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複雑な思いというのは、こういうことを言うのだろうか。
自分の予感が当たってほしくない。しかし、おそらくそれは当たっている。そして、それを確認するためにはもう一度〝同族〟を見つけなければならない。
見つけたら、その時点で予感が的中したと考えていい。だから、できれば会いたくないのだが、見つけないことには自分自身が先へ進めなかった。
――ベアトリーチェ。
彼女のことも気がかりだった。
たぶん帝都の中にいるのだろうが、もし外に出ていたら夜目の利く翼人であってもさすがにこれから見つけ出すのは難しい。
帝都内に残っていてくれることと、ジャンがその彼女を見つけてくれることを期待するしかなかった。
もう春とはいえ、日が落ちるとさすがに冷える。翼人は寒さに強いものの、ずっと飛びつづけていると、風に体の熱を奪われてしまうものだ。
そろそろいったん休憩すべきか――そう思いはじめた頃、遥か前方の木々がわずかに揺れるのが見えた。風の流れとは違う不自然な動き。
何かがいる。
ヴァイクは、静かに地上へと降りていった。
今日は夜空を皓々と照らす月が出ているから、空を飛ぶ存在は意外と目立つ。
地に足をつけて歩くと音が立ってしまうという欠点はあるが、同族なら当たり前のように上空を警戒しているはずだ。歩いてゆっくりと近づいていくのが賢明だった。
もっとも、相手が本当に翼人だったらの話だ。もしもただの鳥だったら貴重な時間を無駄にすることになるが、相手に気づかれて逃げられてしまってからでは遅い。ここは、慎重に行くしかなかった。
今日は妙に森が静かなせいか、落ち葉や枯れ枝を踏む音が耳に障る。自分で思うよりも音が遠くまで響いているのではないかと不安になるが、実際にはその逆だったのだろう。相手に悟られぬまま、程なくして目的の場所の近くまで来ることができた。
木の陰に身を潜め、斜め上方の様子をうかがう。
――翼人、か……?
暗がりの中で見える影は大きかった。しかし、人間とも翼人とも判別できない。
それでも、これ以上近づくことは難しそうであった。下から見て感じる以上に、上からの視野は広い。へたに動くと、さすがにばれてしまいそうな予感があった。
ヴァイクにとっては苛立たしい時間が刻々と過ぎてゆく。
相手に動きはない。影の大きさからして二人くらいいそうな気はするが、それ以上のことを確認するすべはなかった。
「……そろそろ戻ったほうが……」
「……が待ってるから……」
消え入りそうな小さな声が風にのって聞こえてくる。ヴァイクは息を殺し、耳を澄ませた。
だが、相手はよほど他の誰かに悟られるのを恐れているのか、ほとんど聞こえないほどの小声で話している。いくらなんでも、一言一句をすべて正確に聞き取るのは困難だった。
ただ、上にいるのが人だというのはこれでわかった。それに、こんな夜更けにこんな場所に人間がいるとは思えない。
まず間違いなく翼人だ。
そして、この時期に帝都の周辺にいるということは〝極光〟という連中の仲間以外には考えられない。
――当たりだ。
木々の枝葉の間に、月光に浮かぶ翼の先端がわずかに見えた。
次の瞬間、相手は樹上から飛び立った。
やはり、数は二人。少し急いだ様子で西の方角へ向かっている。
ヴァイクもあとを追うべく、森の上へと出た。
周りに見つからないように、低空をゆっくりと飛んでいく。
あえて相手の真上へ行くという選択肢もあるにはあったが、今回は攻撃を仕掛けようとしているわけではない。あの翼人たちを見失うことさえなければそれでよかった。
――それにしても、時間がかかったな。
ジャンと別れて以来ずっと、ベアトリーチェだけでなく翼人の姿も捜し求めていた。しかし、暗くなってしまったこともあって、なかなか見つけることができないでいた。
ようやく捜し当てたのが、今。夜もすっかり更けてからだ。
どうやらここまでの感触からして、もう今日は他に見つけ出せそうにない。前方にいる二人を逃すわけにはいかなかった。
潜んでいた森の上を越えると、やがて広大な草原になっている窪地のようなところが見えてきた。その先に、また別の森林がその黒い影を横たえている。
――なんだ?
