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天気と自分のこころがここまで対照的なのも珍しい。
ベアトリーチェはまるで夢遊病者のごとく、帝都の街中をさまよい歩いていた。
昨日、神殿を出てから自分がどうしたのかよく憶えていない。
昼間は公園で過ごし、夜は酒場の二階にいた気もするが判然としなかった。
体の疲れは不思議とあまりないから、無意識のうちにきっとどこかで休んでいたのだろう。
――でも、こころが重い。ひどく重い。
まるで死神に抱かれたかのようにひたすらにつらく、苦しい。悲鳴を上げたいのだがその気力さえない。
それほどまでに、大神殿に、尊敬する大神官に裏切られたことの衝撃は大きかった。
向こうには、裏切ったつもりなどないのかもしれない。
悪意はないのかもしれない。
しかしあれでは、実質的に信者を見捨てたも同然であった。
実際に苦しんでいる、助けを求めている人たちがいる。それなのに手を差し伸べようとしないことを正当化できるどんな理由があるというのか。
大神殿側の身勝手ではないのか。
そうした事実よりも、自分自身、大神殿を信じることができなくなったということがあまりにも大きすぎた。
これまではレラーティア教を、すなわち大神殿のことを絶対的に信仰していたのに、自分が正しいと思っていたことを完全に否定された。
――自分の信仰すべてが否定された。
もう、みずからの拠りどころを完全に失ってしまった。これから何を頼りに生きていけばいいのだろう。
目は開いているのに何も見えない。
神の意志はまるで感じられなかった。
〝神の意志ってなんだ? 人間が勝手につくり出した幻想じゃないのか〟
ふと、ヴァイクの言葉が思い起こされる。
痛烈すぎる指摘。
あの頃の自分には、その率直な意見を素直に受け止められるほどの余裕はなかった。
――あれは、まだリゼロッテが生きている頃だったっけ。
まだまだお互いのことをよく知らなかった。今にして思えば、あの少女がバラバラな自分たちを繋いでくれていた。
リゼロッテのことを思うと、今でも涙が止まらない。いつの間にか頬は濡れ、小さく嗚咽の声をもらしてしまっていた。
――リゼロッテ、ごめんなさい。こんなに弱い私でごめんなさい……
あの子の分も、自分が生きると約束したのに。
それなのに今、自分はこうしてただ泣いてうなだれている。
なんて弱い存在なのだろう。
なんて身勝手な存在なのだろう。
結局、リゼロッテのためと言いつつ、自分は何もできていないではないか。
生前何もしてやれなかっただけでなく、死後もあの子の遺志を受け止めてあげることさえできない。
そんな自分があまりにも情けなく、そしてあまりにも厭わしかった。
そこへ追い打ちをかけるように、ヴァイクの言葉が再び響く。
〝俺にはわからないな、なんで人間が神を崇めるのか。確かにいるかどうかもわかない相手になぜ依存する? なぜ、その存在を信じられる? お前たち人間は不思議な生き物だよ。妙なことで互いに殺し合うかと思えば、妙なものを信じ込んだりして――〟
「やめてッ!」
あのときと同じように、その声を遮るしかない。この言葉に耐えられるほど、今の自分は強くなかった。
――どうして……どうして、こころの中のヴァイクまで厳しいことを言うのだろう。他の、もっと優しい言葉がもっともっとほしいのに。
思えば、ヴァイクはいつも厳しかった。
けっして妥協を許さず、みずからにも他者にも自立を求める。
