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「閣下、もっと早くお会いしたかった。できればアルスフェルトの件の直後、遅くともこの会議が始まる前に」
ゴトフリートに反応はない。しかしその瞳には、わずかに苦悩の色が宿っていることが見て取れた。
それは、何を意味するのだろう。
「私も会いたかった、と言うのは嘘になるだろうな」
「明らかに私と会うことを避けていましたからね。いや、私だけではない、他の諸侯とも」
ここ半年、他領の人間でカセル侯と接触できた者はひとりとしていない。この期間は事実上、姿をくらましていたと言い換えてもいい。
だから、
「何をしておられたのです? それ以前に、何を考えておいでなのです?」
「単刀直入に切り込んできたな」
ゴトフリートは困ったように苦笑した。
フェリクスは相変わらずまっすぐだ。自分の信じた道をひたすらに突き進み、引くことを知らない。
それゆえの危うさも同時にはらんでいた。あのときも、無理にカセル領内に入ってこようとしなければ、あそこまでのことをするつもりはなかった。
それでも、これこそがフェリクスという男なのかもしれなかった。若気のいたりという面もあるのだろうが、こころの根っこからして実直なのだ。
「どうやら、もう逃げることはできないようだな」
「当然です。そのために、私はここへ来たのですから」
もしゴトフリートが何かを企み、それを邪魔されることを嫌っているのなら、ここにあえて入ってきたことは大きな危険をともなうことになる。それゆえにオトマルはこちらの身を案じ、途中までついてきた。
ここまで来て何も聞き出せなかったら、まるで意味がない。意地でも真意を追求するつもりだった。
結果的に、それが相手を追いつめてしまうことになるかもしれない。そのことは、自身の身を危うくすることを意味する。それでも、やめるつもりはまったくなかった。
「お前にすべて話せるのだったら、私も楽になれるのだろうが」
「それは、何も話せないという意味でしょうか?」
「では、逆に問おう。まずは何を聞きたいのだ」
フェリクスは一瞬、言葉に詰まった。
改めて聞かれると、具体的にどれから問い質すべきか迷ってしまう。
とはいえ、実際にはわからないことだらけだ。だったら、とにかくもっとも気になることから聞いていけばいい。
「最初にうかがいたいのは、翼人との関係です。ハーレン侯――ギュンター殿は、あなたが翼人と結託していると言っていました。本当のところはどうなのです?」
「お前はどう思うのだ、フェリクスよ」
ゴトフリートの表情はまるで変わらない。まるで、こちらがどんな答えを返そうがお構いなしといった様子だ。
だから、フェリクスは自分の気持ちを素直に舌にのせた。
「私は、そう思いたくはありません」
「なぜ?」
「もしそうなら……アルスフェルトの襲撃はあなたが工作したことになる」
そうなのだ。
翼人と関係があるにもかかわらず、不意に領内の大都市を襲われるなどということは考えにくい。ということは、それさえも計画のうちだったことを意味する。
そして、それこそがすべての核心だと思えた。
翼人とのかかわりがあるのならば、今も何かを画策していると考えるべきだ。でなくば、飛行艇でカセル侯領に入ったこちらを襲わせる必要はなかったはず。
フェリクスは、緊張しながら相手の言葉を待った。
だがこちらの思いとは裏腹に、ゴトフリートははっきりと答えることはせず、はぐらかすようなことを言ってきた。
「仮にそうだとして話を進めてみようか。私はなんのためにアルスフェルトを襲わせたのだ、自領の大事な都市を」
「それは……」
確かに謎だった。しかし、考えられる理由はいくつかある。
「ひとつには、偽装のためです。あえて自領の都市を襲撃させることでみずからを被害者であるかのように見せかけて、周りの目をくらますことができる」
普通に考えれば、カセル侯は翼人の襲撃による被害者だ。誰もが、まさか自分で自分の領地を荒らすとは思わない。
しかし、それこそが狙いなのではないか。
その〝まさか〟という思いを逆手に取ることで、自分への疑いの意識をそらす。相応の犠牲があっても、そうなれば周りの目がみずからに向いていない分、さまざまな動きを取りやすくなる。
