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久しぶりにベッドで過ごす夜は、あまりにも快適なものだった。
ベアトリーチェはいろいろと考え事をしたかったのだが、横になるとあっという間に眠り込んでしまった。
結局ジャンと別れたあと、特にすることもなく手持ちぶさたなまま大神殿をぶらぶらとしていた。彼と合流したのは、すでに暗くなってからのことだった。
残念ながら、ヴァイクとは連絡が取れなかったらしい。待ち合わせの森のところでしばらく待ったのだが、彼がやってくる気配すらない。
仕方なく帝都に戻ってきてカセル侯への謁見の許可を取ろうとしたのだが、宮廷の衛兵によると侯はまだ到着していないそうだった。
ヴァイクもヴァイクなりの思惑があってここまで来た。彼は、はぐれ翼人の集団のことが気になっている様子だが、その手がかりを探しているように感じる。
もっとも、さすがにこの帝都を翼人が襲うとも思えなかったが。
ベアトリーチェはジャンとともに朝食をとってから、いったん自分の部屋に戻り、昨日のうちに図書室から引っぱり出しておいた本を開いていた。
『翼の歴史』――翼人に関する書物だ。
今回の一連のことで、自分は翼人という隣人について何も知らなかったことを痛感させられた。
これまで知る必要がなかったというのもあるが、こころのどこかに、翼人なんて自分には関係ないという冷めた無責任な思いがあった。
結果として、そうした翼人に対しての無知が彼らの暴挙を引き起こしてしまったような気がしてならなかった。
付け焼き刃であることは承知の上で、限られた時間の中でも少しでも翼人のことを学んでおきたかった。
だが、
「ふぅ」
とため息が出てしまう。
ざっと目を通しただけではあるが、たいしたことは書かれていないことがわかった。ヴァイクたちから直接聞いたことのほうが、よほど有意義なほどだ。
それどころか、ところどころに翼人への偏見や無理解が散見されるほどで、これでは参考になりそうになかった。
失望感とわずかな怒りを覚えて本を閉じたちょうどそのとき、扉を叩く音が響いた。
「はい」
すぐに開けると、そこにはジャンが立っていた。いつもの穏和な表情が、まだ少し眠たげだ。
「ああ、ベアトリーチェ。さっき俺のところに使いの人が来てね。大神官様がすぐに会見してくださるみたいだよ」
「そうですか。じゃあ、さっそく向かいましょう」
開け放してあった窓を急いで閉め、ジャンとともに使徒の間の三階へ向かった。そこに大神官のひとり、ライナーの居室があった。
その扉を見るかぎり、大神殿の重要人物の部屋とは思えないほど、まったく普通のつくりだ。
この場所で合っているのかと少し不安に思いながら、その脇に立っている若い神官に用向きを伝えた。
なぜかその神官はベアトリーチェを気にしながら、あわてて二人を中へ通した。すでにこちらのことわかっていたようだ。
――これは。
ベアトリーチェとジャンは、部屋に入って再び驚かされることになった。
目に見えるのは、壁をふさぐようにして立つ本棚と中央のまったくもって簡素なテーブル、そして奥にある重そうな机だけであった。質素というよりも、やや殺風景な感さえある。
目的の人物は、そのテーブルの前に立っていた。
「お待たせして申し訳ありませんでした。私がライナーです」
そう名乗った人物は、やや細身でどちらかというと気の弱そうな男だ。大神官ではなく図書室の司書だといわれても信じてしまったかもしれない。
ベアトリーチェたちもそれぞれ簡単に自己紹介してから、勧められるまま席に着いた。
「いやあ、本当に時間がかかってしまってすみませんでした。今は、いろいろと難しい時期でして」
「難しい時期、ですか」
「……ええ、春の大祭が近づいていますから準備が大変なんです。それに今年は、よりにもよって選帝会議と時期が重なってしまいましたので、余計にバタバタしているんです」
ジャンにはその説明が、少し言い訳がましく聞こえた。
とはいえ、それを突っついたところで益もないだろうから黙っておいたが、いずれにせよこのライナーという神官は嘘のつけない男のようだ。
「それにしても驚きました。まさか、オイゲーン殿とノーラの両方にお知り合いの方がいらっしゃるなんて」
「オイゲーンさんは、アルスフェルトで以前からお世話になっている方なんです。ノーラ様は、アリーセ様の姉君なので面識がありました」
