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つばさ  作者: takasho
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 先の会議とはまた違った、刺すような空気が議場には流れていた。

 選帝会議は混乱の極みにあった。

 この会議も二日目に突入し、普段ならそれぞれが互いの腹を探りつつ本題に入るきっかけを得ようかと考える頃合いだったが、そんな平和な目論見はもろくも崩れ去った。

 今も、外から怒号や悲鳴がはっきりとこの場にいる者の耳に届いてくる。

 フェリクスでさえ、飛行艇が数隻も墜落した際の振動と爆音にさらされたときには、さすがに冷や汗が出るのを抑えきれなかった。

 諸侯の中でも、アイトルフ侯ヨハンとブロークヴェーク侯ゼップルの混乱はいっそうひどかった。

 元より、二人とも戦というものに慣れていない。それが、あまりに想定外の事態に陥ったものだから、まったく平常心を失ってしまっていた。

 だが今、それを諫める者はなかった。なぜなら皆、程度の差こそあれ大きな衝撃を受けていることに違いはなかったからだ。

 それは、ある程度のことを予測していたギュンターやライマルでさえ例外ではない。まさか、ここまでのことを企んでいる人物がいようとは思いもしなかった。

「なっ、なぜ、こんなことになったのだ!? あの翼人どもはなんなんだッ!」

 ヨハンが、悲鳴じみた甲高い声を上げる。不測の事態に混乱するばかりで、体裁を取りつくろう余裕さえ失っていた。

 とはいえ、そんな彼が発した問いは皆に共通したものであった。

 あの翼人の集団はなんなのか。

 何が目的なのか。

 なぜ帝都を襲うのか。

 そのすべてが謎に包まれている。皆目見当もつかないのも当たり前だ――ギュンターらを除いては。

「それにしても驚いたな。まさか、帝都に飛行艇を落とすなんてことをしでかすとはな……想定外だぜ」

「ああ、とんでもないことになった」

 いつもは会議のときに一言も発しようとしないライマルが、さすがに黙っていられなくなったのか、顔をしかめながらつぶやいた。

 ――ライマルはああ言うが、ある程度は予想できたことかもしれない。

 フェリクスは、男にしては細い眉をひそめた。

 もちろん、飛行艇フィデースが襲われた件だ。

 今にして思えば、あれは今回のための予行演習だった。船底から内部へ入り込み、飛翔石か飛行機関を破壊することで墜落させる。

 ――だが、今問題なのはそのことではない。

 すでに帝都上空にあった、もしくはそこへ来た飛行艇はすべて落とされてしまっている。今後の復旧については頭が痛いが、それよりも現在もまだ暴れ回っている翼人たちへの対処をどうするかのほうが先決だ。

「宮廷軍は何をしているのだ! こういうときのために存在するのではないのか!」

「先ほど報告があったではないか。宮廷軍の側もひどく混乱してしまい、今のところ対処のしようがないと」

 わめくゼップルに、シュタッフスが諫めるようにして答えた。

 彼の言うとおり、宮廷軍は動くに動けないでいた。町の警備のために兵士を分散させてしまったせいもあったが、通りが人々でごった返しており、隊を派遣したくともできない。

 すべての大門が閉まったままになっているせいらしい。

 もしこれさえも襲撃者の狙いなのだとしたら、相手は恐るべき知略を備えていることになる。たとえ、宮廷軍を総動員したとしても一筋縄ではいきそうになかった。

「なんにせよ、情報があまりにも足りぬな。くわしい状況がわからないことには行動の起こしようもない」

 ギュンターの言葉は、皆の思いを見事に代弁していた。ここ〝白頭鷲の間〟からでは、外のことをほとんど把握できない。

 諸侯がいっせいに、扉の脇に立つ衛兵を見やる。その彼は恐縮してうつむいてしまった。

 別に彼が悪いわけではないのだが、とにかく何か手を打つ必要があった。もちろん、密偵は何人も放っている。しかし、未だに最初の伝令以来、なんら音沙汰はなかった。

 動くに動けない状況の中、諸侯の中で最も焦れているのはゼップルであった。

「だが、情報が集まるのを待つなどという悠長なことも言ってられまい。ともかく行動を起こすべきではないのか」

「それこそ相手の思うつぼだ。落ち着くのだ、ゼップル殿。宮廷軍がまともに動けない中で何かをしようとしたところでうまくいくはずがあるまい」

「しかし……」

「ならば、逆に問おう。行動を起こすとして具体的に何をするのだ? 貴公にいい策でもあるのか?」

 そう言われては、ゼップルも黙るしかなかった。

 確かに動けないという以上に、仮に動ける状態にあったとしてもどうすればいいのかがわからない。相手はただの賊ではなかった。

 一同が黙り込んでしまった中、ライマルは首をかしげていた。

「でも、なんでよりよによって翼人が帝都を襲ったんだろうな。フェリクスはどう思う?」

「本来なら、翼人がここを狙う理由なんてないさ。しかし、考えられるとすれば――」

「すれば?」

「この国をひっくり返すつもりなんだ。もしくは、特定の人間と結託しているか……」

 その言葉に、ヨハンが目をむいた。

「帝国の転覆を目論んでいる者がいるとでもいうのか!?」

「それ以外に、わざわざ帝都を狙う理由がありません。単に略奪などが目的なら、守りの薄い地方の都市や村を標的にすればいい。しかし、翼人は人間の世界でいう富にまるで興味がありません。ということは、この帝国そのものを消したがっているか、誰か他の存在、たとえば帝国に敵対する立場の人間と取り引きしたか、それくらいしか考えられないでしょう」

 ――結局、翼人にとって人間、特に帝国人は邪魔な存在でしかない。

 この地の先住民であった彼らを追い出して人間が住み着いたということは、帝国の正史にもきちんと記されている。

 しかも、これまで大規模な戦いにはならなかったものの、あちらこちらで人間と翼人の衝突は確かに起きてきた。

 思えば、いつ彼らの不満が爆発してもおかしくはなかった。

 周りから反論の声が上がらないところを見ると、皆それなりに納得しているらしい。

 特にアイトルフとダルム、そしてカセルは、翼人との(いさかい)いが実際に頻発している。翼人が人間を襲うこともあるというのは、誰もが重々承知していることであった。 

「では、ロシー族がからんでおるやもしれぬな」

 ギュンターの指摘にフェリクスはうなずいた。

「その可能性もあると思います。ただ今回は、わざわざ帝都を狙う可能性は低い気もしますが」

「なぜだ?」

 ヨハンが問う。

「ロシー族の目的は、あくまで自分たちの活動場所を確保することです。だから今も昔も、基本的に帝都の北西でしか動いていません。そのことはヨハン殿、あなたが最もよく知ることではありませぬか」

 ううむ、と唸ったきり、ヨハンは黙り込んでしまった。

 アイトルフ及びダルムは、ずっとロシー族の反乱に苦しめられている。それだけに、彼らが翼人と結託したときへの恐怖心は人一倍あった。

 シュタッフスも相変わらずの鉄面皮を装ってはいるが、内心そのことを一番に案じているに違いなかった。

 しかし、口に出して言ったことはそれとは裏腹だった。

「だが、すべて憶測でしかない。問題は、今現実に帝都が翼人どもの襲撃を受けているということだ。このまま手をこまねいているわけにもいかないだろう」

 フェリクスは首肯した。

 確かに、それはそのとおりだ。放置しておいたら状況は悪化する一方。最悪、この宮殿が落とされることも想定しなければならないほどに、現状は厳しい。

 できるだけ早く行動するに越したことはなかった。

 ――くわしい情報がいつ入ってくるのかなど誰にもわからないしな。

 もしかしたら、相手は密偵への対策を打っているのかもしれず、仮にそうならば、どんなに待っていても待つだけ無意味なだけでなく、こうした混乱時に最も貴重ともいえる〝時間〟を大幅に失ってしまうことになる。

