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低い雲が凄まじい勢いで流れていく。
ここまでは、あらゆることが順調に推移していた。
狙いどおり宮廷軍を一気に壊滅させ、残存兵には空中から矢を射かける。四つの大門を閉じたままにさせておくことで市民を外へ逃がさず、帝都内の混乱をさらに大きくする。
そこへ、業を煮やした諸侯の軍が突入を強行する。しかし、それによって帝都内はさらに混迷の度を深め、結果として諸侯の軍も思うように動けなくなる。
さらに、大神殿側が決断してくれたのも朗報だった。
ぎりぎりまで聖堂騎士団が動くかどうかはこちらにもわからなかったが、彼らが介入してくれたおかげで帝国側の混乱と焦燥はいや増した。
――今のところ、ほぼすべて台本通りだ。
やや信じがたいほどにうまくいっていることが、かえって気がかりなほどであった。
――この強い雨だけは厄介だが。
飛べなくなるわけではないが、翼が濡れて重くなると余計な体力を使う。何より、不快で仕方がない。
「浮かない顔だな」
横から、深い紺色の甲冑を身にまとった男が声をかけてくる。
マクシムは、少しだけ肩をすくめてみせた。
「それはこちらの台詞だ、ゴトフリート。ここまで計画どおりに事が進んでいるというのに、なんでそんな顔をしている?」
「順調すぎるのが怖いのだよ」
長年の戦の経験から、このまますべてが終わるとは思えなかった。先陣を取り仕切る長としては、順調であればあるほど不安が増してきてしまうものだ。
「ふんっ、お前も同じか」
と、マクシムが笑った。
実は、自分も不安をぬぐいきれない面があった。それは漠然とした勘というだけでなく、実際にいろいろと想定外の要素も出てきたからだ。
ひとつには、諸侯の軍がこちらの攻勢に対して意外に耐えていることだ。狂乱する群衆と反旗を翻した聖堂騎士団とによって動きが疎外され、思うように戦いを進められてはいない。
劣勢というわけでもないが、相手がぎりぎりのところで堪えて、逆にこちらの作戦を部分的に止めてさえいた。
諸侯が予想以上に弓兵を多く準備してきたことも、誤算といえば誤算だった。
確かに翼人からすれば、地上から矢を射かけられても届かない高さまで上がってしまえばよく、反対に攻撃時は高い位置から撃つほど矢の威力は増す。
しかし、対象から遠く離れる分、細かい狙いなどつけられるはずもない。自然、矢の命中精度は下がっていた。
ここに至るまでにいろいろと派手に動きすぎたことで、諸侯を警戒させてしまったようだ。でなくば、これほど極端に弓兵を用意するということはなかったはずだ。
「問題ない。地上の兵は我々がなんとかする」
ゴトフリートはそう言うが、マクシムの渋面は変わらなかった。
「それだけじゃないんだ。どうも、俺たち以外の翼人がここの近くに来ているらしい」
その目的はいまひとつ読めない。
集団で行動しているわけではないようだが、あちらこちらで〝極光〟ではない翼人の姿を見かけることからして、本当は全体として相当数に上るのではないか。
それがひとつに集まって何かを仕掛けてきたら、さすがに厄介なことになる。狙いがよくわからないだけに不気味な存在であった。
「翼人に別の勢力があると?」
「あって当然なんだ。翼人の数はお前たちが思っているよりもずっと多い。部族の数だけでもかなりあるしな」
「だが、はぐれ翼人の集団は小規模なものを除いて、自分たち以外には存在しないと、そなたは言っていたではないか」
「ああ、そのはずだった。あのちらほらと見える翼人たちが、それぞれまったく関係がないならともかく、もし同じ目的で動いているなら――」
「我々にとって危険な存在となりうる、か」
そして、そのことはおそらく当たっているような予感があった。何か統一された意思のようなものを感じる。その背後に控えている存在がどうにも気になる。
「流れが――変わりはじめたのかもしれん」
「…………」
ゴトフリートは返す言葉を失った。
ここまで驚くほどに順調なものの、はっきりとは目に見えないどこかで、変化は確実に起きつつあった。それは地下で鳴動する溶岩のように熱く、危険なものかもしれない。
だが、ゴトフリートは頭を少し振ってから答えた。
「確かに、我々の気づかないどこかで何かが起きているのかもしれない。だが、今はそれを気にすべきではない」
「そうだな」
「我々は前へ突き進むだけだ。たとえ、どんな状況に陥ろうとも」
「わかっている」
