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まるで帝都の内側が煙ですっぽりと覆われたように、すべてがぼやけていて判然としない。しかし、それでいて凄まじいまでの狂騒の音は、ここまではっきりと響いてくる。
雨と霧と火事とによる煙で、視界はおそろしく悪くなっていた。
たいした高さを飛んでいるわけでもないのに、地上の建物を識別するのが難しい。ましてや、人それぞれを判別できるはずもなかった。
そのうえ厄介なのは、厚くたれ込めた雲だ。日の光を遮ってしまい、まだ昼間だというのが嘘だと思えるほどに周囲を暗い影で包んでいる。ほとんど宵の口に近いような状態であった。
――どこだ、ジャン。
ヴァイクは目をこらしながら、帝都の上空を必死になって飛んでいた。
鳴り響く悲鳴を耳にし、倒れた人の山を目にして、強烈な不安に苛まれつつ、この広い帝都でたったひとりの人物を捜し求めた。
――これは、ベアトリーチェを見つけ出す以上に難しいかもな……
というのが率直な感想だ。ベアトリーチェの場合、あの特徴的な神官衣が目印になった。同じ服を着ている別人もいたが、絶対数はそれほど多いわけではなかった。
しかし、ジャンは違う。ありふれた服、ありふれた顔。あいつには悪いがどこにでもいるような風貌だから、遠目には他の人々とほとんど見分けがつかない。
――難しいな……
こちらの思いとは裏腹に、時間を追うごとに状況は確実に悪化している。
雨は強くなり、地上は四つの門から入ってきた別の兵士たちのせいで余計に混乱がひどくなった。こんな中、人捜しなどまともにできるはずもない。
それでも幸いだったのは、翼人も人間もこちらにまるで注意を向けていないことだ。
兵士たちは周りの混乱を鎮めるのと聖堂騎士とやらを相手にするので手一杯で、とても上を警戒する余裕などない。
一方の翼人たちは、帝都の上空を漂う例の飛行艇を攻めあぐねている様子だった。
理由はよくわからないが、飛行艇を遠巻きにしているだけで一気に攻撃を仕掛けようという様子は見られない。
余計な手出しを受けないで済むのは助かる。
この雨の中、過酷な状況下で動き回ったことで、正直だいぶ疲れが出てきた。翼が重く、指先の感覚は冷たく鈍い。あとどれだけ体力が持つのかは、自分自身でもよくわからなかった。
――ジャン、生きていてくれよ。
最悪の事態が頭をよぎり、それを必死に振り払う。
見つけるも何も、もう動かなくなった冷たい体では意味がない。とにかく、どんな状態でもいいから生きていてほしい。この際、臆病にどこかの建物の奥に隠れているのでも今は構わなかった。
――それだと、上から捜しているだけじゃ見つけられないんだけどな。
ベアトリーチェは、大神殿へ行ってみろと言った。
しかし改めて考えてみれば、そこへどうやって入ればいいのか。神官たちは翼人に敵意を持っている者も多いという。ならば、強引にやることはこちらの危険が大きすぎた。
どうするべきなのか。
迷っているうちに、華美に過ぎるとも思える装飾の施された大きな建物が見えてきた。
――あれか。
しかし、大神殿に近づく前に止まった。遠目にも、白衣や銀色の鎧をまとった兵士たちがその入り口を固めているのがわかる。これでは、強行するのも難しそうだ。
あえて突っ込むべきか、それとも他の方法を探すべきか。
とりあえず建物の裏に回ってみようと思い、再び動き出そうとしたそのときだった。
「待ちなさい!」
鋭い声がヴァイクを制する。
どこかで聞いた声。
訝しみながら振り返ると、そこには紅色の翼をした妙齢の女性がいた。
「またあんたか」
「『また』とは何よ。いつも気にかけてやってるのに」
ヴァイクは相手の言葉も聞かず、頭を抱えた。
このヴァレリアという女とは、以前から面識があった。
自分が部族を失ってから、たびたびこちらの前に現れてはあれこれと突っかかってくる。うっとうしいこと、このうえなかった。
「気にかけてくれなくていい。ありがた迷惑だ」
「まあ、それが世話になっている相手に言う台詞? いったい、どういうしつけを受けてきたのかしら」
「兄のことは悪く言うな」
