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つばさ  作者: takasho
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 ベアトリーチェは、思いきって広場から出ることにした。先行きへの恐怖は確かにあるものの、逆に怖がって立ち止まってしまうことだけはしたくなかった。

 比較的丈夫そうな建物の並ぶ路地を選び、ゆっくりと、しかし着実に進んでいく。

 闇雲に行くのも問題があるから、とりあえず目印でもある宮殿に戻ろうと決めた。あそこならおそらく安全だろうし、来た道を戻れば知っているところだから不安もない。

 残念ながら、自分が今どの辺りにいるのかはおおよそのところしかわからないが、宮殿の建物が見えているので進むべき方向は把握できる。

 今はとにかく門から離れつつ、可能なかぎりそちらへ向かうしかなかった。

 擾乱(じょうらん)の中、驚くほど静かな一画を進む。そのときになって初めて気づいたのだが、あえて家の中に留まり、不安に怯えながら様子を見守っている人たちもいるようだった。

 ということは、あの崩れた家の中にも――頭に浮かんできた最悪の予想を、ベアトリーチェはすぐに振り払った。

 今は、他のことに気を取られている場合ではない。少しでも前へ進むしかなかった。

 住居が密集した区画を抜けると、それなりに幅のある道へと出た。人の数もまばらで、ここなら通っても大きな問題はなさそうだ。

 一応、周囲を確認してから、さっと大路(おおじ)へ出る。ベアトリーチェの視界がぐるりと回ったのはその直後のことだった。

「えっ?」

 訳もわからないまま、雨に濡れた石畳の上に押し倒されていた。

 同時に、予期せぬ強い力で動きを制される。視界は、何か大きなものに覆われていた。

 体の上に重みを感じてから、ようやく現状に気づいた。

 自分は大男にのしかかられ、その周りには複数の男たちがいた。

 全員がどこか狂ったような表情をしていて、正気のかけらも感じられない。ただ黙々とこちらににじり寄ってくる。

 逃げようとしても男の力は強く、びくともしない。その目にはもはや知性の輝きはなく、まるで飢えた(けだもの)のように渇いた欲望を露出させている。

「…………!」

 ベアトリーチェは、恐怖のあまり声が出なかった。視界が揺れ、体も思うようにならず、ただ叫びたかった。

 しかし、それさえできない、許されない。その事実だけで、半狂乱の状態に陥りそうになる。

 ――どうして、こんなときまで。

 身もこころも恐怖に支配されているというのに、自分のどこか冷静な部分だけが思考をつづけている。

 ――どうして自分のことばかり。

 欲望に支配された自分は本当の自分といえるのか。

 ――どうして負けてしまうの。

 人は儚い生き物だ。世界に敗れ、自分に敗れて、人生という名の坂道を転げ落ちていく。

 それがわかっていても止められない、止まらない。そして気がついたときにはもう、すべてを失っている。

 今こうして自分を襲おうとしている男と私と、いったいどちらが真の敗者なのだろう。そう考えると、目の前の男たちが哀れでならなかった。

 神官衣に手をかけられる。もはや抵抗するすべもなく、屈辱と絶望を感じながらもどうすることもできなかった。

 だが、目を(つむ)った次の瞬間には、状況が恐ろしいほど劇的に変わっていた。

 鈍く重い音が響くと同時に、体がふっと軽くなる。馬蹄の轟きは聞こえていたが、初め、何が起きたのかまるでわからなかった。

 女性の甲高い悲鳴の後、周囲がある程度の静けさを取り戻してからおそるおそる目を開けてみた。

 視界は開けていた。