「どのみち、状況は我々にとって有利だ。焦ることもあわてることもない。ただ淡々と自分の役割をこなしていけばいい」
「ああ、ここでお前たちが突入すればこの戦いは決まる」
迷っている暇もなければその意味もない。そんなことより、落ち着いて計画どおりに事を進めることのほうが何よりも肝要だった。
「だがゴトフリート、油断はするなよ。不確定な要素があることは事実なんだ」
「言われるまでもない」
そう答えるなり、〝覇道侯〟は馬首を巡らし、去っていった。
いよいよ、精鋭集うカセル騎士団が動きだす。これで、宮廷軍はもちろん諸侯の軍も耐えきれなくなるはず。
――だといいのだがな。
このまま終わればいいが、そうならないだろうという根拠のない予感のほうが強かった。
もしそれが現実になったら、そのとき自分たちはどうなるのだろうか。
自分はどうすべきなのか。
さすがにその答えを探るのは憚られ、わいてくるのは言い知れぬ不安とわずかな焦燥だけであった。
思えば、ここまであまりに長かった。
部族を捨て、親友に裏切られ、そして最愛の人にまで捨てられて、一度はすべてをあきらめた。
そんな自分の元になぜか一人、二人と仲間が集い、気がつけば大所帯の集団となっていた。
――〝極光〟と名乗りはじめたのは、いつの頃からだったろう。
初めは生き延びるのに必死だった自分たちが『世界を変える』という理想を持ち、具体的な行動に打って出るようになった。
そのうち仲間はさらに増え、やがてゴトフリートという人間と出会って互いの理想に共感を覚えた。やがて共闘するようになるのは時間の問題だった。
――しかし、簡単なことばかりではなかった。
飢えに苦しんだのは一度や二度のことではない。
それは食べるものがないというだけでなく、心臓の不足が深刻だったからだ。
自分たちと同じはぐれ翼人を見つけるのは困難。狙った相手がこちらの仲間になることを望むことも多かったこともあって、無闇やたらに襲うこともできなかった。
――しかも、部族の連中は相手にしてくれない。
自分たちを掟を守らない相手だと踏んだのか、少しでもこちらの気配を察知すると集落ごと逃げていってしまう。
自分たちにそんなつもりはなかった。ヴォルグ族のように女子供を襲うことなどしないし、同じ人数で戦う〝正当戦〟にも応じる覚悟はあった。
――だが、誰ひとりとして信用してくれなかった。
結局、はぐれ翼人はどこまで行ってもはぐれ翼人だ。
翼の世界で生きていくことは、部族に残っていたとしても難しい。内側の結束の強さが、外部の存在への冷淡さへとつながってしまう。
――翼人の世界は冷たい。
氷のように冷たい。逆説的だが、だからこそ内に固まってその寒さをしのぐしかない。
こうした数々の現実を目の当たりにして、自分たちはなおいっそう〝世界を変えたい〟という思いを強くした。しかし、理想だけでは生きていけないことも思い知らされてきた。
特にジェイドが不足したときの苦しみは、表現のしようがない。
飢えと渇きと強烈な焦燥がない交ぜになって同時にやってくる。
肉体的につらいのはもちろんだが、それを遥かにしのぐ精神的な疲労がすさまじく、たいていはまずこころから駄目になっていく。
発狂するか、意識がなくなるか、もしくはみずから命を絶つ。
アウローラの三分の一がその渇きに苦しんでいた頃だったろうか。
ひとりの若い男がもはや半狂乱の状態だったのだろう、たまたまアジトの近くまで来た人間に襲いかかり、その心臓を喰らった。
他の仲間の誰しもがその凶行に衝撃を受け、恐怖さえ感じた。
しかし、そこから想像だにしないことが起こる。
男はその後〝渇き〟から急速に回復し、元の状態に戻ることができた。
以前ほど体に力が入らない感覚はあるものの、それ以外にまったく問題はなく、ほとんどジェイドを喰ったときと同じだという。
――それからだ、俺たちが翼人のジェイドだけでなく、人間の心臓まで狙うようになったのは。
これは駄目だ、このままではいけないと思いつつ、どうしようもない飢えに抗うことはできず、その後もずっと人間を襲いつづけた。
翼人の間では、ジェイドでなければ意味がない、人間の心臓では効果がないと長く語り継がれてきた。それが常識だった。
しかし、現実は違った。
人間の心臓でも問題はなかった。自分も自然と言い伝えを信じ込んでいたが、そもそも誰かが他のものを実際に試したことがあるわけではなかった。
かといって、相手が翼人ならまだしも人間の心臓を喰らうことに対して、強烈な嫌悪感が消えることはない。
