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ジャンは、焦燥感に駆られていた。
――まさか、こんなことになろうとは!
ヴァイクに対して申し訳が立たない。ベアトリーチェを任されたというのに完全にはぐれ、日も陰ってきた時間になっても未だ見つけることはできないでいた。
先ほど神官と交わした言葉が、まざまざと思い起こされる。
『いくら治安のいい帝都とはいえ、暗くなってからの女性のひとり歩きは、かなり危険ですよ』
初めは、ベアトリーチェも大人なんだからいちいち構う必要はない、そのうち戻ってくるだろうと楽観視していたのだが、その考えはやや甘かった。
大神殿側の冷たい対応は、想像よりもずっと彼女に重い衝撃を与えていた。冷静な判断が可能な精神状態ではなかったのなら、自分で帰ってくるはずもない。
――俺のばか!
それなのに、自分はカセル侯のもとへ陳情に赴いたりと、己のことしか考えていなかった。夕方になり、まだ大神殿に戻っていないことを知ってからあわててみても、すべては遅すぎた。
罪悪感と後悔の念に苛まれつつ、帝都内の賑やかなところをあちらこちら捜してみたが、とにかく人が多い。
目的の人物だけを見つけ出すのは困難を極め、もしかしたらすれ違っていたのに気づかなかった可能性さえあった。
――どうしよう……
このまま闇雲に動き回っていても見つけられそうにない。もう一度大神殿へ戻って捜すのを協力してもらうか、それとも――
「そうだ、ヴァイクのところへ行こう」
ジャンは独りごちながら、さっそく向きを変えた。急いで南大門を目指す。
――とにかく、まずはヴァイクに知らせたほうがいい。
もしかしたら、向こうもこちらからの報告を待っている頃合いかもしれない。
それに今さらながら、ベアトリーチェもヴァイクのところへ向かった気がしてきた。
よくよく考えてみれば、大神殿側との話し合いを終えたことで、ベアトリーチェがこの帝都に来た目的はとりあえず果たし終えた。
だったら、いったんヴァイクの元へ戻ろうとするのが当然だ。
ただそれなら、どうしてこちらに一言も言わずに行ってしまったのかが不可解だったが、たぶん大神官との会見の直後は気持ちが高ぶってしまい、それどころではなかったのだろう。
きっとそうだ、そうに違いないと自分に言い聞かせるようにして、ジャンは南へ急いだ。
――それにしても人が多いな。
目的地がはっきりすると、通りを埋める人々が邪魔で仕方がなく感じられる。
人の流れができているからそれに乗ってしまえば移動することはたやすいが、それがとかく遅いように思えてしまう。少し急がなければならない状況だけに、もどかしくて叫び出したくなった。
焦燥に駆られながらも、無茶をするわけにもいかない。
周囲では、衛兵や宮廷軍の兵士、そして聖堂騎士までもが目を光らせている。騒ぎを起こそうものなら、その場で即捕まってしまうだろう。
「やっと着いた……」
身もこころも疲れを感じはじめたとき、ようやく南の大門にたどり着くことができた。
今度こそ思いきり動けると走り出そうとしたジャンの前に、新たな問題が立ち塞がろうとしていた。
「ええっ!?」
門の二重になった扉の外側のほうが今まさに閉じられようとしていた。程なくして、内側のほうも完全に閉じられてしまうはずだ。
考えてみれば当たり前のことだった。
もう日が暮れようとしている。閉門の時間だ。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
あわてて門衛に呼びかける。
扉を押して閉めようとしていた側と、上で滑車を使って扉についた鎖を巻き上げようとしていた側の両方が、動きを止めてこちらを見た。
「あの、あの、ちょっと待ってもらえませんか? どうしても、いったん外へ出て戻ってこないといけないんです」
ジャンの嘆願に、門衛たちは顔を見合わせた。普通なら、聞き入れられるようなことではない。
「実は上のほうから、選帝会議の会期中は夕暮れ時になったらすぐに閉門するように言われていてな。いつもよりだいぶ早いんだよ」
言われて、ジャンは西の空を見た。
よく考えてみれば、日が暮れてきたといってもまだ空に少し赤みが差してきたばかりの頃合いだ。門を閉じてしまうには、かなり早い時間帯だった。
「なんとかなりませんかね? すぐに戻ってきますから」
「仕方ねえな。少しだけ待ってやるよ。急いで行ってくるんだな」
「はい! ありがとうございます」
助かった、とこころから思う。
もし外にベアトリーチェがいなければ、もう一度帝都に戻って捜さなければならない。仮にヴァイクの元にいたとしても、いずれにせよ今日のところは帝都で休んだほうがいいだろう。