 彼らの意見に、ギュンターも同意した。

「……相手の術中にはまっている気もするが、内からだけでなく外からの対応も必要だろう」

「ギュンター殿、それはそれぞれの騎士団を動かせということか?」

 ゼップルの問いに、ギュンターはため息混じりに答えた。

「他に何がある。内にいる宮廷軍が動けないのなら、外から動くしかない。このままにしておくわけにはいかぬのだ。ならば、何か手を打つしかあるまい」

「しかし、東西南北の大門は混乱の中ですべて閉まったままだというではないか。どうやって、外の兵を内に入れる」

「だったら、扉を開かせればいいまでだ。門と城壁を打ち破る方法などいくらでもあるだろう。最近大きな戦がなかったから、感覚が鈍ってしまったか?」

 ギュンターの指摘はまったくもって正しい。ゼップルは、ぐうの音も出なかった。

 しかし、意外なところから再び反論が来た。

「でもさぁ、爺さん。七大諸侯の軍をすべて動かしたら、かえって混乱すると思うぜ? たぶん、(やっこ)さんたちはあえて市民を巻き込んで騒動を大きくしている。そこへ侯軍が突っ込んでいったら、さらに被害が大きくなる気もするけどな」

「鋭いな、ローエ侯。やはり、いつもの道化っぷりは仮面だったか?」

「そんなことはどうでもいいんだ。問題は、侯軍を動かすにしてもどうやってやるかということだよ」

 ギュンターは首肯した。

「そうだな。いくつか方法はあるが、やはり時間差をつけるというのが正道だろう」

「順に入城するってことか」

「ああ、そうだ。今のところ打てる手はそれくらいしかあるまい」

 ハーレン侯の指摘はまったくもって正しい。しかし、場には微妙な空気が流れていた。

 ――本当は、他にまだ策はある。

 それが事実だ。だが、他の者に悟られてはまずい。だから、誰も本音を言えなかった。

 そのことは、フェリクスにしてみても同様だった。

 ――あれは、奥の手のさらに奥の手。今知られるわけにはいかない。

「だったら、誰が先陣を切って突入するかだな。言っとくけど、俺はやだぞ。うちの兵は長旅で疲れ切ってるんだ。これ以上酷使するのは忍びない」

 いつもだったらライマルのわがままと切って捨てるところだが、そうではないことは他の誰もがわかっていた。

 ローエの都グリューネキルヒェンは、各侯領のそれの中で最も帝都から遠いところに位置する。そこからずっと移動してきたローエ侯軍の疲労が蓄積していることは事実だった。

 かといって、自軍を使いたくないのは誰にしてみても同じであった。しかも先陣を切るとなれば、これだけの騒動だ。被害は小規模なものでは済まないだろう。

 会議場に沈黙が下りた。

 ――これだ。これがいけないのだ。

 各地の連合による連帯などとは名ばかりで、結局はそれぞれが自分自身のことしか考えていない。だから、この期に及んでも肝心な決断が下せなくなってしまう。

 思いきって自分が引き受けようか――場に変化があったのは、フェリクスがそう思いかけたときだった。

「ならば、私が出ましょう」

 そう声を発したのは誰あろう、それまで沈黙を保っていたカセル侯ゴトフリートであった。

 ――来たぞ。

 フェリクス、ギュンター、ライマルの三人がいっせいに反応した。それぞれが警戒心を最大限にまで高める。

 それまで不気味なほどに黙りこくっていたゴトフリートが、ついに動きだした。

 ここからの侯の言動、行動に対しては、いくら注意してもしすぎるということはない。

 一部の極度の緊張を知ってか知らずか、表面上はいつもどおりの落ち着きをもってゴトフリートは言った。

「皆さんご存じのとおり、わが領内ではたびたび翼人の暴動が起きております。それゆえ奴らとの戦いには慣れておりますから、ご安心ください」

「おお、それは心強い。確かにゴトフリート殿ならば、皆が納得するでしょう。あなた以上の適任者はおりますまい」

 ゼップルが、こころからほっとした表情でゴトフリートを持ち上げた。

 戦の指揮が得意ではないため、万が一、自分が先陣を任されたらどうしようとやきもきしていた。その思いは、どうやらヨハンとシュタッフスにしてみても同じであるようだ。

 だが、残りの三人は違っていた。

「だがな、ゴトフリート殿。昨日、支援を要請していたばかりではないか。アルスフェルトの件などで兵が疲弊しているのに、まともに戦えるのか?」

「それは逆です、ギュンター殿。この短期間の間だけでも、我々は幾度となく翼人と戦ってきました。もはや、連中の手の内はすべてわかっております。今さら恐るるに足りません」

「そう、ゴトフリート殿とカセル侯軍には豊富な経験がある。たとえ疲れがまだ残っているとしても、最も信頼できる味方だということに変わりはないはずだ」

 ヨハンが口を挟んできた。

 余計なことを、と思いつつも、現時点ではそれが正論であることに違いはなかったから、反論はできない。ギュンターとしても黙るしかなかった。

 場の空気の流れが、ゴトフリートに任せる方向へ傾きはじめていた。

「では、カセル侯軍に先陣を――」

「お待ちください」

 ヨハンの言葉をあえて遮ったのはフェリクスであった。

 ――もはや自分は、ゴトフリートの企みの根幹をほぼすべて知っている。

 何がなんでもここで止めなければならない。それができなかったとき、自分とゴトフリートの関係も何もかもが終わってしまう。なり振りかまっている余裕はなかった。

「諸侯よ、今一度思い起こしていただきたい。いかなる理由があろうと各侯軍を帝都内に入れてはならないという約定があることをお忘れか。しかも、選帝会議の期間中は城壁に近づくことさえ認められておりません。〝アルスフェルト条約〟は、絶対不可侵だったはず」

 帝国が建国される礎となった〝アルスフェルトの十二の約定〟のうちには、帝都に関する取り決めも含まれていた。

 帝都の安全と帝国全体の維持のためには、当然必要な措置だ。帝都が落ちれば帝国が落ちる――それは、各諸侯に共通した認識であった。

 だが、今はそうした正論が通る雰囲気ではなかった。

「この期に及んでまだそのようなことを。事の緊急性がわからぬ貴公でもあるまい。非常時に通常時の論理を持ち出してどうする」

 他の者の思いをシュタッフスが代弁したが、フェリクスに引き下がるつもりはなかった。

「お考え違いをなさらないでいただきたい。むしろ非常時だからこそ、約定を守り通すことが必要なのです。大事だからといって、そのたびに都合よく規定を変えていたのでは約定が約定として存在する意味がなくなってしまいます」

