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ほぼ完全な暗闇の中を、たいまつの心細い明かりだけを頼りに少し急いで進んでいく。
たいまつが一本だけでは、三歩先さえ見渡すことができない。早くしなければならないことはわかっているものの、地下道とはいえ足場が不安定なここを駆け足で進むことさえ難しかった。
――まるで、今の自分そのままだな。
やや自嘲的な思いが込み上げてくる。
まさしく暗中模索。
未だ出口が見えず、この道で本当に合っているのかと迷いがある。
しかし、立ち止まるわけにはいかない。そうしてしまっては、その場で朽ち果てていくだけだ。
しかも、すでに多くの人々を巻き込んでしまった。その犠牲に報いるためにも、身を粉にして最大限の努力をしなければならない。それが、自分にとっての最低限の義務だ。
――フェリクス、すまぬな。
謝ってもどうにもならないことではあるが、しかし彼だけは、ジークヴァルトの息子だけは無事でいてほしかった。
それが、どうしようもない傲慢であることはわかっている。だが、それもまた正直な気持ちであった。
長く長く伸びる道を、ひたすらに進んでゆく。やがてその道が二手に分かれ、それを右に行くと遠くにわずかな光が見えた。
一歩一歩踏みしめるたびに、少しずつその光が大きくなっていく。まだかまだかと思うが、徐々にしか近づいてこない。
それでも、確実に光のその先は見えてきた。外の喧噪が聞こえはじめ、木の葉の匂いをのせた風が顔に吹きつけてきた。
外へ、出た。光が降り注いでくる。
――そうだ、私には希望がある。それが消えないかぎり、けっしてくじけることはない。
出口の周囲には、もっとも信頼すべきカセル騎士団が展開していた。すでに戦いの準備を終え、主の号令を待っている。
副官のルイーゼが、ゴトフリートのそばに駆け寄った。
「閣下、すべての用意が調いましてございます」
「ああ、わかった」
いよいよだ。いよいよ、これまで行ってきたあらゆることに決着をつけるときが来た。
長いとも短いとも言い切れない時間。
妻子を殺され、自暴自棄に陥り、親友までも失った。
そして、翼人に近づき、マクシムと出会い、同志を得た。
その間、十五年。
一度は生きる目的を見失った自分が再び立ち上がり、こうして理想を成就するまで後一歩というところまで来た。思えば、よく倒れずにここまでやってきたものだ。
それもこれも、周りが自分を支えてくれたからなのだろう。でなくば、かならずどこかで倒れてしまっていたはずだ。
今こそ、仲間の大切さを実感する。
人は、ひとりでは何もすることができない。周囲からの助力を得て初めて目標に達することができる。
大きな仕事は、小さな協力の集合として成り立つものだ。それは、翼人の仲間から教えられたことでもあった。
かつての自分は、そのことにまるで気づいていなかったのかもしれない。その傲慢さが、あのときの大失敗につながってしまった。
今度こそ、仲間の思いに報いたかった。自分のためでも世界のためでもなく、今こうしてここに集ってくれている人々のために。
「皆の者、よくここまで付いてきてくれた」
静かに、穏やかに、ゴトフリートが語りだした。
味方をいたずらに鼓舞するのでも叱咤するのでもなく、ただひたすらに落ち着いて滔々と言葉をつむいでいく。
「我々はずっとこの日のために耐え、このときのために待ちつづけてきた」
いつの間にか、辺りは静まり返っていた。ここに一万を越える軍勢がいるというのが嘘だと思えるほどに、周囲一帯は静寂に包まれている。
「それもこれも今日で終わりだ。太陽が沈む頃にはすべてが決しているだろう。やっと……やっとだ。ついに、我々の努力が報われるときが来た」
これまでの期間を本当に長く感じた者もいるだろう。
これでいいのか、本当に合っているのかと自身に問いかけながら歩んできた道のりだった。それはけっして平坦ではない、それどころか岩や棘ばかりの荒れた道であった。
よく付いてきてくれたと思う。こちらのわがままと取られても仕方のないようなことを、ただ淡々とこなしてくれた。
感謝してもしきれないとは、まさにこのことだ。ひとりでは、絶対にここまで来ることはできなかった。周りからの協力があったがゆえに、巨大な船を前へ進めることができた。
裏を返せば、自分は何もしていないのかもしれない。仲間に助けられ、背中を押してきてもらっただけなのかもしれない。