 男たちの姿はなく、あの独特の匂いも感じない。

 しかし、血臭はあった。すぐ近くから、吐き気を催す濃い臭気が漂ってくる。

 見ないほうがいい。理性はそう叫びつつも、ほとんど無意識のうちにそちらのほうを向いてしまった。

 男たちが、血塗れになって倒れていた。うち二人は激しく頭を打ちつけたのか、血とともに脳漿をぶちまけている。

 それ以上は見ていられなかった。手で口を押さえ、よろめきながらも立ち上がってその場から離れようとした。

 そのときになってようやくわかったのだが、周りでは騎兵が多く走っていた。門を突破した兵のうち、騎士が先行したのだろう。

 たぶん、あの男たちは馬にはね飛ばされたのだ。今でも、馬の蹄の音だけははっきりと憶えている。

 町中の戦いで最も恐ろしいのはこれだった。

 疾駆する馬の勢いというものは、想像するよりも遥かに凄まじい。たとえ鍛え上げられた兵士たちでさえも、正面からぶつかられたらひとたまりもない。

 自分は、押し倒されて寝かされていたのが幸いしたようだ。襲われたほうが助かり、襲ったほうが犠牲なるとは、ただの皮肉なのだろうか、それとも天罰なのだろうか。

 ベアトリーチェは彼らが馬にぶつかったことよりも、己の欲望に負けたことをこそ哀れんだ。

 はっとして顔を上げると、やや高い建物で囲まれた狭い路地のところまで来ていた。自分が思うよりも錯乱していたのかもしれない。まったく方向感覚を失ってしまっている。

 ここからでは、目印となる遠くの建物も見えない。どちらへ進めばいいのかまるでわからなくなった。

 混乱と、疲れと、失望で、もう立ってはいられない。道の真ん中にいることも構わず、その場にへたれ込んでしまう。

 すべてが苦しかった。

 何がどうというわけではない。もう、何もかもが苦しい。

 全身が悲鳴を上げ、疲れと怪我の痛みでどこも動かすことができない。そして度重なる艱難(かんなん)辛苦のために、こころはすでに折れてしまっていた。

 大きく息をつき、空を見上げる。

 雨が強くなってきた。

 空に立ち込める雲はいっそう厚くなり、帝都をますます暗くしている。そんな中、無数の翼人が未だ宙を舞っていた。

 ――あのときと同じだ、アルスフェルトのあのときと。

 すべてが狂い、すべてがつらい。

 何が正しくて何がおかしいのかもわからず、ただただ狂乱の中で逃げ惑うしかない。

 不安で押しつぶされそうになる。

 熱気で気が狂いそうになる。

 だが、誰も助けてはくれない。自分でどうにかするしかない。

 ――いや、あのときは助けてくれる人がいた。

 ヴァイク。

 いつも強くて、いつも優しい人。アルスフェルトでは、見ず知らずの自分を何度も何度も救ってくれた。

 しかし彼は今、ここにいない。

 どこにいるのかもわからない。

 呼んだとしても来てはくれない。

 こちらの声は届かないところにいる。

 ――ヴァイク、ヴァイク……

 それでも、こころの中では慟哭しながらその名を叫んでしまう。

 できるだけのことはしておきたかった。しかし疲労と衝撃は、もはや自分にとっての限界を軽く超えてしまった。

 ――とりあえず褒めてくれるかな?

 中途半端だった気もするが、この過酷な状況の中でぎりぎりまで粘りつづけた。思えば、よく生き残ったものだ。

 暴徒の波に二度ものみ込まれ、瓦礫の下敷きになりかかって、狂った男どもに襲われそうになった。そのときも、一歩間違えば自分が馬にはね飛ばされて死んでいたかもしれない。

 ――私も、少しは強くなれたのだろうか。

 よくわからない。わからないが、走りつづける意志は持つことができていたと思う。以前の自分なら困難にぶつかったとき、何かをやろうとすらせず、あきらめてしまったはずだ。