「そうだな。アルスフェルト条約に例外規定などない。ということは、いついかなるときもそれを守らなければならぬということだ」

 ギュンターもフェリクスの意見に同意した。

 ただのこじつけであることはわかっている。しかし、あの男を止めるにはこじつけだろうとなんだろうと構わなかった。

 ここが最後の正念場。

 今手を打てなければ、被害はさらに大きなものとなることが確定してしまう。ゴトフリートの目論見に気づいた自分たちがどうにかするしかない。

 もっとも、正念場なのは相手にしてみても同じだろうが。

「ならば、問おう。そう言うのなら、この非常時に実際にどうしようというのか」

「お言葉ですが、ゼップル殿。こういうときのためにこそ、宮廷付きの独立した軍があるのではありますまいか」

 もともと帝都専属の軍が存在するのも、諸侯がここへ向かって兵を動かす理由をなくすためという背景もあった。それは、皇帝となった者でさえ例外ではない。

 常備軍たる宮廷軍の維持費は相当なものがあるが、それでも帝都の独立と帝国全体の秩序を保つためには絶対に必要なことであった。

 そのことは、理屈としては他の諸侯もわかっている。しかし、現状がそれを許さなかった。

「わかっておらぬのは貴公のほうだ、フェリクス殿。その肝心の宮廷軍が、宮殿からも詰め所からも動けぬのだぞ。ゆえにこそ、外から仕掛けようと言っているのではないか」

「ですが、我々が軍を動かしたところでどうにかなるとも思えません」

 フェリクスは、軽くため息をついた。

 元々は苦しまぎれの言葉だったが、よくよく考えてみると先の作戦には根本的に無理があることがわかる。自分自身も、混乱の中どこか冷静さを欠いていた。

「外から門を開けて内側へ突入するというのは妙案のようにも思えますが、仮に四つの大門をすべて開放したとしても、誰がどうやって市民を外へ誘導するというのですか。門が開いたからといって、人々が自然に動いてくれるわけではありません」

「確かに、余計に混乱がひどくなる可能性もあるな……」

 ライマルがうめいた。

 群衆がみずから外へ出てくれるというならまだしも、もし中に留まったままならかえって状況を悪化させてしまいかねない。そうなれば、翼人うんぬん以前に帝都の秩序が内側から崩壊してしまう。

 ただ、実際にどうするかが最大の問題ではあった。

「理屈はわかった! だがな、ノイシュタット侯よ。今まさに帝都は未曾有の危機にさらされているのだ。貴公は正論ばかりをいうが、ならば他に策があるというのか」

「フェリクス殿、残念ながらゼップル殿のおっしゃるとおりだ。具体策がないのなら、どんな意見もほとんど無意味だろう。宮廷軍もあるにはあるが、あれは通常の暴動や反乱を鎮めるために存在するものだ。翼人との戦いの経験があるわけがない。仮に宮廷軍がいつもどおりに動けたとしても、奴らに太刀打ちするのは難しいだろう」

 ゼップルにつづてヨハンまでもが追従する。しかもその意見は、珍しく的を射たものであった。

 ――まずい流れになった。

 このままでは、相手の思うとおりになりかねない。しかし、もはや自分は反論の言葉を持たなかった。

「その点、ゴトフリート殿は翼人の多く住むカセルの地を治めておられるから、奴らによる襲撃の対策にも慣れていると聞いたことがある。今、これ以上の適任者はおらぬではないか」

 ――ヨハンがゴトフリートに頼りたくなる気持ちはわかるが……

 翼人との戦いの経験があるというだけでなく、純粋に戦上手だからだ。常時ならば、自分も迷わずゴトフリートを押していた。

 だが、今はそれが許されない状況だ。けっしてゴトフリートの思いどおりにさせてはならない。そうなってしまったときが、帝国のすべてが終わるときなのだから。

 その肝心のゴトフリートは、未だ不気味に沈黙を保っている。ここまでのところ、まるで反応がない。

 フェリクスは、嫌な汗が出てくるのを抑えられなかった。

 やっとアルスフェルト襲撃の意味に気がついた。

 あれは、一種の見せかけだったのだ。帝都襲撃の予行演習という意味合いもあったのだろうが、それと同時に今回の選帝会議への布石でもあった。

 あの騒ぎによって、諸侯へ翼人の恐ろしさを植えつける。

 さらに、それを曲がりなりにも鎮圧することによって翼人への対応能力をも見せつける。

 その結果がこれだ。ゴトフリートへの疑念を持たない者は、ほぼ完全に彼の支持へ傾いている。

 一方、こちらはゴトフリートの企みを明るみに出す(すべ)を持たない。

 ちらりと彼のほうをうかがった。まだ、まったく表情を動かさない。

 すべては思いのまま――自分たちは彼の手のひらの上で踊らされている!

「フェリクス殿、カセル侯の強さはそなたが一番よく知っているだろう。何をそんなに危惧しておる。現在の状況を考えれば、最善の策ではないか」

「わかっております。しかし翼人との戦いならば、僭越ながらわたくしにも経験がございます」

 議場がざわついた。ノイシュタットで翼人との(いさか)いがあったという話は、ほとんどの諸侯が聞いていなかったことだ。

 ――しかし、それもおかしな話だ。

 無論、ギュンターとライマルは知っているが、カセル侯領で起きた翼人騒ぎがあっという間に帝国全土に広まったにもかかわらず、ノイシュタットでのことはまるで知られず、しかもなぜか大弩弓(バリスタ)を搭載した飛行艇の話だけが噂になった。

 ノイシュタット側が、関係者にすばやく箝口令を敷いたというのもある。しかし、それにしてもまったく秘密が漏れないのも不自然だし、飛行艇のことだけ伝わっていたのも明らかに何かがおかしかった。

 ということは、どこかで誰かの意志が介在している。そう考えたほうが自然だった。

「どういうことなのか、ノイシュタット侯よ」

「ゼップル殿、恥ずかしながら我が所領の末端、フィズベクで暴動が起きてしまったのです。その鎮圧に向かう際、なぜか翼人の集団から襲撃を受けたのです」

「貴公らが直接狙われたということか?」

「はい。敵は、明らかに待ち伏せをしておりました。初めから、こちらを狙っていたとしか思えません」

「しかし、戦いの経験が一度だけではな」

 そう言ったのはシュタッフスだ。

 ――悔しいが、その指摘はもっともだ。

 継続的に翼人と争っているカセル侯とは、経験という面で大きな開きがあることはごまかしようもない。

 それはわかってはいるが、フェリクスも黙っているわけにはいかなかった。

「いえ、実はあるところへ飛行艇で向かう際にも襲われたのです」

 フェリクスは、一拍置いてから答えた。

「翼人に」

 今度は、衝撃で一同が静まり返った。その意味するところはあまりに深い。

 ヨハンが、悲鳴を上げるようにして問うた。

「飛行艇が狙われたというのか!?」

「はい。空中で襲撃を受けて船底に穴を空けられ、危うく飛翔石を持って行かれるところでした。その後、なんとか自領の湖に不時着できたのですが、結局水底に沈んでしまいました」

