*
ランプの灯りが、ゆらりゆらりと揺らめく。
芯の焦げる匂いが時おり漂い、淡い色に照らされた室内は独特の不自然な雰囲気をまとっている。
場の空気は明らかに焦れていた。最も肝心な人物が未だ訪れないからだ。
「いい気なものだな、ゴトフリート殿は」
アイトルフ侯ヨハンが苛立たしさを隠そうともせず、円卓の上をコツコツと叩いている。
それを咎める者はない。皆、気持ちは同じだった。
「カセル侯は、もうすでに皇帝になったつもりでいるのではないか」
いつもは温厚なブロークヴェーク侯ゼップルでさえも、らしくなく怒りをあらわにしている。
さすがのフェリクスも、焦れる気持ちを抑えることができなかった。
――早く会いたい。
その思いがこころを揺さぶる。
直に会えば、何かがわかるはずだとずっと思っていた。
ゴトフリートの態度、ゴトフリートの声、そしてゴトフリートの目によって確認できることがあるはず。
しかし、まさかこの土壇場にいたるまで彼と直接顔を合わせることができないとは予想だにしなかった。自分でもいけないとは思いつつも、徐々に焦りが冷静さを奪っていく。
「呼びにやった使者はどうしたのだ! まさか、途中で刺客にやられたというわけでもあるまい」
ヨハンは何度も扉のほうをうかがう。
彼のやや高い声、そして神経質な苛立ちは周りの者をひどく不快にさせるが、本人にその自覚はない。それが、彼自身の限界でもあった。
いつもなら、さすがにギュンターあたりがやめさせるのだが、そのハーレン侯はずっと沈黙を保ったままだ。
それぞれの我慢は、確実に一線を越えようとしていた。
――ライマルだけは、机に突っ伏して寝てしまいそうになっているが。
思わず気が抜けそうになったフェリクスであったが、今ばかりは感謝したい気分だった。
――少し、冷静になれた。
ひょっとしてわざとやっているのだろうか、ライマルは。周りは全否定するだろうが、自分にはなぜかそう思えてならなかった。
しかし、フェリクスの心中とは裏腹に、全員の怒りは爆発寸前だった。
もう、ここまで、というときになってようやく扉が開かれた。
「申し訳ない。我が所領のことでいろいろありましてな」
現れたのは、まぎれもなくカセル侯ゴトフリートであった。いつもの威風堂々とした態度で、颯爽と部屋の中へ入ってくる。
フェリクスは、これ以上ないというほど強く目をこらした。
ゴトフリートの仕草、表情、そして目をじっと見つめる。
――そこに不審なもの、不快なものを感じることはできない。いつもの彼のようにも見える。
と同時に、こころの中の疑念や不信感が急速に消えていくのを感じていた。
――少なくとも、今の小父を疑うべき要素はまるでない。
こうして実際に会って、そのことをしっかりと確認できた。
――しかし、
微妙な変化を感じたのも事実であった。
確かに嫌なものは伝わってこないものの、その決然とした態度、瞳に秘められた強い意志は、これまでとは比較にならないものがあるような気もした。
それが何を意味するのか、今はまだわからなかったが。
「つい先ほどまで、所領の者に捕まっておりました。これほど遅れてしまったことをお詫びさせていただきたい」
「では、単刀直入にうかがおう。その所領のことというのは、翼人の襲撃によるものか?」
それまで完全に黙っていたギュンターがおもむろに口を開き、いきなり核心を突いた。
会議場〝白頭鷲の間〟がざわめきに包まれる。それまで伏していたライマルも、驚いて身を起こした。
ギュンターの言葉を継いだのはゼップルだった。
「あの噂は本当のことだったのか?」
カセル侯領のあちこちで翼人が暴れているという話は、一般の人々にさえ知られていることだ。中には、大商業都市アルスフェルトが壊滅したという不穏なものまである。
ただ、他の地域の者にとってはそれは噂でしかないはずであった。ギュンターとフェリクスを除いては。
当のゴトフリートは難しい表情でしばらくうつむいていたが、新たに点けられた蝋燭の先端が溶けかかる頃になってようやく語りだした。
「ちょうどいい。では、本会議の議題はまずそれから始めましょうか」
他の諸侯はうなずくことで賛同の意を示した。もちろん、フェリクスも同じようにした。