 今の自分をヴァイクが見たら、なんと言うだろうか。そればかりが気になった。

 ――熱い……

 それにしても熱く、苦しい。

 異様な熱気に顔を起こして周囲を見渡すと、すぐ近くの家の屋根から火の手が上がっていた。

 下のここまで火の粉が降りそそぎ、炎の激しい熱が雨を乾かしてむせ返るような蒸気を生み出しつづける。

 とてもこの場に留まってはいられなかった。疲れ果てた体でさえ、ほとんど無意識のうちに逃げるために重い腰を上げていた。

 この様子では、いつ屋根が崩れ落ちてくるとも知れない。

 皮肉にも、アルスフェルトからここまで数々の危地をくぐり抜けてきたおかげで、危険を察知する能力は体が自然に反応するほどに研ぎ澄まされていた。

 ふらつく足を罵りながら、よろめきながら、一歩、また一歩と少しずつ前進する。

 熱い。

 苦しい。

 でも、寒さも感じる。雨で服が濡れ、疲れが体から熱を奪っていく。

 もう、だんだんと何もかもがどうでもよくなってきた。

 息をするのも億劫(おっくう)で、胸の奥に重いものが詰まったように苦しい。意識が朦朧としてきて、何も考えられない。

 いっそここに倒れてしまえ、と思う。

 ここに寝てしまえば、すべてを終えることができる。ここで何もかも放り出してしまえば、楽になることができる。

 その誘惑に、ベアトリーチェは負けた。

 ここが危険であるのをわかりすぎるほどわかっているのに、足を止め、腰を下ろした。

 そして、近くにあった煉瓦製の壁に背をもたせかけた。

 降り仰ぐ空には、薄暗い雲が立ち込めているだけであった。

 ――最後に、ヴァイクに会いたかったな……

 絶望的な思いの中に、彼の面影がすっと現れる。

 思えば、不思議な関係だった。

 アルスフェルトで偶然出会い、翼人による都市への襲撃という有り得ない状況のなか助けられ、そして行動をともにすることになった。

 その後、お互いに数々の困難と苦悩を乗り越え、帝都までやってきた。

 これまで、自分は彼といるのが当たり前だと思ってきた。それが自然で、これからもずっと一緒にいるものだと。

 しかし彼は翼人で、自分は人間であるという決定的な違いを失念していた。

 けれども今は、彼と自分の何が違うというのだろうとも思う。

 お互いに弱く、お互いに脆い。

 片方には翼があって、片方にはそれがないというだけ。

 だが、〝ジェイド〟の問題はあった。

 翼人は同族の心臓がなければ生きられず、必然的に互いに殺し合う定めを負っている。生まれながらにして争いが宿命づけられている。

 ――でも、それすら人間も同じ。

 誰だって戦いなんてしたくない。けれど、人間の歴史とは血と涙の道程でもあった。

 どちらも小さく、どちらも(はかな)い。

 それは、間違いなく同じだった。

 ――彼も私も変わらない……今頃気づいても遅いけど。

 かつてノーラが語った言葉の意味をもう少し早く理解していれば、自分と彼の関係もやや違ったものになっていただろうか。

 しかし、すべては後の祭りだった。もう何もできず、自分の命も風前の灯火であった。

 ――アリーセさま、すみません。私も、もうすぐ御元へ参ります。

 今になって何かが見えた気がした。

 世界のすべてを貫く大切なもの。翼人と人間に共通する純粋なもの。

 ――ああ、そうなのか。

 一言では言い尽くせない。

 優しさ、愛、思いやり、絆、そして支え合うこと。

 人は誰しも、ひとりでは生きていけない。それぞれが足りないものを相互に補完し合い、そして高め合う。

 そうすることによって、全体としてお互いを結ぶ無数の輪ができる。それは重なり合い、絡み合いながら常に変化している。

 自分もヴァイクも、そして今は亡きリゼロッテも、その輪の中の一員だった。きっとその無数の輪によって構成される全体のことを、自分たちは〝世界〟と呼んでいるのだろう。

 中には、いい輪もあれば、ないほうがいいような輪もある。

 しかし、いいも悪いも、酸いも甘いも含めて、このひとつの世界だ。善ばかりの世界など存在しない。同じように、悪ばかりの世界もまた存在しない。

 善も悪も、好きも嫌いも超えたところに、おそらくあらゆるものの真理があるのだろう。

 きっと、世の中の偉人はそれらに気づいた人たちだ。そして、翼人はそのことを文化としてわかっているからこそ、彼らのこころは強く、豊かなのだった。

 ――では、いったい宗教とはなんのためにあるのだろう。

 自然とその問いに行き着く。宗教には教義というものがある。それは常に一定だ。

 もし、それが完全であるならばいい。しかし、本当にこの世界にまったく非のないものが存在するのか。