おかしいところがあればかならず指摘し、うやむやのまま終わらせようとすることはまったくない。
自分にも厳しいが他人にも厳しい人だ。
――そう、じゃない。
ベアトリーチェはかぶりを振った。
元はといえば、ヴァイクは自分たちとは無関係だった。
それがアルスフェルトではこちらの命を救ってくれ、リゼロッテも助けてくれ、あまつさえこちらのわがままを聞いて帝都まで同行してくれた。
その後も何それとなくみんなを支え、時には身を挺して自分たちを守ってくれたこともあった。
――ヴァイクほど優しい人は、他にいない。
そうだ。
彼ほど他の誰かのために尽くしている人を自分は知らない。
みずからが傷ついても、相手に嫌われても、それでも彼は手を差し伸べることをためらわない。それと同じことをできる人が、いったいどれほどいるのだろうか。
そういった思いを強くするにつれて、徐々に冷静さも取り戻してきた。自分は何をしていたのかと、目が覚めた気分だった。
――ヴァイクたちは今どうしてるんだろう。心配させてしまったかしら。
そんなことを今さらながらに思う。
よくよく考えてみれば、もうジャンとはまるまる一日会っていない。ヴァイクにいたっては、帝都の南の丘で別れて以来だから二日も顔を合わせていないことになる。
――二日も……
その事実に驚かされた。
ヴァイクとアルスフェルトで出会って以来、ほとんどずっと一緒に過ごしてきた。
そのことだけでも改めて考えると驚きだが、その彼と今、現実に離れてしまっていることが何か不思議だった。
――いい加減、戻らないと。
という気持ちにようやくなった。とはいえ、どこへ行ったものか。
とりあえず、ジャンはどこにいるのだろう。まだ大神殿で待っていてくれるだろうか。
しかし、彼にもカセル侯へ陳情するという目的があったはずだった。
――まず大神殿へ行ってみるしかない。
足がすくみそうなほどに気が引けるが、これ以上わがままなことをするわけにもいかない。
よく気の利くジャンのことだ。もう大神殿にはいないとしても、何か言付けを残してくれているかもしれない。
そう決心すると、座り込んでいたベアトリーチェは立ち上がった。
いつの間にか、路地裏のほうまで来ていたらしい。
今は春の大祭で盛り上がって人通りがあるからまだよかったものの、時が時ならもしものことが起きてしまってもなんら不思議はなかった。
――ここ、どこ?
困ったことに、まるで自分の位置がわからない。
帝都の中心から見て、北にいるのか南にいるのかさえ判然としない。ふらふらと歩き回っているうちに、とんでもないところまで来てしまったようだった。
こういうときは、素直に人に聞こう。そう思って周りに目を向けたとき、不意に奇妙な感覚が全身をよぎった。
――なんだろう。
悪寒に近い、不気味な感触。
肌がちりちりするような熱さと、指先が震えるような冷たさを同時に感じるそれ。
しかし、これまでに経験のないこと、というわけではなかった。
そう、一度だけ、ちょうどあのアルスフェルトの空で無数の翼人を見たとき――
「いけない……」
まだ具体的にどうこうというわけではない。いくら周囲を見渡しても、特に何がおかしいというわけでもない。
だが、何かが起ころうとしている。何かが起きるのは間違いない。根拠はないが、それを確信できるからこそ、いても立ってもいられなくなった。
――でも、どうすればいいのだろう。私に何ができる。
考えても答えは出てこない。焦れば焦るほど、余計に混乱してきた。
その強烈な焦燥感で頭がどうにかなりそうになったとき、前方で数人の若者が驚いた様子で上のほうを指さしていた。
