第九章 始まりの終わり
誰にとっても重要なこの日は、笑ってしまうほどの快晴であった。西の空にわずかに雲が見えるが、青い部分がほぼまんべんなく天蓋を覆っている。
辺りは、喧噪に包まれていた。気分の高揚を抑えきれない同志たちが激しい言葉を交わし合い、血気にはやった若い連中が肩ならしとばかりに剣を打ち鳴らしている。
マクシムはそんな仲間の姿を半分頼もしげに、半分不安げに、そしてわずかな罪悪感を覚えながら眺めていた。
「マクシム」
「……クラウスか」
振り返ると、そこには信頼すべき副官がいた。
クラウスは落ち着いた表情をしながらも、目には切れるような鋭さを湛えている。
「いよいよだな」
「ああ、ここまで長かった気もするが、順調すぎるくらいに順調だった。俺たちがやろうとしていることから考えれば、短いくらいなんだろうな」
故郷の部族を離れてからいろいろなことがあった。
ある人間との出会い、別れ。
そして、最も頼りにしていた仲間の裏切り――
今にして思えば、どこでくじけていても不思議はなかったように思う。そうでありながら、地べたに這いつくばってでも前へ進んできたことについては、自分を褒めてもいいのだろうか。
「だが、今からがすべてだぞ、マクシム。これからのことを失敗したら、今までやってきたことはすべて無意味になる」
「わかっている。言われるまでもない」
確かに、これまでのことはどんなに大変だったとしても目的を達成するための準備でしかなかった。ここでつまづいたら、本番に何も手を付けられずに終わってしまうことに等しい。
大事なのは、まさに今だ。最大限準備はしてきたつもりだが、仮にそれに問題があったとしても、目的さえ達成できるならばそれで万々歳だった。
元より、その後のことなど考えてはいない。自分のことが、その未来がかわいくては、危地にあえて飛び込むことができるはずもない。
「クラウス、もしものときは――」
「言うな、マクシム」
長の言葉を鋭く遮る。
その先を聞きたくはなかった。
「お前が言いたいことはわかっている。だが、今は〝もしも〟のことなんかを考えているときではない。とにかく成功させる、それだけだ」
「そうだな、そのとおりだ」
自分でも気がつかないうちに弱気になっていたのだろうか。長がそんなことでどうする、と己のこころを叱咤した。
ちょうどそのとき、一陣の風が一同を吹き過ぎていった。
「西からの風か――そろそろかもしれんな」
もう一度空を見上げると、いつの間にかはぐれ雲が浮かんでいた。ゆっくりとだが、こちらの方角に向かってきているのがわかる。
「よし、そろそろ始めよう」
「その前に、みんなに一声かけてやってくれ」
「ああ」
クラウスに言われ、昨晩使った篝火の土台に上った。
「――聞け、皆の者!」
マクシムの一喝に、それまで騒いでいた者たちがいっせいに静まり返った。
これから何が起こるのかわかっている彼らは、真剣な面持ちで長に視線を向けた。
当のマクシムはそんな彼らをゆっくりと眺め渡してから、再び口を開いた。
「ようやく我等の悲願を成就すべきときが来た。これまで多くの困難と多くの犠牲があったが、そのすべてが報われるときが来た」
マクシムの言葉はつづく。誰ひとりとして微動だにしない。
「だが、覚悟を決めておけ! 我等のゆく道は、死の花に彩られている。生きて帰ろうと思うな、死んで願いを成就させてみせろ!」
「元より、一度死んだ身。今さら恐れるものなどあろうか!」
「ここまで来て引き返そうなどとは思わない。前進するだけだ!」
あちらこちらから、長に答える威勢のいい声がわっと上がった。
誰も弱気の風など吹かせはしない。今ここにあるのは、強く深い決意だけであった。
マクシムは、そんな仲間たちの様子を頼もしげに眺めた。
――これならば、やれる。
計画の実行に一抹の不安があったが、これで確信を持つことができた。
我々はやれる。否、やらなければならない。
喚声が一気にわき上がり、剣が次々と高く掲げられる。興奮は最高潮に達し、気合いの波が中心から外へと広がっていった。
「先に話し合ったとおりだ。先発隊は帝都へ迎え! お前たちが先陣を切り開くんだ!」
ちょうど中心近くにいた者たちが大きな雄叫びをいっせいに上げ、東の空へ向かって飛び立っていく。それにつづいて、また別の一隊が動き出した。
いよいよ始まった。もう後に引くことはできない。
それぞれの思いと、それぞれの未来をのせて、時は動きはじめた。