だからこそ思う、力を合わせることの尊さを。人ひとりの力などたかが知れているのだから、互いに手を取り合い、互いに歩を合わせることで結果的に大きく前進できる。
それこそが、人としての可能性であった。
自分はその輪を帝国中へ、引いては世界全体へ広げたいと思った。たとえ無茶なことだと思えても、やらなければ、やろうとしなければいつまで経っても目的地にはたどり着けない。
今、自分たちがやるしかなかった。
言い訳をするつもりはないが、誰かが立ち上がらなくてはどうにもならないところまで状況は悪化していた。
ならば、みずからその任を負おう。そう思い、すべてが始まったのだった。
「もはや、細かいことを語るのはよそう。ここまで来たからには、あとは剣を取って立ち上がるのみだ」
ゴトフリートは、腰から剣を引き抜いた。
「正義は我々の下にある。真実は我々の手のうちにある。今このときのために、己の勇気を示せ、誇りを示せ! 乗り越えるのだ! この世界の限界を乗り越えるのだ!」
そして、天に向かってそれを突き上げた。
周囲の騎士たちが追随し、やがてそれは瞬く間に波となって広がっていく。ついにはすべての剣が堂々と掲げられ、喚声が一気にわき起こった。
――彼らとなら、やれる。
こちらの真意を知って離れていく者も多かった。『理解できない』、『翼人と共闘などできない』と。
しかし、付いてきてくれる者たちがいた。彼らは理想を共有し、この世界を憂い、自己のためではなく他者のためにこそ動こうとしている。
そんな仲間がいたから、自分もここまで来ることができた。こちらが彼らを支えていたのではなく、自分がいつも支えられていた。
その思いに報いることのできるときが、ようやく訪れた。
我慢に我慢を重ね、ずっと希望を捨てないでいてくれた皆と新しい世界を切り開く。今から行うことは、その端緒となるものであった。
すべてが、動き出す。
時代が、回り始める。
鳳が、飛び立とうとしていた。
「やっとここまで来ることができたのですね、閣下」
ルイーゼは周りの様子を眺めながら、感無量といった様子でため息をついた。
ここに至るまでの過程で、自分自身さまざまな苦労を重ねてきた。今ばかりは、この感慨に浸らせてほしかった。
「だが、ルイーゼ。ようやく最初の階段に足をかけただけなのだ。本当の戦いはこれからやってくる」
「はい」
そうだ。まだ何も終わってなどいない。目的を達成するための準備が整ったにすぎない。これからが、自分たちの真価を問われる本番のときであった。
それでも、ゴトフリートを中心にまとまった自分たちならやれるだろう。努力の結果として身についた絶対的な自信があった。
だから、何も恐れるものなどない。いつものように、粛々とみずからの役割をこなしていけばいい。それだけだ。
そう考えると気持ちが楽になる。
『やらなければならない』のではなく、『やるしかない』のだ。
成功するか失敗するかを今から考えたってしょうがない、なるようにしかならない。
そのことは、自分だけでなく他の者たちもきっとわきまえているだろう。そう確信できるほどに、仲間への信頼は限りなく大きかった。
「ルイーゼ」
「はい」
「決起のときまでにはまだ間がある。最近、体調が思わしくないのだろう? 無理をせずに薬を飲んでこい。薬師のレナートゥスに準備しておくように言っておいた」
ゴトフリートに言われてからはっとする。
確かにここ数日、気持ちに体がついてこないように感じる。思えばもう半年以上、まともに休んだことはなかった。
しかし、それは他の者にしてみても同じであった。
皆がぎりぎりのところでずっと頑張っている。特にゴトフリートは、文字どおり寝る間も惜しんで活動をつづけているというのに、自分だけが休んでいられるはずもなかった。
――でも、薬を飲むくらいだったら構わないか。
レナートゥスのそれはあまりにも苦いことで有名だが、今はぜいたくを言っている場合ではない。
それに、ゴトフリートの気遣いが純粋にうれしかった。
「わかりました。一度、幕舎に戻ってまいります」
ゴトフリートがうなずいた。その彼の目を見て、ルイーゼもうなずき返す。
体の状態が万全ではないことは、自分自身が一番よくわかっている。薬だけでどうこうできるものではないだろうが、それでも本番のときのために少しでもよくしておきたかった。
一礼してから踵を返し、その場から離れていこうとするルイーゼをゴトフリートが呼び止めた。
