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この部屋から見る景色は、いつも変わらなかった。
もちろん、季節の変化はある。それどころか、近くの森や山をはっきりと見られるから、他のところよりもその移り変わりがよくわかるほどだ。
アーデは、子供の頃からこの部屋――兄の執務室の窓から見る風景が好きだった。
取り立てて面白いところがあるわけでもない。特別美しいわけでもない。それでも、こころに響く何かがここにはあった。
それは、兄との思い出なのかもしれない。
早くに母を亡くし、父も自分が十三になる前に旅立ってしまってからは、兄は唯一の家族であり、こころのよりどころでもあった。
そんな兄とよく一緒にここから外の景色を眺めていたことを、今でもはっきりと憶えている。勝手に父の部屋に入って、二人して怒られたことも。
その兄フェリクスは、すでに城を発っていた。四年に一度の選帝会議に出席するためだ。
城下では、次期皇帝は周囲から尊敬を集め、経験も豊富なゴトフリートが有力だが、もしかしたらフェリクスもあるかもしれないと噂されている。
だがアーデは、ゴトフリートを除いたとしてもその可能性は低いと見ていた。
兄ではまだ若すぎるし、何より領地経営がうまくいきすぎている。結果として、周りからの敬意だけでなく妬心までをも集めてしまっているのが現状だ。
ただその考えも、兄と離れたくないという自分の感情が勝手に生み出したものなのかもしれない。
もしノイシュタット侯として皇帝になれば、兄は帝都に、自分はシュラインシュタットにと離ればなれになる可能性もある。それだけは、どうしても避けたかった。
我ながらわがままなことだとは思うが、それが正直な気持ちだ。唯一の肉親なのだから、できるだけ長く一緒にいたいという思いは自然なものではないだろうか。
「アーデ様、ここにいらっしゃったんですか」
男の声と扉の開く音に、急に思い出から現実に引き戻される。神聖な時を邪魔されたような気がして、アーデはあからさまに頬をふくらませた。
「もう、ノックもしないで入ってくるなんて。淑女に対して失礼でしょう」
「ノックも何も、扉の前で従士が困り果ててますよ」
留守中は何人たりとも部屋に入れるなとオトマルから厳命を受けたにもかかわらず、アーデにあっさりと侵入されてしまったのだ。
毎度のこととはいえ、留守を守るはずの従士の責任問題になりかねない。彼が泣くのも無理はなかった。
「……そんなこと、知ったことじゃないわ」
「なんともまあ、殿下らしいお言葉ですね」
少しだけ罪悪感を覚えたのか言葉が出てくるまで間があったが、結局はいつものアーデのままであった。だから、ユーグも別に驚かない。
「だって、ここは私とお兄様の思い出の場所でもあるんだから」
「昔からよく遊ばれたそうですね」
「うん、お父様の匂いのするこの部屋が好きだったから」
今となってはもう、父のことをはっきりと思い出すこともない。しかし、漠然とした感覚となって今もこころの中に生きていた。きっと兄も同じ気持ちだったはずだ。
もちろん、父の執務中にここに入れてもらったことは一度としてない。公と私をすっぱりと分ける人だったから、実はノイシュタット侯としての父の姿をはっきりと見たことは数えるほどしかなかった。
自分と兄の関係もそうなりつつあるのかもしれない。
兄は最近、政に自分が首を突っ込むことをひどく嫌がるようになった。部外者に邪魔をされたくないという気持ちはわかるし、こちらを思いやってくれているのだということもわかる。
しかし、そこに一抹の寂しさを感じずにはいられなかった。
「フェリクス閣下のことが心配ですか」
「え? うーん、確かにそれもあるけど」
「帝都は帝都ですからねぇ」
「帝都というより、宮廷でしょ。あ、でも、大神殿側とのことがあるから、やっぱり帝都全体が問題か」
帝都はこれまで、さまざまな陰謀が渦巻く地であった。要人が暗殺されたことなど数知れず、それ以外にも、たまたま表ざたにならなかっただけの事件も無数にある。