自分の出番はもう少しあとだ。仲間だけを危険な目に遭わせるつもりなど毛頭ない。本来ならば、自分が先頭に立って剣を振るいたいくらいであった。
「……クラウス?」
ふと気がつくと、副官の姿が消えていた。
まあ、いいだろう。自分たちが行動を開始するまで、まだ時間がある。そのときまでは、それぞれがそれぞれの方法で集中力を高めればいい。
戦地へ赴く部下の姿を目で追っていると、逆にこちらへ近づいてくる翼人の姿があった。
「ナーゲルか」
自分と同じ白い翼の男、ナーゲル。クウィン族が消滅したあとたまたま再会し、そして今、同じ目標に向かって共闘している。
《、、》確か、昔は|あいつと仲がよかったはずだ。なぜか二人が悪ふざけしているときの記憶が今、まざまざと蘇ってきた。
「マクシム」
「どうした? 何かあったのか?」
ナーゲルが複雑な表情をしている。あまりいい知らせではないのかもしれない。
「何かあったというわけではないんだけど……あんたに会いたいって人が来ている」
「俺に会いたいだと?」
マクシムは訝しんだ。
今回の計画はほんの一部の者しか知らない。部外者で自分が今ここにいることを知っている人物は、ほとんどいないはずだった。
それにもかかわらず、誰かがわざわざここへ会いに来たとはどういうことだろうか。疑問に思うと同時に、警戒心もわき起こってきた。
「おい、ナーゲル――」
「あの南の森に小さな泉があるだろ? そこへ行ってみてくれないか」
「何?」
ほとほと困り果てた様子で、ナーゲルが懇願するようにして言った。
マクシムは別の意味で疑念が増したが、相手にくわしいことを話すつもりはないようだった。
「俺からはこれ以上、何も言えない……。とにかく伝えたからな!」
「おい」
そう吐き捨てると、ナーゲルは逃げるようにして去っていった。否、確実に逃げている。いったい、どうしたというのか。
釈然としないものを感じつつも、マクシムは飛び立った。ナーゲルが伝えに来たということは、たいした危険はないのだろう。その辺の判断ができないほど彼は愚かではない。
――とにかく行ってみるか。
南の森はすぐだ。そこは森というより林といったほうがいいほど小さなものなのだが、その中にある泉に自分たちは助けられていた。
どこで生きていくにも、まずは飲み水の確保が最優先課題になる。水がないと生きていけないのはもちろん、きれいな水がなくてはどんな病気にかかるとも知れない。
その点、ここの泉の存在は本当にありがたかった。水量が多いわけではないが絶えず新鮮な水がとうとうと流れ出し、自分たちが飲み水に困ることだけはなかった。中には、ここの水を飲みはじめてから前よりも体調がよくなった者さえいた。
その恵みの泉のほとりにすっと降り立つ。
ざっと見て人の姿はない。しかし、その〝気配〟はあった。
「誰だ? 出てこい」
奥のほうに向かって声をかけると、少し間があってから木の陰から足音が響いた。
そこから現れたのは、燃え立つような紅い色の翼をもつ見知った顔の女だった。
「アーシェラか。なんで貴様がここにいる?」
「ご挨拶だな。はっぱをかけにきてやったのに」
「冗談はよせ。お前がそんな玉じゃないことは、俺が一番よくわかっている」
――〝極光〟の中で、この女がもっとも得体が知れない。
比較的初期からいるものの、任務を任せようとしても拒否することが多く、そうかと思えば捕らえた人間のお守りなどという誰もが嫌がるようなことを進んで引き受けた。
普段、無口で無表情、さらには無愛想なこともあって、ただでさえ変わり者といった印象が強かった。
「お前がナーゲルを使ったんだな」
「〝使った〟とは人聞きが悪い。頼んだだけだ」
「まあ、いい。それで、なんで俺をここへ呼んだ?」
アーシェラはその問いに直接答えることはせず、斜め後ろの木のほうを見やった。
しばらくして、そこからひとりの人物が現れた。
「……ネリー、だったか」
アルスフェルトで捕らえた人間の女。
アジトの一室にいるはずが、なぜこんなところへ来ているのか。
――正直、今は会いたくなかった。
なぜかそう思っていた。
当のネリーは、ややうつむいたまま所在なげに両手の指を絡ませている。
「ほら、言いたいことがあるんだろう?」
「う、うん」
アーシェラが背中を押してやると、ようやく意を決してマクシムのほうを向いた。
「これを……」
「なんだ?」
ネリーはおずおずと前へ進み出ると、彼の右腕に一枚のスカーフを巻いた。
「特に意味はありません。けど、できればこれを持っていってほしくて」
「――わかった」
意外にも、マクシムは素直にそれを受け入れた。