――いろいろなことを聞かなければならない。そう、いろいろなことを。
皆の同意を得てから、ゴトフリートは再び話しはじめた。
「ギュンター殿にならって、私も単刀直入に申し上げましょう。確かに、我が所領ではあちらこちらで翼人の集団による襲撃を受けております」
今度は、議場が完全な沈黙に包まれた。
皆、その意味するところがわからないほど愚かではない。ましてや、ゴトフリートがこういった場で冗談を言うはずもなかった。
次に質問をしたのはアイトルフ侯であった。
「で、では、アルスフェルトの件は?」
「どのような噂が流れていたのかは私自身は存じませぬが、最初に翼人の襲撃を受けたのがそこなのです」
「壊滅したという話を聞いたが」
「本当のことです。正直なところ、復旧に何年かかるか見当もつきません……」
「なんと……」
驚きのあまり、ヨハンの唇は震えてしまっている。だが、他の者も驚愕の度合いは似たようなものであった。
ただし、フェリクスとギュンターだけは目の鋭さを増していた。
――何かが、おかしい。
フェリクスは、ほんのわずかな違和感を覚えていた。
確かに、ゴトフリートは悲痛な面持ちで自領の惨状を語っているかのように見える。
だが、そのどこかに不穏な匂いを感じるのだ。すべてを信じ切れない何かがそこにはあった。
――演技している?
最大の疑問点は、本当に自領の被害を悲しんでいるのかということだろうか。
表向きは、確かに嘆いている。そのように見える。しかし、どこかそれが当然だと考えている節があるように思えてならなかった。
ギュンターも同じ印象を得たのだろう。鋭い目をさらに細めて、ゴトフリートを睨むようにして見つめていた。
「アルスフェルトだけではありません。カセルの各地で翼人による襲撃を受け、手がつけられない状態なのです。言い訳をするつもりはありませんが、ここへ来るのが遅れたのも各地から集まってきた者たちの陳情を受けていたせいでして」
「それほどまでに、翼人の集団とやらは強いのか? カセル騎士団でも対処できないほどに」
ゴトフリートの目を見すえたまま、ギュンターが問うた。
「実力で勝てないというわけではありません。ただ、相手の数が予想以上に多いので、兵を分散させるしかなく、結果として対処が難しくなってしまっているのです」
「そういうことなら、帝国として対応を考えたほうがいいだろう。これは〝ロシー動乱〟の再来かもしれんぞ」
ゼップルが言うロシー動乱とは、十八年前にアイトルフのロシー族と翼人が結託して起こした大規模な暴動の別称だ。あのときの苦い記憶は、今でも大半の人々の脳裏に残っている。
その話が出たとたん、アイトルフ侯ヨハンが食いつくようにして身を乗り出した。
「そうだ、あの動乱と似たようなことの前触れなのかもしれない。実は、わが所領でも最近ロシー族の反乱が激しくなっているのだ」
アイトルフがロシー族に悩まされいるという話は一般にも有名なことだ。この場にいる誰もが、もちろんそのことを知っていた。
「それでノイシュタット侯が真っ先に協力を申し出てくれたが、彼だけに負担を負わせるのは申し訳ない。もし可能ならば、帝国として動いてもらえないだろうか」
ヨハンは必死だった。
領内の問題は反乱にとどまらない。天候が安定しないせいで今年の農作物の収穫はさらに厳しくなりそうで、このままではアイトルフの所領経営が破綻する。
もはや、後には引けない状況にあった。
だがヨハンのせいで、翼人への対策を採ろうという諸侯の思いは、かえって急速に冷めていくことになった。
「ヨハン殿、帝国という言葉を軽々しく使わないでいただきたい。十八年前の惨劇を忘れたわけではありますまい」
そう警告を発したのは、それまでずっと沈黙を保っていたダルム侯シュタッフスだ。
彼はこうした会議のときでさえほとんど黙りを決め込んでいて、普段から何を考えているのかわからないような男なのだが、時おり、こうしてたった一言によってその場の流れを変えてしまうことがある。
これといって特徴のない男だが、意外に侮れない存在だと、フェリクスは以前から思っていた。
