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さすがに、こころの底から揺さぶられるような動揺を禁じ得ない。
周囲は、まるで地獄絵図のごとく化していた。方々で泣き声や悲鳴が上がり、次々と人々が倒れていく。
誰もが自分のことで精一杯で、子供を助けようとさえしない。それどころか周りを押しのけ、他人を犠牲にしてでもみずからが生き延びようとしている。
極限の状態だからおかしくなっているのではない、そのゆえにこそ、人間の本質があらわになっているだけであった。
「とんでもないことになったわね……」
アーデは家の陰に潜みながら、ただひたすらに嘆息する他なかった。
これが人間の弱さ、醜さだ。
いつもは隠れていた本性の一面が、追いつめられて表面化した。
人間は浅ましく、自分のことしか考えない。それが負の側面に関する否定しようのない現実であった。
――でも、他人事というわけでもないけれど。
自分たちでさえ、けっして例外ではない。現に今こうして、何もしようとせずに安全なところで傍観していることしかできないではないか。
「殿下、ご自重ください」
「わかってるわ! でも、こんなに人々が苦しんでいるのに、私は何も……」
「していないわけではありません。殿下は、ご自分にできることを最大限なさっているではありませんか」
「でも……」
「殿下」
あくまでみずからを責めようとするアーデに、ユーグは厳しい目を向けた。
「己に不可能なことをしようとしても、それは無意味です。いえ、それどころか大半の場合、大失敗して、逆に周りに迷惑をかけてしまうだけなのです」
「…………」
「苦境において頑張ることは大切ですが、無理をしてはいけません。限界を超えたことをすると、自身も周囲も滅ぼしてしまいかねないのですから」
人を助けようとすることは尊い。しかし、物事に限度があることもまた事実だ。
その一線を見極めることは難しいが、それができなければ湖を満たした水があふれ出たとき大洪水を引き起こすように、とんでもない悪い結果につながってしまいかねない。
「己の限界を知れってこと?」
「そうです」
「そんなのは嫌というほどわかってるわ。でも、だからこそ歯がゆいんじゃない」
あることをやりたいのにできないときほど、自身の未熟さを痛感することはない。それをきちんと割り切れるほどには、アーデはまだ大人ではなかった。
「とにかく、耐えることも必要だということです。耐えること、待つことを知らない人間は成長できませんよ」
「また正論を。そんなユーグだから嫌い」
「…………」
姫のためを思って言っているのに、この態度。さすがのユーグも、理不尽な思いに顔を歪めた。
「そんなことより、宮殿のほうはどうなっているのかしら」
「フェリクス閣下のことが心配ですか?」
「それもあるけど、諸侯がこれからどうするつもりなのか……」
「ここまで混乱を大きくしたということは、襲撃者の側はこの帝都を壊滅させるつもりでしょうね」
「あっさり言うわね。でもそのとおり、あの翼人たちに手をゆるめる気配はないみたい」
上空では矢を射ったり、油をまき散らして火を放ったりと、ほとんどやりたい放題に暴れている。
東の大門はまだ閉じたままだ。これも連中の狙いどおりなのだと思えた。
ただ、相手に一般の市民を標的にするつもりはないようだ。あくまで、衛兵や宮廷軍の兵士に対して攻撃を集中させている。
それでも、油を使って火の手を広げているのだから、市民に被害が出ないわけがなかった。
「狙いが未だわからないのは不気味ではあります」
「そうね、帝都をアルスフェルトのように壊したとしても、じゃあ、そもそもそうする目的がなんなのかが見えてこないし。まさか、本当に人間に対する当てつけというわけでもないでしょう」
「元から、翼人が人間をわざわざ相手にする理由などありません。普通は、住む世界が違うと割り切っていますし」
翼人と人間のあいだで諍いが起こることもあるが、そのときの恨みを持つ者がこれだけ集まって、しかも大都市をみずから襲撃するとは考えにくい。
かといって、現実に彼らは今こうして帝都を襲っているのだから、なんらかの理由はあるはずだった。
