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雨が降りだした。
――さっきまであんなに天気だったのに。
周りの炎による熱気と日差しで恨めしいほどの熱さを感じていたが、そこへ雨が降りそそいだ。
いつの間にか帝都の上空は暗く厚い雲で覆われ、上へと立ちのぼる煙と見分けがつかなくなっている。
ベアトリーチェは今、西の大門へ向かっていた。すでに助けた子供を宮殿に預け終え、路地裏の狭い道を西へひた走った。
幸い、保護したあの子は宮殿側が受け入れてくれることになった。もし拒絶されたらどうしたものかと途方に暮れているところであったが、応対した宮廷兵は少し迷いつつも承諾してくれた。
こちらが神官だったせいもあるのかもしれないが、この非常時でも人の優しさに触れることができたのはよかった。
子供は、別れるときにはすでに意識を取り戻していた。さすがに気が動転しているようではあったが、これであの子の安全に関してはもう心配はない。
――でも……
やはりと言うべきか、ジャンは宮殿にはいなかった。
宮廷兵に聞いたところ、選帝会議の開催中は一般の者が謁見できるわけがないから、そもそもここに市民は来ないという。
考えてみれば当たり前のことだった。会期中に関係者以外を立ち入らせるわけがないし、どちらにせよ諸侯は会議に出ているのだから、よほどのことがない限り直接会うことはできない。
ならば、ジャンは今どこにいるのだろう。と、そう考えたときに、ふとあることを思い出した。
――そういえば、ヴァイクと最後に別れたところで待ち合わせをするはずだった。
具体的にいつというのは決めていない。今、そこにヴァイクかジャンのどちらかがいるかどうかは、予測のしようもない。
それでも、もはや行くべきところはそこしかなかった。
大神殿は宮殿から距離がありすぎ、混乱の中心を突っ切る必要がある。現実的にも、いったん外へ出てから南へ向かうのが得策だった。
そこで、西大門を目指すことにした。
そちらの方向ならば、来た道を戻ることになるから状況がおおよそわかっていて、だからこそ不安もない。そして、道に迷う可能性も低いはずであった。
しかし、その考えは少し甘かった。
途中、群衆に翻弄され、煙に巻かれて立っていることさえできなくなった。
息がまともにできず、体の熱はどんどん上がっていく。自分でも訳がわからなくなるくらい、苦しさが内側から込み上げてきた。
ひとりの騎士に出会ったのはそのときだった。
彼も何かを抱え、迷いながら戦っているようだった。しかし素直さを持ち、それゆえに前へ進むことのできる強さがあった。
話をしているうちにこちらも落ち着くことができて、しかも勇気を与えてもらった。
そうだ、自分も立ち止まっている場合ではない、やるべきこと、しなければならないことがあるのだ、と。
そこから再び立ち上がって、西の大門の近くまで地に這いつくばるようにしてやってきた。
――それにしても……
なんという惨状だろうか。
あちらこちらに建物や飛行艇の残骸が飛び散り、道は倒れ伏した人々で埋まりつつある。
火の手はますます盛んになり、あたりに充満した煙で息をするのも難しく、とても目を開けていられない。
悲鳴と怒号、そして逃げ惑う人々が石畳を叩く音がない交ぜになって、まるで地の底から響いてくる地獄の喧噪のようにも思える。
周りの人間たちの顔は恐怖と混乱で醜くゆがみ、上空の翼人たちは冷たい無表情のまま容赦のない攻撃をくり返している。
そんな人々を叩く雨は、天の涙か、はたまた厳しい叱咤か。
――これが……この世界の現実なのか。
力を振るう側も、虐げられる側も、どちらも狂っている。両者ともに何かがおかしい。
――そうか、どちらも周りのことを考えていない。
あの翼人たちは、きっと自分のことしか眼中にないのだ。
そして、人間の側も恐慌状態のあまり、他の人たちのことを助けようとすることなどまるで考えない。
弱く、汚く、浅ましい。
――しかし、自分はどうだろう。
本当に人のために尽くしてきただろうか、独りよがりなところがなかったと言い切れるだろうか。
――いや、やはり自分も変わらない。
アルスフェルトで異常な事態に遭遇し、そこを出てからここに至るまでの間、改めて己の情けなさを痛感させられていた。
かつての自分は、自身でやるべきことはほとんどやっていると思い込んでいたが、現実はそうではなかった。
故郷を、神殿を、家族を失った自分は、ヴァイクの力がなければひとりで何もすることができなかった。
自分のことは自分でやる、確かにそれは大切なことだ。しかし人間という生き物は、独力ではたいしたことはできない。
たとえ自身の役割をこなすにしても、周りの協力があって初めて可能になるのだということを、改めて思い知らされた。
そのことに気づくことができただけでも、ここまでヴァイクたちと一緒に来たかいはあったと思う。
みずからのことくらいなんでもできるという傲慢さを抱えたままでは、取り返しのつかない手ひどい失敗をしてしまったかもしれない。