「そう、アリーセ殿のことですが、なんと申し上げればよいか……」
「手紙のほうには?」
「ええ、ノーラのものにすべて書かれておりました。アルスフェルトのことといい、アリーセ殿のことといい、本当に大変でしたね。でも、もうすべてをひとりで背負わなくてもいいのですよ」
「…………」
自分の中では、それらのことに一通りの整理をつけたつもりだった。
しかし、ライナーのぬくもりを感じさせる声に、いつの間にか言葉に詰まり、胸がいっぱいになってしまっていた。
その声には、嘘や偽りのない本当の思いやりと優しさが込められているように思えてならなかった。
泣いてしまいそうになるのを必死にこらえているベアトリーチェにかわって、ジャンが話を継いだ。
「手紙にはアルスフェルトのことも?」
「ええ、オイゲーン殿のほうに克明に記されていました。しかし、まさかこれほどとは……」
「大神殿がアルスフェルトの件を把握したのはいつのことだったんですか?」
「いえ、それが噂としては聞いていたのですが、正式には今回が初めてなんです。よりにもよって、アルスフェルトの神殿までもが崩れ去ったとは想像だにしませんでした」
なにせ事件後、アルスフェルトの人間が大神殿を訪ねてきたのはこれが最初なのだ。いろいろな情報は噂として入ってくるものの、どれが真実なのか判断のしようもなかった。
「ですが、襲われているのはアルスフェルトだけではないんです。僕の故郷をはじめ、今、帝国の、特にカセルのあちらこちらで翼人の襲撃を受けてしまっているんです」
「そのようですね。そのことは、ノーラの手紙にありました」
「実は、なぜかカセル侯軍の動きが鈍いんです。各地の守備隊も手薄なようで、ずっと翼人に怯えながら暮らしている集落も多いんですが」
「ええ、最近こちらに相談に来られる方でもそういった内容のことが非常に増えています。領主が当てにならないから、神殿に動いてほしいと」
その話が出たとたん、それまでうつむいて黙っていたベアトリーチェが、はっとして話に割って入った。
「そうなんです! 翼人の襲撃で困っている人たちが大勢いるんです。なんとか、聖堂騎士団のご助力をいただけないでしょうか。アルスフェルトも、今どうなっているのかわからないくらいですし」
それは切実な願いであった。自分のためではない、現実に苦しんでいる人々のためにこそという嘆願であった。
だが、肝心のライナーに反応がない。悩んでいるような苦しんでいるような重たい表情をし、黙ったままテーブルの上を見つめている。
ようやく口を開いたのは、焦れたベアトリーチェが再び何かを言おうとしたときだった。
「――残念ながら、聖堂騎士団は動かせません」
「なぜですか!?」
「本当に申し訳ないのですが、どうしても事情は話せないのです」
ライナーにとっても苦渋の決断なのだろう。そのことは、彼の表情と固く握りしめた両の拳を見れば明らかだった。
同じく言葉に詰まってしまったベアトリーチェにかわり、ジャンが問うた。
「特殊な事情があって、聖堂騎士団はそちらの任務に就かせなければならない。そして、その事情は外部の人間である我々には話せないということでしょうか?」
「はい……このことは、ここの関係者でも一部の人間しか知らないことなんです。大神官長と私たち大神官、そして騎士団長くらいしか」
申し訳ない、とライナーはもう一度謝った。
ジャンたちは言葉もなかった。
このように言われてしまっては、もはや二の句の継ぎようがない。
ライナーの様子からして彼自身も非常に苦しんでいるであろうことがありありとわかるからこそ、余計に彼を責めることはできなかった。
実際、ライナーひとりではどうにもならないことなのかもしれない。きっと、そうだから彼もつらいのだろう。
しかしベアトリーチェには、どうしても聞いておかなければならないことがあった。
「それが大神殿にとっての正義なのですか?」
「――――」
「それは聖堂騎士団の本道だと、胸を張って言えるのですか?」
ベアトリーチェの口調は強くない。ただ、純粋に聞きたいことを聞いているだけだからだ。
しかし、ライナーから反応はなかった。唇を噛みしめ、ほとんど微動だにしない。
震える手を押さえながら、ベアトリーチェは立ち上がった。
「私たちは、清く正しく生きてきたつもりです。それなのに理不尽にも幸せを踏みにじられ、神は窮地にも助けてはくださいませんでした」