それらを象徴するように、この帝国では〝宮殿〟という言葉が策謀を意味する隠語になっているほどであった。
兄フェリクスは、けっして人から恨まれるような人物ではない。逆に、人々からの信望が厚いくらいなのだが、それゆえに厄介に思う輩がいるともなれば話は変わってくる。特に、次期皇帝の座を狙っている諸侯からすればなおさらだ。
もっとも、ゴトフリートが兄を邪魔に思うとはまず考えられなかったが。
ただ、それよりも気になることがあった。
「結局、フィデースを襲った連中はなんだったのかしら」
「ヴァレリアたちが追いかけたようですが、まんまと逃げられてしまったそうです」
「ふんっ、案外あの女もだらしがないのね」
「いえ、それが相手の逃げ方があまりにも巧みだったようで」
「巧み? 伏兵でも準備してたの?」
「そうではないんです。逃げに徹していただけなんですが、それぞれが分散して、しかも森やら洞窟やらに入り込んでいったんです」
もちろん、ヴァレリアたちもそれを追った。しかし、そこは迷路のようになっていて、とても相手を追いかけるどころではなかった。
気がついてみると方向感覚を失い、そこから抜け出したときにはすでに敵の翼人たちの姿はなかった。
「ということは、あらかじめ逃走用の経路を準備していたってことか……」
「そうですね、それ以外には考えられません」
ならば、やはりあの襲撃は相当に計画的なものだったということだ。突発的なものではないなら、何かの目的があって飛行艇を襲ったということになる。
「その目的が何かということよね。飛行艇を破壊することだったのか、それともお兄様たちをヴェストヴェルゲンに行かせないことだったのか」
「もし後者なら、カセル侯はやはり関係があるということになります」
「そうね。まあ、カセル領で連中が出てきたんだから、もうその時点で完全に無関係ではないけど」
で、ユーグはどう思うの、とアーデは問いかけた。
「残念ながら、フェリクス閣下が狙いだったということも考えられます」
「最も聞きたくないことをズバッと言ってくれたわね」
「いえ、殿下がお聞きになるので」
「もう少し気をつかいなさい! ――でも、それが本当に一番怖いの」
もしそれが事実なら、兄はこれからも命を狙われつづけることになる、首謀者の考えが変わらないかぎり。
ある意味、もっとも護衛が手薄になる帝都滞在中がこれまで以上に狙われやすい。もしものときのことを考えると、気が気ではなかった。
「だけど、それならなぜあの連中は飛翔石を狙うなんてことをしたの? 本当にお兄様が狙いだったなら、直接人数をかけて仕掛ければよかったのに」
たぶん、あの時の護衛では耐えきれなかっただろう。ということは最悪、ヴァレリアたちが間に合わなかったかもしれない。
しかし、相手が採った選択は違っていた。甲板での攻撃をおとりに使い、船底のほうを主に攻めた。それでは、つじつまが合わない。
「確かにそうなんですが……なぜ飛翔石が狙われたことを知っているんです?」
「そりゃあオトマルから聞いたから」
ユーグは文字どおり頭を抱えた。
「すべてオトマル卿に話してしまったんですか! ということは、私が殿下に伝えたということも……」
「もちろん、ばれたわ。かなり怒っていたけど安心して。私が無理やり聞き出したってことにしておいたから」
「『しておいた』も何も、それが事実ではないですか!」
フェデースの件から選帝会議出発への準備などもあって、オトマルとはお互いに直接会う機会がなかったが、このままではあとでどれほど叱責されるかわかったものではない。
あの〝百戦錬磨〟が本気で怒ったら、それはそれは大変なことになる。アーデは卿の恐ろしさを知らなさすぎた。
「そんなことより、飛翔石のことよ。なんで連中はそれを狙う必要があったの? 翼人にはほとんど必要のないものでしょう」
「飛行艇を落とすため――というのはないでしょうね」
先ほどアーデが指摘したように、乗員の命が狙いなら直接剣を交えたほうが早かったはずだ。