「確かに、あのときは連合軍を編成したこと自体、失敗だったのかもしれない」
ギュンターも、驚いたことにシュタッフスの言葉に迎合した。とはいえフェリクス自身、ヨハンには悪いがまったく同じ思いを抱いていた。
十八年前も、ロシー族の反乱や略奪行為による被害は本当に凄まじかった。
しかしその一方で、それは帝国を揺るがすほどのことでもなかったのだ。あくまでアイトルフが危機に瀕しているということで、当時領主の座を引き継いだばかりのヨハンには荷が重いと諸侯が考え、連合軍を編成してやったのだった。
しかし、それは完全に裏目に出てしまった。
追い詰められたロシー族は最後の手段として同じく帝国に虐げられていた翼人と結託し、捨て身の総攻撃に出た。
数に勝る連合軍が苦戦したのは、相手の戦い方によるものだけではなく、彼らが覚悟を決めて必死になるほど追い詰めたしまったことも大きな原因であった。
もし初めから連合軍などつくらなければ、あそこまで互いに被害を大きくすることはなかったろう。それは、ヨハンを除くすべての諸侯に共通した思いであった。
「し、しかし……」
まだ何か言おうとするヨハンを、ゼップルが遮った。
「残念だが連合軍を再び、ということなら却下せざるをえない。そもそも、この帝国は諸領の連合によって形成されている。自領のことはみずから解決するというのが鉄則のはずだ」
「確かに。いたずらに帝国側に頼るということは自治権を放棄するに等しい。それでもいいのかね、ヨハン君」
ギュンターの主張はまったくの正論だ。当のヨハンはぐうの音も出ない。
さらに、それに追従したのはシュタッフスであった。
「だからノイシュタット侯も、変な正義感を出して余計な手出しをしないことだ」
――来たぞ。
とばっちりが来た。
はっきり言って、七選帝侯は協調というよりも対立の関係にある。少しでも弱みを見せようものなら、このようにあっという間に攻撃を仕掛けられることになる。
おそらく、言ったシュタッフスだけでなく他の諸侯も自分に対して似たような感情を抱いているはずだ。
こんなのを相手にするのもばかばかしい。しかし、ヨハンを見捨てるのも気が引けたから、とりあえず反論しておくことにした。
「お言葉ですが、シュタッフス殿。アイトルフにもしものことがあれば、そこと境を接しているあなたの領地が最も問題になるのではありませぬか」
シュタッフスの鉄仮面のような顔が、わずかに揺らいだ。
そのことには、本人もすでに気づいていたようだ。
ダルム側は必死に隠そうとしているが、アイトルフと同じようにロシー族に悩まされているという噂が、なかば公然の事実として世間に流布していた。
考えてみれば当たり前のことで、領地の境は帝国の人間、すなわちヴィスト人に意味のあることではあっても、ロシー族にはまるで関係がない。
それを越えて彼らが暴れているとしても、なんら不思議はなかった。
「ゴトフリート殿はいかがです。先ほどは帝国からの支援を欲している口振りでしたが、どうやら皆さんにその気はなくなったようです」
ゴトフリートに強引に話を振ると、ギュンターが目を見張ってこちらを向いた。
――今の一言で、自分がゴトフリートに疑いを持っているということを確信したのだろう。
確かに、疑ってはいる。しかし、ギュンターやマクシミーリアーンのように明確に敵と認識しているわけでもない。
だから、とりあえず揺さぶりをかけてみた。
ゴトフリートは動じた様子もなく、きっぱりと言い切った。
「ノイシュタット侯だけではなく、皆さんにも率直に申し上げよう。確かに、ご支援は頂きたい。だが、それは兵を派遣してほしいという意味ではなく、被害を受けた都市や集落の復興と兵の維持のために、物資を援助していただきたいということなのです」
「なるほど、そういうことなら喜んで手を貸そう」
ゼップルが安心したようにうなずいた。物資くらいなら問題はないということだ。
連合軍の編成に否定的な見解が強いのは、ロシー動乱での苦い記憶のせいもあるのだろうが、そのことにも増して自領の兵がいたずらに疲弊することを誰もが恐れていた。
だが、フェリクスは安心するどころではなかった。今の一連のやり取りから、ひとつのことを確信していたからだ。