「ファルクも育て方を誤ったようね」
その言葉に、ヴァイクははっとした。
「兄さんのことを知ってるのか?」
「知ってるも何も……まあ、そのことはいいわ。それより、大神殿には近づかないことね」
ヴァイクは眉をひそめた。
「なぜだ?」
「ここからじゃわからないけど、裏手に弓兵が控えてる。今大神殿へ行ったら、格好の的になるわよ」
このヴァレリアはいけ好かない女だが、けっして嘘はつかない。彼女がそう言うのなら、実際にそうなのだろう。
「それより、あんた何やらかしたの? こちらの白い翼の者をやたらと追ってくる連中がいるから捕まえて問い質してみたら、『ヴァイクという白い翼の男を捕らえろ』って命令が出ているそうよ。どういう関係なの?」
――マクシムだ。
瞬間的にその命令を発した者の名前が浮かんだが、声に出しては何も言わなかった。
〝極光〟は、マクシムの駒にしかすぎない。元々あの男は、群れるのが好きではなかった。部族さえもみずから捨てた。
極光の連中がこちらを狙っているというのは、そのマクシムの意志に違いなかった。
「あの連中はなんなの? なんで、あんたが狙われているの? そもそも、なんでこんなところにいるのよ?」
「いちいちうるさい女だな」
「答えなさい! こっちだって、いっぱいいっぱいなのよ!」
ヴァレリアの目には、いつになく真剣な光が宿っていた。
よくよく見れば服のあちらこちらが破れ、腕には怪我も負っている。彼女自身、ここに来るまでにいくつもの修羅場をくぐり抜けてきたであろうことは、容易に想像がついた。
ヴァイクは表情を改めて、ヴァレリアに向き直った。
「あいつらは、〝極光〟と名乗っているはぐれ翼人の集団だ。アルスフェルトを襲ったのも奴らだ。俺もたまたまそこにいて、奴らと戦う羽目になった。それで狙われてるんだろう」
「説明が足りない。それだけじゃ、あいつらがあなたの名前を知っている理由にならない。それに、あなたがここにいる理由にもね」
嫌になるくらいの鋭さにため息をつきつつ、ヴァイクは再び口を開いた。
「連中を率いているのは――マクシムだ」
二人の間に、一瞬の静寂が落ちる。
「……なんですって?」
「アウローラの長はマクシムなんだ。アルスフェルトの襲撃も人間狩りも、そしてこの帝都の戦もすべてあいつが企んだことだ」
言いながら、苦虫を噛みつぶしたような思いを味わう。
――改めて考えてみれば、マクシムがそこまでする理由が未だにわからない。
彼ほどの男が、なんの意味もなく行動するわけがない。ということは、裏に何か意図が隠されているはずなのだが、それがまるで見えてこなかった。
それを聞いたヴァレリアの衝撃は、ヴァイクを遥かに超えていた。
「そんな……。でも、マクシムは〝彼女〟と一緒にいるはずじゃ……」
「どういうことだ?」
「知らないの? マクシムが部族を捨てた理由は、ある女性のためだったのよ」
ヴァレリアは目を伏せた。
「人間のね」
――ああ、そうだった。
ヴァイクは、思い出した。
アリーセが残したあの言葉。そして、ノーラから聞いた過去のこと。
「お前もアリーセのことを知っていたのか」
「……驚いた。相変わらず、よくわからない子ね。その名前が出てくるなんて」
「驚いたのは俺のほうだ。マクシムが部族を捨てたのが本当に女のためだとは思わなかった」
ノーラの話を聞いて以来、薄々そうではないかと感じてはいた。しかし、あれだけの戦士が色恋沙汰でみずからはぐれ翼人になるとは信じたくなかった。
「呆れた奴だ。女なんかのために部族を抜けるなんて」
「あんたねぇ、それはあなたの兄をも貶めることになるわよ」
「どういう意味だ?」
「それは……まあ、いいわ。いつか話してあげる。それより、マクシムがこんなことをする理由はあなたも知らないってことなの?」
「ああ、まったくわからない。だが、マクシムは次に会うときにすべてを伝えると言った。だから、何がなんでも奴をもう一度見つけ出すんだ」
そうだ、ジャンを見つけることも大切だが、同じくらいマクシムのもとへ行くことも大切だ。このままのあいまいな状態では、自分自身が耐えられない。
何も知らないままでは先へ進むことができなかった。
――どうする?