 あまりのことに、一同は沈黙している。そこまでひどいことになっていたとは、ライマルもギュンターもあずかり知らぬことであった。

「敵は最初のときと同じ、翼の色がばらばらな者たちでした。おそらく今、帝都を襲撃している連中と同一でしょう」

「敵は〝訓練〟までやっていたってことか……」

 ライマルが、あからさまにため息をついた。翼人たちは、かなり用意周到に今回のことを練っていたということだ。

「ずっと前から、俺たちはすでに後手に回っていたのかもしれない。ということは、すぐに手を打ったとしても、これからの対応がまったく間に合わない可能性も十二分にある」

 フェリクスは、ライマルの言葉にうなずいた。

「そうだな、連中が前々から準備していたのは間違いない。だが、気になるのはそれだけじゃないんだ。最初のときよりも二回目のほうが、明らかに相手は洗練されていた」

 あの襲撃者たちは、確実に成長している。個人として、ということもあるだろうが、それ以上に今や組織として手がつけられないレベルに達しているだろう。

「恐れながら、カセル侯でもあの連中を相手にするのは骨が折れると思われます。ゴトフリート殿に頼るのではなく、何か別の策を考えたほうがいいでしょう。我々の自立のためにも」

 その言葉は嘘だ。

 現実には、今でも翼人への対応を任せるならゴトフリートが最も適任であることに疑う余地はない。しかし、それは彼にその意志があればの話だった。

 他の諸侯に、カセル侯が翼人と結託している可能性への疑念はない。

 そこに、どうしようもないもどかしさを感じる。ゴトフリートの軍をけっして帝都に入れてはならないというのに、諸侯はむしろ彼に任せたがっている。

 ――どう気づかせたものか。

「ところで、ノイシュタット侯よ」

「はい」

「翼人に飛行艇が襲われたとき、貴公はどこへ向かおうとしていたのかね? 不時着したのは自領だったと言っていたが」

 ギュンターが絶妙のタイミングで話を切り出してくれた。

 そこで、フェリクスはあえてもったいぶった様子で答えた。

「……カセルの都、ヴェストヴェルゲンです」

 議場が、しん、と静まり返る。

 ――どうにかして、諸侯にゴトフリートの思惑に気づかせなければならない。

 おそらく、これが最後の機会だ。

「飛行艇が翼人に襲われるなどということは、前代未聞のことです。それが、なぜかカセルの地で起きたのです」

「ということは、カセルで暴れていた翼人が今帝都を襲っているということか」

 ヨハンが言ったように、素直に考えればそういうことになる。しかし今は、素直に考えてもらっては困る。

「ヨハン殿、不思議なことはそれだけではないのです。アルスフェルトからやってきた者に話を聞いたところ、なぜかカセルの地では翼人による襲撃が噂にすらなっていないそうなのです」

「それは当たり前だ。領内で大きな問題が起きたとき、騒ぎが広がらないようにするために領主ならば誰でも関係者の口を閉じさせるだろう、無理やりにでもな。貴公もそれをやったから、フィズベクや飛行艇のことが外部に漏れなかったのではないか」

 ヨハンの意見は正しい。だが、最も肝心なことに気づいていない。

「では、どうしてあなたはアルスフェルトの件を知ることができたのです?」

「!」

 こちらのたった一言に、ヨハンが目を見開いた。ようやく違和感の正体を悟ったのだ。

 そう、カセル侯領で完全なまでに情報を隠したというのに、それ以外の地域へはあっという間に噂が広まったのは不自然すぎる。何者かがなんらかの意図をもって操作した結果だ。

 その者は、カセルでは翼人のことを一般に知られては困るが、他では知ってほしいと考えているであろうことは容易に想像できる。

 それが、なんのためなのかは今の段階では明言できない。しかし、現実にそれを実行可能な者は、この帝国内でたったひとりだけだ。

 さすがは世界に冠たるノルトファリア帝国の選帝侯だけあって、すでに大半の者がその事実に気がついたようだ。

 たったひとり、ヨハンを除いて。

「ど、どういうことだ?」

 ため息をこころの中へ押しやりつつ、フェリクスは答えた。

「カセルの地で箝口令を敷きながら他へ噂を広めることができるのは、カセル侯をおいて他におりません」

 ヨハンが、はっと息をのんだ。

「しかし、翼人がやったとも考えられるのでは?」

 と、問うたのはゼップル。

「私も、それを最初に考えました。しかし、彼らには翼人の世界では同じことが可能でも、人間の世界では無理なことです。翼人と人間との交流は、事実上、皆無に等しいのですから」

「それはそうだ……」

「でも、別の思惑を持った人物がいたとしたらどうだ?」

「カセルで翼人の襲撃があったことを他へ広めたいと考えた人間がいるということか、ライマル?」

「ああ、その場合も話の筋が通るだろ? たとえば、カセル侯を貶めたいと考えている奴とかな」

 ギュンターのほうをちらりと(うかが)った。この男は、このせっぱ詰まった状況下でも駆け引きを楽しんでいるようだった。

 しかし、フェリクスは首を横に振った。

「いや、通らないな」

「なぜだ?」

「それだったら、カセル地方にだけ噂を広めようとしなかったことになる。カセル侯と敵対しているというなら、なおさらそれはおかしいだろう?」

「カセル侯が箝口令を敷いたからだとは――?」

「考えられない。アルスフェルトの件が噂になったときは異様な早さだった。正直に言えば、各地に放った密偵よりも民のほうが先に知っていたくらいなんだ」

「そういやあ、うちもそうだったな」

「それくらい巧みに噂の操作ができるのなら、カセルだけやらないのはなおのことおかしい。そもそも、箝口令を徹底させることの難しさはお前もよくわかっているだろう、ライマル」

「ううむ、相変わらずの洞察力だな、フェリクス」

 唸ったきり、ライマルは黙りこくってしまった。

「しかし諸侯よ、よく考えていただきたい。ここにこそ重要な点があるのです」

 フェリクスは、皆に語りかけるようにして言った。

「噂の広まり方が異常だったことは事実。ということは、誰かが意図的にそれをやったことは間違いないのです。それは、早馬よりも上だった。しかし、空を飛ぶことが可能な翼人には無理であることは先ほど申し上げたとおりです」

 各地域の飛行艇の渡航記録についても調べてみたが、同時期にカセルから各地へ向かう艇は商業船を含めてただの一艘もなかった。一艘もである。

 すなわち――

「アルスフェルトへの襲撃が起きてからではなく、起きる前から噂を広める準備をしていたということです。しかも、それが起きてからの伝達が不可能ということは、あらかじめ襲撃を、それも実際に起きるときを知っていたとしか考えられないのです」

 今度こそ、諸侯のあいだに戦慄が走った。

 フェリクスの言葉の意味を、そしてカセル侯に先陣を任せることの危険性をようやく悟った。

「なんだ? 何が言いたいのだ?」

「まだわからぬのか、アイトルフ侯よ」

「いや、わかっているのだ、ギュンター殿。しかし、どう受け止めたらいいものか……」

「ノイシュタット侯の言っていることが本当なら、カセル侯はアルスフェルトが襲撃されるのを知っていてあえて放置したか、もしくは――」

「もしくは?」

「カセル侯自身が、翼人と結託しているということだ」

 皆、その結論には気づいていたが、ギュンターが口に出して言ったことでまざまざとその重みを思い知らされた。

 今や、大半の者がゴトフリートに意識を向けていた――それも否定的な意識を。

 しかし何を恐れているのか、誰ひとりとして当のゴトフリートに問いかけようとはしない。

 肝心のゴトフリートは、伏し目がちなまま微動だにしない。

 結果、ヨハンをはじめ諸侯の意識はフェリクスに向けられることになった。

「き、貴公までゴトフリート殿を疑っているのか?」

「疑いたくはありません。しかし、疑わしい面が多すぎるのです」

 突然、夜会に来なくなったり、渡航許可を出さなかったり――以前のゴトフリートからすれば考えられないことばかりで、〝何か〟を警戒しているとしか思えなかった。

 最後まで信じたかった。しかし、その疑念は昨夜、確信へと変わった。

 議場を沈黙という名の女神が支配する。誰も言葉を発しようとしない。

 流れは、ゴトフリートに不利なほうへ流れはじめたように思われた。しかし、シュタッフスがあえて疑問を呈した。

「だが、やはり理に適わぬ面もある。仮にその憶測が正しいとしても、カセル侯がそこまでする理由はなんだ?」

「それは帝国の支配を――」

「いや、違う」

 ゼップルの指摘をシュタッフスは一蹴した。

「皆が次期皇帝にと考えていた人物は誰だ? そう、カセル侯ではないか」

 フェリクスは言葉に詰まった。

 ――確かに……確かにそうなんだ。

 以前から、次期皇帝はカセル侯ゴトフリートが最有力だといわれていた。それぞれはさまざまなことを目論んではいただろうが、最終的にはカセル侯が皇帝ということで構わないと考えていたはずだ。