だが、ネリーのほうはまだ用が済んだというわけではないらしく、どこかためらいがちに再び口を開いた。
「あの……例の作戦を今日行うのですか?」
「なぜそれを知っている?」
マクシムは、キッとアーシェラのほうへ厳しい目を向けた。それは、明らかに疑いの視線であった。
だが反対に、彼女は呆れ果てた顔であからさまにため息をついた。
「ばかか、お前は。いつもいつも、あれだけ大声で話していたら嫌でも耳に入ってくる。自分の胸に手を当てて考えてみるんだな」
あっと思った。
アジトには仲間以外おらず、かの地は人が寄りつくようなところではないのをいいことに、男どもはこれまで好き勝手に大音声で話し込んでいた。あそこの近くにさえいれば、誰にだって聞こえただろう。
マクシムは珍しく、ぐっと詰まった。言われてみれば、確かにネリーという部外者の存在を忘れていた。これではばか呼ばわりされても文句は言えなかった。
それに、アーシェラの歯に衣着せぬその物言いはけっして嫌いではなかった。
「……で? それがどうした」
「本当にやるつもりなのですか?」
「当たり前だ。ここまで来て引き下がれるか。これからのために絶対に必要なことなのだ。自分のためだけにやっているわけではない」
自信を持ってそう答えた――つもりだった。
しかし、ネリーのまっすぐな瞳に見つめられると、なぜか自分でもそれが言い訳がましく聞こえてしまう。
何も悪いことなどない、何も間違ってはいないはずだった。
「でも、犠牲が大きすぎます。それも承知の上ですか」
「大きな変革に犠牲はつきものだ。それに、みんな覚悟の上でやっている」
「では、それ以外の人たちはどうなるんです? 周りを巻き込んでも構わないとおっしゃるんですか」
「ネリーといったな、これから言うことをよく憶えておけ」
怒気さえはらんだ目でネリーを見つめた。
「我々が行動を起こすことになった原因に関しては、誰も責任なしとは言えない。それぞれがそれぞれなりに関係していることだ」
いつまでもなくならない差別、いつまでもつづく争い、そしていつまでも消えない混乱――
大半の人々がそのことに無関心すぎる。
翼人は翼人の世界、人間は人間の世界を考えるだけ。
それどころか、同族のことにさえ無頓着な者も多い。
結局、人は、人間も翼人も、自分自身とその比較的身近な存在のことしか意識しないということだ。隣の村が苦しんでいても見捨てる。隣家が問題を抱えていても、噂の種にするだけ。
他者のことを思い、他者の苦悩を受け止め、そして他者のことを真に愛する者はあまりに少ない。
ましてや、世界全体のことを考えようとする者など皆無に等しかった。
その結果が現在だ。
あちらこちらで人々が苦しみ、争い、互いに滅ぼし合っていく。それでも、人は人のことを考えない。
自分自身が苦しく、自分のことで精一杯だから仕方がない、と。
この『仕方がない』とは、なんと便利な言葉だろう。
しかし、なんと危険な言葉でもあるのだろう。仕方がないと言えば、すべてが仕方がないで片付けられてしまう。
仕方がない、仕方がないと妥協し、逃げていった先には絶望しか存在しないというのに。
だから少なくとも自分は、その言葉に逃げたくない。仕方がないと言う前に、やれるかぎりのことはやっておきたかった。
「もしかしたら、俺たちがやろうとしていることは完全に間違っているのかもしれない。だが、何もせずに穴ぐらに逃げ込むような真似だけはしたくないんだ。やれそうなことがまだあるなら、俺はあきらめる前に絶対にそれをやっておきたい」
「あなたの気持ちはわかります。ですが、大きな犠牲をともなうようなことをしたら、その行為自体が無責任を超える悪になるのではないですか? よりよって、帝都で行うなんて……」
「黙れッ! それは、お前が人間だからそう思うのだろう! お前自身も同族のことしか考えていないのだ!」
「違います! 私は翼人のことも、〝極光〟の皆さんのことも思って言っているんです。あなたはご存じないかもしれませんが、私があのアジトにいる間、皆さんよくしてくださったんです。今となっては、人間の知人たちよりみんなのほうが大切……そう思うくらいなんです」
「なんだと……」
訝るマクシムに、アーシェラが言葉を加えて伝えた。
「本当だ。あんたがいる間はみんな憚って何もしないでいたが、そうじゃないときはいろいろしてやっていたんだ。人間の口に合う食べ物を取ってきたり、花を持ってきてやったりな。私がネリーにしてやったことのほうが少ないくらいだ」