「何……?」
あわてて自分も空を見上げた。
そこにはいつものとおり、いくつもの飛行艇が漂っていた。
それは、常時と同じ光景のはず、だった。
「違う……」
だが、何かが違う。はやる心を無理やりにでも落ち着かせながら空を凝視し、あちらこちらを見回した。
そして、はたと気づいた。
空の一部に、小さいな黒い点の寄り集まっているところがある。そのそれぞれが別々に蠢き、やがて手近な飛行艇に向かっていった。
鳥? いや、そうじゃない。鳥にしては大きすぎるし、普通、どんな種類の鳥でもなぜか飛行艇には近づこうとしない。
つまり、あれは――
「翼人……」
ベアトリーチェがその答えに気づいた瞬間、当の飛行艇が傾きはじめた。
船尾を下にして徐々に徐々に速度を増して落ちていく。あまりにスケールが大きすぎるために、それが実際にはどれほどの速さなのか見当もつかない。
あの大きさのものがあの勢いで落ちたらどうなるのか、それがわかっていながらベアトリーチェも周りの者も、まったく目をそらすことができなかった。
今では、甲板の板の切れ目まで視認できる。それが次の瞬間、大音声とともに街の中へと吸い込まれていった。
同時に、天高くまで昇る土煙。
それだけでも衝撃の凄まじさを物語っているが、そのうえ地面を通して伝わってくる振動も常ならぬ激しさがあった。飛行艇が落下した地点からは遠く離れているというのに。
「な、なんてことを……」
近くで女性の叫び声が上がってから、ようやくその言葉だけをしぼり出すことができた。
翼人が、帝都に、飛行艇を、落とした。
それだけの事実だ。
しかし、それは常軌を逸した凶悪な行為でもあった。
あまりのことに、先ほどまでひどい焦燥感に駆られていたことさえも忘れて呆然としてしまうが、周りはそうではなかった。
方々から悲鳴や怒号が上がり、今までどこに隠れていたのかと思うほど多くの人々が通りに飛び出してきた。
ベアトリーチェもそれにのみ込まれ、自分が動きたくもないのに人の流れに翻弄されてしまう。
とりあえずそこから脱することができたのは、大通りに出てからだった。狂乱した人々の流れはまだ激しいが、道幅がある分、わずかに余裕がある。
とんでもないことに巻き込まれたおかげで、かえって我に返ることができた。くず折れそうになるこころを叱咤し、強引に首を横に振ってさらに頭を透明にさせる。
――とにかく確認しよう。自分は今、帝都にいる。でも、くわしい位置はわからない。
――その上空で飛行艇が翼人に襲われて街中に落ちた。
――そのせいで、帝都は恐慌状態にある。
――自分はそれに翻弄されたが、今こうして無事にいる。
――あのときと同じだ……あのときと……
アルスフェルトが翼人に襲撃されたあの日、あのときとまったく同じだった。
あまりに突然のことに人々はあわてふためくことしかできず、相手のいいようにされてしまっている。そして、自分はそれに気づきながら何もできない。
――嫌だ。そんなのは、もう嫌だ。
自分が悲しいくらいに無力なのはよくわかっている。あのときだってヴァイクが助けてくれたから、今こうして自分はまだ生きていられるだけだ。
しかし、ほんのわずかでも自分にできることがあるのなら、たとえほとんど効果がないにしてもやれるだけのことはやっておきたい。
その積み重ねがいつか誰かを救うかもしれないと信じて。
そのことは、リゼロッテが教えてくれた大切なことだった。
今こそ、あの子の遺志をきちんと受け継ぐべきときだ。だから、今度こそどんなことにも負けない!
