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それでも、たいした広さのある森ではない。しばらく飛んでいると、森の中央付近に高い木々に囲まれた館を見つけることができた。
おそらく、ここがそうだろう。ヴァイクはすぐに降り、テオの名を呼んだ。
「テオ! いるか!?」
すぐには返事は来ない。だが、遅れて館の奥のほうから彼の野太い声が聞こえてきた。
しばらくすると、扉を開けてあのごつい体が姿を現した。足の治療はすんだらしく、包帯を巻いて松葉杖をついている。
「ヴァイク! よかった、無事だったか」
「テオ、こいつらを頼まれてくれ。俺は、もう少し町の様子を見てくる」
「待った!」
リゼロッテらを預けるとすぐさま再び飛び立とうとしたヴァイクを、テオが鋭い声で呼び止めた。
「なんだ?」
「実は、ベアトリーチェさんが神殿のほうへ行くって、はぐれちまったんだ」
ヴァイクは頭を抱えた。
――なんでこう次から次へと!
「どうして止めなかったんだ!?」
「すまねえ……森から近づけば神殿の裏手がすぐだから、なんとかなるって言って聞かなくて」
ヴァイクは歯がみした。
テオはけっして言い訳にはしないが、足に怪我を負っている。仮にカトリーネを抱きかかえていなかったとしても止めきれなかったであろうことは、容易に想像がついた。
「ヴァイク、ベアトリーチェさんを怒らないでやってくれ。神殿は彼女にとって我が家で、同僚は家族のようなものなんだ。どうしても助けたかったんだよ」
「それはわからんでもないが、なぜ――」
ひとりで行ってしまったのか。怒りと失望に満ちた視線を、ヴァイクは神殿のある方角へと向けた。
「頼む、彼女を助けてやってくれ。今それができるのは、あんたしかいないんだ」
そんなに頼られても困るという言葉をのみ込んで、こちらに不安げな視線を送るリゼロッテの顔を見ながらヴァイクはうなずいた。
「わかった、行ってくる。だが、期待しないでくれ。神殿とやらの状況は思った以上にひどい。無闇にそこへ突っ込んだのなら、おそらくはもう――」
テオの顔が引きつった。それに気づかなかった振りをして、ヴァイクは疲れを感じつつも再び翼を広げた。
ヴァイクは襲撃者たちに見つかることも恐れず、全速力で神殿のあるほうへと向かった。
途中、やはり数人の翼人に気づかれたが、誰も追いつけはしない。このまま目的地まで突っ切ってしまえ、と覚悟を決めた。
風を切る音がうるさく感じるほどの速度で飛んでいく。
そのかいもあって、リゼロッテらを運んでいたときとは比較にならない短時間で神殿まで戻ってくることができた。
しかし次の瞬間、目を覆いたくなった。
「最悪だ……」
神殿は、そのほとんどがすでに炎によって包まれていた。一部の建材に木材を利用していたのが災いしたようだった。
火を放った当の翼人たちでさえ、その様子をどこか呆然とした表情で眺めている。
――どこだ。
すぐにベアトリーチェの姿を捜すが、なかなか見つけられない。鷹に匹敵する目をもってしても、これだけの人数がいるのではさすがに厄介だった。
――どこだ、どこなんだ!?
時間が経てば経つほどに焦りがつのっていく。
似た姿の女は何人もいるが、肝心のベアトリーチェがどこにもいない。時間をかけてしばらく捜したが、いくら集中して目をこらしてみても、彼女の姿を見つけることはできなかった。
そろそろ限界だった。周りの翼人が不審に思いはじめているのが肌でわかる。振り切ってきた連中も、そろそろ追いつく頃合いだった。
――外にいない。ということは――
あえてそれまで見ないようにしていた神殿に視線を向けた。
その特徴的な二つの尖塔が、周囲を包む激しい火柱をこれでもかと象徴しているようで、なんとも皮肉な光景だった。
――あの中にいるのだとしたら、まず助からない。
しかし、それでもあきらめきれずに、ヴァイクは建物に近づいていった。
炎の勢いが凄まじい。その割には悲鳴の声がほとんどなく、もう生きている人間は少ないであろうことを如実に物語っていた。
――中に突入すべきなのか。どうする?