「なるほど、面白い仮説だ。だがそれなら、アルスフェルトを捨てるに値するものが別の目的にはあるということになる」
「いいえ、比較の必要はありません」
フェリクスは、首を横に振った。
「なぜなら、〝これだけは絶対に譲れない〟というものがあるのなら、他の要素はすべて無価値に等しくなるからです」
この場合、比較が問題なのではない。
たとえば、誇りというものを絶対視する人にとっては、それ以外のことにたいした重要性はない。ときには、誇りのために命を投げ出すことさえあるだろう。
そこに比較の要素は存在しない。誇りか、それ以外かということだけだ。
「あなたが何か絶対的なことを胸に抱いたのだとしたら、アルスフェルトを捨てることでもなんでもするでしょう」
そして、飛行艇を襲わせることも。
フェリクスは話しながら、みずからも深く理解しはじめていた。
今のゴトフリートにとって、大切なことはもはやただひとつであり、それ以外のことは取るに足らないことになっている。
はたから見れば無茶をしているように思えても、彼自身にとっては理にかなっていることのはずだ。
「他の細かいことはどうでもいい。私がもっとも聞きたいのは、まさにそこです」
そう、確認すべきところははっきりとしている。それさえわかれば、おのずとすべての行動の原因がわかる。
「あなたの最終的な目的はなんです? 何があなたをそこまでさせるのです、これまで積み上げてきたすべてを捨て去ってまで」
その目を射抜かんばかりに見つめても、相手は微動だにしない。直立不動の姿勢のまま、こちらを静かに見返すだけであった。
風が二人をなぶり、わずかに肌寒さを感じはじめる頃になって、ようやくゴトフリートは口を開いた。
「もう一度、逆に問おう。今のこの国の状況を、お前はどう思うのだ。諸侯が相変わらず対立し、あちらこちらで暴動や反乱、しまいには飢饉まで起きているこの状況を」
フェリクスは眉をひそめた。
答えをはぐらかされたせいではない。ゴトフリートの問いが、あまりにも難しい要素をはらんでいたからだ。
昔からここノルトファリア帝国はさまざまな問題を抱え込んできたが、現在はそれが極まっている。
ゴトフリートが指摘した以外にも、天災や周辺諸国とのいざこざなど、細かいものを挙げたらきりがない。それほど多くの問題が重なり合っていた。
その原因は種々の小さな歪みを放置し、その解決をずっと先送りにしてきたことにあった。
結果、元々は別々だったそれぞれの要因が絡み合い、融合し、新たなより大きい問題として浮上してくることになった。
それらが小さいうちなら、まだ解決の方法はいくらでもあったろう。しかし、今となってはもう個別の対応だけではどうにもならないところまで来てしまった。
そういったことが、わかりすぎるほどにわかってしまうから、返す言葉を失った。
「フェリクス、お前ならば気づいているはずだ。もはやこの国は、ひとつの限界に達しようとしている。国そのものが死にかかっている」
「――――」
「さあ、どうするフェリクス。すでに予断を許さない状況にある中で何ができる? 迷っている余裕はない。自身も負の連鎖に巻き込まれるのが嫌なら、行動を起こすしかない」
「あなたは帝国を変えようとしているのですね、来るところまで来てしまったこの国を」
「変えられるものなら変えたいと誰もが思っているはずだ。もっとも、利己のためにしか動かない連中もいるだろうがな」
この国を真に憂えている者は少ない。
大半の人物が結局は自分のことで精一杯で、とても周りのことにまで気が回らない。
そういった意味では、身勝手な行動ばかりしているように思える諸侯も、みずからの領地とそこで生きる民をどうにかして守ろうとしているだけだった。
だから、誰にも彼らを責めることはできない。それが許されるのは、自分を捨ててでも他者に尽くしている人物と、苦境を脱する術を伝えられる人物だけだ。
「では、あなたは利己で動いているわけではない、と?」
「それは、お前自身が判断してほしい。私が語ったところで、それを信じるかどうかはお前自身なのだからな」