 それは、自分自身も同じだった。

「ならば、なぜカセル侯がそこまでの危険を冒す必要がある。黙っていても権力の座は転がり込んでくるというのに」

「確かに反乱は成功すればいいが、もし失敗しようものならすべてを失ってしまう。あえてそうする利点が見当たらぬな」

 そう言ったゼップルだけでなく、ヨハンも同じ思いのようだ。再び場の空気が変わりつつあった。

「それに、何もかも憶測ではないか。カセル侯が反逆者だという前提から考えられたことばかりで、明確な証拠は何もない。言うまでもなくそれが当たっている可能性もあるが、憶測だけではこうした公の場で認めることは難しい」

 シュタッフスの意見は正しい。

 しかし今は、無理を通してでもゴトフリートを止めなければならない。

「諸侯よ、その反論に対する答えは自身のうちにあるはずです」

「どういうことだ?」

「逆に問いましょう。なぜ、あなた方は皇帝が他の者でもいいと思ったのです?」

 フェリクスに皆の視線が集中した。

「それは、ノルトファリア帝国の皇帝といっても名ばかりで、実質的な権限などほとんどないことを知っているからではないですか! 何をするにしても諸侯に伺いを立てなければならない。国の財政に関与することもできなければ、宮廷軍を動かすこともできない。そのくせ、有事の際にはすべての責任を負わされる。だったら、自領の統治に専念したほうがましだ。それは、あなた方も常日頃から思っていることでしょう!」

 思いきり机を叩き、拳に己の意志を込める。

 ――ここで趨勢を決するしかない。

 これ以上、言葉を重ねての説得は無理だ。多少強引にでも、諸侯の思いをひとつにする他ない。

「カセル侯があえて危険を冒す理由はただひとつ。帝国を、皇帝という地位さえもまったくの無意味にする。つまりノルトファリア帝国を崩壊させることで、この国にあるものすべてをその支配下に置くことなのです!」

 それは、あながち極端な話でもなかった。というより、それ以外の目的は考えられない。

 その結果として最終的に何をどうしようというのかは未だ見えないが、既存の秩序は崩れ、大混乱が帝国全土を覆うであろうことは言うまでもない。

 たとえよかれと思ってやったことでも、大きな犠牲を伴うものならば悪と断ずるしかない。それがフェリクスの信念であった。

 善意が善になるとは限らず、行きすぎた善意が悪となりうることもある。

 そのことが、どうしても今のゴトフリートに当てはまるような気がしてならなかった。

 そうしたフェリクスのまっすぐな思いをぶつけられて、諸侯は完全に沈黙した。

 もうすでにカセル侯への疑念は皆が持っている。しかし、具体的にどう対応したらいいのかがわからないでいた。

 諸侯の思いは揺れている。あと一押しでどうにかなるはずだった。

「これが真実なら、確かに首謀者にとって大きな賭けであることは間違いありません。ですが、その目論見はもはや半分がた達成されているのです。我々はもうすでに追い詰められていることを、今一度確認していただきたい」

 ここで決断しなければ、すべてが手遅れになってしまう。本来ならば、迷っている暇さえない。

 ようやく事態の異常性と緊急性に、諸侯が気づきはじめていた。

「では、本当にカセル侯が翼人と結託していると……?」

「それは断言できぬよ。だが、もし事実なら、翼人と侯の配下との連合軍は止められぬだろうな」

 ヨハンの言葉に答えたのはギュンターであった。

 フェリクスは、ようやく一息つくことができた。口数こそ多くはないが、こちらの意図を察して要所要所で的確に助けてくれる。さすがは経験豊富な老将だった。

「実のところ、皆も連合国家という形態に歯がゆさを感じておるのだろう? そうだ、私だって同じだ。あの〝アルスフェルトの十二の約定〟さえなければ、それこそ気軽に相手の領土を奪えるのだからな。そなたらも反乱成功の見込みが高いのなら、本気で決起を考えるのではないか」