ベアトリーチェは、首を振ってもう一度状況を確認しようとした。
いつの間にか翼人の数は、空の一部を黒く覆うまでに増えている。そのいくつかの集団が先のように他の飛行艇に取りつき、また幾艘もの艇を落下させていく。
程なくして、再び地獄のような音と煙と振動とが起こった。
だが、ベアトリーチェはけっして目を背けなかった。すぐさま視線を地上に移し、人々の動きや周りの様子をうかがった。
――こういうとき、ヴァイクだったら――
そればかりを考える。彼は不測の事態に陥ったとき、よく上空まで飛び上がってまずは全体の様子を確認していた。
しかし、翼のない自分にそんなことができるはずもない。いきなり、こころがくじけそうになった。
だが次の瞬間、ふと思いついた。
――そうだ、同じことはできないけど、似たようなことならできる。
ベアトリーチェはすぐさま、周囲に高い場所がないか探した。
すると、左前方に見張り用のものなのか、それなりの高さのある塔があった。幸い、扉が開けっ放しになっている。
ベアトリーチェは逃げ惑う人々に構わず、一目散にそちらへ向かった。
正直、大通りに余裕があるとはいえ、人の流れに逆らうのは困難を極める。人々は真正面を向いていても、そちらの方向にあるものに頭から突っ込んでいく。
目に見えていても見えていないのだ。そうした狂乱に触れていると、こちらまでおかしくなりそうだった。
――着いた。
どうにかして塔の前まで来ることはできた。そのときになって、ようやく気がついた。
「これは……」
塔ではなく、小規模な神殿だ。塔を除く部分が小さいからわからなかったが、正面に掲げられた紋章は、まぎれもなくレラーティア教のそれであった。
大神殿に絶望した人間が神殿に救われるとはなんという因果だろう。しかし、妙な感傷に浸っている暇はない。今は、一刻を争うときだった。
迷わずその中へと入っていく。
神殿の構造は多少の違いこそあれ、基本的にはどれもほとんど同じだ。
どこがどうなっていて、どの位置に何があるのか、おおよそのところは神官なら誰でもわかる。すぐさま塔への階段を見つけ、そこを駆け上がっていった。
――そういえば、アルスフェルトの神殿にも五つの塔があったな――
そんなことをふと思い出す。その五つの塔は、帝国出身といわれる五人の聖者を示している。アルスフェルト神殿の塔は他の地域でも有名なもので、あの一帯の重要なシンボルでもあった。
その塔も、今や神殿ごと失われた。アルスフェルト一帯を司り、同じく高名だったアリーセもともに――
我知らず、目頭が熱くなってきた。
今は、過去を振り返っているときではない。その前にやらなければならないことがいくらでもある。
塔は、思いのほか高さがあった。息が切れ、足に痛みを感じはじめた頃になってようやく最上階にたどり着いた。
――ここならよく見える。
幸いなことに、周りの建物が低いおかげもあって、かなり遠くまで見渡せる。
地震のような揺れの数でわかってはいたが、やはりいくつもの飛行艇がすでに帝都に落下していた。
ついにその際の土煙がここまで漂ってきたが、そんなことよりもあちらこちらで火災が起きてしまっていることのほうがよほど大きな問題だった。
どんどんアルスフェルトと同じようになっていく。
とはいえ、それよりも気になったのは翼人たちの行動だった。
飛行艇を落とし終わった彼らは、地上まで降りてきた。しかし、そこからがアルスフェルトのときと決定的に異なっていた。
彼らはなぜか一般の市民を襲わず、町の警備に出ていた衛兵や宮廷兵ばかりを集中的に狙っている。
多勢に無勢、こんな集団による襲撃を予想していなかった衛兵たちは、分散してしまっていたことが災いして見る間に倒されていく。
翼人らは建物を狙う際にも、どうやら特定の建物だけに限定しているらしい。
その建物が何に使われているところなのかはよくわからないが、ともかく無闇やたらに襲っているわけではないようだった。
それらの理由は想像することさえできないが、塔に上ったことではっきりとわかったこともあった。
高台にあるあの無骨な宮殿の建物が、左手に見える。
そして正面には、だいぶ遠いが大神殿の特徴的な美しい屋根が視認できた。
宮殿は帝都の北に、そして大神殿は中央広場から見てやや南東の位置にある。ということは、どうやら自分は帝都の北西の位置まで来ていたらしい。