何も知らなくとも相手のことを信じられる人もいる。
一方で、真実をすべて伝えられたとしても相手のことを信じられない人もいる。
対象をどう受け取るかは、最終的には本人しだいだ。
「…………」
フェリクスは、すぐには返事をすることができなかった。自分の考えだけでは判断しかねるからこそ、ここまでやってきたのだが――
「もうひとつ聞かせてください。あなたがやろうとしていることは、本当にこの国のためなのですか?」
「フェリクス、私はもうすべてを失った身だ。今さら自分のために生きてなんになる? 私の帝国を思う気持ちは、お前自身が一番よくわかっているはずだ」
これまでは、事実そうだったかもしれない。父ジークヴァルト亡き今、最もカセル侯ゴトフリートと親しいのは自分だろう。
だが、フェリクスはかぶりを振った。
「残念ながら、やはりあなたは道を誤っているとしか思えない」
決然と言い放つ。
ゴトフリートは何も言わず、フェリクスの次の言葉を待った。
「国のため? そう考えるからおかしなことになるのです。大切なのは国ではなく民でしょう。民なくしては、国は存在しえない。しかし、国がなくとも民は存在できるのです」
本来、国は民のためにある。そのことを失念し、あたかも国そのものが重要であるかのように勘違いしている輩も多いが、本末転倒も甚だしい。
国は抽象的なものにすぎず、実際に今ここにあるのは、まぎれもなくひとりひとりの人間だ。
それを忘れて国だけを重視することは、いつかかならず人を蔑ろにすることにつながる。
本来、人のためにあるはずの国家、その国家のために人を犠牲にするという大きな矛盾が生じる。
「あなたはどちらなのです? 人のために国を変えようとしているのですか。それとも、国のために国を変えようとしているだけなのですか」
もしくは――自分自身のために。
「あなたは民のためというより、自分が変えたいから何かをしようとしているだけではないのですか」
それがずっと引っかかっていた。
ゴトフリートは結局のところ、自分の気に入らないことをどうにかしたいからこそ行動を起こしたのではないか。
だからすべてを内密に進め、外部とは一切協力しようとしないのではないか。
これは、以前のゴトフリートからすれば信じがたいことだ。
昔は、何かの改革をしようとするときでも常に他者の意見を尊重し、それぞれの調整に時間を費やしていた。よかれと思ったことでも決して独断で進めることはなかった。
だが、今は違う。何かをやろうとしていることはほぼ間違いないのに、それをひた隠しにする。
そのことがいいことなのか悪いことなのかはまだわからないが、秘密裏にやろうとしていることにこそ危険な匂いを感じられてならなかった。
「…………」
ろうそくの揺らめく明かりを受ける当のゴトフリートに、反応はない。
わずかに空気の流れが止まり、物音も消える。
そこにはただ、言い知れぬ緊張感だけが漂っていた。
しばらくして、ようやくゴトフリートが口を開いた。
「――そうだな、そうなのかもしれん。お前の言うとおり、私はわがままな男だ」
「閣下……」
「これまで自分でも気がつかなかったが、民のことは二の次で己のやりたいことをやろうとしているだけ、というのはおそらく当たりだ。私は、そういう卑怯な男なのだよ」
思えば覚悟を決めた当初は、周りからどんなに責められようと言い訳など一切するつもりはなかった。
しかし時が経つにつれ、いつの間にか『この国のため』だの『世界を変えるため』だのごまかすようになってしまっていた。
「わかっていたのだよ、フェリクス。私がやろうとしていることが、どんな言い訳も許されぬものであることはな。だが、止まれない」
「なぜです?」
「たとえ罪深いことであっても、絶対に必要なことだと私自身がこころの底から強く思っているからだ。確かに、どんな理由付けをしても、ただのわがままでしかないのかもしれない。それは認めよう。だが、もはや私自身のことはどうでもいいのだ。今さら、富も権力も名声もほしいとは思わない。私には、自分の身を賭してでもやらなければならないことがある」
ゴトフリートは、未だ具体的なことは何も言おうとしない。それでも彼の意志の強さ、そして純粋な思いは確かに伝わってきた。