「結局、連中の正体も目的もわからないのが問題なのよね。それでも、アルスフェルトの場合はあるといえばあるんだけど」
「――人間の心臓ですか」
「ええ。だけど、それだけが狙いだったとも思えない。やっぱり、他に何か大きなことがあるんでしょう」
アーデは眉をひそめた。
「相手は、この帝都の欠点をよく知っている。標的がここじゃなきゃいけないことの最たる証拠よ。帝都のことを徹底して調べていなければ、こんな見事な作戦は採れない」
まだ城門が開かない時間を狙って奇襲をしかける。
それによって帝都内の大混乱を誘い、かつそれを継続させる。
城壁にはほとんど綻びがないくらい、帝都の守りは確かに堅い。
しかし、その堅固さはあくまで地上を動く人間に対してのものであって、空からの襲撃者にはまったく対応できない。外部からの侵入に対応するための密閉性の高さが、完全に裏目に出てしまっていた。
「飛行艇を落とすのも信じられない思いでしたが、理にはかなってますね」
「そのことは絶対に許せないことだし、認めたくないんだけど、確かに戦術という面ではこれ以上のことはないわ。宮廷軍を一瞬にして壊滅状態にしてしまったんだから」
襲撃者は、飛行艇をやみくもに落としているわけではなかった。
それぞれを巧みに誘導し、宮廷軍が詰めている各施設に的確に合わせてみせた。心胆寒からしめる恐るべき作戦であった。
「弓矢を使うのも信じられなかったけれどね」
「ヴァレリア……」
背後からの突然の声に驚いて振り向くと、上空から紅色の翼の女が降りてくるところだった。
「人間の心臓を喰うのも正気の沙汰じゃないけど、こっちも同じくらいひどいわ。翼人の誇りを捨てたってことかしら」
「それだけ、なり振り構ってはいられないということでしょう」
ヴァレリアはうなずいた。
「そうね、相手はそれだけの覚悟の強さを持っている」
おそらく、みずからの命さえも捨てるつもりでここへ来ている。生半可なことでは、こちらも対応しきれない。
しかし、アーデには他の心配もあった。
「問題はそれよりも、誰がこんな作戦をつくったかよ。帝都や人間の世界のことをくわしく知ってないと、とても考え出せない」
「ということは、たとえ翼人が考えたにしても、誰か人間の協力者がいる可能性が高いということですか」
「そうなる。あまり信じたくないことだけれど」
アーデは上空を見上げた。
そこでは、翼人が未だ矢を放ちつづけていた。地上から弓兵が応戦しているものの、相手にその攻撃が届くことはなかった。
人間の側は防戦一方、そして徐々に兵力は削がれている。このままでは、いつか耐えきれなくなるであろうことは明白だった。
「でも、ここまでのことをするなんて同じ翼人が決断できるのかしら」
「掟を破る者なんて翼人の世界にもごまんといるわ、人間と一緒でね。それに、ヴォルグ族っていうとんでもない連中もいるくらいだし……」
「そのヴォルグ族が絡んでいる可能性は?」
「ああ、ないない。あいつらは、人間を毛嫌いしてる。見るのも汚らわしいと思っているはずよ」
注意すべき点はむしろ、さまざまな部族の者が混在していることだ。ここまで大規模かつ統率されたはぐれ翼人の集団は、これまでまったくなかったはずだった――自分たちを除いては。
「前より強くなってる……よね?」
「ええ、アーデは直接見たわけじゃないからわかりにくいかもしれないけど、前のときとは比較にならないくらい全体の動きが洗練されてる。相当に修練を積んできたのね、ぞっとしない話だけど」
つまり、相手はただのはぐれ翼人の徒党ではない。共通の目的を持ち、そしてそのためにすべきことをそれぞれが実行できる強さを備えている。
以前、カセルの地で戦ったときは自分たちの優位を感じたが、今はもうわからなかった。
「実際、みんな苦戦している。どうするの、アーデ? 分散して戦っているだけでは、こっちは苦しい。このままだと、味方に被害が出かねないわ」
アーデは、顎に指を当ててうつむいた。
大事なことを考えるときにするいつもの癖だ。こうなった場合、ユーグもヴァレリアも声をかけないようにしている。結論が出るのを待つしかない。
――どうする……
たぶん、帝国側がこのまま黙っているはずがない。かならず帝都周辺で待機している各騎士団が動きはじめるはずだ。
――自分ならどうする?