 ギュンターは揶揄するようにそう言ったが、それはこれまでこころの奥底に隠していた本音でもあった。

 なまじ帝国に属しているがゆえに動きたくとも動けない。協同のための連合のはずが、互いにとっての足枷(あしかせ)となっているという皮肉な現実があった。

「ノイシュタット侯は、若者らしく実直に自身の思いをぶつけている。どうせだから、皆も本音で語ったらどうか。そうすれば、カセル侯の真意も見えてくるだろうよ」

 ご老体の声が重く響く。

 ゴトフリートの目的がすべて明らかになっているわけではない。

 帝国の完全な支配を狙っているにしても、それがなんのためであって、なぜよりにもよって翼人と結んだのかは想像することさえできない。

 ゴトフリートが私利私欲のために動くような男ではないことは、誰もがわかっていた。それだけに、今回の行動が理解できずにいたし、またそれが不気味でもあった。

 ――ゴトフリートは、けっして妥協しない。

 そのことは、改めて指摘するまでもないほどにはっきりとしている。

 なんらかの理由があって彼が決断したのならば、自分たちにとって最大の敵となりうるということ。

 ばか正直すぎるくらいにまっすぐな性格がおかしな方向へむいたとき、そのときがもっとも手がつけられなくなる。

 もはや、諸侯もことの重大さに気づいていた。今のゴトフリートは、かつての彼とは変わってしまっている。

 それでも、決断するには決定的な何かが欠けていた。

 ゴトフリートは確かに疑わしい面が多すぎる。だが、これほどの大事になればなおのこと、単純に〝疑わしきを悪〟とすることはできない。

 決定的な証拠が欲しいということでもない。あるならそれに越したことはないが、そのことよりも他に確かめなければならないことがあった。

 自然、全員の意識が当該の人物へ向かっていく。

 あとは、本人しか語れないことだ。

 フェリクスやギュンターにしても、これ以上のことをするのは難しかった。

 しかし、ひとつの流れはつくった。諸侯の判断しだいだが、ゴトフリートへの包囲網はそれなりにできたはずだ。

 六つの視線は、たったひとりの人物にそそがれていた。そして、皆が答えを待っている。

 だが、当の男は未だ口を開かない。それどころか、表情ひとつ変えることさえなかった。

 ――小父上、そうしているのは――

 フェリクスは、複雑な思いを噛みしめていた。

 その沈黙がこれまでと違うのは、時間が経てば経つほどゴトフリートの立場が不利になっていくということだ。

 諸侯の疑念は最高潮にまで達している。この状況で黙りつづけているのは、反論の余地がないからだと受け取られても仕方がない。

 しかし、この静けさが不気味でもあった。

 一言でも付け加えれば、こちらの主張を論破できる箇所はいくらでもある。

 たとえば、飛行艇への襲撃もそのとき渡航許可が出ていないのだから、こちらとしては実はそれが真実だと証明する術はなかった。

 それでも、ゴトフリートはずっと沈黙したまま。議論の流れがいいときも悪いときも、彼は微動だにせず、そこに座っていた。

 ――もう、それも終わりだ。諸侯の我慢は限界に達した。

 言葉を発せずとも、皆が苛立ちはじめているのがありありとわかる。特にヨハンとゼップルは、いつ怒りが爆発してもおかしくない状態だった。

 ――勝負は決した。

 しかし、フェリクスとギュンターの確信は一瞬のうちに消え去った。

 その直後、最悪の知らせがここ〝白頭鷲の間〟にもたらされたのである。

 衛兵の戸惑いの声とともに、ひとつしかない扉が勢いよく開け放たれた。

「も、申し上げます!」

「どうした?」

 一同を代表して、ギュンターが問いかけた。皆の視線がゴトフリートを外れ、その衛兵に集中する。

「宮廷軍が……宮廷軍が……」

「落ち着いて話せ。貴様があわてたところでどうこうなるものでもない」

「は、はい。宮廷軍が――」

「どうしたというのだ?」

「か……壊滅いたしましたッ!」

 衝撃が一同を襲った。

 今までとはまったく異質な、冷たくよどんだ空気が場を支配した。

「ば、ばかな! この短時間であの精鋭軍を打ち破れるはずがない。そもそも、宮廷軍は帝都内の混乱で動けないはずだろう!? それがなぜ壊滅する」

「それが、上空の飛行艇はことごとく宮廷軍の主要施設に落下。我らが同胞は戦わずして散りました……」

 動転するヨハンの姿を見て、かえって落ち着けたのか、衛兵長の男はしっかりとした声で答えた。

「だが、すべてがやられたわけではあるまい。残存した兵はおらぬのか」

「はっ、宮廷警護のために残っていた隊と、帝都の警備に出ていた者たちが少数ながら残っております。しかし――」

「なんだ?」

「翼人は上空から弓で矢を射かけてくるだけであるため、こちらからは手の出しようがなく、窮地に追い込まれるのは時間の問題かと思われます」

 ううむ、とギュンターがうめき声を漏らした。

 敵は、想像以上に巧みだった。飛行艇を帝都へ落とすというとんでもない作戦によって打撃と混乱を与えるだけでなく、宮廷軍をも一瞬で葬り去ってみせた。

 しかも、それによって市民をさらに狂乱させ、門が閉じたままの時間を狙うことでそれをより長く継続させる。

 そのうえ、弓矢を使っているという。翼人は遠距離攻撃が可能な武器を用いることをひどく嫌うという話を聞いたことがあったが、それは間違いだったのか。上から攻められるばかりでは、地に立つ者にはどうすることもできない。

「では、我々も空から乗り込んでやればいい。飛行艇を使って、こちらも上から矢を放つのだ」

「恐れながら、それも不可能でございます」

 衛兵長は、ゼップルの意見を即座に否定した。

「なぜだ!?」

「西の湖に停泊していた飛行艇のすべてが飛翔石(ジェイド)を消失。現在、帝都周辺で動かせる艇はひとつもありません」

「なんだと……」

 諸侯は言葉を失った。

 自分たちは後手に回っているだけではなかった。もはや完全に追い詰められている。

 ――迷っている暇はない。

 皮肉にもこの瞬間、諸侯の意見は完全に一致した。

 しかし、具体的な策を練る余裕すらなく、別の衛兵から新たな報告がなされた。

「申し上げます――」

 その男の顔は顔面蒼白だった。

「襲撃者が上空から油らしきものを撒き散らしはじめましたっ! 帝都で火の手が上がっております!」

 あまりに敵の行動は狡知に長けている――諸侯は戦慄を覚えた。

 いよいよ、あとがなくなってきた。これ以上対応が遅れれば、翼人の集団によって帝都が壊滅しかねない。人間同士で争っている場合ではなかった。

「もう時間がない。はっきり言って、確かにカセル侯が疑わしいという気持ちはぬぐい去れぬ。しかし残された手段は、我々が突入することだけだ」

 そう言ったのはシュタッフスであった。いつもは黙っていることの多い彼ではあるが、さすがに傍観してはいられなくなっていた。

「そうだな。カセル侯が怪しいというなら、全員で同時に突入すればいい。すでに、時間も手段も残されてはいない」

「しかし、ゼップル殿。我々はすでに、あとがないところに立たされているのです。この状況下で翼人の側にさらに援軍が行ったとしたら、それこそ手の打ちようがなくなります」

「ノイシュタット侯よ、いい加減にしないか。議論をしている余裕がないことはわかっているだろう? もう動くしかないのだ。たとえ、どんな危険が待っていようとな」

 ――最悪の事態になってしまった。

 翼人の行動が予想以上に早いうえに、代替手段を提示したくともそれがない。

 もはや、流れは止めようがないところまで来てしまった。

「では、せめて先陣は(わたくし)か他の者に」

「それはできぬ相談だな、ノイシュタット侯」

 否定したのはヨハンだった。妙に落ち着いた顔をしている。

「なぜでしょう? 私にも翼人との戦いの経験がありますし、戦の場数を多く踏んでいるギュンター殿に任せるのでもいいと思いますが」

「駄目だ、特に貴公には任せられない」

「ヨハン殿?」

「よく考えてみよ。我々がここまで追い詰められることになったのは、そなたが余計なことを言ったからではないか! もっと早くにゴトフリート殿に任せていれば、状況は好転したかもしれなかったものを」

「しかし、それは――」

「今日の貴公の態度はどうもおかしい。これまで慕っていたゴトフリート殿を貶めたり、無茶な要求をして議論を混乱させたり……。怪しいというなら、そなたのほうがよほど怪しいわ」

 フェリクスはヨハンの言葉よりも、その態度に違和感を覚えていた。いつもならもっと取り乱すところなのに、何かが違う。

「どういうことです?」

「単純なことだ。こうして議論が延びたことで最も得をしたのが誰かを考えてみればいい。それは翼人どもだ。そして、奴らと結託している者にとっても同じだろうな」

「まさか……」

「そのまさかだよ、ノイシュタット侯。貴公はゴトフリート殿を疑っているようだが、翼人と結んでいる可能性はそなたにもあるではないか。余計な議論によって時間を稼ごうとしたのは、まぎれもなく貴公なのだからな!」

 ヨハンに矛先を突きつけられる。

 ――やられた!