――どうしよう。
と、息を整えながら冷静に考える。
自分は帝都の北西にいる。
大神殿までは遠い。
しかし、そこではジャンが待っていてくれるかもしれないし、彼の居どころの手がかりがあるかもしれない。
だが、距離がありすぎた。この混乱の中、あそこまでたったひとりでたどり着く自信がなかった。
――じゃあ、宮殿は。
カセル侯に謁見するために、もしかしたらジャンが来ているかもしれない。あそこには宮廷軍が控えているから、おそらく帝都の中で最も安全な場所だ。
――でも、ここは西大門に比較的近い位置らしい。
だったら、外へいったん逃げたほうがいいのではないか。
アルスフェルトの際とは違って、翼人にこちらを襲う気配はない。ならば、帝都に留まるよりも外へ出ていったほうが安全なはずだ。
――いけない。
ベアトリーチェは、自分の両の頬を両手で叩いた。
気がつかないうちに、自身が逃げることばかりを考えている。たとえ微力でも自分のやれることをやる、そう誓ったばかりではなかったか。
己のばかさ加減に呆れつつも、ベアトリーチェはけっして冷静さを失わなかった。
〝アルスフェルト前〟だったら、とっくの昔にこころが折れてしまっていただろう。自分では気がつかなかったが、これでも少しは成長しているのかもしれなかった。
「――何!?」
とそのとき、不意に子供の泣き声が聞こえてきた。この大騒擾の中でも、不思議とその声はよく通る。
急いで周りの様子を探ると、この神殿の右前方で子供が座り込んで泣いていた。
今のところ道路脇にいるから事なきを得ているが、このままでは混乱する群衆にのみ込まれてしまいかねない。
ベアトリーチェは急いで塔を下りた。
これから自分が本当になすべきことは、まだわからない。しかし、当面はあの子を救うことが先決だということだけは、はっきりと認識していた。
階段を駆け下りた勢いのまま、ベアトリーチェは外へ飛び出した。
その際、数人にぶつかってしまったが、そんなことに構っていられるか。脇目も振らず、あの子のところへまっすぐ向かった。
「…………」
だが、地上の混乱は想像を超えていた。
アルスフェルトのときは、人々が門の外へという共通認識を持っていたからひとつの流れができていたが、今はそれぞれがてんでばらばらに動き回っているだけだ。
互いが互いの動きを邪魔してしまい、結果として誰もがほとんど移動することができない。
さらに斜め前方では、何を思ったか衛兵が周りにいる市民をその剣で倒そうとしている。たとえ訓練を受けた兵士たちでも、この状況は耐えがたいのだろうか。見るからに、平常心を失っている。
――でも、どうしてみんなあの子を助けようとしないの?
子供があれだけ泣き叫んでいるというのに、誰ひとり目を向けることさえしない。
自分のことで精一杯ということなのか、これが人間の本性なのかと思うと、どうしても目を背けたくなった。
そんな複雑な思いを抱えながら、ベアトリーチェはどうにかして子供のところへ向かおうとした。
しかし、そこまで後少しというところでとんでもない光景を目にすることになった。
前方から大波がやってくる。
波は波でも、逃げ惑う人々が寄り集まった狂乱の波。
それは怒濤のごとく、道の幅いっぱいまで広がってこちらへ向かってくる。
つまり、
――急がないと!
声を上げるのももどかしく、人をかき分けるようにして子供の元へ走る。
しかし、悲しいくらいに遅々として進まない。間に合うかどうかはぎりぎりのところだった。
前から来る波は圧倒的だ。
足がすくみそうになる。
それでもベアトリーチェはなんとか群衆から抜け出し、覆いかぶさるようにして子供を抱きしめた。
と同時に、完全に波にのみ込まれる。
自分自身も訳がわからないまま、押され、蹴飛ばされ、膝をぶつけられ、圧倒的すぎる流れにどうしようもなく翻弄されていった。
その間の時間は、異様に長いように感じられた。
波に弄ばれながら、まだか、まだか、とその終わりを待つが、一向に流れは途切れない。腕の間にいる子供の感触だけが、自分がまだ生きていることを教えてくれた。
あまりの痛みに、感覚が徐々に鈍ってくる。意識も朦朧とし、もう限界だとなぜか冷静に思いはじめた頃、ふっと体が軽くなった。
――え?