ジャンは、一目散に駆け出した。門衛たちの好意を無にするわけにはいかない。走るのは得意なほうではなかったが、そんなことは言ってられなかった。
息を切らしながら、急いで南の丘に向かう。そこにある大樹が待ち合わせの場所だった。
昨日、大神殿に泊まることになったことを伝えに来たときは、ヴァイクとは会えなかった。
今回はどうだろう? ヴァイクはヴァイクで何か目的があるようで忙しそうだったが。
急いだかいもあって、決めておいた場所はすぐに見えてきた。丘を登るにつれ、大樹がその姿を現しはじめた。
しかし、それと同時に失望も広がっていく。ヴァイクの姿はない。そして、ベアトリーチェもそこにはいなかった。
「なんてこった……」
息を切らせながら、思わずその場に座り込んでしまった。
最悪だった。
ベアトリーチェがいなかっただけでなく、これではヴァイクに事情を伝えることすらできない。
しかも、こちらに待っている余裕はない。つまりは、何もできないままここを去るしかないということだ。
「なんてこった……」
もう一度同じことを言ってから、天を仰いだ。空の赤みがだいぶ増している。いい加減、戻らなければならない時間だった。
憂鬱な気持ちで立ち上がろうとしたそのとき、近くにある森の上空に〝何か〟を見た。
それは徐々に大きさを増していき、やがて自分の真上ではっきりと形を成した。
「ジャン」
と言って、ゆっくりと降りてくる。
ほっとするやら理不尽な怒りを覚えるやらで、ジャンは何から言っていいかわからず、出てきたのはただの恨み節だった。
「もう、ヴァイク。どこに行ってたんだよ」
「こっちもいろいろあったんだ。あっちこっち見て回ってた」
ヴァイクは落ち着いていた。しかし、すでに剣を抜いて手で持っていることからして、尋常ではないことが起きたか、それを警戒しているのは間違いない。
「何かあったの?」
「ああ、厄介なことが。それより、ベアトリーチェはどうした?」
と問われて、ようやく肝心な話を思い出した。
「そ、そうだった。そのベアトリーチェなんだけど、姿が見当たらないんだ」
「どういうことだ?」
「それが、大神官に会ったんだけど駄目だったんだ」
二通の紹介状も、他より早く会見させてくれたというだけでたいした効果はなかった。
聖堂騎士団は今動かせない、その事情は説明できないの一点張りで、結局何も得るものがなかった。
「そうか……」
「それで、ベアトリーチェは大神官の対応が信じられなかったみたいで、怒って部屋を出て行っちゃったんだよ」
「それで、はぐれたんだな」
「うん。俺は俺で、どうしてもカセル侯に会いたかったし、どうせあとで戻ってくるだろうって思ってたから……」
しかし、その安易な予想は完全に裏切られた。ベアトリーチェは帰らず、そして帝都をあちこち捜し回ってみても見つからない。
「それでどうしようかと思って。もう暗くなってきたし、待っていてもベアトリーチェは帰ってきそうにないし」
そう告げても、ヴァイクは剣を握ったまま黙っていた。何か考えごとをしているのか、少しうつむいたまま微動だにしない。
時間がないジャンは、急かさざるをえなかった。
「どうしたの?」
「ジャン、お前はもう村に帰れ」
「ええっ、どうして!?」
思わぬ言葉に、ジャンは悲鳴のような声を上げた。
しかし、ヴァイクはいたって冷静だ。冗談を言った気配はない。
「もうすぐ戦が起こる」
今度は悲鳴を上げることすらできず、つばをのみ込み、ただヴァイクの目を見つめるだけだった。
「そういう気配がするんだ、あの特有の気配が」
戦の前にかならずといっていいほどある、独特なすえた匂いと奇妙な静けさ。
その空気が、帝都の周辺に間違いなく立ち込めていた。
「翼人の戦いはいつも小規模なんだ、人間のそれに比べたらずっと。そういうのとはまったく異質だ。たぶん、とんでもないことが起きるぞ」
帝都の巨壁のほうを見ながら、ヴァイクがいつになく真剣な表情で言った。
とはいえ、ジャンには答えようがなかった。たとえ本当にそうであったとしても、じゃあ、自分はどうすればいいというのか。
「それが起こったら、おそらくジャンを守ってやる余裕はなくなる。村が襲われたくらいで怯えていたお前だ。大きな戦なんて耐えられないだろう?」
「…………」
反論はできない。
言われるまでもなく争いごとは大嫌いだし、それに怖かった。もしヴァイクの勘が当たっているのなら、正直、本当に逃げ出してしまいたかった。
――でも駄目なんだ、それでは。
今ばかりは、そうしてはいけないような気がしていた。
ヴァイクから離れてはならない、ベアトリーチェを見捨ててはならない。
なぜか、強くそう思う。以前から、時おりこういったことがあった。