 私たちレラーティア教徒は、教義が正しいと信じている。けれど、他の人々に対してそれを証明することは難しい。

 ならば、自分たちはどうしてこころの底からそれを信じることができたのだろう。

 教義が完璧だというなら、それを実践しようとしている者たちがなぜあやまちを犯してしまうのか。

 なぜ、この騒乱の中でも大神殿は動かないのか。

 ――そうか、自分たちが未熟からだ。

 教義は実際に正しいのかもしれない。それを実践できれば、すばらしい世界が開けるのかもしれない。

 しかし、それが可能なほどには自分たちは強くなかった。

 だからなのだ。だから、外に存在する教義というものに寄りかかろうとする。

 みずから考えることを放棄し、みずから教義という名の鎖への隷属を望む。

 高いところへ至るために教義を重んじる。

 しかし、教義があるがゆえに人は貶められる。

 弱いから教義を欲し、それゆえに教義を実践できないという二重の矛盾がそこにはあった。

 ――神は、怠惰な者を救わない。神は、絶対の努力を人に求める。

 昔からある教典の言葉だ。

 結局、ひとりひとりが自分でどうにかするしかないのかもしれない。それぞれが自立したうえで教義を改めて眺めれば、何か違ったものが見えるのかもしれない。

 ――私はレラーティア教を、まだ真の意味で理解していない。

 そのことにようやく気づけた。

 神官である前に、人間として未熟すぎる。自分自身がしっかりしなくては、他者の考えをその基礎から理解できるはずもなかった。

 最後の最後で、自分の本質に気づいた。しかし、すべてはもう遅かった。

 視界に映るものが、徐々に徐々に薄くなっていく。

 瞳に靄がかかったように、あらゆるものが白濁していく。

 ほんのわずかなとき、まばたきするほどの一瞬、視界の片隅に白銀色に輝く〝何か〟が見えた気がした。

 あれは――

「聖堂騎士!?」

 あの洗練された形状の鎧、その胸に刻まれた紋章。

 まぎれもない、聖堂騎士団の一員であることの証。

 よく見れば、あちらこちらに神官姿の男たちがいる。見慣れたその姿は神の軍団と呼ぶにふさわしく、力強さと頼もしさを感じさせた。

 ――助けに……来てくれた?

 そんな一縷の望みが、こころのうちにわき起こってくる。

 ついに大神殿が決断してくれた。これで、混乱が少しは鎮まる。

 しかしそういった淡い期待は、ものの見事に崩れ去った。

「どうし……て……」

 雨の降りしきる中、聖堂騎士が襲いかかったのは翼人ではなかった。

 彼らは神官戦士とともに、諸侯の軍とわずかに残っていた宮廷兵に対してその剣を抜いた。

 呆然となるベアトリーチェの前で両者が激突し、剣を交える。

 だが、不利なのは侯軍のほうだ。なぜ自分たちが聖堂騎士団に襲われるのかが理解できず、混乱のうちに戦うしかない。

 一方、神殿勢に迷いはなかった。

 隊列を整えて次々と侯軍の兵士を屠り、一隊一隊を着実に撃破していく。

 ――なんで!? どうして、聖堂騎士団が侯軍と争うの!?

 ベアトリーチェは錯乱して、叫び出しそうになった。

 まったく意味がわからない! 聖堂騎士団が侯軍を攻撃する理由などないはずだった。

 しかし現実に、それは起きた。

 しかも、聖堂騎士たちの動きはあまりにも的確で、あらかじめこうすることをはっきりと決めていたとしか思えない。

 疑問ばかりが頭を支配する。

 なぜ、どうしてと問いかけても、みずから答えを出すことも誰かが教えてくれることもなく、ただただ打ちひしがれるしかない。

 ――大神殿が動けないというのは、これが理由だったとでもいうの?

 そうだ、きっとそうに違いない。

 大神殿のことに疎い自分にはその狙いがなんなのかは想像することさえできないが、今回のことが計画的なものであるなら、このために聖堂騎士団を温存していたとしか考えられなかった。

「神よ……」

 失望のあまり、涙さえ出てこない。ただ(あえ)ぐようにかすれた声を出し、どうして、とつぶやくことしかできなかった。

 その目の前で、雨中の騒乱はますます混迷の度を深めていく。

 思わぬ〝敵〟に遭遇した各侯軍は隊列を乱し、翼人と挟み撃ちにされるような形で劣勢を強いられる。

 その他の群衆は哀れなほどに混乱し、疲弊し、倒れ伏していった。

 聖堂騎士のひとりが、邪魔だと言わんばかりに前方にいた市民を剣で横になぎ払った。その若い男はどうすることもできずに血を噴き出しながら倒れ、馬の下敷きになっていく。

 あるところでは、隊からはぐれた侯軍の歩兵を路地の奥まで追い込み、槍で串刺しにする。

 もはやそこには、正義の二文字はかけらほども存在していなかった。

 ――これが神殿の現実なの? これが世界の現実なの?