そこから〝何か〟を感じる。ただの森とは違う、特有の波動ようなものが発せられていた。
それは、かつて得た感覚。
翼人の男ならばけっして忘れることはない、一方では不安をあおりつつも、一方では気分を高揚させるあの感覚。
――戦の前の儀式だ。
ヴァイクは飛ぶ速度をゆるめ、その場に静止した。
もうここまで来れば、連中が潜んでいるところは嫌でもわかる。無理に前方の二人を追いかける必要はなくなった。
左方に、背の高い木々が集まった小高い丘のようなところがある。取りあえずそこに身を潜ませ、しばらく様子をうかがうことにした。
月の位置を気にしながら、静かにそこへ向かっていく。辺りは、相変わらず妙な静寂に包まれているが、不思議とさまざまな気配は感じられる。
そこに着いてから、さらに目立つあるものに気がついた。
上空高くまで伸びて揺らめく深紅の炎――巨大な篝火だ。
――やはり、そうだったか。
あれは、翼人の部族が戦の前に行う儀式で使うものだ。これからある集団が何かをしでかそうとしているということを如実に物語っている。
帝都の周辺に住む翼人の部族など存在しない。ここにいるのは、普通の翼人ではないということだ。
――自分だって普通じゃないんだけどな。
己の立場を思い出し、自嘲気味に笑う。立場こそ違えど、自分もはぐれ翼人であることに変わりはなかった。
森の中心にぽっかりと空いたところから立ち上る炎は、闇を照らすというよりも、その奥底からわき上がるかのように不気味さを際立たせる。
周囲の暗闇は深く、大きな篝火でも打ち消せはしない。
その炎に包まれた薪の一部が音を立てて崩れたとき、森に動きがあった。
木々の間から無数の影が現れ、そのそれぞれが篝火のほうへと近づいていく。
彼らの背中には、まぎれもない一対の翼。
炎の明かりだけではその色は判別できないが、まず間違いなく同じ部族の者同士ではないはずだ。
やがて、ひときわ体の大きな男が現れた。肩から腰にかけた革の帯で、巨大な剣を支えている。
――あれは……
元は兄のものだった大剣〝イリア〟。
前に会ったときには別の剣を使っていた。今になってあれを持ち出したということは、つまり――
マクシムは本気だ。
妥協するつもりなど一切ないという強い意思の表れ。たとえその身が滅びようとも、みずからの目標を達成するという圧倒的な気概が感じられる。
この位置からは、さすがに表情まではわからない。しかし、決意を秘めた瞳をしているであろうことは容易に想像がついた。
そのマクシムが立ち止まると、森からさらに他の翼人たちが現れて、篝火を中心に輪になっていく。そして重い太鼓の音が響きはじめ、儀式の開始を告げた。
――なんだ、これは……
はたで聞いていて強烈な違和感を覚える。
これまでに経験のない奇妙な拍動。少なくともそれは、クウィン族のものではなかった。
そんなヴァイクの思いもお構いなしに、儀式は滞ることなくどんどんと進んでいく。
中央にいる数人が篝火から炎をとって、その木の棒を高く掲げる。
周囲から歓声ともため息ともとれぬ声が上がる中、彼らはそれを二三度振ったあと、思いきり大きな火の中へ投げ込んだ。
パチパチっと木の爆ぜる音がし、火の粉がさっと舞い上がる。その光景は、なぜか木の葉が散る様に似ていた。
――そこまで……
ヴァイクは絶句していた。
今の所作についてはわかる。
あれは、決死の覚悟を意味する〝投火〟と呼ばれるものだ。
戦いの場に赴く以上、目的を達するまでは二度と帰らない。そういった強い意志を、炎の中へ自分の分身を投げ込むことで示す。
――だが、俺はあれが好きになれない。
どんなにすばらしいことを達成したとしても、自分が死んでしまっては意味がないではないか。生きて帰ってくることこそ最大の成果だと、生前、兄がよく語っていた。
確か、マクシムも同じ考えだったはず。
それなのにあえてこの儀式を行ったということは、みずからの命を投げ打つ決心はすでについているということなのか。
――マクシム、そこまでして何をしようというんだ。
これまで自分なりにいろいろ調べてきたが、未だに彼らの真の目的が何かはわからないままだ。ただ、帝都で何かをしでかそうとしているという漠然とした憶測があるだけだった。
できることならその何かが起こってしまう前に、マクシムに直に問い質したかった。あの再会のとき、次に会った際にすべてを話すと約束してくれただけに。
しかしこの状況では、マクシムと直接会うことは難しそうだった。
なりふり構わず突っ込めば可能かもしれないが、そんなことをしたら生きて帰れなくなる恐れもある。
多勢に無勢という言葉は、ほんとどあらゆる局面において正しい。たとえマクシムと会えても、ここで死んでしまってはもう何もできない。
自重するしかなかった。
今、自分が倒れるわけにはいかない。ベアトリーチェたちのこともある。それに、これからの変化のすべてを見届けないままでは、先に逝った兄に申し訳が立たなかった。
ヴァイクがこころの中の葛藤をつづける中、儀式は滞りなく進む。いつの間にか全体が動きはじめ、篝火に近い者から飛び上がっていく。
これが儀式の最後だった。巨大な炎によって生まれた上空への風に乗って、戦に参加する全員がいっせいに飛び回る。
――そろそろ潮時だ。
これ以上ここにいても意味がないだけでなく、もたもたしていると見つかってしまうる危険性が高い。もう、離れたほうがよかった。
――本当にこれでいいのか。
そう問いかけるこころの声にあえて耳を塞いで、ヴァイクは篝火に背を向けた。
狂乱の宴はたけなわになり、月は雲に覆われる。
白翼の青年は、そこから逃げるようにして飛び去るのだった。