――カセル侯ゴトフリートは、黒だ。
厳しい目をギュンターへ向ける。その老練な男は、むしろ穏やかな表情で小さくうなずいてみせた。
ゴトフリートは一見、いつもどおりの的確な意見を言っているようにも思える。
しかし、実際には場の流れに合わせて適当に話しているにすぎない。これは、常に自分の信念に従ってはっきりと発言してきたこれまでとは、明らかに異なることであった。
これに気づいたのは自分とギュンターと、そしてライマルの三人だけだったろう。
ライマルは頬杖をついただらしない姿勢でいるが、その目はゴトフリートを射抜かんばかりに強く見すえていた。
ようやく確証を得たかもしれないというのに、その後の議論はほとんどがどうでもいいことばかりであった。重要な議題が出てきても互いに腹を探り合うか足を引っぱり合うだけで、有用な議論などまるでできない。
――呆れた。
毎度のことではあるが、これがノルトファリア帝国の実状なのだった。
選帝会議とはいっても、それぞれが自分たちに有利な材料を引き出すことしか考えていないのだから、話がまとまらないのも当然のことだ。
それ以前に、諸侯は議題に対する自身の考えさえ固めてきておらず、その場で駆け引きしようとしているだけ。
結果として論議は堂々めぐりになる。ほとんど子供の口喧嘩同然であった。
ライマルはもう完全に眠り、ヨハンがそれを睨んでいる。場の空気は最悪だった。
ゴトフリートは初めこそそれなりに発言してはいたが、あとはずっと沈黙を保っていた。他の者の意見を聞いているのかいないのか、ほとんど討議に参加しようとしない。
――いったい、どこを見ているんだ。
その瞳は、何かに焦点を定めるというのでもなく、中空を漂っている。
目を開いていながら、何かを見ているようで何も見てはいない。
そんな不気味な目だった。
――やはり、小父上は変わってしまったのか
と思う。こんな得体の知れない雰囲気を、以前の侯はけっして発してはいなかった。
未だ何を企んでいるのかはわからない。しかし、とんでもないことを画策しているであろうことは、ほぼ確実であった。
結局、選帝会議の一回目はただの顔見せに終わり、たいした結論も出せず、肝心の次期皇帝の選任については触れることさえできずに幕を閉じた。
――まったく、いつもこれだ。
予想していたこととはいえ、不毛な場に長時間居つづけるというのは想像よりも遥かに精神に応えるものがある。
たいして議論に参加したつもりはなかったが、どっと疲れが出たような感覚があった。
それは、わずかな希望を抱いていたゴトフリートに大きく失望させられたせいもあったかもしれない。
本当は、最後まで信じたかった。
しかし、それができないほどに、あまりにも疑念が強くなりすぎた。
他の諸侯が不機嫌な顔で席を立っていく。ゴトフリートは、感情のない顔ですっと議場を出ていった。
三人のあからさまな疑いの視線を受けながら。
「フェリクス殿、人は変わるものだ。いつまでも同じではいられないのだよ、誰もがな。要は、周りの人間がそれに気づけるかどうかだ」
「ギュンター殿……」
「そなたの奴を信じたい気持ちはわかる。だが、時にはあえて厳しく対することも必要なのだよ。まさに今のようにな」
ギュンターはフェリクスの肩を叩いた。そして、去り際にもう一言だけ残していった。
「見誤らないことだ、現状をな」
そして、この白頭鷲の間を後にした。
――現状、か。
けっして状況がはっきりしたわけではない。ゴトフリートが黒だと睨んだのも、あくまで感覚的なことであって何か確証を得たうえでのことでもない。
だから、自分の勘が外れている可能性もある。そして、それを願う気持ちも、未だこころのどこかにあった。
「ま、そんな深刻そうな顔をすんなって。なるようにしかならねえさ」
「……ライマル、お前はいつも気楽でいいな」
この議場に最後まで残っていたのは、そう言ったライマルだった。やっと今起きたらしく、大きく伸びなんかしている。そのお気楽さがなぜか恨めしかった。
「お前がむつかしく考えすぎなんだよ。もっとシンプルに考えろよ、シンプルに」
「カセル侯はやはり黒ということか?」
