを求めるのか。
――ああ……こちらのほうが混乱してくる。
元来、翼人と人間とは相容れない存在のはずだ。
人間は翼人に奇異の目を向け、翼人は人間とかかわろうとしない。これまで接点はまるでなかった。
――それに今は、余計なことにかかずらわっている暇はない。
一刻も早くこの帝都から脱出しなければならないし、一刻も早くフェリクスと、ノイシュタット侯軍と合流しなければならない。
敵か味方かもよくわからないような相手を助けている場合ではなかった。
――元より、得体の知れない翼人という存在とかかわりたくなどない。
そうしたこころの奥底にある根源的な意識が、すべてを拒絶させることになった。
あえて翼人たちのほうには目を向けずに、その場から立ち去ることに決めた。背中に無言の圧力を感じながらも、気づかない振りをして先へ進もうとした。
剣戟の響きは未だ聞こえてくる。
その一音一音を聞くたびに、こころの中にぽつりぽつりと波紋が広がってゆく。
――これでいいのか。自分は今、逃げようとしているだけではないのか。
確かに、あの翼人の男が敵であるのか味方であるのかはわからない。だが、こちらに助けを求めているのは事実だ。
それを見捨てようとする理由は何か。
敵である可能性があるから? いや、違う。
――私のこころの奥底に、翼人に対する偏見がある。
相手が翼人だから、人間ではないから、こころのどこかに引っかかりがある。
自分とは違う種族であるという理由だけで差別している。
――それでいいのか、ヨアヒム。
みずからに問いかける。
これが騎士として、否、人として正しい道なのか。
目の前に助けを求めている者がいる。
目の前に困窮をきわめている者がいる。
そうした人を見捨てるのが正道といえるのか!
ヨアヒムは剣を抜き、振り返った。そして一目散に、剣を打ち合わせている二人の翼人のほうへ駆けていった。
――何が正しいのか、誰が味方なのか、今はわからない。それでも、わからないことを理由に逃げるような真似だけはしたくない。
緑の翼の男と対峙している白い翼の男が、ちょうどこちらに背を向けている。しかし、あえてヨアヒムは声を上げた。
「私が相手だ!」
白の男がはっと気づき、すかさず距離をとろうとした。だが、そこへ緑の男が襲いかかり、自由に動かさない。
手を出すな、という言葉をぐっとのみ込む。
今は、馬上試合ではなく実際の戦なのだ。一対一にこだわっていてもしようがない。
自分も、すかさず相手の翼人との距離を詰めた。こちらの横薙ぎに払った剣と相手の上段から振り下ろされたそれとが思いきり打ち合わされる。
――重い!
想像以上の衝撃が来る。
フィデースで戦ったときには気がつかなかったが、翼人の力はこんなにも強いものなのか。
それほど相手の体は大きいというわけではない。いったいどこに、これだけの膂力が秘められているのだろう。
――だが、対応できないほどではない。
いったん相手を押し返し、距離が開いたところですぐさま剣を突き出す。
――決まった。
少なくとも、自分はそう確信した。長年の戦いの経験から、こういったときの勘は外れた試しがない。こちらの攻撃をよけられる間合いではなかった。
しかしその直後、嫌でも目を見張ることになった。
剣の切っ先は翼の羽のひとつをかすめただけで、空を切った。
こちらが気がついたときには、相手はすでに空中にいた。
しまった、という思いがこころをよぎる。
つい無意識のうちに、いつもの人間を相手をするときのように対応している自分がいた。
翼人と人間とでは、翼があるかないか、つまり空を飛べるか否かという決定的な差がある。迂闊にもそのことを考慮に入れるのを忘れていた。
すぐさま上空からの攻撃に備えた。
しかし、白翼の男は剣を構えてはいるものの、そこに留まったままだ。
しばらく迷った様子ではあったが、緑の翼の男が飛び上がろうとしているのを見て取って、背を向けてそのまま飛び去ってしまった。
――賢明な判断だ。
相手は、多勢に無勢であることを知らぬほど愚かではなかったということだろう。
それだけに、もし戦いの継続を選択されていたら、こちらとしても苦戦を強いられていたであろうことは想像に難くない。
「ふぅ……」
これでひとまず危機は去った。
相手の姿が完全に見えなくなってから、緑の男のほうに向き直った。
「大丈夫だったか?」
「え、ええ。本当に助かりました。あなたたちの敵ではないと言ったことは本当なんです」
男は息を乱しているものの、これといって外傷は見当たらない。あれだけ相手に押し込まれていながら怪我をしなかったということは、それなりに技量はあるということだ。
しかし、そんなことよりもずっと気になることがあった。
「ところで、君は何者なんだ? 襲撃者の仲間でもないようだが。それに、私がノイシュタットの騎士であることも知っていた」
「ううん、それはですねぇ……」
唸ったきり、黙りこくってしまう。真剣に悩んでいる様子からして、言いたくても言えない特段の理由があるということだろうか。
「す、すみません。今は、やっぱりまだ話せません」
と言いながら、こちらの追求を許さぬかのように、すぐに空へ舞い上がった。
「あなたとはいつかまた会うかもしれません。そんな気がします」
「――――」
「私の名はナータン。確実にノイシュタットの味方です。いつかすべてを話せるときが来たら、一緒に酒でも酌み交わしましょう」
そう言うなり、こちらが声をかける間もなく、あっという間に飛んでいってしまった。
「味方、か」
いろいろなことを思う。
あの者はいったいなんだったのか。
どこの勢力に属しているのか。
なぜ、翼人同士で争っていたのか。
そして、なぜノイシュタットの味方などと言ったのか。
考えてもわからないことだらけだ。
ただひとつはっきりと言えるのは、翼人の世界もけっして一枚岩ではないということ。
考えてみれば当然のことではある。人間の世界も無数の国や部族に別れて、時には争い、時にはともに手を取り合っている。
翼人の世界がそうではない理由などどこにもなかった。
それにしても、自分たち人間は〝彼ら〟のことをあまりにも知らなすぎる。今回の大騒動は、それが遠因となって招いてしまったように思えてならない。
だとしたら、一方的に襲撃者である翼人の側だけを責めることはできないのかもしれない――
上空では、未だ無数の翼人たちが飛び交い、互いに相争っている。
地上では、群衆と兵士が入り乱れ、諸侯と神殿が相争っている。
人間と翼人は何も変わらない。
そうした思いが、こころの底から泉のようにわき起こってきたヨアヒムであった。