第十章 すべての終止符と喜びと
森の空気は冷たく、帝都の喧噪が嘘のようにあたりは静まり返っている。響くのは雨の音ばかりで鳥の鳴き声すらしない。
「なんとも嫌な雨ですね」
「そうでもないわ」
ユーグが大樹の下から恨めしげに空を見上げ、アーデはただ前方を一心に見つめている。
一行は帝都を脱出し、南の森の中に潜んでいた。周囲では無数の翼人が待機し、静かな面持ちでアーデの号令を待っている。
姫はそんな彼らを見回してから、視線を元に戻した。
「この雨と霧のおかげで視界が悪くなってる。私たちみたいに表立って行動できない側にとってはありがたいことよ」
「それはそうですが……」
一方では、翼人にとって雨はあまり好ましいものではない。
翼が濡れてしまうし、ひとつの武器でもある目のよさが活かしきれない。実際、周りにいる仲間も羽に雨が当たるのを明らかに嫌がっていた。
とはいえ、これくらいで弱音を吐くような戦士は、ここにはひとりとしていなかったが。
「それより、準備はできているの?」
「ええ、今集められるだけの兵は集めましたし、すでに状況の説明はしてあります」
「そう」
ならば、今からやるべきは時機を計るだけだ。
戦においては、これがすべてと言ってもいい。
たとえどんなに戦力を整えようと、戦うべきでないときに戦えばけっして結果はついてこない。逆に戦力が劣っていても、仕掛けどきさえ誤らなければ勝つこともできる。
将たる者の役目は、そのときを見極めることだ。それさえできれば、あとはそれぞれが現場で自分の責任を果たしてくれる。みんなを信頼して任せればいいだけだ。
ただ、ユーグはアーデの意図を測りかねていた。準備はほぼ完全に整ったというのに、一向に動く気配がない。
こちらが先手を取れる確証があるなら、いくら時間をかけてもいいだろう。
しかし現実には、相手が遥かに早く動いているのだから、対応が遅れれば遅れるほど取り返しのつかないことになる。悠長なことを言っている余裕はまったくないはずだった。
「なんですぐに攻めないのか、って顔をしてるわね」
「ええ。どうして、兵を動かさないのです?」
アーデはその問いにすぐに答えることはせず、北の空に目を向けた。
そこには、見慣れぬ飛行艇が泰然と浮かんでいた。普段なら何の変哲もない光景だが、今日帝都で起きたことを知る者にとっては、それはまったく正気の沙汰ではなかった。
ユーグは首をかしげた。
「あれは、どうしてあんな危険なところに留まっているのでしょうね。何隻もの飛行艇が墜とされたことを知らないのか……」
「どうだろう?」
なんとも言えない。知らなかったならば、帝都のあまりの惨状に驚いたか、翼人に取り囲まれたせいで動けなくなっているということだ。
しかし自分には、そうは思えなかった。あの飛行艇の乗員は、何かの意図があってあそこに艇を止めているような気がしてならない。
「何か狙っていると?」
「それがわからないのよ。だから、あれが動くのを待ってるんだけど」
自分の立場からでも、かなり巨大な部類に入るあの飛行艇が不気味に思える。
襲撃者の側からしたら、なおのことその印象は強いはずだ。
事実、一度はすぐに襲いかかろうとした翼人たちも、今ではそれを遠巻きに注意深く眺めているだけで攻撃をしかける気配はない。
ただ――
「どこかで見たような気もするのよね、あれ」
「そうですか? 飛行艇なんて、どれも似たような造りだと思いますが」
「全体の雰囲気というか様子が……あっ」
ユーグと話しているうちに、その飛行艇に動きがあった。舷側に何かの機械がせり出してくる。それらは、飛行艇をぐるっと囲むほどに数が多かった。
周囲の翼人たちは顔を引きつらせた。急いで飛行艇からさらに距離を置こうとするが、もう遅い。
無数の悪意がすでに放たれていた。
翼人らは漆黒の矢に次々と貫かれ、地上へ吸い込まれるようにゆっくりと落ちていく。逃げようとする意志も虚しく、背中を、胸を、翼を撃たれ、あまりにも儚く散っていく。