 もう、何も信じられない。

 信じていたものはすべて崩れ去った。

 こころを許せるヴァイクもリゼロッテも、今はそばにいない。

 ――自分は、ひとりぼっちだ。

 雨に濡れ、動くこともできず、寒さと熱さに震えながら、それでもどこかでまだ何かを期待している自分がひどく滑稽で、腹の底から笑いが込み上げてきた。

 しかし、実際に笑みがこぼれるようなことは微塵もなかった。

 かわりに瞳から(しずく)がひとつ、ふたつと落ちていく。

 今までの自分の人生はなんだったのだろう。

 自分が頑張っても、結局は何もかも無意味だった。

 しかも、信じていた神殿に完膚なきまでに裏切られ、打ちのめされた。

 もはや寄る辺も(よすが)()りどころもない。すべてが宙に浮き、消えていった。

 儚い存在だった。

 ベアトリーチェという名も、本来は仮初めのものだ。捨て子だった自分は、生みの親の顔も知らず、何もかもゼロからの出発だった。

 元から何も持っていなかったのだ、己の名前さえも。

 名前……それを考えたとき、ふとまったく別の思いがこころの奥底から芽生えてきた。

 ――本当にそうだろうか。

 本当に自分には何もなかったのか。これまで生きてきたなかで、自分にとっての宝物といえるものがひとつとしてなかったと言い切れるだろうか。

 ――いや、そうじゃない。

 いろいろな人、いろいろな存在に与えてもらったものは多かった。

 神殿からは優しさとぬくもりと愛を。

 友人からは笑顔と安らぎと思いやりを。

 そして、ヴァイクたちからは意志と共有と強さを。

 名前だってそうだ。このベアトリーチェという大切な名は〝いつか、すべてを知るときのために〟と、本当の母といってもいいアリーセが与えてくれたものだった。

 自分は、さまざまな人のさまざまな思いの上に生きてきた。それは、けっして偽りでも虚構でもない。ひとりぼっちではなかった。

 確かに、孤独を感じることもあった。寂しくて仕方のないときもあった。それでも、自分のそばにはいつも誰かがいてくれ、こちらを励まし、支えてくれていた。

 ――アリーセ様。

 我が師であり、母でもある彼女の最後の言葉が思い起こされる。

〝これからあなたたちはとてつもないことに巻き込まれていくと思うわ。それこそ、死んだほうがましじゃないかと思えるくらいのことに〟

 もうつらい、もう休ませてください。

〝でも、それはどうしても必要なことなの。他の誰でもない、あなたたち自身のために〟

 そんなことはわからない。理解できない。早く楽にしてほしい。

〝だから、自分の道をひたすら進みなさい。たとえそれが茨の道であっても、片足を失っても、這ってでも前へ進みなさい〟

 這ってでも前へ……? どうしてそこまでして、どうしてみずからを苦しめてまで。

〝最後にはきっと希望がある。だから――〟

 希望。

 明日への光。

 闇を打ち払う強き意志の輝き。

 それは、外からやってくるものではない。自己のうちから生まれ、そして弾け出すものだ。

 何かが見えてきた。山の端から朝日が昇る瞬間の(きら)めきのごとく。

〝一度信じたのなら――絶対に貫き通しなさい、何があってもあなたたちは、あなたたちだけは生きて――〟

 ああ、そうか。そういうことなのか。

 ――アリーセ様、わかりました。

 今になってやっと、母の本当の思いが理解できた。

 生きるということ。

 とにかく生きるということ。

 それこそが、アリーセが自分たちに伝えようとしたことだ。

 理屈ではない、ましてや感情でもない。

 それを超えたところで、ただひたすらに生きるということ。

 生きることに明確な理由などいらない。そうした目的があればいいようにも思えるが、現にあればあったで、それが失われたとき人は絶望する。

 ならば、そんなものなど持つ必要はないではないか。()るものはいつか失われる。得たものはいつか奪われる。

 何ものにも(とら)われないこと。

 何も持たないこと。

 それこそが自然に生きるということだった。

 振り返ってみると、自分はこれまで多くのことに囚われすぎていた。気にしすぎていた。

 その結果、いつしかさまざまな要因をもって自分で自分を縛るようになりはじめ、それらが多く、強くなるほどに自身が苦しくなっていき、最後にはまるで動けなくなっていた。

 今の自分がまさにそれだ。生きることに疲れたのではない、鎖によってがんじがらめにされて、動きたくても動けなくなってしまっている。

 だったら、それを断ち切ればいい。そうすることが可能なのは、他の誰でもなく自分自身だけだ。

 生きるとは、囚われという名の鎖を断ち切ること。

 死ぬとは、それからの完全な解放。

 まだアリーセやリゼロッテのもとへ行くわけにはいかない。自分にはやるべきこと、やりたいことがたくさんある。

 それさえも囚われだというなら確かにそうだろう。しかし、そうしたことも含めてベアトリーチェという、このひとりの人間なのだった。

 ――夢を……

 顔を起こす。

 ――希望を……

 膝に手をかける。

 ――私はあきらめない!