「ルイーゼ」
「はい?」
わずかな逡巡の後、ゴトフリートは再び口を開いた。
「――よくここまで私に付いてきてくれたな。感謝する」
「何をおっしゃいます。私からすれば、当然のことをしてきたまでです。そんな改まっておしゃられても、かえって困ってしまいます」
「……そうか」
ゴトフリートがふっと笑みを浮かべた。
――そういえば、閣下の笑顔を前に見たのはいつだったろう。
彼の優しい表情にほっとしつつも、ふと疑問がこころの中にわき起こった。
元からあまり感情を表に出す人ではない。しかし、ここ数年はまったくと言っていいほど表情に変化がなく、それどころか、どこか暗い影が差していたような気さえする。
――やはり、今回の計画が相当な負担になっているのだろうか。
計画といっても、ちょっとした事業とはわけが違う。この国を、もしかしたら世界全体を変えるかもしれないほどに大きなことだ。
ゴトフリートは、そのすべての責任をひとりで負おうとしている。
その重圧、その負担はいかばかりか。おそらく想像を絶する苦悩を、彼は孤独のうちに抱え込んでいるに違いない。
そう思うと、なぜだか涙が出てきそうになった。
悲しみの涙と、悔し涙と。
――自分は、どこまで彼の支えとなることができているのだろう。
ゴトフリートは孤独だ。
常にすべてをひとりで背負い込み、けっして周りに助けを求めようとしない。それは他に迷惑をかけないようにしているためなのだろうが、自分たちからしてみれば寂しさと同時に悔しさを感じられてならなかった。
「閣下」
「なんだ?」
「私たちは、閣下の御ためにこの身を賭して尽くしてきました。今さら何を恐れることがありましょう。これからも、今までどおり全身全霊をかけて前進していくだけです」
ルイーゼはそう言い放つと、怒ったようにしてそのまま行ってしまった。ゴトフリートとしては、苦笑するような、悲しいような顔をするしかない。
――それが、私にとって最大の苦痛なのだが。
皆、こんな自分のために戦い、そして散っていく。
私などどうでもいい、お前たちのためにこそ生きろと思っているにもかかわらず。
現実は逆転している。
望むことが叶えられず、望まざることが着々と実行されていく。なぜ、と問うても答えはまるで見えてこない。
自分は何をしているのだろうと思う。理想のためにただひたすらに生きているはずが、いつの間にかそれとは正反対のことが増えてきた。
このままではいけないと思いつつも、ずるずると何かに引きずられているような感覚があった。
進むべき道に迷いはない。しかしその結果が、どこか望んだものと違ってきたように感じられてならなかった。
こころのどこかに〝しこり〟があるせいだろうか。そのこころの澱がみずからを少しずつ惑わせていた。
それは、業とでも呼ぶべきものだった。これまでたまりにたまった負の遺産が、徐々にみずからを蝕んでいる。そんな幻像が、こころのうちで渦巻いていた。
――何をばかなことを考えているのだ、私は。
軽く頭を振って、否定的な思考を追いやった。
弱気になっている場合などではない。部下が、仲間が自分に期待し、夢を託してくれている。
ゴトフリートはもう一度、己の剣を見つめた。
いつも自分のそばにいて、いつも我が身を守ってくれた剣。それは元々、親友ジークヴァルトのものであった。
――よもや、これがかつての自分の剣とぶつかることになろうとはな。
あのとき、フェリクスは必死だった。
まだまだ拙いところのある剣技ではあったが、全身全霊を込めてぶつかってきた。こちらが圧倒されてしまうほどに、そこには強い意志の閃きがあった。
負けるつもりなどなかった。思いの強さでは上回っている自信もあった。
しかし現実には、あの戦いの趨勢はほぼ完全にフェリクスのほうに傾いていた。
端から見ているだけでは、そのことはわからなかったろう。だが、実際に剣を交わした自分だからこそ、そのことを嫌というほどに思い知らされた。
正義は、自分にあるはずだった。
なのに、あのときから何か疑念のようなものが自身の中に芽生えつつあった。
割り切れない何か、こころに重くのしかかる何か。
それによって、真の正義とはなんなのかをみずからに問い直さざるをえなくなった。
――フェリクス、私は間違っているのだろうか、間違ってしまったのだろうか。
空に問いかけても、答えは返ってこない。ただただ青く澄み渡り、雲は地上を生きる者を睥睨している。