まず、帝都の四つの大門を破ってそこから侵入すると同時に、市民を外へ誘導する。だが、それでは混乱をある程度鎮めることはできても、襲撃者への応戦はできない。相手が弓で矢を射るばかりでほとんど地上まで降りてこないのだから、どうしようもない。
――飛行艇を使うか。
いや、それも難しい。空中で戦うための訓練を積んでいるならまだしも、ノイシュタット侯軍を除いておそらくどこもまともな準備をしていない。フィデースが襲われたときのように、再び墜とされるしまうのがおちだ。
ということは結局、人間の側に対応の手段はない。大弩弓を大量に用意できればなんとかなるのかもしれないが、それさえもさらに高くへ移動されてしまっては無意味だった。
しかも、もっと大きな、しかも根本的な問題もあった。
――もし、諸侯の中に裏切り者がいたとしたら。
ひとりだけ、どうしても不信感をぬぐい切れない人物がいる。仮にその男が本当に翼人と結んでいたら、もはや止めようがない。上空にも地上にも敵がいては、現状を維持することすら難しい。
――ここで手を打つしかないか。
もう迷っている暇はなかった。今やらなければ、未来は開けない。
「ヴァレリア」
「何?」
「みんなを南の森へいったん集めて。そこから、一気に相手を攻める」
戦力を分散している余裕はない。
それに、こちらの仲間は弓をけっして使おうとしないだろう。襲撃者のほうが攻撃の方法に選択肢がある分、自分たちのほうがやや不利。それだけに、難しい戦いを強いられるであろうことは容易に想像できた。
「いいの?」
「仕方がないわ。私たちの存在がばれてしまうかもしれないけど、そんなことは問題じゃない。こういうときのために、私たちは集ったんだから」
ヴァレリアだけでなく、ユーグや周りにいる者たちも大きくうなずいた。
そのとおりだ。自身のためだけじゃなくこの世界のために自分たちは集った。そして今、目の前に苦しみ、助けを求めている人たちがいる。ならば、迷うことなど何もない。
「たぶん、もうすぐ諸侯の軍が動きだす。それに合わせて私たちも仕掛けるから、そのつもりでいて」
「わかった」
確認し、ヴァレリアが飛び立っていった。敵の翼人などまるで意に介さず、ほぼ一直線に味方が待機している方向へ突き進んでいく。
「さあ、私たちもいったん外へ出るわよ」
この混乱の中、帝都から脱出するのは容易ではない――と言いたいところだが、実は選帝侯のみが知る秘密の抜け穴がここの地下にはある。アーデは、それを兄から内密に教えてもらっていた。ここへ来るにも、それを使ったのだ。
一同がアーデの指示に従い、きびすを返した。まったく予想外のことが起きたのはその直後だった。
アーデをすっぽりと影が覆った。横長で両端が動く影。
「えっ……?」
「殿下、お下がりください!」
すかさずユーグをはじめとした護衛の兵が、アーデを取り囲む。剣を一瞬のうちに抜き、弓を持っている者は矢をつがえて構えた。
上空から、白い翼の男が舞い降りてきた。あまりに堂々としたその所作に、先手を打つ時機を完全に逸してしまった。
「貴様ら、ここで何をしている?」
意外にも、相手は剣を抜くこともせずに問いかけてきた。しかし、虚を突かれた格好になった一同は誰も声を発することができなかった。
「さっき、翼人と話していたな。そうか、お前たちも連中の――」
男の目がすうっと鋭くなっていく。それはあたかも、狙いを定めた鷹のようであった。
「ならば、ここで後顧の憂いを断っておくまでだ」
さっと剣を引き抜いた。重厚そうなそれは、いかにも実戦で使い込まれているような雰囲気を醸し出していた。
一気に周囲の緊張が高まる。護衛の兵たちは、今度はいつでも動けるように全身に力を込め、弓兵はいつでも矢を放てるように集中力を高める。
そして、ユーグが剣を腰だめに構えたまま、一撃で決めるために飛び出そうとしたそのときだった。
「待ちなさい」
それをすかさず止める者がいた。
アーデだ。アーデルハイト本人が、右腕をすっと上げてユーグの行く手を遮っていた。
まるで、相手の男を守ろうとするかのように。
「殿下?」
ユーグが呼びかけても反応はない。こちらに背を向けたまま、じっと前方を、翼人の男を見つめていた。
「あなたは、いつもそうやって戦ってきたの?」
「何?」
「いつもいつもそうやって、戦って、殺して――」
アーデの瞳に悲しみが宿る。
「自分をも苦しめてきたの?」
女の言葉は鋭かった。
ヴァイクは一瞬こころを揺さぶられ、剣を取り落としそうになった。以前の自分だったら、今のたった一言で逆上していただろう。
しかし、もうそんなことにはならない。いろいろなことを経験し、いろいろな人たちと大事な出会いをしてきた。
だから、女の次の一言にも冷静に言葉を返すことができた。
「あなたにとって、生きることとは戦うことなんでしょうね」
「――確かに、一昔前まではそうだったかもしれない。戦うことにしか生きる理由を見出せなかった」
ヴァイクは、相手の目をまっすぐに見すえた。
「だが、今は違う」
「……なぜ、そう言えるの?」