 ベアトリーチェはほんのわずかに残った最後の気力と体力を振り絞り、もう一度だけ立ち上がろうとした。

 そこにはもう、絶望も悲哀もない。ただただ、強い意志の奔流だけがあった。

 もう、何があろうと絶望しない。どこへ行こうと迷わない。

 生きる、それだけだ。

 しかし運命の神は、彼女を地獄の(くびき)から逃れさせようとはしなかった。

 真後ろから、あの木が爆ぜるような怪音が響いてきた。

 背筋を悪寒が走り抜けていく。

 いけない――そう思ったときにはもう、屋根から壁の上部までが滑るように崩れはじめ、無数の瓦礫が舞い落ちてきた。

 逃げなきゃ――そう思っても、体は動いてはくれない。もはや逃げ場もなかった。

 ひとつひとつの瓦礫がやけにはっきりと見え、その動きが妙にゆっくりなものに感じる。

 自分はあの下敷きになる、それで死ぬ、ひとり死んでいく。

 最悪なことを冷静に想像している自分がそこにいた。

 ――ありがとう、今まで。

 不思議と感謝の気持ちが出てきたのはなぜだろう?

 あらゆる人々、あらゆる存在への感謝。今さら、みずからの死を恨むつもりはなかった。

 ――ただ、ひとつだけ願いがあるとすれば……

 大きな壁の一部が視界を覆う。ベアトリーチェは、そのときになってようやく瞳を閉じた。

 重く鈍い衝撃が襲う。そして、ふっと体が軽くなった。

 ああ、すべてが終わったのか。

 頬が風を感じる。髪が束縛を逃れる。

 ――私は――

 全身にぬくもりがあった。

 いつかどこかで感じた優しさ。

 あの忘れえぬ力強さ。

 この風、この音。

 ベアトリーチェは、ゆっくりと目を開けてみた。

 家々の屋根が見える。通りを埋め尽くす、虫のように小さな人々が見える。

 そしてすぐ近くに、男のたくましい腕が見えた。けっして筋骨隆々というわけではないが、美しくしなやかなそれ。

「ヴァイク……」

 なかば呆然と、想い人の名を呼ぶ。

 ずっとずっと会いたくてたまらなかった人。何がなんでも思いを遂げたかった相手。

 それが今、目の前にいる。

「遅くなって悪かったな、ベアトリーチェ」

 こんなときまで、ぶっきらぼうな調子は変わらない。そのことが妙に懐かしく、そして新鮮でもあった。

「ヴァイク……ヴァイク!」

 こころに秘めていたものがこらえ切れなくなって、あふれ出る思いのままに相手を強く抱きしめた。

 そうすると、なおいっそうのこと彼のあたたかみをはっきりと感じる。それがうれしくもあり、少し恥ずかしくもあった。

「おい、動くな」

 当のヴァイクは、いつもどおり何も気づかないというか感じてすらいない。この鈍感さは、本当に女を困らせる。どうしたものかと思案してしまう。

 しかし今は、今だけはすべてを許してもよかった。今ここにいてくれる、そばにいてくれるというだけでこころに安らぎがあった。

 不思議な涙があふれてきた。

「本当によかった、見つけられて。あとほんの少しでも遅れていたら危なかったぞ」

「うん」

「体、痛くないか? 服がぼろぼろじゃないか」

「うん」

「とにかく、ここからいったん逃げるぞ。こんなところにいたんじゃ、命がいくつあっても足りない」

「うん」

 ベアトリーチェは、その細い腕に力を込めた。

 この帝都からの離脱を、ヴァイクは最優先に考えた。

 未だ混乱と襲撃はつづている。上空から翼人が攻撃をくり返しているこの状況では、帝都内に安全なところなどないといっていい。たとえわずかでも長居すべきではなかった。

 西へ進路をとることにした。

 下方から、さっそくこちらの姿を見つけた兵士たちの何人かが矢を射かけてくる。ベアトリーチェを抱きかかえている分、動きに制約があるが、どうにかしてぎりぎりのところでかわしていく。

 もう少し高いところを飛べればいいのだが、そうすると今度は翼人たちに見つかってしまう。危険を承知で低空を突っ切るしかなかった。

 しかし不自然な動きをしているこちらに、上にいて、しかも遠目のきく翼人たちが気づかないはずがない。やがて彼らからも弓による攻撃を受け、逃げ場が徐々になくなっていった。

 ――ちくしょう!