根拠のない確信。しかし、そういったものに限って、外れた試しがなかった。
――今こそ自分の勇気が試されているんだ。それも確信できる。
「お、俺は残るよ」
気がついたら、そう言っていた。しかし、その言葉を口にしてからむしろ覚悟は強まった。
――そうだ残らなければならない。まだ帝都でやるべきことがあるはずだ。
「だって、ベアトリーチェをまだ見つけてないじゃないか。それに、カセル侯とも会ってない」
「ベアトリーチェはともかく、お前の村のことならもう大丈夫だと思うぞ」
「え? どうして、そんなことが言えるの?」
「どうも、各地から翼人がここへ集まっているらしい。お前の村を襲っていたのは、〝極光〟という連中の仲間だ」
奴らも、おそらくここへやってくる。もしかすると、帝都で何かをやらかそうとしている首謀者は、その翼人たちなのかもしれない。
確証はない。しかし、昨日会ったナーゲルたちがマクシムの下にいることからして〝極光〟が何かを企んでいるのは間違いない。
「で、でも、ベアトリーチェはどうするの? 帝都で戦が起こるっていうなら、なおさら早く見つけなきゃ!」
「ベアトリーチェか……。帝都の内側は捜したのか?」
ジャンは首肯した。
「人のよく集まる場所へはあちこち行ったけど、結局見つけられなかった。もちろん周囲の人にいろいろ聞いたんだけど……」
大神殿がある町だけあって、若い女神官はいくらでもいる。大きな特徴でもないかぎり、尋ね歩いて見つけ出すのは困難だった。
「ということは、外へ出てきた可能性もあるな」
「それじゃあ、なおさら問題だよ。帝都の外じゃ何が起きてもおかしくない」
「ああ、それに広い範囲を捜さなきゃいけないから、見つけるのも大変だ」
帝都の壁の周りをぐるっと一周調べるだけでもかなり骨が折れる。それを周辺の平原や森にまで広げたら、どうにもならない。
ましてや、すでに暗くなりはじめている。もし本当に外へ出てしまい、無闇に歩き回ったのだとしたら、こちらから捜し出すのは不可能に近かった。
「だが、ジャン。ベアトリーチェだって、もう子供じゃない。自分が何をすべきか、何をしちゃいけないか、きちんとわかっているはずだ」
いくら取り乱したからといって、無茶なことをするとは思えない。ベアトリーチェは、そこまで愚かでわがままな女ではないだろう。
「案外、今頃大神殿に戻っているかもしれないぞ。ジャン、今日のところは帝都で泊まったほうがいいだろうが、明日の朝一番にここを離れるんだ」
ヴァイクのその声は淡々としていたが、いつになく凄みがあった。
しかし、当のジャンはまだ納得しかねた。
「そんなこと言って、ヴァイクはどうするつもりなんだよ?」
「俺は――残るさ。何が起こるか見届けたい、いや、見届けなきゃいけないと思っている。それに……」
マクシムに会わなければならない。
もう一度あの男と会って、その真意を問いただす。
そうすることに、どんな意味があるのかはまだわからない。しかし、そのことが今後、自分が生きていくうえでのひとつの重要な指針になりそうな気がしていた。
「ヴァイク、それなら俺も同じだよ。この帝都でとんでもないことが起きようとしているのなら、それから逃げちゃいけないって思ってる。ヴァイクは翼人として他の翼人の動向を気にしているように、俺だってこの国の民として帝都がどうかなってしまうのに、見て見ぬ振りをすることなんてできないし、したくないんだ」
ジャンは、ヴァイクの目をじっと見つめた。
けっして駄々をこねているわけではない。自分でも不思議なほど、そうしなければならないという強い義務感があった。
「しかし、ジャン。お前は戦いの経験がどれほどあるんだ?」
「それは……」
「お前は、戦というものを知らなすぎる。あの世界では、常識は通用しないんだ。理屈も道義もない。特に人間の戦争はそうだ」
殺し合いをしている中で、どれだけ愛や優しさを説いたところで聞き入れられはしない。
なぜなら、戦いの場とは一種の狂気の世界だから。
狂った存在に正論を伝えようとしても、相手は狂っているがゆえにその正論をこそ異質と見る。
相手の命を思いやって剣を収めれば自分が殺されるだけ。相手からすれば『こいつはなんて愚かな奴なんだ』と思うだけだ。
「何かをする意志があったって、戦いの場では力がなければなんの意味もない。ジャン、お前は戦が起こるとわかっていても帝都に残ると言った。だが、残って何をするつもりなんだ。何ができると思う?」
ジャンを説得するためにあえて厳しい言葉を投げかけた。だが、意外にもジャンは怯むどころか、かえってその目に徐々に強さを宿していった。
「――わかってない」
「何?」