平静を装いつつ、アーデは内心、男の迫力に圧倒されていた。
――こんなことは何年ぶりだろう。三年前、あることで兄に本気で怒られて以来だろうか。
「いろんな人が、俺にいろんなものを与えてくれた。翼人の仲間も、人間の友人も。特にひとりの少女が……自分の命を賭して、俺に生きることの意味を教えてくれたんだ」
男の瞳にわずかな悲哀の色が浮かんだのを、アーデは見逃さなかった。
しかし、口に出してはまったく別のことを聞いていた。その悲しみの理由は、けっして他人が聞いてはいけないことのような気がしたから。
「もしかして……あなたがヴァイクさん?」
「なぜ、俺の名を知っている?」
思ったとおりだ。シュテファーニ神殿でノーラに聞いたヴァイクという男は、この人のことだった。
「ここに来る前にシュテファーニ神殿に寄ったの。そこでノーラに会った」
アーデは、かいつまんで事情を説明した。
神殿長のノーラから翼人と人間が一緒に帝都へ向かったのを聞いたこと、そして自分はすでにノーラとは親友の間柄であることなどだ。
「そうか、あのノーラの」
「言ってたわ、荒削りで危なっかしくて頭がいいようで悪いけど――」
「ひどい言われようだ」
「最後まで聞いて。だけど、たぶん翼人の中でもっとも信頼するに足る人物だって、あなたのことを」
そう言われると、ヴァイクはぷいっと横を向いてしまった。
――この男、意外に扱いやすいかもしれない。
アーデは内心、ほくそ笑んでいた。
「ねえ、あなたは……」
「ともかく、お前たちはあの連中とは関係ないんだな?」
「ない。それは断言できる。逆に、あの者たちを止めたいと思っているの」
「ノーラの友人だというなら、信じよう」
「あなたこそどうなの?」
「俺は連中と対立している。だから、見つけしだいこちらを襲ってくるだろうな。だが、俺には当面やらなきゃいけないことがあるんだ」
「だったら、私たちと――」
「断る。お前たちが人間なのになぜ翼人の仲間がいるのかは知らない。知るつもりもない。もう他のことに関わっている暇はないんだ。俺は俺の道を進ませてもらう」
そう言うなり、ヴァイクはいきなり飛び上がった。翼が起こす凄まじい風に、アーデは倒されそうになる。
その彼の胸元に見慣れた小袋の柄を見たのは、ほんの一瞬だった。
だが、確かにアーデは見た。そして、見忘れるはずがない。
――あれは、あれは……
「待って!」
と、声を張り上げた。
しかし、風で倒れそうになるアーデをユーグがさり気なく支えたときにはもう、ヴァイクは上空高くまで行ってしまった。
「間違いない、あれはリゼロッテの……」
――そうか、少女というのは……
「リゼロッテ? リゼロッテがどうかしたのですか!?」
「くわしいことはあとで話す。今は、ここから脱出するのが先決よ」
アーデは気を取り直して、ひとつ大きく息を吐いた。
「それにしても、せっかちというか愛想がないというか」
「殿下にそう言わしめるとは、奴も相当ですね」
「どういう意味よ!?」
「いえ、別に……あっ」
ユーグが、ヴァイクが飛んでいった方向とは逆のほうに目を向けた。
「ごまかそうとしたって、そうはいかないわよ」
「いえ、そうではなくて。あれは、ヴァレリアではないですか?」
「え?」
言われて、アーデも同じほうをむいた。確かに、黒髪をした紅色の翼の翼人が必死の形相でこちらへ向かってくる。
程なく、こちらの直上までやってきた。
「アーデ、今のは!?」
「えっ、見てたの? ヴァイクという翼人の男だけど、敵ではなくて……」
「ヴァイク! やっぱり――」
かっと目を見開いて、先ほどまで彼の後ろ姿が見えていたほうを睨みすえた。
アーデやユーグたちは面食らっていた。
いつも冷静沈着で皮肉たっぷりなあのヴァレリアが、ここまであわてた姿はこれまで一度として見たことがない。
普段は明確に敵対しているアーデも、さすがに心配になった。
「どうかしたの?」
「私にはやるべきことができた。悪いけど、今は説明している暇がない。私はこれで〝新部族〟からは離脱させてもらう」
「ええっ!? ちょっと!」
「もう行く。じゃあね!」
本当に行ってしまうヴァレリアに、アーデが訳がわからずも急いで声をかけた。
「だったら、彼を追いかけて! あとでいろいろと聞かなきゃいけないことがあるから!」
「言われるまでもないわ!」
そう叫んだきり、信じがたい速度でヴァレリアは上空に消えていった。
アーデたちは唖然とする他ない。
それにしても――
「言われるまでもない?」
どういう意味だったのだろう。もはや、それを問い質すことはできなかった。
二人が飛び去った西の空は、未だ混乱がつづている。心配ではあったが、これ以上こちらにやれることがあるわけでもなかった。
「殿下、行きましょう。我々にも我々のなすべきことがあるはずです」
「ええ、わかってる」
ユーグの言葉に、アーデは首肯した。
まだ何も終わっていない。否、実際にはこれからまさに始まろうとしている。
そして、自分たちにしかできないことがある。それをひたすらに進めていくしかなかった。
そのことによって皆の未来が開けると信じて。