 フェリクスはすべてを悟った。あのヨハンがこうも落ち着き払って、ひとりでここまでのことを考えられるはずがない。

 ならば、答えはひとつ。ゴトフリートが諸侯の側にも工作していたということだ。しかも、一番落としやすいヨハンを狙って。

 カセル侯は、本当に最大限の準備をしてきた。

 あえてアルスフェルトを捨て、あえて他領の飛行艇を襲わせた。

 その覚悟は尋常なものではなかった。

 おそらく、当のヨハンに自分が利用されているという意識はない。それほど巧みに、ゴトフリートの側は裏工作をやってのけたのだ。

 事ここに及んで、すべてが裏目に出てしまった。ゴトフリートを止めるためにしたことが、結果的に彼を助ける形になっている。

 しかも、もう他に手段はない。だが、このまま黙って見過ごすことができるはずもなかった。

「ですが、それも憶測にすぎないことでしょう。疑わしき要素はむしろ――」

「いや、違う。そなたに対しても看過できぬことがある」

「わたくしは、何もやましいことはしておりません!」

「ならば、なぜアーデルハイト殿を動かした!?」

「え……?」

 今回の選帝会議で初めて、フェリクスが狼狽する様子をみせた。

 ――なぜ、アーデの名前が出てくる? アーデを動かした? なんのことだ!?

「我が息子ヴェルンハルトが、選帝会議の期間中は貴公の城へ行くことになっていただろう?」

 フェリクスはうなずいた。

 確かに、先の夜会のおりに本人から直接頼まれ、快諾した。

「そのヴェルンハルトが昨晩私のところにやってきたのだよ。『城はもぬけの殻で、アーデルハイト殿下もろとも近衛兵の姿もなかった』とな」

 ――アーデ、ユーグ。

 フェリクスの二人への呼びかけは、声にならなかった。

「大方、反乱に失敗した場合に備えて妹だけを先に逃がしたのであろう。違うというなら、理由を説明してみよ!」

 今や、矢面に立たされているのはゴトフリートではなくフェリクスになっていた。諸侯の目は、確実に視線の方向を変えてしまった。

 しかも、フェリクスには反論のしようもない。

 アーデがどこかへ行く話などまったく聞いていない。否、行ってはならぬのだ。侯妹として、主が留守中の城を守らなければならないのだから。

 冷や汗が出てくるのを抑えられない。いけないとは知りつつも、あまりに突然だった事態の急変にこころが追いついていかなかった。

 だが、ヨハンに追及の手をゆるめる様子はない。最愛の息子ヴェルンハルトとアーデとの結婚話をはぐかしつづけてきたことのつけが、ここに来て一気に出てしまった。

「それに〝オリオーン〟の件もあるな。反乱の意志がないというなら、なぜ飛行艇に大弩弓(バリスタ)を搭載するなどという真似をした? 暴動の少ないノイシュタットには、なおさら必要のないことではないか」

「……飛行艇に武器を搭載したことは認めます。しかし、それもアルスフェルトの件を聞いて翼人への対策のためにやったこと。けっしてそれ以外の目的があったわけではありません」

 それは本当のことだった。だがこの状況下では、自分でも滑稽に思うほどその言葉が虚しく響いた。

 現状は最悪と言ってもよかった。ゴトフリートを止めるどころか、自分が窮地に追い込まれてしまっている。そして、その脱出口はまるで見えなかった。

 しかし、そこへあまりにもさりげなく救いの手が差し伸べられた。

「また議論が延びてしまったな。そもそもアイトルフ侯はもっともらしいことを言っているが、それもすべて憶測の域を出ないではないか」

「それはそうだが……」

 少し面食らったように、ヨハンが老将ギュンターのほうを見やる。ここまで来て反論されるとは思っていなかったのだ。

「それに、飛行艇の件は皆にしてみても同じなのではないのか? うん?」

 諸侯の表情があからさまに強ばった。

「先ほどゼップル殿は飛行艇で弓を使えと言ったな。みずから暴露しているではないか」

「そ、それは……」

 ゼップルが口ごもる。

 飛行艇には、通常の弓を載せることさえこれまでは忌避されてきた。話の流れの中で、自分でも気づかないうちに言ってはならないことを口にしてしまっていた。

「……だが、それもこれもノイシュタット侯の例の噂を聞いたからだ。自領を守るためには最大限のことをしなければならないからな」

「ふん、目には目をか。それは否定せんがな、どちらにせよやっていることは同じということだ。私を含めてな」

 皮肉げな笑みを浮かべるギュンターに、諸侯はあいまいな表情を返すことしかできない。

 しかし次の瞬間、老将は眼光を鋭くしてゴトフリートを睨みやった。

「今はそんなことよりも、すぐにでも打って出ることのほうが先決だ。だが、このままでは(らち)が明かない。そこで、先陣は私が負う。貴公とノイシュタット侯が入城するのは最後だ。それでいいな?」

「――構いませぬ。おのおの方が納得するには、それしか方法がないでしょう」

 ようやく、ゴトフリートが口を開いた。

 その瞬間、場内にほっとした空気が流れた。それぞれがずっと気にはなっていたのだ、意識がフェリクスに向いたあとでさえ。

「諸侯もそれでよいな?」

「どこまで翼人に対応ができるかわからぬが、今はやるしかあるまい」

「ゴトフリート殿にもフェリクス殿にも決定的な証拠はない。だが、潔白だと明確に示すこともできない。だったら、その対応が妥当といったところだろう」

 ゼップルとシュタッフスが同意した。ヨハンだけはひとり、不服そうな顔をしてはいるが、口に出しては何も言わなかった。

 今度こそ、いよいよ時間はなくなっていた。この位置にまで、帝都の異音が嫌というほどにはっきりと聞こえてくるようになっている。

 そして三度、宮殿の衛兵が駆け込んできた。

「申し上げます。各諸侯の騎士団から、どのように対応すべきかと指示を請う伝令が次々と訪れております」

「わかっておる。今から行くところだ。では、私が南大門を、ゼップル殿が東を、ローエ侯とヨハン殿は北、シュタッフス殿は西だ。ノイシュタット侯はそのシュタッフス殿、カセル侯は――私の後ろで待機していてもらおう」

 不思議と異論は出なかった。それぞれがうなずき、席から立ち上がっていく。たったひとりを除いて。

 ――このままでいいのか、フェリクス。

 こころの奥底から、みずからに呼びかける。

 ゴトフリートを後方に置くことは、相手に挟み撃ちの機会をみすみす与えてしまうだけではないか。

 ここでゴトフリートを止められなければ……あとはどちらかが滅ぶしかない。自分と彼とのかかわりは、そこで終わる。

「待たれよ、カセル侯」

 なかば無意識のうちに声を上げていた。しかし、なぜか自分では納得していた。

 外へ出ていこうとしていた諸侯が振り返る。その声の内に、尋常ならざるものを感じたからだ。

 しかしただひとり、ゴトフリートだけは背を向けたままだった。

 ――父上、私は己の信じる道を行きます。

 もはや、帝国のためだとか犠牲を減らすためだとかいう〝言い訳〟などいらない。

 もうひとりの父のために、決断した。

 後悔は、ない。

 自分でも驚くくらいに、不思議とこころは穏やかだった。

 ゆっくりと立ち上がり、腰に()いた剣の柄に手をかける。

「フェリクス、よせ!」

 危険な匂いを察知したライマルが急いで止めようとするが、遅い。

 フェリクスは剣を抜いた。それは、みずから選帝侯の地位を捨て去るに等しかった。

 宮廷での争いごとは最大の禁忌。いかなる理由があろうと、あとで厳罰は免れ得ない。

「カセル侯――いや、我が親愛なる小父上、覚悟!」

 フェリクスは、相手に対して一気に詰め寄っていった。

 剣ではかなわないかもしれないなどという弱気な思いは微塵もない。

 できる、できないが問題なのではない。

 ――ここでやるしかないのだ!