飛行艇に対する翼人らは、悲しいほどに無力だった。
なす術なく大弩弓の的となり、逃げることと落ちていくことしかできない。飛行艇の力は圧倒的すぎ、ほとんど虐殺の様相を呈していた。
アーデらはその異常ともいえる光景を、なかば呆然と見つめていた。
「なんなの、あれは……」
翼人の戦士でさえたち打ちできない強烈すぎる攻撃。そして、無惨に散っていく翼人たち。そのいずれもが、想像の域を遥かに超えるものだった。
ただし、ユーグだけはひとり、まったく別の意味で衝撃を受けていた。
「じ、実用化されていたのか……」
目の前の光景を信じたくはなかった。しかし、まさしく現実に起きていることだ。そこから目を背けても仕方がない。
「何か知ってるの!?」
「――あの飛行艇は、私が発案したものです」
ユーグは声をしぼり出すようにして言った。
あれは、二年前の秋の頃だったろうか。
フェリクスから飛行艇を強化できないものかとなかば冗談で言われたとき、こちらも気軽に大弩弓を搭載したらどうかと提案したのだ。しかし、そのときはそういった話だけで終わった。
後に、飛行艇オリオーンの修繕の際に、試しに大弩弓を据え付けられるかどうか確認したことはある。それでも、重量の問題など技術的な面や政治的なことから実用化は難しそうだということで、その案は流れたはずだった。
しかし、今現実に大弩弓を搭載した飛行艇が、まさしくその武器で翼人たちを攻撃している。
「翼人対策なの?」
「いえ、あれは今回の騒動が起こるずっと前に考えたものです。とはいえ、実際に造ったということは、閣下は――」
「…………」
今になってようやくわかった。
あの飛行艇は、ノイシュタットのオリオーンに似ている。といっても、飛行艇という代物はそうそう簡単に新造できるものではない。
つまり似たものを造ったのではなく、おそらくオリオーンそのものだ。大弩弓を搭載しただけでなく、なんらかの理由で外装も大幅に変えたのだろう。
――お兄様。
今は離れたところにいる兄に思いを馳せずにはいられない。
なぜ、あれを造ったのか。
なぜ、あれに頼らざるをえなかったのか。
兄のことだ、きっと他の人にはわからないいろいろな葛藤があって最終的な結論に至ったのだろう。でなくば、あんなえげつない武器をみずから好んで生み出すはずがない。
――それでも現実にあの飛行艇は存在し、今まさに翼人たちをその鋭すぎる牙の餌食としている。
そして、自分の兄がそれを決断した。そのことは、厳然とした事実として眼前にあった。
「殿下、閣下の気持ちを察してあげてください。どうしようもない理由があったのです」
「わかってるわ。でも……」
厳しい目でオリオーンを見つめるアーデの前方に変化が起きたのは、矢の発射が一時停止された直後のことだった。
「あれは……」
こちらに何かが向かってくる。横長の影、手に持った剣――翼人だ。
全員がいっせいに身構え、一同に緊張が走る。
偶然かそれともこちらの存在に気づいたか、敵が向かってきたのかもしれない。
相手はひとり。しかし、翼人の戦士だからこそけっして油断はできない。
だが、それらの心配はすべて杞憂に終わった。
「安心して、僕だよ」
そう言って舞い降りてきたのは明るい緑色の羽をした見知った顔、仲間のナータンだった。
彼は地に足もつかないうちに、真剣な表情で口を開いた。
「大変だ、ついにカセル侯が動いた」
先ほどとは比較にならない緊張感が場を支配した。中でも、アーデとユーグの受けた衝撃はもっとも大きかった。
「やっぱり、カセル侯は〝黒〟だったのね……」
「あまり信じたくないことではありますが、可能性としては常にありました」
予想していたことではあったものの、やはりその現実に身もこころも震える。
カセル侯が、翼人と結託していた。
しかも、そこに神殿が絡んでいる。
その事実は、この帝国がひとつの終焉を迎えようとしていることのあまりに明瞭な証なのかもしれなかった。