 悪態をついてみても状況は変わらない。襲い来る矢をただひたすらにかわし、飛ぶ速度を少しゆるめてでも前へ進みつづけた。

 上からの矢の何本かが、体をかすめていく。

 だが、それくらいなら特に問題はない。とにかく羽ばたくことができれば、ベアトリーチェを守ることができれば、それでいい。

「ヴァイク……?」

「大丈夫だ。とにかく、しっかり(つか)まってろ。これから激しく動くぞ」

「うん」

 事実、だんだんと矢の数がしゃれにならないほどになってきた。

 体のすぐ近くを通り抜ける凶器の数が圧倒的に増え、本当にわずかな間違いがそのまま死に至ることになりかねない。

 ヴァイクは逡巡した。

 いったん下のどこか安全なところに降りるべきだろうか。

 幸い、左前方に人気のない広場がある。人間の兵士たちがいるところからはやや離れているから、多少時間を稼ぐこともできるだろう。

 だが、それができたとしても、上からは丸見えだ。地上に降りて動きを止めたら、かえって格好の標的になりかねない。

 では、どうするのか。

 迷うヴァイクの頬を一本の矢がかすめたとき、急に周囲が暗くなった。

「なんだ!?」

 しかも、自分の周りだけ雨が降りやんでいる。

 それだけではない。あれだけ襲いかかってきた矢の嵐が、急に止まった。

「ヴァイク、上!」

 ベアトリーチェに言われ、はっとして上空を見上げた。

 そこには、巨大な影が横たわっていた。

 長細い楕円形の船底、鋭くとがった舳先、木目の見事な船材。すべてが圧倒的だった。

 飛行艇。

 それは、人間の世界でそう呼ばれている。

 いつもは翼人でさえその威容に圧倒されるところだが、今だけは否定的な思いしかわいてこなかった。

「ばかが! また、のこのことやってくるなんて!」

 悪態をつく他ない。あの船に乗っている連中は、この帝都の上空で何隻もの飛行艇がすでに()とされた事実を知らないのか。

 予想どおり翼人たちはこちらには目もくれず、いっせいに飛行艇へ群がっていく。

 あの船が餌食になるのも時間の問題だろう。そうなれば乗っている人間が犠牲になるだけでなく、下もまた悲惨なことになる。

「ヴァイク、あの……」

「すまん、俺は万能ではないんだ。それに、あの飛行艇という代物はやっぱり好きになれない」

「……ごめん、ヴァイク」

「いや、謝らなくていい。お前のそういう思いは大切にしてくれ」

「うん、ありがとう」

 ベアトリーチェは下を向いた。

 いつ次の攻撃を受けるともしれない。そのうえ、人ひとり抱えた状態ではまともに動くことさえ難しいのに、これ以上の要求をするほうがどうかしていた。

 ヴァイクとしても、どうにかできるものなら、どうにかしたい。しかし、それが許されるほどには現状は甘くなかった。

 飛行艇に関してはとりあえず無事を祈ることしかできないが、そのおかげで翼人や兵士たちの意識がそちらに向き、攻撃がやんでくれたのは自分たちにとっては好都合だった。

 今のうちに、逃げられるだけ逃げておかなければならない。

 再び矢を射かけられる恐怖に怯えながら、ひたすらに帝都の外へ向かって飛んだ。

 翼人の側も人間の側もよほど飛行艇が気になるのか、先ほどまではあれほどこちらを攻撃してきたのに、今ではまるで見向きもしない。

 特に大きな問題もなく、城壁を越えることができた。

 そこまで来て、人間の兵士たちがまだ続々と帝都内に入り込もうとしているのがわかった。

 ――何をやってるんだ……

 これでは、人々が外へ出たくても出られない。兵士たちの意図は知れないが、混乱はかえって大きくなっていった。

 その長の愚かさに呆れつつも、ヴァイクは門からも離れて湖の上に出た。

 何隻もの飛行艇がのんきに停泊しているそこを横切り、周りに広がる森の一画にすぐさま入り込んだ。

 まだ安心のできる状況ではない。ここまで来ても、どこかに〝極光(アウローラ)〟の連中が潜んでいる可能性もある。油断すれば、儚い命の灯火は一瞬にして消えてしまうだろう。