当時その場にいた騎士たちの話によれば、戦いは明らかに劣勢で、中には死を覚悟した者もいたという。ならば、なおさら相手の行動は不可解だった。
「ばかね。他の可能性もあるじゃない」
思わぬ方向からやや低い女性の声が響き、二人はびくりと反応した。
窓のほうを見ると、背から紅色の翼を生やした黒髪の女性が無理やり部屋に入ってこようとしているところだった。
呆気にとられていた二人であったが、すぐに我に返ったのはアーデのほうだった。
「ば、ばかはあなたよ! 昼間からこんなところに堂々と現れて、見つかったらどうするつもりなの!」
今はただでさえ、人間の世界で翼人に対する警戒心が強まっているときだ。
それなのに、よりにもよって城で翼人が見つかろうものなら、暴動が起きたかのような騒ぎになっても不思議はない。あまりに軽率だった。
だが、当のヴァレリアはあっけらかんとしたものだった。
「大丈夫よ。見張りはよそ見してたから」
「大丈夫じゃないわよ! 見張り以外にも誰が見てるかわかんないんだから!」
この女のこういうところが嫌いなのだ。妙なところで大胆すぎる。
だから格好も、手足や胸元を見せた破廉恥なものを着ているのだ。むき出しにした長い手足も、白い肌も、豊かな胸も全部嫌いだ! もちろん、その不遜な性格も。
だが、ユーグはいたって冷静であった。ヴァレリアとユーグは性格が正反対の気もするのだが、不思議と合うところがあるらしく、それがまたアーデの気持ちを逆なでしていた。
「そんなことより、他の可能性とは何です?」
「たとえばの話よ、予行演習ってことも考えられるじゃない」
アーデが、はっとしてヴァレリアのほうを見た。
「予行演習って……フィデースを、飛行艇を落とす練習台にしたってこと?」
「そう。それなら、一応つじつまが合うでしょ」
ユーグがうなずいた。
「襲撃されたところは、ちょうど近くの都市と都市との間で、地上に人気のないところですからね。確かに、練習をするにはちょうどいい位置かもしれません」
カセル側のビルクカムプとノイシュタット側のナーネの中間の地点で、しかもその下は広大な森になっていて近くに飛行艇が着陸できる湖もない。逃げられる心配がないところだ。
「練習のためにお兄様が危ない目に遭うなんて、たまったものじゃないわ」
「それよ。敵の狙いがひとつとは限らないじゃない」
ユーグはすぐに気がついた。
「飛行艇を落とす練習をし、なおかつフェリクス閣下の命を狙っていたと?」
「それだけじゃなくて、ヴェストヴェルゲンに行かせたくないとか、何かの理由で飛翔石が欲しいとか、ノイシュタットの側に脅しをかけるとか――そうね、これ自体ひとつのおとりということも考えられる」
「確かに、もしいくつかの目的が重なっているのなら、危険を冒してでもやる価値は十分にある……」
ユーグは、ううむと唸った。
敵の行動が読めないのは、このように複数の思惑がからみ合っているためなのかもしれない。ヴァレリアの意見は、部分的にせよ正しいような気がした。
とはいえ、そうした推測をしたところで、今どうにかできるわけでもない。結局はこちらが警戒を怠らないようにし、できるだけ情報を集めるしかなかった。
アーデは、みずから積極的に対策を打って出るわけにはいかない状況にある、すでに後手後手に回っていることを痛感させられていた。
「あの連中がどこに現れるかがわからないのよね。それさえなんとかなれば、手の打ちようがあるんだけど」
「それだったら、おおよそのところはわかるけど」
アーデとユーグが驚いてヴァレリアを見た。
「どういうこと?」
「実は、今日はそれを伝えるためにわざわざ来たの。早く知らせたほうがいいと思って」
「もったいぶってないで早く教えて」
「ちょっと待ってなさい、せっかちな小娘ね」
「小娘じゃないもん!」
「はいはい。それで本題なんだけど、カセルの各地に仲間に行ってもらったら、面白いことがわかったのよ」
「だから何?」
「……もう話すのやめようかしら」
「殿下のこれはいつものことじゃないですか。つづきを」
アーデはどう見てもむっとしているが、ヴァレリアはユーグの言い分に納得したらしく、再び話しはじめた。