「考え方が極端だなぁ。まあ、俺も同じ感触をもったけどな」
ライマルも立ち上がった。その様子からして、さっさと自室へ帰ってまた寝るつもりなのだろう。
「さっきも言ったけどさ、世の中、なるようにしかならねえんだ。だったら、今からあれこれ考えなくても、そのときになってから考えればいいじゃねえか」
「あのなぁ、それじゃあ手遅れになるかもしれないから悩んでるんじゃないか」
「それがいけないと思うんだけどな。ま、とにかくお前も今日は休め。身もこころも疲れていたんじゃ、いい考えなんて出てこねえぞ」
ライマルも、こちらの肩を叩いてから白頭鷲の間を出ていった。
広い部屋にひとりきりになる。奇妙な虚しさを感じながら、今一度、自分がどうすべきなのかを考えてみた。
――可能なら、ゴトフリートを止めるべきだ。
だが、確証はない。そもそも、何をしようとしているのかすらわかっていないこの状況で、こちらが能動的にやれることはほとんどなかった。
その意味では、ライマルの意見は正しい。そもそも、〝そのとき〟になってからでしか動きようがないのだ。
自分たちは、すでに後手に回っている。多少の無理をしてでも事前に詳細を調べておくべきだったと改めて思う。
すべては、後の祭りだった。今となってはもう、できることは限られている。しかし裏を返せば、まだやれることは多少なりとも残っているということでもあった。
――ゴトフリートに、直に真意を問うしかない。
つまるところ、もはやそれ以外に方法はなく、またそれがもっとも確実であった。
アルスフェルトの件以来、ずっとそれを望んできたのだが、結局今に至るまで果たされずじまいだった。
――よし。
意を決すると、フェリクスは立ち上がって部屋の外へ向かった。
真実を知るのが怖いという気持ちもある。しかし、ここで逃げてしまってはかならず後悔するであろうことは疑いなかった。
いや、自分が後悔するだけならまだいい。もし取り返しのつかないほどの被害が出たとしたら、今度は自分で自分を許せなくなる。
扉を開けて回廊に出ると、そこにはもっとも見知った顔がいた。
「カセル侯の下へ行かれるのでしょう。お供いたします」
「オトマル……」
信頼すべき副官は心細い灯りを持ったまま、ずっとそこで待っていてくれた。真剣な面持ちで、毅然とした態度で、こちらのほうを向いている。
だが、今ばかりは彼の忠心を拒むしかなかった。
「オトマル、今回はひとりで行かせてくれ。そうしなければならないと思うんだ」
どうしても、ゴトフリートと一対一で話したかった。お互い同士だけならば、他では言えないようなことをも腹を割って話し合えるかもしれない。
「お言葉ですが、フェリクス閣下。今回ばかりは、私としても引けませぬぞ。せめて、カセル侯の部屋の前までは是が非でも付いていかせていただきます」
オトマルに引き下がる気配はなかった。彼も彼なりに主のことを思って言っている。だから、フェリクスも無下には断れなかった。
「――わかった。だが、ゴトフリート殿とは二人きりで話させてくれ。いいな?」
「承知いたしました。そのかわり、これをお持ちください」
オトマルが、一振りの剣を差し出した。
それは年季が入っていながらも、細かい部分に至るまで美しい意匠の施された長剣であった。
実際に手に持ってみると、意外なほどずしりと重みを感じる。その感触からして、実戦向きであることがよくわかる。
「これは……?」
「先侯ジークヴァルト様の愛剣〝レムス〟でございます」
言われてみれば、確かにどこかで見たことがあるような気がする。はっきりとは思い出せないが、記憶の片隅には残っていた。
「どうしてオトマルが?」
「実は、先侯より生前に託されたものなのです。自分の死後、すぐに形見として渡すのではなく、フェリクス様がノイシュタット侯として大きな岐路に立たされたときに領主の証として渡せ、と」
言われて、その剣を改めて見る。
〝私情に流されるな、民のことを思え、必要なことは迷わず決断しろ〟
そう、父が語りかけてくるように思える。
今、自分はとてつもなく重要な場所にいるのだと、まざまざと実感させられる。