だからといって、他に甘えてもいけないとはわかっているのだが、
――ヴァイクは今、どうしているんだろ。
という気持ちが、どうしても込み上げてくる。
ただひたすらにヴァイクと会いたいと思う。助けてほしいからではない。たとえどんな結末が訪れようと構わないから、とにかくあの男の顔をもう一度だけ見たかった。
そのためにも急がなければならない。
視界を狭め、体温を奪う雨も気にせず、走る速度を上げたベアトリーチェであったが、西大門へとつづく大通りへと出た瞬間、その足を止めるしかなくなった。
「何っ!?」
大地を揺るがすような轟音が前方から響いてくる。見れば、城壁が実際に揺れていた。
いや、実際に揺れているのは城門の木製の扉であった。何度も何度も激しく震え、やがて縦にひびが入りはじめる。
次の瞬間、耳をつんざくような破壊音とともに西大門の扉が根元から外れ、内側に倒れていった。それと同時に、雄叫びを上げながら青い服をまとった兵士たちがなだれ込んできた。
――あれは確か、ダルム侯麾下の軍。
扉を内側から開けることは難しいと判断し、破城槌で突破することを選択したのだ。
侯軍の勢いは圧倒的だった。まるで決壊した堰の水のように一気に押し寄せ、周囲を問答無用になぎ倒していく。
「そんな!」
ベアトリーチェが見つめる中、通りにいた人々があっという間にのみ込まれていった。
兵士らは逃げ惑う市民を容赦なく斬り捨て、蹴散らし、踏みつけていく。女も子供も関係ない。すべてが、群衆以上に凶暴な侯軍の牙にかかっていった。
「いけない! こんなことじゃいけないのに……!」
胸中をどうしようもない焦燥が駆けめぐる。
予想どおりではあった。
諸侯の軍が帝都内に入り込むことによって、混乱を鎮めるどころか、かえって侯軍自体がその元凶となった。今や、以前よりも混迷の度合いは確実に深まっている。
こういったときは、群衆を外へ逃がさなければならないのに逆流している。侯軍に押しやられた流れと門へ向かおうとする流れが真正面からぶつかり合って、異常な波濤を作り出す。
しかし、それさえも兵士らの勢いに圧倒され、徐々に徐々に潰されていった。
――私は、何もできない。
それを目の当たりにしているベアトリーチェは、強烈な無力感に苛まれていた。
どうにかしたい、あの人たちを助けたいと思っても、自分では何もすることができない。悲しいくらいに自分という存在は小さかった。
「――え?」
しかし、そんな感傷に浸っている暇さえ与えられなかった。気がつけば、逆流した人の波がこちらのすぐ近くにまで押し寄せてきた。
――に、逃げなきゃ!
とは思うが、足がすくんで思うように体が動かない。人々の必死な形相を見、悲痛な叫びを聞くと、体が震えて言うことを聞かなくなる。
圧倒的だった。
この怒濤のような人の流れは、あまりにも圧倒的だ。逃げろと叫ぶこころとは反対に、その迫力に押されて、体はもはや動くことを拒否してしまっていた。
狂乱の群衆が目の前まで迫る。足を動かせと最後の理性が呼びかける。
ほとんど夢遊病者のような動きで、じりじりと路地裏へ逃げ込もうとした。
ベアトリーチェの世界が暗転したのは、一軒の家屋の陰に入り込んだ瞬間だった。
すべてが真っ暗になった。
何も見えず、光さえ感じず、ただ音だけは嫌というほどにはっきりと認識できる。
人々の悲鳴。
子供の泣き声。
そして、断末魔。
遠くからの鍔鳴りの音さえ、なぜか耳に入ってくる。なまじその感覚が明瞭なだけに、恐怖心はいや増した。
一方、体の感覚は少しずつ失われていった。
あちらこちらを蹴られたり、突かれたりしているのはなんとなくわかる。
だが、いつの間にか何もわからなくなった。何も感じなくなった。
自分が揺れている、震えているというのがほのかに伝わってくるだけで、自分が上を向いているのか、それとも倒れ伏しているのかさえ判然としない。
世界のすべてが回っているように感じ、自分だけがあたかも渦の中心で翻弄されているかのようだった。
――あぁ、私は……
揺れれば揺れるほど、自分が遠くなっていく。あらゆるものが遠ざかっていく。
自分が何を考えているのか、何を思っているのかさえも把握できなくなり、暗く冷たい海に沈んでいく。
轟音が鳴り響いたのは、その水底に着くか着かないかの頃合いであった。
「なっ、何……?」
はっとして気がつくと、自分は壁のそばにうずくまっていた。
服のそこここが破れ、髪も何もかもがすべて汚れてしまっていることからして、群衆の洪水に巻き込まれたことは疑いようもない。
体は痺れたようになって、まだ痛みを感じないものの、抑えようのない震えは錯乱する頭の中でも認識していた。
顔を上げるのが怖かったけれど、ゆっくりと視界を動かしてみた。
泥にまみれ、倒れ伏す人々が見える。その中には子供も含まれている。
それから目を背けるようにして横を見ると、青い服の兵士たちも十人を越える単位で倒れていた。
――何が……?