まずジャンをここから助け出すべきか、マクシムを捜すべきか迷う。
両者とも居場所がわからないが、ジャンがもし建物の中にいるとしたら、こちらとしてはもはやどうしようもない。それが大神殿ならばなおさらだ。
かといってマクシムもジャンの村で会って以来、所在は知れないままだ。おそらく帝都の周辺にはいるのだろうが、もし帝都内にいないのならばあまりにも捜すべき範囲が広すぎた。
どうしたものかと迷うヴァイクに、ヴァレリアは嘆息しつつ言った。
「マクシムのところへ行くつもりなのね。そのために帝都なんてところまで来た、と」
「そうだ。俺は、どうしてもマクシムに聞いておきたいことがある。今を逃したら、一生聞けない気がするんだ」
「――そう。だったら、ここの西にある森へ行ってみなさい。湖の南よ。たぶん、マクシムはそこにいる」
「なんでわかるんだ?」
「こちらはね、ずっとカセル侯の動向を気にかけてたの。そしたら今日の朝、一部のはぐれ翼人がカセル侯の騎士団と連絡を取り合っていた。そのときはなんだろうって不思議に思っただけだったけど、この帝都襲撃の打ち合わせをしていたのね、きっと」
アーデの予測は、悪い方向に当たった。
翼人の襲撃者とカセル侯は、やはり結託していた。カセル侯の動向がおかしいという話は聞き及んでいたが、よもやはぐれ翼人の集団と手を組むとは思いもしなかった。
しかも、聖騎士や神官戦士が他の諸侯の軍と戦っていることからして、どうやら神殿側も一枚噛んでいるらしい。
内からは聖堂騎士団、外からはカセル侯軍、そして上からは翼人。
三方から同時に攻められたのでは、さすがの諸侯も長くは持たないだろう。
今はまだ、うち二つの勢力しか動いていないから均衡が保たれているものの、もうすぐカセル侯軍が動けば、流れは一気に襲撃者の側へ傾くであろうことは疑いない。
帝国の側からすれば、もう時間がないということだ。
「行くんだったら早く行きなさい。あんたの言うとおり、事がすべて終わってからではマクシムとは二度と会えないかもしれない。どちらが勝つにしても世界が大きく動くわ、昔の状態をまるで維持できないくらい」
そんな確信めいた予感があった。明確な根拠があるわけではないが、こういったときの勘は外れた試しがない。
ヴァイクはその意見に同意しないわけでもなかったが、それを素直に認めたくないという気持ちもあった。
「――あんたは、俺の知らないことを知りすぎている。いけ好かない女だ」
「なんですって?」
ヴァレリアが眉をひそめているのには気づかない振りをして、ヴァイクはさっと背を向けた。そのまま西の空へ向かおうとする。
「ヴァイク」
あえて呼び止める声に、顔だけ振り向かせる。
そこにはいつになく深刻な表情で、いつになく心配げな様子のヴァレリアがいた。
「ねえ、もしマクシムがこうしたことをやった原因のひとつが、あなたにあるとしたらどうする?」
「……何?」
言うべきかどうしようか一瞬躊躇してから、ヴァレリアは再び口を開いた。
「マクシムのところへ行くまでに考えておいて。彼がなぜ動いたのか、自分はそれを知ったときどうすべきなのか。それからけっして目を背けないで」
ヴァイクは、すぐに返事をすることができなかった。
――重い。
ヴァレリアの言葉はやけに重たかった。いつもの軽い調子で切り返すことができない。
自分のせいでマクシムがこんなことをしている?
理解できない。奴は勝手に部族を出ていって、勝手にこんなことをしているだけだ。こちらになんの落ち度も責任もないはずだった。
ただ、ヴァレリアの一言が妙にこころに引っかかった。ただでさえもやもやとしていた気持ちが、この空と同じく暗雲がたれ込めたように光が隠されてしまった。
――今はまだ、考えても答えは出そうにない。
だったら余計なことは振り払って、自分のなすべきことに集中するだけだ。
「俺は元から考えるのは好きじゃないんだ。とにかく行動するまでだ!」
「あっ、待ちなさい!」
言うなり、ヴァイクは静止の声も聞かずに最速で一気に飛び去っていった。
呆れるほどの短絡さに、ヴァレリアとしては深く大きく嘆息する他なかった。
「ファルク、あなたの弟だって思えないわ」
あれが、あの〝思慮深き鷹〟と称された男の弟とは。
そして私の――
濁った雨は、さらに強くなろうとしていた。暗い西の空は、かすんで見えなくなりつつある。