マクシムの知らない間に、ネリーは皆から愛される存在になっていた。事あるごとに部屋に顔を出す者さえいる。
先ほども何人かがこちらに気づいて声をかけ、それだけでうれしそうに去っていった。
「…………」
マクシムは言葉をなくしていた。
アルスフェルトで気を失っていた女を気まぐれで連れてきただけだったのだが、まさかこんなことになるとは想像だにしなかった。
翼人だけの集団に、人間の、それも女が受け入れられることは普通では考えられない。
ただ、変だとは思っていた。
まったく無関係の人間の女をアジトに連れ込んだのだから、本来なら方々から反発を受けても文句は言えないことであった。
それなのに、実際には反発どころかちょっとした愚痴を言う者さえいない。そうこうしているうちに、ネリーがあそこにいるのが当たり前になっていた。
どうして、こうなったのだろう――考えても答えは出てこない。だが今は、そのことにたいした重要性はなかった。それよりも、このネリーをいかに納得させるかだ。
それができなければ、これから自分たちがやろうとしていることに自信を持てなくなってしまう。そんな重い予感があった。
「ともかく、帝都でやるしかない、いや、帝都でしかできないことだ。大改革を実行するには、この機会をおいて他にない」
「――やっぱり、納得できません」
「なぜだ!?」
「もっと大局を見てください! 今回のことが成功したとしても、そのあとはどうなるんです!? 帝都をめちゃくちゃにされた人間の側がそのまま黙っているはずがありません。翼人の世界にだってどんな影響があるか……」
「だが、この世界がこのままでいいはずがない。俺たちの話を聞いていたのなら、それがわかったはずだ」
「わかります、わかっています。でも、あなたたちはいつも理想論を語っているだけじゃないですか」
行動を起こしたあとの結果についての予測は、自分たちにとって都合のいいことばかり。うまくいかなかった場合や最悪の事態に陥った場合をまるで想定していない。
否、むしろそれから意図的に目を背けようとしているような感さえあった。
このままでは計画を失敗した際はもちろん、たとえ成功したとしてもとんでもない害悪を生み出してしまう可能性がある。
そのとき被害を受けるのが自分たちだけならまだいい。自業自得だからだ。
しかし、その悪影響が無関係な人々にまで及んだとしたら、行動を起こした者たちこそが最大の悪ということになってしまう。
よくしてくれた〝仲間〟たちが咎人となるのは、あまりに忍びなかった。みんなのことを思うがゆえに、できることなら今回のこの無謀な行動を止めたかった。
しかし、マクシムはかぶりを振った。
「お前がなんと言おうと、もう遅い。すべてはすでに始まった。誰にも止められはしない」
「また〝翼人狩り〟が起きてしまってもいいのですか!」
ネリーが窮して発した言葉に、マクシムだけでなくアーシェラも反応した。
それは翼人と、人間の一部の者のみが知る苦い記憶であった。
かつてカセル侯領で、都のヴェストヴェルゲンが翼人に襲撃されるという事件が起きた。その際、領主の館が最初に襲われ、カセル侯は愛すべき妻と実子を失っている。
初めのうちは、その犯人が誰なのかはわからなかった。今でも他領ではそういうことになっている、謎の賊にやられたのだと。
しかし後に、翼人やロシー族が比較的小規模な集落だけでなく、大都市ヴェストヴェルゲンまで襲いはじめた。
それに怒り狂った人々は自主的に自警団を組織し、翼人に対抗するようになった。それによって騎士団の力を借りることなく襲撃者を撃退することができたが、それからがいけなかった。
家族を殺され、家財を失った者も多かったせいか、人々の怒りは収まらない。やがてそうした鬱屈した思いが爆発し、その矛先を周辺地域の翼人に向けた。
それからは、暴走した馬車のようなものだった。
手当たりしだいに翼人の部族を襲い、女子供も関係なくその手にかけていく。
ひとつの部族を皆殺しにしたら、また別の部族へ。さらにそこを全滅させたら、より遠くの部族へ。
そんなことが幾度となくくり返され、翼人の世界でもこの狂騒が知られるようになった。
特に、ヴェストヴェルゲンに比較的近いところに住む部族の抱いた恐怖は大変なものだった。できるかぎりそこから離れようと部族ぐるみで移住するようになる。
その結果として、移住先の地域に元々いた部族との軋轢が生じ、翼人同士での諍いも頻発するようになった。