状況がまったくのみ込めず、ようやく上体を起こして周囲を見渡すと、家々の壁の大半が崩れ去っていた。しかも、通りに面したそれらがことごとく倒れ、辺りで無事なのは自分が背にしている家だけであった。
大通りから流入してきた人々の上に、無数の瓦礫が降り注いだのだ。
元から逃げ場はなくなっていた市民も兵士も、なす術なくその下敷きとなってしまった。皮肉にもそのおかげで道が完全に塞がれ、人々の流入を防いでくれてはいたが。
ベアトリーチェはそれでようやく、わずかばかりに落ち着くことができた。
「痛っ……!」
それと同時に、全身が悲鳴を上げはじめた。
感覚が戻ってくると、痛みはごまかしようのないものになった。あまりの激痛に吐き気さえ覚え、みずからを両腕で抱きかかえるようにして倒れ込んだ。
異様な音が聞こえてきたのはそのときだった。
――え?
何かが弾けるような、軋むような音。
それは、自分の真後ろから響いてくる。
――いけない!
折れそうになるこころを叱咤して、強引に体を起こした。
すぐによろめいてしまうが、構わず足を動かす。
何度も倒れ、何度も手をつきながら、少しでも前へ進もうとする。
死体を踏み、その生々しい感触に再び吐きそうになっても、足を無理やり前へと出した。
自分だけ逃げようとすることに強烈な後ろめたさを感じつつも、ベアトリーチェはひたすらに走った。
いや、実際には走りたくとも走れずにいた。よろめき、体が動かない今は、普段の歩く速さより遅かったろう。
それでもしばらくすると路地を抜け出て、小さな広場に出た。
後方で残った家々がなだれを打って崩れたのはその直後であった。
――危なかった。
炎の熱と大勢の人々がいっせいに走った振動とで、大通り近くの建物はそのほとんどが崩れてしまった。先ほどの音は、その前触れだったのだろう。
もし気づくのがあとわずかでも遅れていたとしたら、自分も瓦礫の下敷きになっていたに違いない。
ベアトリーチェは息を整えながら、広場の中央にある水飲み場へ向かった。
幸い、この混乱の中でも水は出てくれていた。貪るようにしてその水を飲み、震える手でそれをすくって汗と埃と泥とで汚れてしまった顔を洗った。
体を打つ冷たい雨のおかげもあって、ようやく意識が鮮明になってくる。その分、全身の寒さと痛みも耐えがたいものになるが、もう仕方がなかった。
ベアトリーチェは、落ち着いてきた頭でこれからのことを考えようとした。
――外に出るつもりだったけど、難しそう。門の前があれだけ無茶苦茶では……
城門へ無理に近づこうものなら、またあのひどい混乱に巻き込まれてしまいかねない。まさか、ここまで侯軍が無策に攻め込んでくるとは思わなかった。
――他の門のところへ行ってみようか。
しかし、どこも似たような状況に陥っているような予感があった。
市民は外へ逃げようとしている。兵士は中へ入ろうとしている。
自然、門のあたりが最も込み合う形になる。
――大門からは離れたほうがいい。
それが結論だった。
へたに動かないほうが得策かもしれないということはわかっている。
だが、ここに留まっていても何も解決しない。それどころか、さらなる騒動に巻き込まれてしまう危険性のほうがずっと高かった。