――お兄様……
兄は、果たしてこうなることを予見していたのだろうか。
していたにしても、していなかったにしても、ゴトフリートを慕っていた兄だ、これまでになくこころを痛めているに違いない。それを思うと、自分も胸が苦しくなってくる。
だが、より切実なことは別のところにあった。
「拮抗した状態でカセル侯軍が動く――戦局が一気に変わる」
これで形勢は、反乱軍の側に確実に傾く。そうなれば、もはや帝国側は堪え切れなくなるはずだ。
ということは、自分たちもそろそろ動かなければ取り返しのつかないことになってしまう。
「じゃあ――」
「お待ちください」
行動開始の決意を固めはじめたアーデであったが、そこにユーグが待ったをかけた。
「何よ?」
「あの飛行艇が、どうにも気になります。まだ次に何を仕掛けてくるかわかりませんし、本当にノイシュタットの船だという確証もありません」
「それはそうだけど、もう悠長なことを言ってられないわ。今やらなきゃ、準備がすべて無駄になってしまう」
「飛行艇か……」
「ナータン?」
アーデとユーグの話の間に割って入ってきたのは、先ほどのナータンだった。上空を見つめたまま、つぶやくようにして言った。
「あれは、僕たち翼人にとって最低最悪の兵器という感じだけれど、大きな欠点がある」
「船底だと言いたいのだろう? 確かに下に潜り込まれたら、対応が難しい」
ユーグが、船底のキールを見ながら言った。
あの大弩弓の配置では、船底の部分は確実に死角になる。そこを狙われた場合、飛行艇の側では対処のしようがない。
「いや、それだけじゃないよ。よく考えてごらん。ユーグなら気づけるはずさ」
ナータンの言葉に眉をひそめる。それ以外のどこに欠点があるというのか。
バリスタが強力な武器であることには変わりがない。ということは、死角さえどうにかできれば大きな問題はないはずだった。
しかし、ナータンが言うからには何かがあるのだ。
ユーグは、改めて飛行艇のほうを見た。
――やはり、これといって大きな欠点はないように思う。
機動力には欠ける面もあるが、それも大弩弓の射程範囲が広いおかげで十分カバーできるはずだ。
考え込んでしまったユーグに、ナータンが下を指さして言った。
「今自分がどこにいるのか、よく考えてみるんだね」
「どこにいるか?」
どこって、帝都の外にある森の中だ。
なんの変哲もないところではあるが、比較的背の高い木々で上方を覆われていて隠れるにはもってこいの場所だった。
帝都の騒ぎが嘘のように静かで、周りに自分たち以外の人がいる気配はまったくない。
と、そこまで考えてからふと気がついた。確かにここは安全だ。だが、帝都の中は今どうなっているのか。
「まさか……」
はっとして、もう一度飛行艇のほうを見やる。
そのとき、ちょうど襲撃者らが方向を転じてその船底へ向かって飛びはじめたところだった。
それと時を同じくして、飛行艇の船底部分に横一列の窓が七つ開いた。
ぎょっとした翼人たちが動きを止める間もなく、そこからまたあの凶器が顔を出し、そして無表情に黒い影を射出していった。
まさしく進行方向から、巨大な矢が異常な速さで飛んでくる。
それをよけられるはずもなく、先ほどにも増して襲撃者の側の被害が大きくなっていく。
だが、本当の〝被害〟はそれだけにとどまらなかった。
バリスタも射手も万能ではなく、また翼人も止まっているわけではない。
必然、的を外す矢が出てくる。
「いけない!」
気がついたときにはもう遅い。斜め下に放たれた太矢は空中では何かに当たることもなく、そのまま落ちていく――群衆や兵が密集した地上へと。
それも一本や二本ではない。
呆然とする一同が見つめる中、無数の殺意が圧倒的な勢いで地上に降りそそいでいった。
ここからは確認できないが、地上でも相当な被害を出しているであろうことは、その矢の量からして疑いようもない。
――これだったのか!