「よし」

 これで、ようやく大地の上に立つことができた。

 周りは帝都内の大騒動が嘘のように、落ち着いた様子で静まり返っている。雨が葉を叩く音がはっきりと聞こえ、今ほどそれが愛おしく感じることはなかった。

「ベアトリーチェ、大丈夫か?」

 腕の中でぐったりとなっているベアトリーチェに声をかけたが、反応は鈍く、目を開くのも億劫そうだ。

「体に力が入らなくて……」

「お前は、よくひとりであの状況を切り抜けたよ。一人前の戦士でもなかなかできないことだ」

 それは慰めでもなんでもなかった。事実、あの壮絶ともいえる状況のなか生き残ったことだけでも賞賛に値することだ。

 ベアトリーチェには、戦いの経験もなければ体力もない。あまりのことに想像を遥かに超える蓄積した疲れが一気に出てしまったのだろう。

 今はただ休ませてやりたかったが、どうしても聞いておかなければならないことがあった。

「ところで、ベアトリーチェ。ジャンとは会ったのか?」

「ううん、それが……」

 ベアトリーチェは、少しうつむき加減に答えた。

「私、大神官様に謁見したあと、ひとりで飛び出してしまって……それから、ずっと帝都の中を歩き回っていて」

「じゃあ、一度も会ってないんだな?」

 ヴァイクの問いにうなずきを返した。

 ジャンは大神殿でずっと待っていてくれたのかもしれないが、それを確かめることすらできなかった。

 今頃になって、罪悪感がひどく込み上げてくる。

 もし自分があんなことをしなければ、あの日のうちに用件をさっさと終えてさえいれば、この大騒動にも巻き込まれずに済んだのかもしれない。

 少なくとも、離ればなれになることはないはずだった。

 それが自分の勝手な行動のせいで、ジャンをも危険な目に遭わせてしまっている。彼にもしものことがあれば、自分で自分が許せなくなる。

「そうか――」

 ヴァイクは顎に手を当て、ひとり思案した。

 一度別れて以来、まったく会っていないということは、ジャンもまだ帝都内にいる可能性が高い。

 今にして思えば〝戦の匂い〟を感じていただけに、やはりあのとき帝都へ行かせるべきではなかった。

 争いごとが苦手で臆病なジャンのことだ。今もあわてふためいていることだろう。いっそ、また一目散に逃げ出したのならちょうどいいのだが、ついさっきまでずっと城門が閉まったままだったことを考えるとそれも厳しい。

 ――要するに、俺が行くしかないってことだ。

「ヴァイク?」

「ベアトリーチェはここにいてくれ。そこの木のうろがいいだろう。大木の下は意外と濡れないからな」

「ヴァイクは? ヴァイクはどうするつもりなの?」

「俺はジャンを捜してくる。このまま放っておくわけにもいかない。無理かと思ったが、ベアトリーチェだって見つけ出せたんだ。なんとかなるだろう」

 否、なんとかしなければならない。ジャンの命が失われてから後悔しても遅い。

 いくら帝都の外とはいえ、ただでさえ弱っているベアトリーチェを、この混乱の最中にひとりにすることには大きな不安があったが、自分の体はひとつしかない。決断する他なかった。

 そして、ベアトリーチェもヴァイクのその決意を汲み取った。

「わかった……。じゃあ、大神殿へ行ってみて。もしかしたら、まだそこで私を待っているかもしれない」

「大神殿?」

「町の中心近くに、宮殿っていう一番大きな建物があるの。そこから南東の方角にある、その次に大きい建物が大神殿よ。大きさは同じくらいだけど、見た目が全然違うからすぐわかると思う」

「ああ、やっぱりあれのことか」

「でも、注意して。その、神官の中には翼人のことをあまり快く思っていない人もいて……」

「わかってる。それはもう仕方がない。実際に翼人があれだけのことをやっているんだから、俺だって人間だったら同じように思う」

「それだけじゃないの。実は……どうも神殿と侯軍が争っているみたいで」

「なんだって?」

 ヴァイクの細い眉がひそめられた。

「大神殿には、聖堂騎士団っていう軍のようなものがあるんだけど、なぜか彼らが諸侯の軍とぶつかっているみたいなの」

「それで、人間同士でやり合ってたのか」

 不自然には感じていた。どこからわいて出てきたのか、白い装束を身にまとった連中が現れ、人間の兵士、特に帝都の外から乗り込んできた連中と戦っていた。

 どちらかというと、その白いほうが優勢なようにも見えた。しかも襲撃者側の翼人は、そちらだけ攻撃を控えている節もある。

 それがどうしてなのかはまだわからないが、注意するに越したことはなかった。

「ベアトリーチェ」

 背を向けてすぐに飛び立とうとしたヴァイクが、背中越しに声をかけた。

「何?」

「お前に会えてよかった気がする。アルスフェルトからここまでの道のりは、俺にとってけっして無駄ではなかった」

「ヴァイク……?」

 そう言うなり、まだ雨の上がらない空へさっと飛び上がっていってしまった。

 ――どうして急にあんなことを。

 その言葉の内容に言い知れぬ不安を覚えて、ベアトリーチェはひとり雨雲の立ち込める空を見上げ、立ち尽くしていた。

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