視界がぼやける。それでも、話しつづけた。
「私たちを救ってくださったのは翼人です」
「え……?」
「そのうえ、もし大神殿が大義名分なく、追い詰められた信徒を見捨てるというなら――」
ベアトリーチェはライナーに背を向けた。
「私はもう、レラーティア教を信じられません」
言いざま駆けだしたベアトリーチェは、部屋から飛び出していった。
ジャンは、その頬から雫がこぼれ落ちるのを確かに見た。
なんともいえない沈痛な空気だけが、部屋には残されていた。ジャンもライナーもしばらくの間何も言えず、彼女が残していった言葉を噛みしめていた。
開け放たれた窓の外からは、あまりにも場違いな明るく賑やかな声が響いてくる。その対照があまりにも強烈で、ジャンはいっそ幻想的な雰囲気さえ感じるほどであった。
永遠につづくかと思われたその沈黙も、意外な人物によって打ち破られた。
「あの、お取り込み中すみません。ライナー様、次の方がお待ちになっていますが」
「……ええ、わかりました。もう少しだけ待ってもらうよう伝えてください」
返事をして、その若い神官はすぐに扉を閉めた。
「すみません、慌ただしくて」
「いえ。私の用件もベアトリーチェと同じものだったので、これで失礼させてもらいます。ただ、最後にひとつ質問させてください」
「なんでしょう?」
ジャンは相手の目をまっすぐに見すえ、そして言った。
「あなたが先ほどおっしゃった事情とは、信徒を見捨てなければならないほどのことなんですか?」
「いえ、けっして、けっして見捨てるつもりなどありません」
「厳しい言い方になりますが、あなた方の思惑などどうでもいいんです。現実は、見捨てているのと変わりがないんですから」
ジャンは席を立ちながら、言葉をつづけた。
「現状はそこまで追いつめられているんです。それだけはわかっておいてください」
一礼して、ジャンも部屋を出ていった。
あとにひとり残されたライナーは、ただ扉のほうを見つめることしかできなかった。
「申し訳ない……」
誰にともなくつぶやいたその声が、虚しく部屋に響いた。
ジャンは、後ろを振り返る気にはなれなかった。
大神殿にもいろいろと事情があるのだろう、ライナーだけが悪いわけではないのだろう、それはわかっている。
――けど、こちらも譲れないものがある。
何せ、仲間や故郷の人たちの命がかかっている。聖堂騎士団が動けない理由がそれ相応のものでないかぎり、納得できるはずもなかった。
とはいえ、大神官の地位にある人ができないと言うのなら、本当にどうしようもないことだと考えるしかない。ならば、他のなんらかの手段を考えるしかなかった。
――それよりも今は……
ベアトリーチェに声をかけてあげることのほうが先決だ。
なまじレラーティア教を篤く信仰してきただけに、助けてもらえないことに対するショックは周りが想像する以上に大きかった。失望の度合いは自分の比ではないはずだ。
来た通路をひとり戻りながら、ベアトリーチェの姿を捜す。が、どこにも見当たらない。
――いったい、どこへ。
自分の部屋に戻ったのだろうかと思い、そこまで行ったが扉を叩いたときに返ってきた声は別の女性のものだった。
「あ、あれ?」
「ああ、もしかしてここに泊まられた女性の神官様にご用ですか? 先ほど外へ出かけられたようですが」
「そうですか」
今は、ひとりになりたいのかもしれない。
そっとしておくのも優しさかと思い、ジャンは掃除をしていたその女性に礼を言い、そこから立ち去ろうとした。
「あ、そういえばこんな本が置かれていましたよ」
「え……?」
女神官から手渡されたのは、重厚な本だった。
――翼人に関するものか。
ベアトリーチェも自分なりにいろいろなことを考え、何かをしようとしていたのだ。それを悟ると、なおさら神殿に裏切られた彼女が不憫に思えて仕方がなかった。
本を持ったまま、さまざまな思いを抱えながら、自身の部屋にいったん戻った。
重たい空気を一掃しようと、思いきり窓を開け放つ。外は、相変わらずの喧噪に包まれていた。
だが、それゆえに先行きへの不安がなおのこと強く感じられる。
これから自分たちはどうなってしまうのか、どうすればいいのか。
考えても答えはなかなか見つからず、むしろ考えれば考えるほど不安はいっそう高まるのだった。
ジャンは、ふと青い空を見上げた。ヴァイクは今頃どうしているのだろうか。