ユーグは己の迂闊さに歯がみする思いだった。
矢が水平方向に放たれているときは気がつかなかったが、外れた矢は確実に下へと落ちていく。
そうなれば、兵士たちだけでなく一般の市民にも犠牲者が出てくるのは必然だった。
そもそもフェリクスが、飛行艇のあんなあからさまな弱点をそのままにしておくはずがない。一度、別の飛行艇フィデースが襲われているのなら、なおのこと対策を施そうとするだろう。
あえてこのオリオーンを持ち出し、大弩弓を利用したということは、フェリクスはそうしたすべての犠牲を覚悟のうえで行ったということになる。
――お兄様、そこまで……
下唇を噛み、厳しい目で、未だ攻撃をつづける飛行艇を見る。
アーデの受けた衝撃はユーグを超えるものがあった。
効果は抜群だが、みずからとその仲間を傷つけてしまうこともある諸刃の剣。それを使おうとするとき、人は極度の葛藤を経験することになる。
きっと、兄もぎりぎりまで悩みつづけたはずだ。そのうえで、攻撃を断行することを決断した。
そのときの苦悩、罪悪感はいかばかりか。
――兄の罪は私の罪。兄が背負うものは、私も背負う。
アーデはこころを決めた。
「全員、総攻撃の準備を。今から襲撃者〝極光〟を殲滅する」
声に感情の色を感じさせない白い口調で告げた。
一同にさっと緊張が走る。
いよいよ動くときが来た。自分たち〝新部族〟としても、これほど大規模な戦いに挑むのは初めてのことになる。大きな覚悟が必要だった。
しかしそこに、あえて止める声が上がった。
「お待ちください。今の状態のまま突っ込んだら、こちらまであの飛行艇の餌食となりかねません」
ユーグはそれを危惧していた。
「あれだけの威力の武器です。標的を外した流れ矢でも、当たればただでは済みません。この状況下で、あえて帝都上空で攻撃をしかけるのは危険すぎます」
緑の翼のナータンも同調した。
「しかも、飛行艇の乗員はこちらと襲撃者の区別ができるわけじゃない。無差別に攻撃を受けたとしてもおかしくないよ」
だがアーデからすれば、それらは言われるまでもないことであった。
「わかってる。危険なのは承知のうえよ。でも、今動くしかないの」
このまま放っておいても、飛行艇の側が勝つかもしれない。しかし、もはや勝ち負けが問題ではなかった。
あの大弩弓の性質上、地上にいる人々に犠牲が出るのは避けようがない。戦いが長引けば長引くほど、余計な被害が大きくなってしまう。
――今は、巧遅よりも拙速をとる。
それがアーデの結論だった。
「あの飛行艇と翼人を挟むようにして動いて。そうすれば、相手は逃げ場を失う」
襲撃者は引くことも進むこともできず、前方からは大弩弓に、後方からはこちらに攻められることになる。
彼らは、確かに以前より強くなった。しかし、そうした状況に陥れば、長くは持たない。
相手をオリオーンと挟み撃ちにするということは、こちらも大弩弓の射線に入るということになる。味方の犠牲も避けられなかった。
――こうして、私はまた罪を犯す。
すべてを知ったうえで、それでも強行しようとする。
味方にも敵にも大きな被害が出ることは間違いないのに、それでも実行しようとする。
これが、私という女なのだ。
目的の達成のためには、多大な犠牲が出ることも厭わない。たとえどんなに罵られようとも、なり振り構わず己のやるべきことをやろうとする。
自分という人間は――
「相変わらず、えげつない」
後方からかけられた言葉にはっとして振り返ると、ひとりの女が歩み寄ってくるところだった。
赤い翼、赤い唇。忘れるはずもない。
「レベッカ……」
いつ戻ってきたのだろう。ずっと姿が見えなかったが、怪我もなく元気なようだった。
しかし、その表情は厳しかった。
「あなたのそういうところだけは好きになれない。いつも相手のことを思いやっていながら、いざというときには手段を選ばない。それで本当にいいのか」