訝しみながらゆっくりと目を開くと、青空が見えた。
人の波は消えていた。
先ほどまでの混乱が嘘のように、周囲から人々の姿がなくなっている。だが、よく見るとあちらこちらに倒れている市民の姿があった。
――そうだ、間違いなくさっき、人の波は過ぎ去っていった。
その当たり前のことをようやく認識したとき、頭から熱が抜けた。
先ほどのことを切り抜けたからといって、安心できるわけではまったくない。これで終わりどころか、翼人の襲撃による混乱は、これからさらにひどくなっていくはずだ。
できるだけ早く逃げなければならない。そう思い、立ち上がろうとしたときになってようやく気がついた。
腕の中の子供に、反応がない。
「大丈夫!?」
あわててその子の顔を見ると、どうやら気を失っているようだった。落ち着いて確認すれば、息も脈もしっかりとしているのがわかった。
しかしここにいては、これからどうなってしまうのか知れたものではない。安全なところへ逃がしてあげなければならなかった。
現実にどうするかが大きな問題だ。
――いったん西大門から外へ出たほうがいいのか。
――それとも、帝都の中でおそらく最も安全であろう宮殿へ行くべきか。
しかし、翼人が一般市民を狙っておらず、上空にはもはや飛行艇はないのだから、その辺の家屋に隠れていたほうがよほど安全なのかもしれない。
どれを選択すべきか、正直決めかねた。
手近な建物に隠れるというのが一番堅実かつ簡単に思われるが、翼人ではなく暴徒と化した市民が襲ってこないとも限らない。
今は上空に飛行艇はないとはいえ、帝都の混乱を知らない地方の飛行艇があとからやってきて、それがまた翼人に落とされる可能性だってある。
――楽観は駄目。最悪のことも想定しておかないと。
ベアトリーチェは、宮殿へ向かうことを選択した。
ここから比較的近く、宮廷兵がいるだろうから子供を安心して任せられる。たとえ帝都の外に出たとしても、この子を預けられる人がいなければかえって危険だ。
――リゼロッテ、この子を守ってあげて。
懐から、かつてあの少女に渡したスカーフを取り出し、子供の怪我をしている肘のところを軽く縛った。
残念ながら、自分がずっとそばにいてあげるわけにはいかなかった。自分にはやるべきことがある。
かといって、アルスフェルトのときのように子供をひとりにしてしまうと、あとで何が起こるかわかったものではない。
あのときの子、ディーターは、その後ヴァイクが助けなければ大変なことになっていたと聞く。
自分は判断を誤ったのだ。
宮殿へ向かうという選択は、たぶん間違っていないはずだった。もしかしたらそこにジャンがいる可能性だってある。
こうしようと決めたからには、ベアトリーチェの行動は早かった。気絶した子供を抱きかかえ、すぐさま立ち上がろうとする。
「!」
が、すぐにまた膝をついてしまった。
それまではあまり感じなかったものの、動こうとしたとたんに全身のあちらこちらが強烈な悲鳴を上げた。
背中、足はもちろん、肩や首筋のあたりまで激痛が走る。自分が思っていたよりも遥かに、先ほど人の波に翻弄された影響は大なるものがあった。
だが、痛いとかつらいとか泣き言を言っている場合ではもちろんない。
――やるしかない。
やらなければ、自分もこの子も駄目になってしまう。
――だったら、体の痛みなんて関係ない!
ベアトリーチェは自分に『大丈夫、動ける』と言い聞かせながら、ゆっくりと立ち上がった。
怪我の痛みだけでなく、頭にも鈍痛がある。そのせいで立っているだけでも体が揺れてしまうが、歯を食いしばって一歩を踏み出した。
――がんばる。私は逃げない。
その目には、強い意志の輝きが宿っていた。
上空では、翼人たちが必死の形相で舞っている。その中に、白い翼の者がいくつか交ざっていた。