「それが、みんな言っていることが共通していて。『連中は北を目指しているらしい』って」
アーデが首をかしげた。
「北? カセルの北といえば――」
「帝都、ですね」
二人は、厳しい表情で黙り込んだ。
反対に拍子抜けしたのはヴァレリアのほうだ。
「あれ? 驚かないのね。普通、帝都と翼人って無関係なのに」
「普通はそうだけど、今は普通じゃないから」
翼人と人間がからんだ問題が噴出している。そしてそれこそが今、もっとも気になっていることであった。
「翼人が人間の世界に介入しはじめたということでしょうか」
「そうとは限らないわ。人間の側が彼らを利用しようとしているのかもしれない」
「カセル侯、ですか」
「もしそうならね」
これもまた両方ということも考えられた。一部の人間と一部の翼人の利害が合致した可能性もある。
ヴァレリアが、当たり前だろうと言わんばかりに肩をすくめた。
「そりゃそうよね。私たちだってそうなんだし」
「まあね。でも、相手には不気味な影がある。実体がよくわからないせいもあるかもしれないけど」
嫌な予感の原因は他にもいろいろあった。
アルスフェルトというひとつの町を壊滅させたことや飛行艇を襲ったこと、そして何より人間の心臓を喰らっていることだ。警戒するには十分すぎるほど危険な存在だといえた。
ただ、ユーグが気になっているのはもっと現実的なことであった。
「それにしても、帝都に集まって何をしようというのでしょう?」
「問題はそこね。まさか、アルスフェルトの次は帝都を襲おうっていうのでもないだろうし」
アーデは言ってから、まさかということも有り得るのでは、という気持ちがわき起こってくる。
それは、ヴァレリアも同様だった。
「――ねえ、帝都の守備は堅いの?」
ユーグがうなずいた。
「もちろん。常時、宮廷軍という独立した存在が守っていますし、今はちょうど選帝会議の時期ですから、その周辺には各諸侯の騎士団が待機しているでしょうし」
当然、帝都内には軍を入れられないが、その近くまで護衛として連れてきている選帝侯は多い。もっとも、飛行艇で来た場合は別であるが。
「ふうん。で、カセル侯とかいうのは?」
「え?」
「カセル侯の騎士団は強いの?」
「強いですよ――最強と言っていいほどに」
ユーグの表情がこわばる。ヴァレリアの言わんとするところがわかった。
「お嬢ちゃんじゃないけど、私も嫌な予感が強くなってきたわ」
「お嬢ちゃんは余計よ。でも……帝都で起こりうることが見えてきた気がする」
三人はうなずき合った。最悪の事態に備えて自分たちのやるべきことが見えてきた。
「ヴァレリアはすぐに帝都へ飛んで。それで、できるだけ連中の動向を探ってほしいの」
「わかったけど、私だけでいいの?」
ヴァレリアは、〝隊〟を動かさなくていいのかと聞いているのだ。
「今のところはいいわ。でも、私も神殿への慰問という名目でデューペまで行くから。とりあえず、そこを拠点にする」
本当は帝都まで行ってしまいたかったが、それをすると確実に兄に怒られる。いくら兄と、このノイシュタットと、そして帝国のためとはいえ、さすがに越えてはいけない一線があった。
「そう。じゃあ、私はすぐに出る」
「あっ!」
アーデたちが止める間もなく、ヴァレリアはすぐに窓から飛び出していった。周りに見ている人がいないか確認しようとすらしない。
「まったく、あの女……」
「本当に殿下と同じ水準の無謀さですね」
「あんな女と一緒にしないで!」
心底嫌そうな顔をしたアーデであったが、すぐに表情を引きしめた。
――悠長なことを言っている場合ではなくなったかもしれない。
「もし、もしもよ、私たちの予想が当たっていたらどうなる?」
「あまり想像したくありませんね。しかし、ひとつだけはっきりとしていることがあります」
ユーグは一拍置いてから言った。
「ただでは済まないということです、帝都もこの国も」
開けっ放しだった窓が、大きな音を立てて閉じた。風のいたずらか、それとも擾乱の予兆か。
日は赤みを増しながら、丘の向こうに沈み込もうとしていた。