レベッカの言葉は厳しかった。普段は口数こそ少ないものの、時おりこうして発する鋭い指摘に反論できた試しがなかった。
それは、レベッカがけっしてごまかしや自分勝手なことを言わないからだ。あくまで真正面から挑んでくる相手を、小手先の方法であしらえるはずもなかった。
「レベッカ、殿下は――」
「わかっている。だがアーデには、人としてのこころを失わないでほしいんだ」
ユーグに言われるまでもない。
アーデの苦悩は他の誰よりもわかっているつもりだ。
しかし、譲れないものがあるし、譲ってはならないものもある。相手がアーデだからこそ、あえて厳しく言った。
その思いは、アーデにも伝わっていた。だから、けっして怒ることも失望することもなかった。
ただ感謝するだけだ。
「――ありがとう、レベッカ」
レベッカは首を横に振っている。わかってくれればそれでよかった。
「あとで少し話しておきたいことがあるが」
「え?」
「それよりも、帝都で気になることがあった。あの〝白い連中〟が派手に動き回っているぞ」
「白い連中……聖堂騎士団が?」
「ああ、宮廷軍と諸侯の軍と戦っている。そして、上空の翼人からは攻撃を受けていない」
「…………」
その意味するところは、ただひとつだ。
カセル侯に加えて、聖堂騎士団、引いては神殿側まで襲撃者に与したということ。
それは、この帝国が真っ二つに割れたことの何よりの証だった。
修復不可能な亀裂。
ノルトファリア帝国のひとつの時代が終わろうとしている。
――でも、なんとかして被害を最小限にくい止めなければならない。
今、自分たちにできることはそれだけ。
戦局を変えるのは難しいかもしれない。自分たちの行動はまったく無意味かもしれない。
しかし、何もせずにあとに悔いを残すことだけは嫌だった。
「やっぱり動く。今やらなきゃ、取り返しのつかないことになる」
その思いは、アーデだけでなく周りの者たちにとっても共通したものだった。
行動せずに嘆くよりも、たとえ失敗してでも実際に行動を起こす。それが〝新部族〟のあり方だった。
「ごめん、レベッカ。私は、こういうやり方しかできない」
「謝る必要なんてない。アーデが納得したうえでのことなら、それでいいんだ」
二人はうなずき合った。互いに互いの思いはわかっていた。
「予定どおり動いて。指示はさっきのとおり。でも、投降者にはけっして手を出さないように」
「その辺は大丈夫。仲間を信じて」
言うなり、レベッカが先頭になって飛び立っていった。その後ろに、他の翼人たちが連なってつづていく。
ただひとりだけ、未だ地上にいる男がいた。
「ナータン、何をしている?」
ユーグが白い目をその彼に向けた。
背を向けようとしていたナータンはびくりと反応して、あわてて振り返った。
「ぼ、僕も行くの?」
「当たり前だろう。ヴァレリアが急にいなくなって、ただでさえ戦力が足りないんだ。男のお前が行かないでどうする」
「でも、僕はさっき戦ってきて……」
「いいから、さっさと行け!」
鞭で打たれるようにして、ナータンが飛び上がって仲間たちを追いかけていった。その速度は凄まじく、あっという間に姿が見えなくなる。
「まったく……」
けっして能力のない男ではないのだ。肉体的には恵まれ、戦闘の才もそれなりにある。しかし、あの臆病な性格だけはいかんともしがたかった。
――そうはいっても。
呆れるユーグの隣で、アーデだけは申し訳ない気持ちを抱えていた。
ナータンは頭の切れる男だ。本来ならば実際の戦いよりも、その深い知性を活かす仕事のほうが明らかに向いている。
しかし、まったくの人手不足というこの切実な現状では、彼らにも剣を手にとって戦ってもらう他なかった。
――みんな、生きて帰ってきて。
仲間を死地へ赴かせながら、みずからは安全なところに留まっている。そんな自分には彼らの無事を祈る資格すらないのだが、ひとりの犠牲も出ないことを願わずにはいられなかった。