勢いにのって一気に飛び込み、すぐさま出てくれば、ある程度の火傷で済むかもしれない。
しかし、それはベアトリーチェの所在をすぐに確認できたらの話だ。時間をかけて捜している余裕などあるわけがない。
天井が落ちてきたり、焼けた柱が倒れてきたりと、ひとつでも悪いことが起これば、その時点で自分もおしまいだった。
炎の熱気に当てられ、頬を伝った汗の粒が次から次へとこぼれ落ちていく。
迷っている時間さえなかった。
――もう、行くしかない。
ヴァイクはいったん、尖塔を下に見る高さまで上がった。そこから降下する勢いを利用して、裏口の扉をぶち破って中に入る。
そもそも重厚そうな扉を壊せるかどうかも怪しかったが、覚悟を決めた以上、できるできないはもう関係なかった。
――やるしかない!
一度、大きく息を吸い込み、頭から突っ込んでいくと同時に、愛剣を鞘から抜き放った。
扉よりも炎が目につく。しかし、そんなもの構ったことか!
「!?」
が、扉の直前で止まるしかなくなった。
突然両開きの扉が開け放たれ、何かが転げ出てきた。さすがに炎にもろに巻かれたせいで、衣服のすそのほうが燃えてしまっている。
だが、その女はそれに気づくこともなく、すぐに立ち上がって扉のほうを見た。
その顔は――
「ベアトリーチェ!?」
顔は煤けてしまい、服はもうボロボロだが間違いない、ベアトリーチェであった。
しかし、彼女はヴァイクには目もくれず、建物に向かって必死の様子で叫んだ。
「アリーセ様、どうして!?」
彼女の視線の先をヴァイクが追うと、炎の向こうに人影が見えた。ベアトリーチェと同じ格好をしているが、彼女よりも年上のようだ。
その女性が、驚くほど落ち着いた様子で口を開いた。
「ベアトリーチェ、ごめんなさい……。今回のことを招いたのは私のせいかもしれない」
「アリーセ様、そんな! それは、私が衛兵の方に黙っていたから……」
「それは違うわ、ベアトリーチェ。後ろにいる方がそのときの人なんでしょう? 彼がいなければ、今生きていることさえない。違う?」
アリーセに言われて、ベアトリーチェは初めてヴァイクの存在に気がついた。彼の顔を見て驚いたように口を開く。
「ヴァイク……」
「そう、ヴァイクさんというの。あの人と同じ白い翼ね……」
「アリーセ様?」
アリーセは、少しうつむいて苦笑したようだった。
「おしゃべりが過ぎたようね。神様から与えられた時間はもう少ないというのに」
「アリーセ様、すぐにこちらへ来てください! 今ならまだ間に合います!」
ベアトリーチェの必死の叫びにも、アリーセはゆっくりと首を横に振った。
「あまりにも多くの人々が亡くなってしまった。私だけ生き残るわけにはいかない」
「それはアリーセ様のせいでは……」
「いいえ、さっき言ったでしょう、これは私が招いたことなのよ」
ベアトリーチェは息をのんだ。
アリーセの表情は真剣そのもので、気休めを言っている様子ではけっしてない。
「私はかつて大きなあやまちを犯してしまったの。実を言うとね、それがレラーティア教に入信するきっかけだったのよ」
「アリーセ様……」
そういえば、アリーセの昔の話を聞くのはこれが初めてのことかもしれない。博識な彼女はいろいろなことを教えてくれたが、結局、自分の過去については一切話そうとしなかった。
そのアリーセが今、己の過去の断片を語ろうとしている。状況は切迫していても、それを聞かずにはいられなかった。
「ようやく罰を受けるときが来たようね。あまりにもひどくて、あまりにも多くの方を巻き込んでしまったけれど」
「でもアリーセ様、人は罪を償うことができると……」
「違うのよ、ベアトリーチェ。勘違いしては駄目」
アリーセは、厳しい表情で我が子でもある彼女の言葉を遮った。
「償える罪なんてない。どんな罪でも一生背負っていくものなの。だけど、それを償おうとする行為、それが大切なのであって、本当に償えるかどうかなんて問題じゃないのよ」
「そうだ」
不意の声は、男のものだった。
「ヴァイク……」
「罪を償えるなんて考えるのはおこがましい。過ちを犯した者は永遠に苦しまなければならない。それこそが罰というものだ」
「…………」
「アリーセ、あんたは――疲れたんだな」
ベアトリーチェは目を見張って彼のほうを向くが、一方のアリーセは、ただ微笑んでいた。