こころのどこかで、もうやめろという何者かの叫びが消えることはなかった。
思えばその頃からだったろうか、自分たちが手段を選ばなくなったのは。
弓矢を使い、火計を用い、あげくの果てに女子供にまで手を出すようになった。
その行き着いた先が都市の襲撃だ。こちらとしても危険は大きかったが、これからの自分たちのために必要なことだと割り切ってやった――こころの葛藤を常に抱えつつ。
――ファルク、俺は大切な何かを忘れてきたのだろうか。
かつての親友であり義兄弟でもある男のことを思う。
部族を抜けることをぎりぎりまで反対し、それでも途中までついてきてくれた、もっとも信頼していた男。
しかし、結局は自分から離れ、元のところへ帰っていった。
――あいつの判断が正しかったのかもな。
今にして思う。
翼人がみずからの部族を離れて生きていくことは、想像よりもずっと厳しい道だった。
自然ならざることをすれば、かならずみずからに跳ね返ってくる。それは当たり前のことだったが、本当の意味で理解してはいなかったのかもしれない。
考えが甘かった。
茨の道を覚悟してはいたものの、実際はそれどころではなかった。
溶岩の流れる灼熱地獄を行くようなもので、進めば進むほど自分の大切なものが少しずつこそげ落ちていくような痛みと喪失感とがあった。
――このままだと自分は……
言い知れぬ不安がこころを苛む。
自分が選んだ方向に迷いはないはずだった。しかし、現実と感覚が何か乖離してきているような気がしてならなかった。
翼人としての誇りを捨てるつもりなどない。ただ、いつの間にか掟に反することばかりするようになってしまった。
――自分たちは、強い流れの中にある。
抗っても抗いきれない奔流。
逃げても逃げきれない濁流。
流れを変えることは叶わず、ひたすらにもがくことしかできない。
しかし、もがけばもがくほど極彩色の糸がからみつく果てのない地獄。闇という名の底なし沼にとらわれてしまったような錯覚があった。
もう、何をしても無駄なのではないか。
もう、何を望んでも無意味なのではないか。
苦しく絶望的な思いが、何度も何度も自分の内側をよぎる。
それでも立ち止まらずにここまで来れたのは、すべて仲間のおかげだった。もしひとりだったらとっくの昔に倒れていただろう、潰れていただろう。
自分には、志を同じくする仲間がいた、友人がいた。
だからこそ、足を引きずりながらでも這いつくばってでも、どうにか前へ進むことができたのだ。
――そう、自分は孤独ではない。
以前は故郷の部族にいたときでさえ、言い知れぬ孤独感に苛まれることがあった。こころの一部を空虚なものが支配していた。
自分は〝彼女〟に、その隙間を埋めてもらいたかったのかもしれない。
自分に足りないものを与えてほしかったのかもしれない。
それは叶えられなかったが、皮肉にもその後、本当に信頼できる仲間たちとめぐり合うことができた。
――今ほど、己が生きていることを実感したことはない。
そうだ、俺はまだ生きている。
確かにここに生きている。
部族にいるときには感じなかった生が、今は手の内にあることがわかる。
自分たちが進んでいる道が正しいものなのかどうかはわからない。だが……否、ゆえにこそ最後まで突き進んでみずから答えを見つけ出さなければならない。
それを悟ったとき何かが見えてくるだろう、きっと。
そのためにも、ここで立ち止まるわけにはいかなかった。
この自分という存在はもう、自分ひとりのための身ではない。自分が倒れれば、必然的に仲間たちをも巻き込むことになる。それだけは、絶対に避けなければならないことであった。
すべては、〝やるしかない〟というたった一言に集約される。
あれこれと考えていても仕方がない、迷っていても意味がない。
たとえ結果がどんなものになろうと、たとえ翼をもがれたとしても、ただまっすぐに飛びつづける、それだけだった。
決心を今一度固めたマクシムは、空をゆっくりと見上げた。
雨は変わらず降りつづいているものの、先ほどよりはいくぶん明るくなってきたようにも思える。
晴れてくれたほうがこちらとしてはやりやすい――強烈な殺気を感じたのは、そう思った直後のことだった。
東の空、雲に覆われた一点に影が見える。
それは見る見るうちに大きくなり、やがてはっきりと視認できるほどになった。
白翼の男、ヴァイク。
「マクシムッ!」
「……来たか」
同族にして、かつての弟。
そして、今でも気にかけている男、ヴァイク。
すべての、決着のときが、近づいていた。