 父譲りの剣〝レムス〟の切っ先が相手の背中に達しようとした瞬間、ゴトフリートが視認できぬほどの速度で振り返り、鞘から抜ききっていない剣の刀身で見事にそれを受け止めてみせた。

 甲高い音が辺りに響きわたる。

 フェリクスはすかさず剣を切り返し、二の手、三の手を矢継ぎ早に放っていく。だが、そのことごとくをゴトフリートはほぼ完全に見切っていた。

 そして、わずかな隙を見つけて剣を鞘から抜き、相手に正対した。

 その間に、フェリクスも呼吸を整え、相手の目をまっすぐに見すえた。

 ――実力が違いすぎる? そんなことは初めからわかっている。

 ――右腕の傷が治っていない? それも百も承知だ。

 たとえ、どんなに苦しかろうと、どんなにつらかろうと戦いつづける。そうこころに誓った。

 ――何がなんでも勝つ。それ以外に目指すものなどない!

 雄叫びを上げ、剣を振り上げる。荒削りな剣筋だが、受け止めたゴトフリートは一歩後ずさった。

 攻撃を迷わず次々と繰り出していく。うまく戦おうなどとは考えない。自身の思いを剣にのせ、ただひたすらに打ち込んでいった。

 それでも、ゴトフリートは冷静だった。

 一撃一撃を的確に防ぎ、一度として相手の剣を体に触れさせない。

 しかし、その表情はどこか余裕がなく、追い詰められた者のような顔をしていた。

 何度も何度も、フェリクスの側が剣を振るいつづける。

 よくよく考えてみれば、ゴトフリートは一度として自分から攻撃を仕掛けていない。

 それは相手に圧倒されているからなのか、それともみずからの意志でそうしているからなのか――

 ただし二人の打ち合いは、そうしたことを考えさせぬほどに凄絶であった。

 ぶつかり合う覇気と鬼気。

 混ざり合う殺意と真意。

 互いが互いを感じ合い、思い合う。そうした不思議な感覚が、二人の間にはあった。

 だから、他の諸侯は何もすることができず、ただ呆然とその戦いを眺めていた。

 ヨハンがはっとしたのは、フェリクスの振るった剣が議場の壁に思いきり激突したあとのことだった。

「な、何をしている、衛兵! 早くノイシュタット侯を止めぬか!」

 それまで立ち尽くすことしかできなかった衛兵たちが、打たれたように動きだした。

 多くの兵が議場になだれ込み、戦いをやめようとしない二人を取り囲んでいく。

 しかしフェリクスもゴトフリートも、まるでそれが目に入っていないかのように剣を振るいつづけた。

 業を煮やした衛兵らはじりじりと距離を詰め、剣の切っ先が触れるほどのところまで近づく。

「なぜ邪魔をする!」

 フェリクスが、殺気さえはらんだ声を不躾(ぶしつけ)な輩どもにぶつけた。

 表情に変化のないゴトフリートも、その目にはどこか不服そうな色が映っていた。

 しかし二人の思いも虚しく、衛兵がフェリクスを取り押さえようとした。

 ――ここで終わるわけにはいかない。

 青年侯が敵意の対象を衛兵らに切り替えようとしたその刹那、議場に大きな変化が起きた。

 回廊のほうから、雄叫びが聞こえてくる。

 そこに剣を打ち鳴らす音がさまざまに交ざり、それは諸侯や衛兵を押しのけて白頭鷲の間になだれ込んできた。

「閣下! ご無事ですか!?」

「オトマル!? どうして……」

 乗り込んできた者たちの胸の鎧には、ノイシュタットの獅子の紋章が燦然と輝いていた。

「話はあとです! ともかく、ここから脱出しますぞ!」

 オトマルと近衛騎士たちが、あっという間に衛兵の囲みを打ち破り、ゴトフリートを牽制しながらフェリクスを切り離して自分たちの中心に置いた。

「オトマル、私は……」

「閣下には生き延びてもらわなければなりません。ノイシュタットのためだけでなく、この帝国のために」

 衛兵と剣を交わし合いながらも、オトマルの声は冷静だった。

 フェリクスは今になって、申し訳ない気持ちが強烈に込み上げてきた。

 自分がしでかした行為は、たとえこの帝国とゴトフリートのためを思ってやったこととはいえ、多くの犠牲をともなうことでもあった。

 今こうして自分を助けてくれようとしている部下たちを、もしかしたら路頭に迷わせてしまうことになるかもしれない。

 ――そして、アーデも。

 自分は人のことを考えているようでまるで考えていなかった。このオトマルたちの必死な姿を見れば見るほど、胸を締めつけられるようなその思いを強くする。

「閣下、まずはここから逃れることを考えましょう。私がしんがりを務めます。――他の者はフェリクス様につづけ!」

 一気に衛兵らを押し返し、退路を確保する。

 迷わずフェリクスは走り出した。ここで逡巡することが、結果的に部下たちを窮地に陥らせてしまうことがわかっているからだ。

「逃がすな!」

 という声を背後に聞きながら、ひたすらに走った。

 退路は開けている。思いのほか、この宮廷に残っている兵士の数は少ないようだった。

 ――早まったか、フェリクス……

 ノイシュタット陣営の背中を見つめながら、ギュンターは失望とも悲哀ともとれない複雑な思いを抱いていた。

 これでよほどのことがないかぎり、フェリクスの選帝侯としての地位は終わったと考えていい。

 ゴトフリートが以前から目をかけていたこともあって将来有望な若者ではあったが、血気にはやってしまったようだ。抑えるべきところを抑えられない男ではなかったはずだが。

 隣で息を切らすゴトフリートは、昔の戦士の顔に戻っていた。

 どんな背景、どんな理由があれ、二人は剣によって互いの思いを語り合っていたのかもしれない。

 その関係は、少しうらやましくもあった。自分とマクシミーリアーンでは、けっしてそうはならないことがわかっているだけに。

「しかし、本当にノイシュタット侯が反逆者だったとはな……」

「まだそうと決まったわけではないが、その可能性は高くなった」

 隣から、ヨハンとゼップルの声が聞こえてくる。

 もはや、フェリクスをかばう余地はなくなった。宮廷でみずから剣を抜いた者を今さら信じてくれるはずもない。

「フェリクス殿のことは気になるが、我々には時間がない。行こう」

 こちらの声にそれぞれがうなずき合い、そして議場を出ていく。

 しかし、そう言ったギュンターは最後まで残っていた。その前を、ひとりの男が行こうとする。

「ゴトフリートよ、フェリクスさえも切り捨てるのか」

「…………」

「これが、貴公にとっての正義なのか」

 その問いは、けっして相手を糾弾するものではなかった。だが、ゴトフリートには何も答えることができなかった――ひとつとして。

 しばし、沈黙の妖精が辺りを支配する。

 外の喧噪、そして内の叫びが低く長くこだましている。

 ゴトフリートがようやく口を開いたのは、諸侯の足音がだいぶ遠ざかってからのことだった。

「私は――」

 つぶやくように言う。その視線は、中空を漂っていた。

「私は、覇道を行きます。それ以外のことは考えておりませぬ――いや、考えられませぬ」

 ゴトフリートは、再び歩き出した。

 その行く手を遮るものは、もはや何もなかった。

 ギュンターは天を仰ぐ。

 宮殿が揺れていた。まるで、帝国の最後に涙するかのように。

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