どこか寂しげな目で。
「そのとおりよ。罪を償いつづけることに疲れてしまった……。このつらさこそが贖罪の道だと思っていたけれど……これさえも自分のわがままだとはわかっていたけれど……限界が来てしまった」
アリーセの頬を雫が伝っていった。
ベアトリーチェが初めて見る神殿長の涙。
今の憔悴した姿に、初めて彼女の背負ってきた業の深さを思い知らされた。
「俺もわかる。生きていてなんになるのかと……償えない罪を償うには、自分を消すしかないんじゃないかと……」
つぶやくヴァイクに対し、しかしアリーセはきっぱりと彼を断罪した。
「若造が何を言っているの。わかったような気になっては駄目。あなたはもっと知らなければならないわ、この世界のことを。それがクウィン族としての誇りを保つことにかならずなるはずだから」
「な、なぜそれを……?」
聞いても、アリーセは|微笑(わら)っているだけだ。それは、ベアトリーチェが最もよく知る、いつもの彼女の表情だった。
だが、それをずっと見ていることはできなくなった。
神殿が崩れはじめている。
アリーセのすぐそばにも、瓦礫や燃えた木材がなんの容赦もなく落ちてくる。
「アリーセ様!」
反射的に飛び出そうとするベアトリーチェを、ヴァイクが後ろから抱き止めた。
「ベアトリーチェ――そしてヴァイクさん、あなたも聞いて。これから、あなたたちはとてつもないことに巻き込まれていくと思うわ。それこそ、死んだほうがましじゃないかと思えるくらいのことに」
神殿の窓が崩れる。
「でも、それはどうしても必要なことなの。他の誰でもない、あなたたち自身のために」
屋根が滑り落ちていく。
「だから、自分の道をひたすらに進みなさい。たとえそれが茨の道であっても、片足を失っても、這ってでも前へ進みなさい」
炎が炎を巻き込む。
「最後にはきっと希望がある。だから――」
アリーセの姿が見えなくなった。
「アリーセ様!」
「一度信じたのなら――絶対に貫き通しなさい、何があっても」
「アリーセ様……」
「私は貫けなかった……。その結果として、二人の|男(ひと)の人生を台無しにしてしまったの……」
その苦痛をベアトリーチェにだけは味わってほしくない。
この純粋すぎるほどに純粋な子には。
「いい? わかったわね、ベアトリーチェ。これが私からの最後のお願いよ」
もう、彼女の姿はまったく見えない。
しかしヴァイクにさえ、彼女がそれでも笑みを浮かべているでいるであろうことが、はっきりとわかった。
「あなたたちは……あなたたちだけは生きて――」
アリーセの最期の言葉をかき消すように、神殿が轟音とともに崩れだした。
「いやあっ! アリーセ様! お母様!」
――行ってしまう、ずっと私を見ていてくれた母が行ってしまう。
離れたくない、離れたくなかった。
「私も、私も一緒に!」
「いい加減にしろ!」
乾いた甲高い音が、狂ったこころに波濤のごとく響いてくる。
一瞬の|後(のち)、うずくような痛みに、自分の頬がはたかれたのだとやっと気づいた。
目の前には、怒りの形相のまま、なぜか瞳を揺らす男がいた。
「それ以上のわがままを言うな! 望むと望まぬとにかかわらず、お前は背負ったんだ、あの人の思いを! 本当にあの人のことを思うなら――死んでも、体が腐っても背負いつづけろ!」
「ヴァイク……」
「それができないというなら、俺がこの場で殺してやる」
彼の目は本気だった。しかし、殺したくて殺すのではない。
相手のためを思う殺意。
死者の遺志からの解放。
そして、すべての終焉――幕引き。
彼は、そのかわり自分がすべてを背負うと言っている。ずっと、この私なんかより重いものを背負ってきたのだろうに。
「ヴァイク、あなたはいつもこんな生き方をしてきたの……?」
目から涙があふれる。死者への悲しみとはまったく別の感情がわき起こってきた。
ヴァイクは顔を伏せた。
「――俺はこういう男なんだ」
変えたくとも変えられない、捨てたくとも捨てられない。そうしたものの集積がヴァイクという存在を形づくっていた。
「ヴァイク……」
目の前の弱く脆い存在を引き寄せ、抱きしめた。
――アリーセ様、私はまだ何を信じていいかわかりません。
だけど……だけど、この人だけは信じていいのかもしれない。
そんな気がしています。