さらに、捨て身の危険な気配も。
「あなたは――自分がすべての罪をかぶるつもりなのですか?」
「…………」
「もしや、やはりあの件が絡んでいるのでは?」
妻子の命が奪われた十五年前の悲劇。
「相も変わらず鋭いな、フェリクス」
苦笑とともに、優しい目を青年侯へ向けた。そこに一切の邪気はなく、ただただ相手を愛おしむ気配があるだけだ。
「そのとおりだ。私は――いや、今はそのことを話すまい。大事なのは何をなそうとしているかではなく、どんな意志を持つかだ。もう、私が引くつもりはないことはわかっただろう、フェリクス」
「ならば、私もあえて詳細は聞きません。しかし、これだけは言わせてください。カセル騎士団は、諸侯の中でも最大の勢力を持つ軍です。それが本気で何かしらの行動を起こせば、その被害は尋常なものではないでしょう。どうか、民や兵の命を無駄になさらないでください」
フェリクスとしては精一杯、相手への思いを込めて言ったつもりだった。
しかし、そのたった一言がゴトフリートの逆鱗に触れてしまった。
「――無駄? 無駄だと?」
表情を一変させると、明らかに目に怒気をはらませ、ずっと年下のノイシュタット侯に詰め寄った。
「何をもって無駄などと言うのか! 理想も何も持たず、ただ家畜のようにのうのうと生き、老いて死んでいくだけのほうがよほど無駄死にではないか! 理想のために、人のために死ぬことはけっして無駄などではない!」
その鋭い眼差し、激しい口調は他を圧倒し、押し潰すほどのものがあった。
だが、フェリクスもけっして引きはしなかった。
「それがおかしいというのです! 人のために人を殺す矛盾になぜ気がつかないのですか!」
どんな理由があれ、誰かを生かすために誰かを殺す錯誤が正当化されることはない。
他者の犠牲なくしては存続しえない生に、いったいどれほどの意味があるというのか。犠牲などなければないに越したことはない。
しかし、ゴトフリートは明確に反駁した。
「ならば、お前は現状を放置しておいてもいいというのか。今まさにさまざまな問題があることをわかっていながら、それを捨て置くことのほうがよほど罪深いことではないのか」
「それは……」
「フェリクス、お前ならば気づいているだろう。この国は、いろいろな存在の犠牲のうえに成り立っている。翼人しかり、ロシー族しかりだ」
元来、この地域に人は住んでいなかった。
そこへ初めに翼人が定着し、遅れてロシー族が流入して、両者はしばらくの間、共存していた。
その後、ヴィストと呼ばれる民族が最後に侵入し、先住民を駆逐していくことで現在の帝国の礎を築いていった。
しかし、そのときの被害は人的なものにとどまらなかった。まったく周囲を省みないヴィスト人は次々と森を拓き、灌漑し、大地をつくり替えたことで自然を荒廃させていく。
やがては自分たちも困るほどに荒れ果て、人々の生活にまで悪影響を及ぼすほどになってしまった。
そこであわてて手を入れて、なんとか均衡を保っているのが現在の帝国であった。
「ヴィストという民族は、この地域の他の存在からすれば最も邪魔な存在だということだ。我々さえいなければ、ここの自然の調和は保たれていただろう。翼人やロシー族を含めてな」
「ですが、それは仕方のないことで――」
「〝仕方がない〟という言葉で逃げるなッ! それは、我々ヴィスト人にとっての〝仕方がない〟でしかないだろう。もしお前が翼人だったら、ロシー族だったら、同じように〝仕方がない〟と言えるのか!?」
フェリクスは、反論の言葉を持たなかった。
領主という立場ゆえに、現在の帝国が数多くの犠牲を前提としたうえで、危ういながらもどうにか維持できているということを痛いほどよくわかっている。
帝国の歴史とは、いわば略奪と荒廃の歴史でもあった。
自分はこれまで、あえてその事実に目を背けてきたのかもしれない。こうして真正面から私利私欲なく糾弾されては、まったく逃げようもなかった。
「わかったか、フェリクス。お前たちは結局、帝国という小さな世界を守るために他を排除しようとしているだけだ。弱者にも目を向けよ、身近なことに惑わされるな。さすれば、おのずと何が正しくて何をなすべきなのかが、かならずわかるはずだ」