「ヴァイクは大事なことをわかってないよ。戦いを止めるためには力しかないの? 相手が狂気に満ちているから、自分もそうなるしかないの? でも、それって矛盾してるじゃないか。力を力で支配しようとするから余計に戦いがひどくなるんだよ。狂気に狂気で向かうから、さらにどちらもおかしくなっていくんだよ。そんなの当たり前のことじゃないか」
剣によってなんでも解決できるわけではない。否、ほとんどできないと言っていい。
事実、戦争を調停する際にも、必要とされるのは剣の腕ではなく交渉力だ。すなわち、話し合うことである。
そして、平常心を失ってしまった人を救えるのは、誰よりも落ち着きと愛を持っている人だけだ。
ならば、戦に対して腕力で立ち向かうことにどれほどの意味があるというのか。ヴァイクの主張は正しいようで根本的に矛盾していた。
「確かに、俺に戦への貢献を求められてもたいしたことはできないよ。でも、初めからそんなことをするつもりなんかないんだ」
ジャンは宣言するように言った。
「俺は戦を止めるんだ、自分なりの方法で。うまくいくかどうか、それ以前にどうしたらいいのかも今はまだわからないけど、戦いに戦いで応じるつもりなんかない」
「――――」
思わぬ迫力に、ヴァイクは圧倒されていた。こうしたたまに見せるジャンの凄みが、おそらく故郷の村で彼を村長にさせたのだ。
しかし冷静に考えても、彼の言葉のすべてに賛同するわけにはいかなかった。
「ジャン、お前の言っていることは正しいのかもしれない。だけど、それがただのきれい事でしかないことも事実のはずだ」
「ヴァイク……」
「やっぱり、お前は戦の本当の恐ろしさを全然わかってない」
ジャンに、睨みつけるように厳しい目を向けた。
「正論だけでは通らない世界なんだ。何かを成し遂げようと思っても、目の前の敵に殺されたらそれでおしまいじゃないか。お前は、力以外の方法で戦を止めると言う。でも、そこに至るために己の身を守ることだけでも、お前ひとりでできるのか?」
どんなにすばらしいお題目でも、それが現実にそぐわないものならば意味がない。そして実現する方法がないならば、それもまた無意味といってよかった。
「…………」
ジャンには反論のしようがなかった。確かに自分は大規模な戦の経験などなく、ましてや混乱の中で生き抜く力も知恵もない。
それでも、何かできることがあるはずだと思いたかった。それを考えることに意味があると信じたかった。
「ヴァイクの言っていることも一理あるよ。でもさ、だったら、どうして力のない俺たちと一緒に来たの? 自分のやりたいことに集中すればよかったじゃないか」
「――――」
「それでも俺たちを助けてくれたのは、力のない者にも何かの可能性を見出してくれたからだろ? 戦いのできない弱い人間でも、何かが可能なのかもしれないって」
それだけではない。きっと、翼人と人間の関係そのものにも未来への可能性を感じたはずだ。
そうでなければ、これまで自分たち人間を、己の身を賭してまでたびたび助けてくれることはなかっただろう。
もし自分がここで村へ逃げ帰れば、すべてが無駄になってしまう。ここに来るまで築き上げてきたものが、無意味なってしまうように思えてならなかった。
「俺はやだよ、ヴァイク。せっかくこうして知り合えたのに、中途半端な形で終わるなんて。それじゃあ、あとに何も残らないじゃないか」
いつかそれぞれが別れることになったとしても、こころに宿る大きなものをつくり上げておきたかった。
そうすることによって、お互いに別々の道に進んだあとでもかならずそれが役に立つ。そして、それゆえにいつまでもつながり合っていられるはずだった。
「――そうだな、そうかもしれない」
驚いたことに、ヴァイクはあっさりとジャンの言い分を認めた。
少し前のヴァイクだったら、自分の考えと合わないものには明確に反発していた。この旅をつづけるうち、彼の内面にもなんらかの変化があったのかもしれなかった。
「だが、結論を出すには早すぎる。とにかく、ベアトリーチェを見つけないと」
「うん、そうだね」
「俺は外を調べてみる。ジャンは、帝都へ戻ってもう一度捜してみてくれ。明日の朝ここでまた落ち合って、あとのことはそれから考えよう」
「わかった」
まだ話したいことはあった気がするが、とにかく時間がない。
ベアトリーチェが大神殿に戻っているとは限らないし、日が沈んで完全に暗くなってしまえばなおのこと見つけにくくなってしまう。万が一のことを考え、急ぐ必要があった。
やることが決まったとなれば早い。ヴァイクとジャンはすぐに別れ、前者は空へ、後者は帝都へと向かった。
夕日の最後の光が横に伸びる雲に当たり、あたかも炎のように空を焦がす。
宵闇の時間が迫っていた。