最終的に、暴徒と化しつつあったヴェストヴェルゲンの民をカセル侯軍が抑え、翼人の側でも部族ごとの住み分けができるようになって、事態は鎮静化していった。
しかし、その苦い記憶は翼人と人間の双方に深く刻まれ、今でもまったく消えることがない。
しかし、アーシェラは別の意味で目をむいていた。
「驚いた、お前がそのことを知ってるなんて」
この〝翼人狩り〟の事実は翼人の世界では有名な話だが、帝国人の間ではあまり知られていない。
暴動についての情報が他の地域へもれることを恐れたカセル侯が、厳重な箝口令を敷いたためだ。カセルのためだけでなく、帝国全体に不安や騒乱の火の粉が広がることを防ぐ目的もあったのだろう。
だが、そうした裏の事情を知らない翼人は多い。
自分でさえ、つい最近マクシムから聞いて真相を知ったほどだった。〝翼人狩り〟を行うことは人間にとってはたいしたことではなかったのだと、敵意をますます燃やしている翼人は多かった。
「どうやって知ったんだ?」
「私は、ヴェストヴェルゲンにいたことがあるんです」
「そうか……」
ネリーが顔を歪めている。彼女にとってもつらい記憶だった。
「あのときの襲撃で家も何もかも失って、それで思いきってアルスフェルトへ家族で移住することにしたんです」
失ったのは友人や家財道具だけではなかった。
母がその騒動で大きな怪我を負い、精神的な衝撃も大きかったのか、それ以来病の床に伏せるようになってしまった。
けっして、原因はそれだけではなかったが。
――今、母はどうしているのだろう。生き延びたのだろうか、それとも……
ふとそんな思いがよぎったが、すぐに振り払った。今は、そのことを考えている場合ではない。そう自分に言い聞かせた。
ともかくそのことで、こまれで翼人に対する敵意、憎しみは人一倍あった。
しかし、それを〝極光〟のみんなが消してくれたのだった。
「お願いです、考え直してください。私が本当に心配しているのは、正直に言えば人間でも他の翼人でもなく――あなたたちなんです。あなたたちが、みんなが帰ってこられなくなるなんて私には耐えられません。今ならまだ間に合うはずです、どうか……」
「くどい! もう引き返せないし、引き返すつもりもない。我々がお前の命令に従わなければならんいわれなどない!」
「命令なんて……」
マクシムは吐き捨てるようにして言うと、これで話は終わりだといわんばかりにさっと飛び上がった。
しかしすぐには去らずに、泉の上で背を向けて静止した。
「お前の仲間を思う気持ちはありがたい。だが、俺たちには絶対にやらなければならないことがあるんだ」
大きく翼をはためかせた。
「わかってくれとは言わん。ただ、もう責めないでくれ」
「マクシムさん……」
言いざま飛び去り、凄まじい勢いでぐんぐんと遠ざかっていく。もはや一言も声をかけることはできない。
その後ろ姿を、ネリーは泣き出しそうな目で見つめていた。
いろいろな葛藤がこころの中にある。そのすべてをみずから解決できるほどには、彼女は成熟していなかった。
「私、余計なことを言ってしまったのかな……」
「余計だろうとなんだろうと、お前が必要だと思ったから言ったんだろう? だったら、しょうがないじゃないか」
アーシェラは相変わらずぶっきらぼうだ。だが、ネリーはそこにこそ、彼女の本当の優しさを感じてもいた。
だが、当のアーシェラはまったく別のところに意識が向いているようだった。
「それにしても――」
「え?」
「あんな饒舌なマクシムは初めて見た」
彼はけっして余計なことはしゃべらない男なのに、それがさっきは、ほぼすべて本音で語っていた。
それだけネリーに対する思いがあったのか、それとも核心を突かれて動揺しただけなのかはわからないが、本当に珍しいものを見た思いだった。
「ま、それよりも、お前があれほどはっきりと物を言うとは思わなかったけど」
「だ、だって、どうしても止めたかったから……」
少し赤面してうつむいた。自分でも、あそこまではっきりと糾弾するつもりなどなかった。
「でも、無意味だった……」
「そうだな。もう誰かが止められるような状況じゃない。お前も知ってると思うが、例の人間の側も動いてるんだ。〝極光〟がやめたとしても、他は止まらない」
アーシェラは空を見上げた。
「時代が――動きだしたんだ」
――だから、自分もやるべきことをやらなければならない。
〝種〟はすでに蒔いておいた。あとは、それが芽を出すのを待つだけだ。
日差しを受け、風を受けてもなお、泉はとうとうと水を流しつづける。
その水は澄んでいる。
しかし、それを守る木々は失われつつあった。