「では、閣下。あなたにはそれが見えていると?」
「すべてが見えているとは言わない。しかし、私はこの国の真実を知ってしまった。もはや、それから目を背けることはできぬ」
一拍置いてから、ゴトフリートは言った。
「私は、人間だからな」
くだらない争いごとで人を殺してしまうのも人だ。
人を疑い、人を貶めてしまうのも人だ。
しかし人を救い、人の可能性を広げてあげられるのもまた同じ人なのだ。
これ以上、他の存在を捨ておくことはできなかった。自分のことだけを考えることはできなくなった。それをしてしまえるほどには、自分は傲慢にはなれなかった。
「フェリクス、本当に純粋なお前ならば私の気持ちをわかってくれるだろう。だが、我々がやろうとしていることを手伝えとは言わん。そのかわり、けっして邪魔をするな。何かの理由をつけて、部下ともども今すぐこの帝都を離れるのだ」
こちらのことを思って言ってくれているのが痛いほど伝わってくる。
しかし、フェリクスはきっぱりとその申し出を断った。
「それはできません」
「なぜだ?」
「理由は単純です。やはり、あなたは道を誤っているからです」
いつの間にか、辺りは静けさに包まれていた。
窓の外から聞こえていた町の喧噪もすっかり消え、今では夜鳥のわずかな鳴き声しか聞こえてこない。
その静寂を、フェリクスの鋭い声が破った。
「たとえ正しいことであっても、それが善意に基づくものであっても、その実行に大きな犠牲がともなうのなら、何かが確実に間違っているはずなのです。善のための悪を許容するというのはおかしいでしょう」
「それは理想論だ、フェリクス。長くつづいた根源的な悪を正すには、大きな改革を思いきって行うしかない。そして、それをするには悪血をあえて流すことが必要なのだ。厳しいが、それが現実だ。そうするしか他に方法がないところまで、この国は来てしまっているのだよ」
相手を諭すようにゴトフリートが言った。
フェリクスも、彼の言い分に一理あることはわかっていた。
しかし、きっぱりと頭を振った。
「納得いきません。〝犠牲を正当化したとき腐敗が始まる〟――そう教えてくれたのはあなたではありませんか、小父上!」
犠牲などないほうがいいに決まっているにもかかわらず、人は自分のためにそれを許容してしまう。
後付けの理由によって犠牲をあたかも正しいことであるかのように思い込み、それから意識的、無意識的に目を背けようとする。
その行き着く先は、多くの血と深い悲しみの闇だというのに。
「それに気づかぬあなたではありますまい。なぜ、すべてを巻き込み、すべてを捨ててまで前へ進む必要があるのです!」
叫びながら、ふと不思議な感覚に包まれていた。
――自分が泣かなくなったのは、いつの頃からだったろうか。
鼻の奥に、つんと込み上げてくる熱いもの。押しとどめようとしてもとどまらず、やがて目からあふれ出る雫。
子供心にも『ああ、自分は泣くな』とわかりつつ、どうしても我慢ができないもの。
その懐かしい感覚が、胸の奥に去来していた。
もちろん、実際に涙を流すわけではなかった。人前で泣くような歳じゃない。それが許される立場でもない。
だが、敬愛するゴトフリートとこんな言い合いしかできないことが悲しくてしようがなかった。
どこですれ違ってしまったのだろうと考えてみても答えが出るはずもなく、またそれは意味がなかった。
もう現実に二人の道は違ってしまった。おそらく、もう二度と交わることはない。
――正面からの衝突を除いて。
それがわかってしまうから、これが最後の説得の機会であることが予想できてしまうから、言い知れぬ虚しさと悲しみにこころは震えていた。
「……すまぬな、フェリクス」
その思いはゴトフリートも同じだったのか、こちらの目を見ることなくすっと背を向けた。
「不器用な私には、こんな生き方しかできぬのだ」
声をしぼり出すようにしてそう言ったゴトフリートの大きな背中は、もはやすべてを拒絶していた。
――ああ、ひとつの時代が終わってしまう。
フェリクスはひとり、天を仰いだ。
――巨塔が崩れ、多くの糸が切れていく。
生活の灯を失った町の闇はますます深くなり、すべてが静寂の中へと落ちていった。