――ゴトフリートの元へ行くのが私情によるものではないのか。
――自分のためではなく、侯領と帝国の民を守るためにはどうすればいいのか。
――いざとなったら、己のこころを封印してでも決断を下せるか。
自問自答をくり返す。
逃げてはならない、ごまかしてはならない、嘘をついてはならない。
素直な気持ちで物事に真正面から向き合い、そのそれぞれを的確に判断する必要があった。
あとで悔やんでも遅いのだ。未来のことは、今このときの決断にかかっている。
「……わかった。やっぱり私は行くよ、オトマル。でも、自分のためじゃない。この国の民を救うためと、ゴトフリート殿のためにだ」
「いいでしょう。ならば、私もこれ以上はお止めいたしません。フェリクス様の信ずるところをなさいませ」
「ありがとう」
フェリクスは首肯し、父の剣――否、真のノイシュタット侯の剣を腰に差した。気持ちが引きしまり、覚悟がさらに強まっていく。
一歩を踏み出した。この一歩は今までとは重みの違う、大事な大事なものだ。
薄暗い回廊に硬い靴音が響き渡る。
それが幾重にも反響し、やがて奥へ奥へと遠のいていく。
ゴトフリートの居室までの道程は、短いようで長かった。そこに着くまでに、いろいろなことを思った。
昔の記憶――
厳しくも優しかった小父。
突然の転機、疎遠になった時期。
そして父の死と、再会。
ゴトフリートはいつもこちらのことを気にかけ、影ながら支えてくれた。
若くして選帝侯のひとりとなった自分がこれまでなんとかやってこれたのも、彼がいたからこそであった。もしそうでなければ、これほど順調に来られるはずがなかった。
第二の父といっていい存在、それがカセル侯ゴトフリートであった。
――いつからすれ違ってしまったんだろうな。
思えば、先日の夜会よりも前から、互いの距離は離れはじめていたのかもしれない。こちらも忙しかったせいもあるのだろうが、相手が意識的に一線を引いたようにも思える。
今となってはもう、ゴトフリートが何を考え、何を為そうとしているのかはまるでわからない。
先の見えなかった回廊を右に折れると、ついにカセル侯の居室が見えてきた。扉の前には、三人の近衛騎士が立っている。こちらの姿を確認すると、いっせいに敬礼した。
「ゴトフリート殿は?」
自分でもびっくりするくらい声が硬いのがわかる。これではいかんと、こころの中でみずからを叱咤した。
「はっ、わが主は部屋の中におります」
ひとりが答えると同時に、もうひとりが扉を開けて入っていった。こちらの来訪を主君に伝えるためだろう。ひとつひとつの動きが徹底され、洗練されている。
中へ行った騎士はすぐに戻ってきた。
「許可が下りました。どうぞ」
「ああ」
「オトマル卿はここでお待ちください」
「わかっておる」
老騎士は不機嫌そうに答えた。互いに知らぬ顔ではない。しかし今は、馴れ合う気にはなれなかった。
フェリクスが一歩を踏み出した。
――いよいよだ。
やっと直に会話を交わすことができる。これまでためてきた思いをぶつけられるときが、ついに来た。
この部屋は、自分に割り当てられたところとほとんど同じだった。
ありきたりのテーブル、そして長椅子。
テラスにつづく大きな窓は開け放たれ、カーテンは冷たい風に揺らめいている。
ゴトフリートは、そこにいた。
「最近は、相変わらず風が強いな」
外を見つめたまま、独り言のように言う。
「この時期の帝都はいつもこんなものです。すぐ近くに大きな湖があるせいでしょうね」
あえて、フェリクスもいつものように答えた。他意を含ませることなく。
二人は、しばらく外の景色を眺めたまま立ち尽くしていた。
雲が流れ、月の光が泳ぐ。
暗闇の中に、帝都の明かりがぽつりぽつりと輝く。
満天の星空が雲によって覆われはじめたとき、ようやくゴトフリートが振り返った。
「久しいな、フェリクス。しばらく見ない間に、また大きくなったのではないか」
「大きくなってなどいません。むしろ、日々おのれの未熟さを痛感しているしだいです」
「そうか」
声は、いつもと変わらないようだった。
だが、やはり何かが違う。言いたいことがあるのだが、それが言えない。そんな雰囲気を感じる。